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37. 解けた封印

 ルカは、淡く緑に輝く聖女とそれを掻き抱く火神竜を見つめて息を止めていた。


 美しい光景だった。


 ――僕の息の音で邪魔をしてはいけない。


 吐息を零すこともはばかられるほどに、美しい光景だった。

 恐らく、そう思ったのはルカだけではない。部屋に小さく響くのがイグニスの押し殺した嗚咽だけであることが、雄弁に証明している。


 アングレカムの手がイグニスの背中を撫でる。そのたびに、イグニスの髪は、死んだような灰色から不思議に赤を煌めかせる金へと、命を吹き込まれるように変わっていった。


『ごめんねイグニス。たくさん待たせちゃって』

「――っか……やろ……っ!」


 イグニスの腕は、音がしそうなほどにきつく竜の聖女――アングレカムを抱き締めている。そしてそのまま聖女の首筋に鼻面を埋めて、喉を震わせているようだった。


 ルカ達はその光景をただ静かに見守っていた。そんな彼らの方へと、アングレカムが小さく振り返った。


『――君たち、ありがとう』


 目元が潤みそうなくらいに優しい声。

 ルカは、火神竜を愛おしそうに抱きしめながら一行を見つめているアングレカムから、目を逸らせなくなった。声と同じくらい優しい緑の瞳がルカ達を写している。


『君たちが来てくれたおかげで、わたし、イグニスの立つ場所まで行けるよ』


 ありがとう、ともう一度囁いたアングレカムは、緑に輝く光の筋を頬に残しながらルカ達へと微笑んでいる。ルカは頷くことも首を振ることもできずにただただ彼女を見つめることしかできなかった。

 立ち尽くすルカの前で、アングレカムはイグニスに向き直った。そして彼の首にすり寄るように頬を寄せた。しばらくそうしていた彼女は、ふっと顔を上げてイグニスから少し体を離した。


『ね、イグニス。顔を上げて』

「てめえは……本当に、てめえは……! 戻ってくるのにどれだけかかってんだよ……!」


 涙に塗れた顔を素直に上げたイグニスは、深い赤の瞳でアングレカムを見つめている。

 対するアングレカムは、緑色の瞳で彼を見上げながら拗ねるように頬を膨らませていた。


『そうは言うけどさ、イグニスがわたしのことを燃やしてくれなかったからなんだよ。こんなに遅くなったの』

「……――――――っハァ!? 待ってろって言ったのはお前だろうが!」

『いやいや、確かに言ったけどさ……まさか、体がそのまま取っておかれるとは思ってなくて。あはははは……』


 普通に燃やしてくれたらきっともっと早くここに来れたよ、という少しのんびりした声に、ルカはカクンとつんのめりそうになった。


 軽い。あまりにも軽い。


『ね、イグニス。顔を上げて』というあたりまで部屋に満ちていた神秘さと言おうかなんと言おうか、そう言った空気が全部吹っ飛んで行ったようだった。


 聖女が、身近な存在にまで降りてきた感じ。もっと言うなら、初めて神竜様たちに出会った時のような。


 ――肩透かし。いや違うな、もっとこう……そうだ、ギャップ。ギャップがありすぎるんだ。


 そうだそうだ、と場違いに納得するルカの前で、夫婦漫才は続く。


「と……っておくに決まってんだろが! お、俺がどんな気持ちでアホのザミルザーニアにお前を凍らせてもらったと思って……!」

『あー、まぁたザミーニャのことそうやって言う。良くないよ、そういうの』

「がぁぁぁぁー! 今話してんのはそう言う事じゃねえだろうが! てンめぇ、ふざけたこと言ってんじゃねえぞ!」


 緑に瞬くアングレカムの体が徐々に浮き上がる。イグニスが抱え上げているのだ。


『ふざけてないよ、あっいたたた……背骨が折れる、折れちゃうよイグニス!』


 ――ベアハッグ。痛そうだ。


 そんな風に考えられるくらいにルカの心が平常に戻った時には、(イグニス)聖女(アングレカム)の会話がちょうど終わるところだった。


「折れるもんかよ、エーテル体の癖に!」

『わたしまだエーテル体じゃないもの! 君たちで言うところの、一次受肉みたいなものだよ』


 がるがると唸っていたイグニスが、スッと真顔に戻る。と同時に腕の力も抜かれたようだ。アングレカムはホッした顔で息を吐いている。

 ルカはエーテル体と一次受肉(聞き覚えのない言葉)に首を傾げつつ、二人の会話を見守ることにした。


「それホントか」

『うん。今の私は、ただの魂が剥き出しになってる状態』

「なんで」

『うーん……多分、わたしの魂の大部分が体の方にあったっていうのと、まだイグニスが昔のまんまで生きてるっていうのが原因かなーって思うんだけど』


 どういうことなのだろう、とルカは考える。


 ――さっき、アングレカム様は『イグニスの立つところまで行ける』って言ってたな。多分、蘇るとかそういう話ではないんだろう。そうすると……二人の違いは、元々上位者()であること、元は下位者(人間)であること、か。


 ルカは顎をさすりながら『それってつまり』と目の前の二人を見つめた。


 ――アングレカム様は、これから上位者()になる……? じゃあ、イグニス様が『昔のまんまで生きている』と言うのはどういうことなんだ?


