1. 出会い①
――誰かが、ポツンとひとり、本を読んでいる。静かに静かに、文字を目で追っている。
『「……一人の少女が戦場で倒れ伏しました。
対峙していた敵将は、少女にとどめを刺すべくと、剣を振り上げます。
と、その時でした。
地に巨大な影が落ち、赤にも金にも輝く鱗と、金色のたてがみを持った竜が、少女を守るように降り立ったのです。
竜は空を震わす咆哮で敵の兵士を散らし、そして少女をそっと抱え上げて囁くように言いました。
――お前がいなければ、この世に生きる意味などあるだろうか。
少女は答えました。
――わたくしは嘘をつきません。貴方のお傍に、貴方と共にありますと、そう約束いたしました。
少女の顔に優しい笑みが乗った、まさにその時でした。
奇跡が、起きたのです。
周囲はその竜の鱗と同じ色の輝きに満ちあふれ、少女の傷は瞬く間に癒えて、消えました。
それから竜は、少女をその背に乗せて、大空の彼方へと飛んでゆきました……」
以上の文は民間伝承からの引用である。そして一人の少女と一頭の竜はアングレニス王国の守り神となった、と締めくくられるこの物語を、諸兄らも寝物語として聞いたことがあるのではないだろうか。
首都であるイグナールは勿論、アングレニス王国内の大小さまざまな都市で大昔から語り継がれてきたらしいこの物語は、察しの通り、この国で信仰されている竜の聖女をモチーフとしたものであり――』
ぺらり、と静かにページを捲る音が、穏やかな呼吸音にまぎれて聞こえる。
音の主は、広い広い部屋にたった一人で、申し訳程度に用意された机に向かって座っていた。年の頃は十二、三歳くらいに見える人間だ。その人は、食い入るように、長いまつげの影を瞳に落としながら本を読んでいる。
ハーフアップで無造作に団子にされた髪は、解けば肩のあたりまで有りそうで、その緩く癖のある明るい茶髪が陽光を受けてキラキラと輝いている。
ほっそりとした器用そうな指が支えるのは、分厚い本。
古書の域に一歩踏み込んでいるようにも見えるその本の古びた背表紙には、『宗教と国家――竜の聖女信仰からアングレニス王国を学ぶ』というタイトルが鎮座している。その下に控えめに輝くのは、持ち出し禁止を示す魔術印だ。
そんな古びた本に綴られた文字を、白く細い指がゆっくり撫でる。
時折、頬にかかった髪を耳にかけて、それから静かに丁寧にページを捲って、その人の指は、優しく本を撫でていく。
――アングレニス王国東部、グラディシア地方にある『王立精霊魔術研究及び騎士養成学校グラディシア支部』――通称『グラディシア学校』の図書館の一室には、昼過ぎのゆったりとした時間が流れていた。
整然と並べられた天井まで届く書棚の本たちが、まだ高くにある太陽の光を受け、ほんの少し積もった埃を輝かせている。
ぺらり、と再びページが捲られた。その少しあと、カリカリとメモを取るペンの音が響く。
ペンの持ち主は、ペン尻を顎に当て、時々考えるように小首を傾げては、本に目を走らせメモを取る。
しばらくしてペンをしまう音が小さく響いたと思うと、その人は本腰を入れて読書を再開したようだった。ページを捲る音の間隔が狭くなる。
そうして、その人は再び本に溺れ始めた。
――間延びした男の声が図書室に響いたのは、その人の手が支える分厚い本の残りが数ページになった時だった。
「すみませーん、もう鍵閉めますけどぉ。誰かいますかー」
広い部屋を独り占めにして本を読んでいたその人――ルカ・エクエスは、柔らかそうな茶髪を揺らして顔をあげた。
本の世界から戻らないままの頭で、先ほどの男の言葉を反芻しながらぼんやりと窓の外を見上げる。
瞳に映るのは、薄い赤。ルカはハッとしたように立ち上がった。
――司書さんを待つまでの暇つぶしのつもりだったのに、随分熱中してしまったみたい。
ルカはそう思いながら、書棚に遮られて見えない扉のほうへ慌てて顔を向ける。
「ごめんなさい! もう出ます!」
澄んだ声で返事をすると、ルカは丁寧に本を閉じて、もとあった場所に戻した。それから、興味のあった本をいくつか、使い込んだショルダーバックに、そっ……と寝かせる。
ルカは、誰もいないから、と脱いで隣の椅子に掛けていた白衣を羽織る。詰まりが緩いハイネックになっている白衣の首元のボタンを上まできっちり止めて、それから、ルカは重たくなった鞄を抱えて小走りで扉へと向かった。
――学校の図書館は、ルカにとって大事な場所である。
というのも、街の図書館の蔵書では、ルカの研究分野に関する書物は僅かなのだ。
その僅かな本も全て読み終えてしまったルカにとって、学校の図書館は無くてはならないもの……なのであるが、明日から始まる春休み――という名の編入試験準備期間――の間は、極僅かの学校関係者以外は学校敷地内に入ることができなくなってしまう。
授業も、研究室での当番も無い。
そんなルカが朝早く起きて学校に来ていた理由は『これからの二ヶ月間の春休み中に読む本の調達』だった。
ささっと本を決めて昼頃には学校を出るつもりでいた。しかし、予定外の仕事の手伝いをお願いされてしまったせいで、午前中はそれに時間を取られてしまったのだ。それで、結局、図書館へ来られたのは昼過ぎ。
