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  灰燼竜と眠る星蘭④

 静けさと涼しさの戻った広間。ぽかんと口を開けるルカの前には、一人の男が立っている。


 ルカはその男を見つめながら、支えにしていた姉の腕から身を起こした。


 男は目を伏せながら、ガシガシと灰色の短い髪をかき混ぜている。その口から重い溜め息が吐き出された後にふっとあがった赤の瞳は、先程まで怒りに塗れてルカたちを睨んでいたのが嘘のように、ぼんやりと虚ろだった。


「……アルボルがテメェらを寄越したなら、それを先に言えってんだよ」


 ルカは、目の前の光景に何とか脳を追いつかせようとした。


 ――えっと。さっきまでそこにいたのは巨竜で、その巨竜がいた場所には、今はこの男性が。つまり、この人は、火神竜イグニス様。……神竜様も人の姿になれるのか……って当たりか。竜たちができるんだから、神竜様だってできるよな。


 ルカはぼんやりと立ち尽くす男の――人の形に納まっている火神竜イグニスの足元から頭のてっぺんまで、失礼と知りながら凝視する。


 ――裸足。服装は……なんていうか、普通。普通だ。あまりにも普通な、ワイシャツとズボンだ。作りは少し古いかも。でも、普通。


 ルカは最後に、イグニスの顔を見た。


 ――…さっきまで激高していた人には見えないほど、生気がない。灰色の髪も色の悪い肌も、病人のそれじゃないか。なのに……目だけが……。


 思わずたじろいでしまいそうになるくらい、鮮烈な赤。

 これで彼の目が熱された炭より赤いこの色でなかったなら、ルカはこの灰色の髪の男が火神竜イグニスだと言われたって信じることはできなかっただろう。

 

 イグニスは魂が抜けたような目でルカたちを見ながら、小さく口を開いた。


「で、アルボルはなんでテメェらを寄越したんだ。俺の様子でも見てくるように頼まれたのか?」


 覇気のない声に一拍遅れて答えたのはアルヴァだった。


「いえ。その……」

「ああ、だったら()()()の様子でも見てこいって言われたか。まだ寝てる。()()()()()()()よ」


 平坦な声でアルヴァの言葉を遮りながら、火神竜はそのくたびれた背中をルカたちに向ける。


「まあ、結界切り替えてこんな所まで来たんだ。会っていくくらいはしてけば良いんじゃねぇか」


 ちらり、と肩越しに振り返った彼は「着いてこい」と言って歩き始めてしまった。


 ルカとアルヴァは顔を見合わせる。

 イグニスは動けないままそうしている姉弟に興味すら無いようで、神殿の奥、先程彼が伏していた場所のその奥へとどんどん歩いていってしまって、終いにはその背中が見えなくなった。


「行っちゃった……」


 呆けた声で呟いたのはカレンだった。

 ルカは、姉に目だけで『どうします?』と問うた。するとアルヴァは瞬きを一つして、それから前を見た。


「……行こう」


 アルヴァの小さな声を合図に、一行はゆっくりと歩き出した。


 禁足地の奥深くへと伸びる廊下を進み、一行は小部屋へと出た。小部屋の壁と床は高温で焼き均したような様相で、丁寧に丁寧に、滑らかに整えられている。

 そんな部屋の真ん中には、ポツンと一つ、薄青さのある白い四角があった。

 その長方形の横に、俯くイグニスがいる。

 声をかけあぐねるルカの心の内を透かしたように、火神竜は小さく囁いた。


「ここで寝てる」


 感情の抜け落ちた声だった。

 ルカとアルヴァはまた顔を見合わせて、それからゆっくりと長方形へと近付いた。

 

 近くで見れば、その四角が美しい氷でできているのがわかる。

 まるで中に閉じ込めた何かの時を止めるように固まった氷は、ただただ静かに横たわっていた。


「これは……ザミーニャ様の……」


 アルヴァの呟きに、イグニスは何も返さない。しかし無言の彼の背中は、アルヴァの言葉を否定してはいないようだった。


 ルカはぼんやりと長方形を見下ろすイグニスの横に立って氷を覗き込み、そして息を呑んだ。


 ――これは、棺だ。


 そう思いながら息を止めて、ルカは姉を見上げる。アルヴァも目を見張ったようだったが、それも一瞬。彼女は細く息を吐き出しながら悼むように静かな表情を顔に浮かべて棺を見つめている。


 氷の棺の中に閉じ込められているのは、穏やかな表情の女性だった。

 波打つ黒髪を広げ、白のワンピースドレスを着て。そして花々を抱いて絶対零度の氷の中で、まるで――そう、火神竜イグニスの言うように、眠っているようだった。


 ルカは、その女性を神々しいと思った。そう思わずにいられなかった。

 断っておけば、その女性は氷に閉じられているという特殊な状態を差し引いても、特別目を惹くような容姿ではない。特に、自分の姉の美形で目が肥えているルカにしたら、そのあたりの村にでもいそうな、というくらいの容姿だ。神々しいほどの美形、というわけではない。


 ――でも、神々しい。そして……。


 ルカは、神気すら纏って眠るその女性に跪きたくなりながら、それと同時に縋りたくなるほどの安堵も感じていた。


 ――ああ。きっと、この方は。


 ルカの心中の呟きに応えるように、イグニスが囁く。


「お前に客だ。……なあ、いつまで寝てんだよ――」


 ルカは、堪え切れずに『ああ』と吐息を溢した。感じていた神々しさも、母の腕の中にいるような安堵も、当たり前のことだったのだ。


 神代のまま時の止まった氷の中で、淡く微笑むように息を止めているこの人は。

 火神竜イグニスに守られて安らかな眠りについているこの人は。


「――なあ、アングレカム……」


 アングレニス王国の人間ならば、誰もが知っている国の守り神――竜の聖女、まさしくそのひと。


 その事実を脳が理解した時には、ルカの眉間には深い皺が刻まれていた。ルカは、全て、わかった。わかってしまった。

 

