雷神竜レビンの祠②
アルヴァたちを背に乗せイグニアをその腕に抱えたトニトゥルスは、まさしく迅雷のごとく宵の空を駆けた。ものの数回しか羽ばたいていないというのにもう雷鳴山が見えてきている。その事実に、アルヴァはもう笑うほかなかった。
――フィオナが風の結界を張ってくれなかったら、きっと、私以外はみんな振り落とされただろうな。
カレンがアルヴァの背に張り付いてガタガタ震えていられるのも、風の結界のおかげである。
アルヴァは振り返ってフィオナを見た。
「フィオナ、ありがとう」
「いえ、私は何も。全て、セリノン様が」
フィオナの背後で胸を張っている半透明の男――東風の精霊セリノンは得意そうに笑っている。アルヴァが彼に深く頭を下げたところで――唸る雷鳴の音が近くなった。
「もうすぐ着くな」
アルヴァの独り言に答えたのは、ルカだった。
「そうですね。それにしても……雷竜の全力って、こんなに速かったんですね……!」
はぁ、と感嘆の息を漏らす弟に、アルヴァは首を振った。
「レベッカが駆っていれば、もっと速いよ」
「マジですか! そりゃ凄い……!」
ルカの声は興奮の色を滲ませている。こういうときに放っておいたら口が止まらなくなるのがルカである。そのことを、アルヴァは良く知っている。
「ルカ、舌噛むぞ」
アルヴァがそう言うのを待っていたかのように吹き上がった風が、トニトゥルスの翼にじゃれて抜けていく。それに揺られて、アルヴァたちも上下に揺れる。
「噛むもんでフか……あっ」
アルヴァは、背後でルカが口を押さえた気配にひょいと眉を上げ笑った。
「ほら噛んだ」
「う……黙ります」
と、話している間に周囲の様子が変わってきた。
アルヴァの鼻はぬかるんだ地面の匂いを微かに感じている。その匂いが強くなるにつれ、生まれたての夜空を彩る雲の色が雷雲の黒に染まっていく。
その雲に頭を突っ込んで座している雷鳴山は、もはや目と鼻の先。
そこへ向かって、トニトゥルスはスピードを緩めることなく飛んで行く。
「……このまま、頂上に行く」
風切り音に混じって聞こえた低音に、アルヴァはルカたちに目配せした。そうしながら、カレンの腕を強く掴んで自分の腰に巻き付かせることも忘れない。
アルヴァは、ルカとケネスとフィオナが身構えたのを確認して、それからカレンへと声をかけた。
「カレン、私にしっかりと掴まってくれ!」
カレンが今以上にギュッと強く抱きついてきたことを確認して、それからアルヴァは了解の意を込めてトニトゥルスの長い首のその根元を軽く叩く。
その直後。
トニトゥルスは潜水する時のように高度を下げて、それから沼地を翼で打つようにして大きく飛び上がった。
「――ぃっ!」
息を飲んでいるのか、それとも声にならない悲鳴を上げているのか。そのどちらともわからない声の主は、カレンである。アルヴァは後ろに手を回して彼女を支えてやりながら、ちらりと首だけで振り返る。
ルカもケネスも、フィオナとセリノンの操る風で落ちないようにしっかりと支えられている。カレンだって、アルヴァがしっかり捕まえているから、誰一人だって振り落とされることはないだろう。
それを確認して、アルヴァは視線を前へと戻した。
流れていく景色は、夜の濃紺と黒い岩肌。
迫り来るのは雷鳴山のてっぺんと下界を切り分ける、黒い雲の壁だ。
あれにそのまま突っ込んだら、と一瞬考えたアルヴァだが、自分たちを覆っているのが風の結界であることを思い出して安堵する。
――このまま突っ込んだって。
「風が雲を食うだろうな」
アルヴァが、ぽつ、と溢した言葉は、風切り音に掻き消える。と同時に、行く手に広がっていた雲の壁も風に食いちぎられて散っていく。薄くなったそこを穿ってトニトゥルスが飛びあがる。
雲を突き破った瞬間、アルヴァは、ほう……と感嘆の息を溢した。
上昇をやめたトニトゥルスの背中の上。独特の、体の中身を遥か高くまで放り投げられるような感覚にルカたちが声をあげるのすら遠くの出来事にしてしまう程――美しい、星空。
雲の上の世界。これこそ、竜の見る景色。アルヴァがいっとう好きな景色である。
――とはいえ、アルヴァにとっては皆の安全が何よりである。だから、彼女が星に見惚れたのは指を弾くよりも短い間だった。
