35. 樹神竜アルボル①
メキメキと木をへし折りながらエルフの森の広場に着地したトニトゥルスは、背中に乗せていたアルヴァたちのことを振り落とさん勢いで地に伏せて、そして彼女たちを降ろした後は、人の形に姿を変えて、一飛びにレベッカの元へ向かったようだった。
黒い彗星に乗っての夜空の旅を楽しめたのはアルヴァとイグニアのみ。他は、ケネスもルカもフィオナも、目を回したようによろめいている。カレンだけは、アルヴァにへばり付いて目を閉じていたらしい。ふらつきはしなかったが、それでも顔は真っ青だった。
「みんな大丈夫か?」
アルヴァの声に、ルカが唸る。
「これが大丈夫に見えるなら、あんた、目ン玉取り出して洗うことをお勧めしますよ……!」
「うん、大丈夫そうだな」
それだけ言えるなら元気だな、とアルヴァはカレンを支えて歩きながら、ルカの背中をポンポン叩く。そんな彼女が向かうのは、青い顔で心臓を抑えながらへたりこんでいるフィオナのところだ。
――神竜様の祠は六つ。イグニスの間で夢見について詳しく聞いたとき、フィオナは、このエルフの森の神樹様の元に祠があると言っていた。
案内をお願いしよう、とアルヴァはフィオナの前にしゃがみこむ。
「ああ、アルヴァさんがブレて見える……」
「大丈夫か、フィオナ」
フィオナは、ええ、と曖昧に頷いて力なく微笑んでいる。
「あそこまで速く空を飛んだことがなくて……ちょっと目が回っているだけです」
フィオナはそう言って、そのまま、はぁぁぁ、と深く息を吐いた。と、そんな彼女の元へ、間隔短く足音が近付いてきた。
「フィオナさま!」
幼い声に振り向けば、そこにいたのはエルフの少年だった。少年は息を整える間もなく、フィオナの耳に口を寄せた。途端、フィオナが真面目な顔をする。
「これから皆さんを、森の最奥……神樹様のもとへとご案内いたします」
アルヴァはキュッと唇を閉じ、静かに頷いた。
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広場から森の奥へと進む。最初こそポツポツと喋る声が聞こえていたが、それもすぐに静寂へと変わった。今は、一行が歩く音が小さく鳴っているだけだ。それすら、木々に吸い込まれるようだった。
森が深くなるにつれ、花々に灯る光が増していく。
アルヴァは『この花が魔力を吸って輝く』という事をルカに聞いて知っていた。
――これだけ輝いているという事は、魔力の濃度が濃いんだろう。
アルヴァは静かに周囲を見回した。
魔力濃度の変化に疎いアルヴァは全く何も感じない。だがそんな彼女でも、花が示してくれるから、この辺り、そしてさらに明るいこの道の先はかなり魔力濃度が濃いのだろう、と伺い知ることはできた。
明かりの方へ向かって一行は歩く。空は、すっかり深夜色に染まっていた。だが、輝く花が地面を照らしてくれているおかげで転んでしまう事は無い。
一歩一歩進むごと、花の光が夜を押し上げているようだった。不思議な温かな光に照らされて、アルヴァは夢の中を歩いているような気分になりながら前を見る。
視界が開けていた。
それに気が付くと同時に、彼女は周りの木々が小さくなったように錯覚した。
――いや、違う。これは、周りが小さくなったのではなくて……。
アルヴァが思わず足を止めると、それを見越したかのようにフィオナが振り返った。
「あちらが、神樹様です」
静かに囁くフィオナは、普段の優しくおおらかな彼女の顔ではなく、神樹の巫としての顔で粛然と佇んでいた。
そんな彼女の向こう側。
未だ距離があるというのに高く高く聳える樹があった。周囲の木々さえ苗木のように小さく見えるほど背の高い、あれはオークの巨木だった。
「さあ、行きましょう」
静かな声に促され、アルヴァは一歩、また一歩、と歩を進める。一面に咲いた花をなるべく踏まないように、と気を付けながら地を踏み締めれば、ふわり、と甘い香りと光の粒が花から立ち上っては消えていく。その幻想的な光景に目を奪われつつも、アルヴァはフィオナの背中を追いかけた。
そうやって辿り着いた開けた場所の中心に、エルフたちの神樹は、堂々とあった。
アルヴァは静かにオークを見上げる。いくつもの木蔦がオークを守るように絡まっているのが見える。その中でもひときわ太い、それこそ、このオークの巨木の幹の半分ほどの太さがある木蔦はまるで竜のようだった。
後ろから聞こえてきた「すごい……」というカレンの呟きに、アルヴァは言葉を出せずに首肯しながら、自然と膝を折っていた。ルウェイン国王陛下とリアダン女王陛下にそうするように。
そうやって跪きながら、アルヴァは静かに、ただただオークを見上げていた。
その時だった。
「来ましたね……」
聞き覚えの無い声が空気を揺らした。
アルヴァの肌を、ピリピリと魔力が撫でている。純粋で、濃厚な、樹の魔力が。
後ろから聞こえた息を飲む音は恐らくルカの物だろう、とアルヴァの頭だけは冷静だった。が、彼女の体はそうではない。
緊張と驚愕で、心臓が痛いほどに脈打っている。鳥肌の立った肌に冷や汗が流れていく。
そんな彼女の見開かれた金琥珀の瞳に映るのは、太い太い木蔦の、その先端である。
ぱくりと。樹皮だと思っていた部分に、亀裂。
そしてそこから覗いている若草色は――縦長の黒を抱きながら、アルヴァたちを確かに見つめていた。
――これは。いや、こちらにおわすのは……。
小さく唾を飲むアルヴァを、フィオナが振り返る。それと共に、メキメキ、ミシミシ、と凝り固まった筋肉を動かす音がエルフの森の最深部に響き渡る。アルヴァの目の前で、木蔦は守るようにオークの木を抱きしめたまま、ゆっくりと厳かにその長い首をもたげ、たたんでいた翼を大きく広げた。そして動きを止めた木蔦はジッとアルヴァたちを見下ろしている。
軋んだ音が止んでしまえば周囲に満ちるのは、澄み切った、呼吸すら憚られるような、静寂のみである。
そんな静寂を切ったのは、竜と神樹に傅くフィオナだった。
「――こちらにいらっしゃいますのは、我らエルフの神樹様と――神樹様の守護竜であられる、樹神竜アルボル様でございます」
輝く若草が、一行を映して瞬いている。
その美しさはきっと――と。
神話の時代、神竜たちが生きていたあの頃も同じく美しかったのだろう、と。
アルヴァは、聳える鮮明な神話を見上げてそう思った。