「……あ゛ぁー……くっそが……。俺としたことがそんな初歩的な……」

『そこに気がつけなくなるまで憔悴させちゃってごめんね、……あっ!』


 跳ねた言葉と共に、アングレカムがルカたちを振り返った。ようやく、二人きりでないことを思い出しました、という顔だった。そういう顔をすると、聖女の纏う空気は身近な存在……例えば、村のお姉さんのような。そんな雰囲気に変わって行く。


『君たちもごめんね、ほったらかしにしちゃって……』


 魂剥き出し状態らしいアングレカムが申し訳なさそうに一行を見下ろしている。

 ルカはそれを見上げてからアルヴァを見た。アルヴァはなんとも言い難い表情でアングレカムを見上げては、花の上に横たわる遺体を見つめては、としてからイグニスの方へと視線を定めたようだった。


「えー、その……イグニス様。とりあえず、アングレカム様を下ろして差し上げては……」


 どうでしょうか、とアルヴァにしては尻すぼみな声だった。イグニスはジッとアルヴァを見つめて、それから渋々と言った様子でアングレカムを下ろした。地に足をつけて――とは言っても若干浮いているからその表現が適切かはルカにはわからない――ほっと胸を撫でおろした様子のアングレカムは、にっこりと微笑んだ。


『わたしの体に関しての話はひとまず置いておいて、……――本当にありがとう。君たちには、感謝してもしきれないよ』


 それに答えたのは、アルヴァだった。


「お力になれたのなら、これ以上嬉しいこともありません」


 聞いているルカも背を伸ばしたくなるような、凛とした力強い声だ。アルヴァの表情も、声と同じく凛とした笑顔だった。彼女はしばらくそうしていたが、その笑顔をほんの少し引っ込めて、それから伺うような目でアングレカムを見た。


「先ほどのお話、私たちも聞いて良かったものなのでしょうか」

『それは全然大丈夫なんだけど……さっきの、気になる?』


 ルカは、「少し」と呟いて頷くアルヴァの声に被せて「すごく気になります」と言いたかった。だが耐えた。耐えて、聖女をジッと見つめるにとどまった。

 アングレカムはそんなルカを見てクスッと笑って口を開いた。


『そうだよね、気になるよねぇ』


 簡単に言うとね、と言葉を切ったアングレカムは、自分の亡骸を指差した。


『わたし、ずっと昔に死んだんだ』


 ルカは、見ればわかる、と思った。


「見ればわかること言ってんじゃねぇよ」


 ルカの思いを代弁してくれたのは、イグニスだった。


「もっとスパッといけよ」

『ええ……』

「えー、じゃねぇんだよ。さっさと済ませろ。お前がまだエーテル体になってないってんなら、このあと二人でやる事があるだろうが」


 イグニスはそう言いながらアングレカムの遺体を抱き上げている。それを見つめてから、アングレカムは気を取り直したような顔でルカたちを見た。


『じゃあ、スパッと結論だけ……あのね、わたし、これから、イグニスと同じ存在になるんだ』

「同じ存在」


 ついつい食い気味に言葉を溢したルカに、アングレカムは大きく頷いて説明を始めてくれた。


 アングレカムの説明をまとめると、こうだった。


 今のアングレカムは、言うなれば属性竜と同じ――火神竜イグニス(上位者)に影響を受けて人間(下位者)から中位者になった状態なのだという。


 本来であれば、たとえ人間の域を超えて中位者になったとして、死ねばそれで終わりだった。

 だが彼女は一度死にかけたときにイグニスと『命の共有』という、精霊と精霊魔術師で言うところの本契約のようなものしていたのだそうだ。


「……では、その『命の共有』という契約を交した場合、契約者たちの寿命は、長い方に依存する、と」

『そうそう。で、えっとその、なんて言ったらいいか――()()()()があったんだ』


 人間は知らない戦争だよ、と何でもなさそうに付け足したアングレカムは『その時に――』と己の亡骸を指差した。


『わたし、死んだんだ。本当なら、その瞬間にイグニスと同じ存在になれるはずだったんだけど……』


 イグニスのぶすっとした声が言葉を継いだ。


「俺がまだ一次受肉体で、この世界へ完全定着してなかったからできなかった。要は、俺が不完全な状態だったからこうなったんだ。俺もちゃんと他の奴らみたいにエーテル体になってりゃ話は早かったんだよ、なあもういいか?」