今、アルヴァたちが乗せてもらっている雷竜なら、この位置――雷鳴山のてっぺんの遥か上から、それこそ落雷のように着地できる。が、それをやられれば、いかに風の結界があろうとも、ルカたちが振り落とされてしまう。
だから、とアルヴァは声を張る。
「トニトゥルス、加減してやってくれ!」
返ってきたのは不満そうな吠え声。レベッカのもとに早く帰りたい、と言うのがありありと見える声だった。
だがそれでも、トニトゥルスはルカたちを慮ってくれる。それがアルヴァにはわかっている。
星屑に見せつけるように大きく大きく翼を開いたトニトゥルスは――彼にとっては――ゆっくりとした速度で旋回しながら、高度を落とし始めた。
雷鳴山の頂上は、どんどん近づいてくる。
――雷鳴山の黒冠の上を見るのは初めてだな。
アルヴァは、鳩尾を締め付けるように巻き付くカレンの腕を撫でてやりながら周囲に目を走らせた。近付く山頂は平らに整えられている。恐らくそこが雷竜たちの寝床だろう、と見当をつけながらアルヴァは小さく目を動かす。
金琥珀の瞳が写すのは、寝床から少し離れたところだ。そこに、宵闇を突くように伸びるもう一つの山頂がある。
――山頂が二つ。もしかして、向こうの山頂にレビン様の祠があるのだろうか? それなら、レビン様があのようにおっしゃったのも頷ける。
鋭い傾斜は、人の足を拒むように伸び上がっている。恐らく、翼を持つものしかそこに降り立つことは叶わないだろう。アルヴァはグッと目を凝らしてその頂を見つめるが、夜目が利く彼女をもってしても、そこに祠らしきものを見つけることはできなかった。
その間にも、順調に高度は下がっていく。アルヴァが見つめているほうではない整えられた平らな山頂が近付いてくると、そこに無数の影があるのがよく見えた。
そしてようやくトニトゥルスの足が地に着いた時には――周囲を、無数の雷竜が取り囲んでいた。
揺れも少なく着地してくれたトニトゥルスの首元を撫でながら、アルヴァは静かに周囲に目を走らせる。
――上にも雷竜がいるな。
翼が空を打つ音がいくつも重なって空に響いている。その音が聞こえるたびに、アルヴァにしがみついているカレンの腕に、力が入っているようだった。アルヴァはカレンの背を優しく叩いてやりながら、言葉を発そうとスッと息を吸って、しかし、彼女の口から出た言葉は、突然の雷鳴にかき消された。
トニトゥルスの、それこそ、鼻先。そこに、雷が落ちた。
肌が泡立つほど近くに落ちた雷は、その光と同時に空気を震わす轟音をもたらした。
びりびりと鼓膜を直接揺るがすような音に、アルヴァは思わずグッと眉を寄せて口を閉じる。と、その時だった。
「ああ、トニトゥルス様!」
聞き慣れない声が前から聞こえてきて、アルヴァは静かに動いてトニトゥルスの長い首越しに前を見た。
トニトゥルスの、前。丁度、雷が落ちた場所。そこに、ひれ伏す雷竜がいる。体躯から言って成竜だ。二対の角から、その竜が雄であることがわかる。トニトゥルスほどでは無いにしても見事な雷雲色の雷竜が、その長い首を地に這わせている。
――人間で言うところの、跪いている状態だろうか。恐らく、最敬礼に当たるポーズだろう。……こういう場でなければ、スケッチしてメモしたいところなんだがな。
アルヴァがそんな風に考えていることも知らず、跪く雷竜は言葉を続ける。
「お戻りくださるこの日を、心からお待ち申し上げておりました……!」
その言葉を皮切りに、幾百もの雷がトニトゥルスの前へと落ちてくる。
その全てが雷竜で、その全てが、ただ一つの例外もなくトニトゥルスへと跪いている。
その圧倒的な光景を、アルヴァたちはただ見つめるしかなかった。
「貴方様が人間に打ち破れ山を去ってから、二十年……この二十年が、なんと長かったことか……!」
アルヴァたちの存在など虫ほどにも気が付いていないらしい雷竜は、見事な二対の角に飾られた頭を恭しく上げて、トニトゥルスを見つめている。
「本当に、本当にお待ち申し上げておりました――長!」
長! 長! と雷竜たちの喜びに満ちた声の合唱は、それを向けられているトニトゥルスが喚んだ轟雷によってかき消された。
耳が馬鹿になりそうな轟音は今更耳を塞いだところでどうなるわけでもなく。アルヴァは耳鳴りに眉を寄せながら、ジッと前を、トニトゥルスと雷竜のやり取りを見守っていた。