それでも、ルカはもう少し日の高いうちに家に帰るつもりでいたのだ。それが、本に溺れてこの結果。
――これじゃあ、家に着くのは夕食時かな。結局、普段と大差ない時間になっちゃう。
ルカは、ため息をこぼすように息を吐きながら、重い扉を全身で押し開く。そして、扉の間からすり抜けるように廊下に出て、再び体重をかけて扉を閉めた。
と、廊下には、男が一人。図書館の扉の横の壁にもたれかかって、何やらブツブツと呟いている。
「……あーあ、やってらんねーよなぁ。本の整理でぎっくり腰って、これだから運動しないで本読んでる爺さん先生は困る……」
普段の初老の司書ではないと言うことは、ルカだって声でわかっていた。が、待っていたのはルカが想像していた以上に若い男だった。
おそらく学生だ。精霊魔術科の一員であるルカが見覚えがないということは、別校舎の騎士養成科の生徒なのだろう。
「あの、すみません」
先ほど声をかけてきたのはこの人だろう、と思いながら、ルカはその男に申し訳なさそうに声をかける。すると彼は、大げさなほどのため息を吐きながら、ルカを振り返った。
お待たせしてしまって申し訳ないです、とルカが眉を八の字にして伺うように男を見上げる。
と、彼は何か言おうとしていたらしい半開きの口はそのままに、目だけパチパチと瞬きを繰り返していた。
その様子に首を傾げながら、ルカはショルダーバックを抱えなおす。
「えっと、借りていきたい本があるので、確認をお願いします」
よいしょ、と抱えて見やすいようにバッグを開けて、それからルカは、ポケットから貸出申請書と身分証を取り出す。
「あ、ああ……ええ、はい、わかりました……!」
「お願いします」
ルカがにっこりと笑うと、目の前の男の頬が赤に染まる。その反応に首を傾げると、彼は更に耳や首筋まで赤くした。
「あの、どうかしましたか?」
体調でも悪いのか、と心配になったルカが声をかけると、男はブンブンと音がしそうな勢いで首を振って口を開いた。
「あっ! いえ! いえ! なんでもありません!」
いやーあはは、などと言いながら、男はルカの前で、本の確認を進めていく。たどたどしく見本の紙を見ながら必要事項を記入して、それから申請書にハンコを押した男は、どこかモジモジとしながら身分証を返してきた。
そんな男のおかしな様子に首を傾げて、ルカが口を開く。
「あの……あまりしっかり身分証を見ていなかったようですけど、大丈夫ですか?」
もし、書類に不備があれば、向こう一年は借りて持ち出すことができなくなってしまう。そのくせ、教師であれ生徒であれ、自分で書くことはできないから厄介なのだ。
自分で書いて良ければこんな心配もしないのになぁ、と思いながらルカは眉を八の字に。それとは対照的に、男はルカの言葉にへらへらと笑っている。
「はい、もちろん!」
あまりにも軽い返事に不安がつのったルカは、申請書の内容を確認しようと男の手元をのぞき込む。
借りる全ての本の名前は一言も間違いなく記入されている。少し汚い字だが、正しい場所に記入があった。
ルカの名前も間違いない。ルカ・キャンベル・エクエス。ミドルネームである母方の姓まで正しく記入されていて、つづりも正しい。
――さて問題は、その名前の隣の欄。
ルカは静かに静かに眉をひそめた。
「あの、あの! お、俺、エレミア地方の分校から編入したばっかで、良ければこの後――」
男の浮ついた声を遮って、ルカは、申請書に記入された自分の名前のその横を、トンッと指で軽く叩く。
縮まった距離に息を詰めた男を無視して、ルカは猫のようにまなじりの上がった目を書類から上げた。
オレンジ色にも似た濃琥珀色の大きな両眼で男の顔を睨むようにじっと見つめてから、ルカは薄い唇を歪ませて、薄っすら笑って口を開く。
「ここ」
トン、と。
ルカはもう一度名前の横を叩く。
「えっ?」
赤い顔で男が聞き返す。
ルカはにこりと形だけの笑みを浮かべて続けた。
「間違ってますよ。ちゃんと訂正しておいてくださいね」
「え? えっ?」
何が何だか、と言う男の目の前に、ルカは身分証を突きつける。そして、左手の人差し指で、名前の横に書かれた一文字を指し示す。
「どうです、見えますか? この文字」
「は、はぇ? 文字……――っ!?」
男の顔から赤が抜けるのを、ルカは静かに静かに微笑みながら、ジィっと見つめる。
ルカが指し示す身分証。
そこには、こうある。
所属:精霊魔術科 中等科三年
姓名:ルカ・キャンベル・エクエス
――性別:男
「僕、男なんですけど」
ルカの冷えた声が廊下に小さく響く。
男の顔色が青くなったところで、彼は――ルカはにっこりと笑みを深くする。
「ご理解いただけましたか」
「あ、はい……」
「じゃあ、直しておいてくださいね。申請書の性別。女から、男に」
「りょ、了解っす……すみませんっした」
「それでは、さようなら」
青い顔のまま書類を直す男をしり目に、ルカは肩掛け鞄を背負いなおしてから、不機嫌な顔を隠しもせずに、正門へと歩き始めた。