 魂は、炎に抱かれることで無垢へと帰る。アングレニス王国に置いては、そう捉えられている。

 つまり。死せる聖女の魂は、おそらく未だに、この眠るような遺体の中に。

 

 ――つまり。


 星蘭の、楔とは。


 ――僕らが女王陛下と樹神竜アルボル様から命じられたことは……つまり。


 微睡む灰(イグニスを)燼竜を起こし(起こしなさい)


 星蘭の楔(アングレカム)を。

  ――氷に縫い付けられた竜の聖女を。


 火神竜のあの表情。全くの無の顔の中で、燃える赤が揺らぎながら聖女を見下ろしているあの表情を。

 竜の聖女のあの表情。侵されることのない永遠の中で、穏やかに眠っているあの表情を。


 ――それを見てなお、僕らは、聖女を……。


「……燃やさ……ないと……」


 ルカの囁きに振りむいたのはアルヴァだった。彼女はルカの顔を見てこれからすべきことを察したのだろう、拳を握って小さく口を開いた。


「――イグニス様」


 氷の中の聖女を見つめていた時とは打って変わって、虚ろな目がルカたちを見る。


「イグニス様。私たちは、アルボル様に……アングレカム様を」


 聖女の名が出た途端、イグニスの瞳に感情が灯る。もはや彼の感情は、聖女に関する事でしか動かないようだ。炎の目に射抜かれたアルヴァが唾を飲みこんでいる。


「……何だ。アングレカムを、何だよ。言えよ」


 そんな彼に、自分たちが拝命したことの内容を伝えればどうなるかなど、まさしく火を見るよりも明らかである。


「――私たちは……アルボル様に、――星蘭の楔を燃やせ、と」

「つまり、イグニス様。そちらにおられるアングレカム様を、燃やすようにと言づけられているんです」


 震えるのを抑え込んで言えば、アルヴァの金琥珀がルカを見た。ルカは一瞬姉を見てから、ジッとイグニスを見つめた。

 火神竜がルカを見る。ただそれだけで震えがくるような目だった。

 でもルカは、火神竜のその情動の矢面に姉だけを立たせるわけにはいかなかった。


「――……なんだと?」


 彼の口から竜がグルグルと唸るときの音が漏れ出している。じり、と床を踏みにじった足がそのままルカたちへとにじり寄ってくる。

 広間で感じた殺気がまた肌を刺している。周囲の空気が燃え上がらないのはきっと、竜の聖女アングレカムを時の進みから守っている氷の棺を溶かしてしまわないためだろう。

 ただそれだけだ。ただそれだけの理由で、ルカたちは丸焦げにならずに済んでいる。


「人の声なんか長らく聞いてなかったからよ、……俺の耳がおかしいんだよな、きっと」


 低い声が空気を揺らす。


「てめぇら、今、なんて、言った?」


 棺を背後に守るようにして立つ火神竜の威圧に、しかし、ルカもアルヴァも退かなかった。


「私たちは、アルボル様より『星蘭の楔を燃やせ』という命を拝命しています」


 アルヴァの言葉に続けるように、ルカは口を開いた。


「僕は、アルボル様の命を、言葉通りの意味として取ってしまった。でも、本当は違ったんです。今、たった今気が付きました」


 樹神竜アルボルから遣わされていると知ったからか、イグニスは瞳に炎を灯しながら、それでもルカたちの言い分を最後まで聞いてくれるつもりはあるようだった。

 ルカはそんな彼から目を逸らすことなくショルダーバッグを漁る。そして中身の一番上にそっと横たえておいた物を取り出した。アルヴァから『私のウエストバックでは潰してしまうかもしれないから』と渡されていたものだ。


 ルカの手のにあるハンカチの包みの中には、樹神竜から託された星蘭(アングレカム)の花がある。

 彼はそれをそっと開きながら、言葉を続けた。


「僕はてっきり、アングレカムの花をここで――禁足地の中で燃やせ、という事なんだろうと思ってしまいました。……でも、違った」


 ――そう、違った。アルボル様の言う『アングレカム』は、花ではない。


 ルカはイグニスから目を逸らし、アングレカムの花へと視線を落とす。甘い香りを立ち昇らせる白い蘭は、静かにルカを見上げている。


 微睡むような緑の小さな光球が瞬きとともに浮かび上がったのは、ちょうどルカが花を見つめた時だった。


 甘い匂いを纏った光に、ルカは続けようとした言葉を飲み込んだ。


 向かいから短く強く息を吐く音が聞こえる。ルカは光球を見つめていた目をそちらに動かした。


 火神竜は、今にも泣きそうに顔を歪めていた。


「……アングレカム……」


 震えた声に答えるように、光球はふらふらとイグニスの方へと飛んでいく。


 にわかに部屋の中の温度が上がったようだった。火神竜の感情の動きに伴って魔力をもって上がった温度は、氷の棺を軋ませる。


 よろめくように一歩踏み出したイグニスは、迎え入れるように、縋るように腕を開いている。そこに緑の光球が収まった瞬間、棺は音を立てて砕けちった。


 氷の破片は音も水も残すことなく溶け消えて、あとに残ったのは、花々をベッドに横たわる聖女の体だけ。そこから、緑の光が無数に立ち昇ってイグニスの腕の中に集まって――


「いつまで待たせてんだ、お前は……っ!」

『うん……ごめんね、イグニス。ただいま』


 ――そして光は柔らかく収束して、一人の女性の形になった。今まさにこの部屋の花々の上で眠る人と、同じ形に。

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