 火神竜の声はどんどん苛立っていく。そんな状態だから、ルカは「一次受肉とは」とか「完全定着とは」とか「エーテル体とは」なんて事を聞きたいのを喉の奥、腹の底に沈めて我慢した。そんなルカの腹の中を覗いたようにアングレカムが眉をハの字にして笑っている。


『ごめんね、この話は、あとで落ち着いてからまた。――……さて』


 アングレカムは気合を入れるように両頬を叩いてイグニスに向き合った。


『イグニス』

「ん」


 それだけ言って、イグニスはただ遺体を抱えて立っている。


 アングレカムは、ふわふわしたウェーブのかかった髪を揺らして頷くとルカたちに手を振って――すぽん、と。元は自分の体だった物へと飛び込んで、緑の粒子を残して消えてしまった。


 目を見開くアルヴァの横で、ルカは冷静にアングレカムの遺体を見つめていた。

 先程まで作り物のように冷たく映っていた白磁の頬は、アングレカムが入ってからはほんの少しだけ暖かさを取り戻したような色を見せている。

 でも、生き返るようなそぶりはない。


 ルカたちの前で、イグニスは愛おしそうにアングレカムを見下ろしている。と、次の瞬間にはその赤い目はルカたちを映した。


「借りは必ず返してやる」


 三下の悪役のようなセリフだったが、でも、そこには悪意の欠片もない。

 ルカが頷こうとしたところで、イグニスの姿に赤いフィルターがかかったようになった。それが彼の足元から立ち昇った炎であることに気が付いた時には、炎は部屋の天井を舐めるほどにまで大きくなっていた。


 無意識に熱から逃げようとしたルカがだったが、いつまでたっても熱さはこなかった。

 陽だまりの中にいるような温かさが周囲を包んでいるだけで、しかしイグニスと彼に抱かれた聖女は、炎に燃やされじわりじわりと姿を消していく。


 最期の時までずっとアングレカムを見つめていた赤の目がそっと閉じられた後、炎はまるで最初からなかったかのようにフッと掻き消え――竜と聖女がいた場所に残るのは、灰でも炭でもなく、色とりどりの花々だけだった。


 平穏な静寂が部屋に満ちる。

 ルカは夢でも見ていたような気持ちになりながら、しばらく動くことができなかった。


「……外に、出よう」


 空気を揺らしたアルヴァの声にルカは無言で従った。元来た道を戻りながら、ケネスも、フィオナもイグニアも、カレンでさえも何も言わない。


 ――多分みんな、さっきの光景を噛み締めてるんだろう。


 ルカはそう思いながら、自分たちの足音が部屋に、廊下に、広間に響くのを聞いて歩いた。


 ******

 

 外へは、そうかからずに出ることができた。


 ルカたちを迎えたのは抜けるような青い空。てっぺんまで登った太陽が、ルカたちが思いのほか禁足地の中にいたことを示している。


 ルカは眩しさに慣らすように目を瞬いて、それから、ふと感じた柔らかな甘い香りに周囲を見回した。そして、はっと目を見開いた。


「――う、わぁ……! 花が、咲いてる……!」


 前を歩いていたカレンの声に、ルカはこっくり頷きながら感嘆の息を吐く。


 禁足地の周辺。その一面が、咲き誇る花に囲まれていた。

 

 ルカたちが禁足地に踏み込んだときは確かに悼むように頭を垂れて頑なな表情をしていた蕾が、綻んで笑っている。


「アングレカム様の楔が無くなったから……なのかな」


 花を踏まないように一歩踏み出したアルヴァの声に耳を傾けながら、ルカは静かに跪いて花にそっと手を触れる。

 そうしたら、その花から柔らかな緑の光の粒子がふわりと立ち昇った。


 一輪が輝けば、それが伝播するように花畑中が輝いて、ふわふわと光の粒子を空に送り出す。美しい光景だ。


 ――そうかもしれない。きっと、彼女の時が動き出したから……。


 ルカは姉の言葉に心の中で頷きながら立ち上がり、止まった時を取り戻すように煌く花畑に目を沿わせて口を開いた。


「――姉上。リアダン女王陛下へ報告に行きましょう」


 それからゲイリー・ペインをぶん殴りに行きましょう、という言葉は飲み込んで、ルカはアルヴァを見る。


 立ち尽くして緑の光を見送るアルヴァはこの世の物とは思えないくらいに美しくて、ルカは何か良くないよ啓示でも受け取ったような、ぎくりとした気持ちになった。

 でも、さざ波立った心中も、金の目が自分を映したことで落ち着いた。


「うん。そうだな。早く行かないとな」


 行こう、と笑った姉はいつも通りちゃんと人間で。


 ルカはどんな不安が解消されたことに対する物なのかもわからない安堵の息を押し殺し、笑顔を返して頷いた。

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