バチバチ、と落雷が地を舐める音が静まってしまえば、山頂には張りつめた沈黙が満ちる。
沈黙を破ったのは、トニトゥルスの低い声だった。
「私は長ではない」
その短い言葉に狼狽えたのは、トニトゥルスの目の前に跪く雷竜だ。
「しっ、しかし……」
「長の座はお前に譲ったはずだ、ブリッツ」
トニトゥルスはそう言いながら、静かに地に伏せる。『降りろ』と言葉無く促されて、アルヴァはカレンを横抱きにしながら雷鳴山の頂上へと降り立った。
そんなアルヴァたちを気にする様子も見せず、トニトゥルスの前に跪く雷竜――ブリッツは大きく口を開いている。
「わっ、私では……私では、長などは務まりませぬ! トニトゥルス様でなくては――」
「私は、もう長ではない」
噛んで含めるような声色でトニトゥルスが言うと、ブリッツが「しかし!」と縋る声音で叫ぶ。トニトゥルスはそれを振り切るようにグッと体を起こし、その金の目にアルヴァを映した。そして彼は小さく吠えた。
それに答えるように、雲から雷が落ちる。
雷はアルヴァたちの頭上で弾け、彼女たちを外界から遮断する結界に身を変えた。
「――雷の結界……」
隣に立つルカが、ぽつ、と溢した声にアルヴァはそちらに目を向けた。
「雷の結界って、どんなことができるんだ?」
アルヴァがそう問うと、返ってきたのは興奮を押し殺したような声だった。
「一般的には――と言っても、雷の精霊や妖精と契約をしている精霊魔術師がそもそおも少ないのでアレですが――でも、うん。一般的に知られる限りは、攻性結界です」
ルカの口からは、ぺらぺらと言葉が泳ぎだしている。
「禁足地の結界を思い出してください。一定距離に入ったら、雷が落ちたでしょう。あれです。あれこそが、雷の結界の最たる特徴……だと思ってたんですが、どうも、この結界は違います」
放っておけば専門的な言葉が飛び出してくることを知っているから、アルヴァはルカに促すように声をかける。
「簡単に言うと、どう違うんだ?」
「簡単に……言うなら、そうですね。今、張られている結界。これは――僕ら目掛けて降ってくるいかなる雷も吸収する、防御特化の結界です」
ほう、とアルヴァは自分たちを囲んでいる、半透明な――時々、細い雷が跳ねまわる――結界を見て、それからトニトゥルスを見上げた。
トニトゥルスはその顔にうっすらと、苦々しい表情を乗せている。
「いらっしゃらぬのだろう」
静かな低い声が、何を指してそう言ったのか。
それがしっかりわかっているから、アルヴァは頷いた。
――それからブリッツも理解したようだった。もっと言えば、山頂を彩る雷竜たちの中の数頭も理解したようだった。彼らの動揺につられて、周囲に雷が落ち始める。アルヴァたち守る結界にも落ちたが、結界は震え一つ起こさずにそれを飲み込んだようだった。
アルヴァはビクリと跳ねたカレンを抱えなおし、口を開いた。
「やはり、わかるのか。トニトゥルス」
「ああ。――それにいらっしゃるのならば、私はレベッカの側を離れずに済んだだろうからな」
迎えに行ってくる、と。
そう言って、トニトゥルスは夜の帳よりも黒い翼を大きく広げる。
アルヴァは「私も行こうか」と言いかけて口を閉じた。
――いくらあのお方が夜の闇に目立つ体をしていたって、人間の足と魔力感受能じゃ見つけるのに時間がかかる。
アルヴァは、静かにトニトゥルスを見つめながら考えて、それから深く頭を下げた。
「よろしく頼む」
「頭を上げろ。そも、この状況をつくってしまった原因は私にもある」
言葉に従ってアルヴァが顔を上げた時、トニトゥルスはすでに大きく飛び上がっていた。力強い羽ばたきが巻き起こす風に息を詰めながら見上げるアルヴァに、トニトゥルスは言葉を落とすことなく飛び去った。
――そして、数分も経たないうちに、トニトゥルスは山頂へと戻ってきた。
雷の轟音と共に山頂に降りたったは彼は、空を見上げてから先ほどの雷竜たちのように跪く。
その視線の先にいるのは。
「……や、やっほー。ええっと……はじめましての奴もいるよな」
夜の闇の中においては、まるで空から零れ落ちた星のごとく輝く――
「オレ、レビン! よろしく!」
――雷神竜レビン、そのひとである。




