34. 雷神竜レビンの祠①
アルヴァの耳を冷たい風が切っていく。
聖都イグナールの遥か後ろに置いて、今、アルヴァたちが飛んでいるのは聖都の南西の平原の上空である。
夕闇の中でイグニアが必死で羽ばたいている。アルヴァは相棒への負担を減らすために、イグニアの背にぴったりと身を寄せていた。
それでも、前を行く雷竜トニトゥルスとの距離は開く一方だった。
竜の中で最速の雷竜。加えて、トニトゥルスは、早くレベッカをエルフの森へ、と急いでいる。
そんな彼に、火竜の子供であるイグニアが追いつける道理はないのである。だからこそ、アルヴァはフィオナに「私の事は置いていって大丈夫だ」と伝えておいたのだ。
アルヴァはちらりと振り返る。風に弄ばれる自分の髪と、それから、イグニアの翼の力強い羽ばたきの隙間から見える聖都は、何事も無かったように遠くで霞んでいる。今の所、追手の姿は見えなかった。
と、彼女はそうしているうちに空気の匂いが変わってきたこと気がついた。
――森の匂いが強くなった。
アルヴァはそう思いながら再び前を見る。
湖のその向こう、街道のない真っさらな草原のその先に、青々と広がる森がある。そこが、アルヴァたちの目的地だ。
「エルフの森が見えてきたな」
アルヴァはもごもごと口の中で呟き、クッと身を低くした。それをつぶさに感じ取ったイグニアの羽ばたきの間隔がよりいっそう短くなる。森はぐんぐん近づいてきている。
そうかからないうちに、アルヴァたちはエルフの森――ルクロクへと辿り着いた。
彼女とイグニアが地面に降りった頃には、トニトゥルスは人間の姿に体を変えていて、その腕にしっかりとレベッカを抱いていた。遠目に見てもレベッカの顔には血色が戻っている。アルヴァがそれに安堵しながら駆け寄る間に、トニトゥルスはエルフに案内され、その浅黒い背を一行に向けて森を奥へと進んでいってしまった。
それを見送りながら、アルヴァはケネスの隣に立った。
「レベッカは大丈夫そうだったか? 遠目からでも顔色は良さそうに見えたが」
「ああ。見た感じ、血は止まってるみたいだった」
そうか、と頷きながらアルヴァの目は森の中から駆けてくるエルフたちに向いている。
森の緑を背景に、沈みかけの赤の光の中で金色が煌めいてはフィオナの指示に従うように森に駆け戻っていく。隣にルカが立ってフィオナと言葉を交しているから、きっとレベッカの看病についての指示が飛ばされているのだろう、と判断して、アルヴァはゆっくりと弟の方へと歩き出した。
すると、アルヴァの方をちらりと見たルカが口早にひとつふたつとフィオナに何事かを告げて彼女の方へと歩み寄ってきた。
「姉上」
「レベッカは……」
「大丈夫です。さっき確認させてもらったら、傷口塞がってました」
アルヴァは、ルカの言葉に耳を疑った。
「――塞がってた?」
あの傷が、とアルヴァの脳裏によぎるのは、広場を染めていた鮮血である。アルヴァには、あれだけの出血量の傷がこの短時間で塞がるとは思えなかった。
これについては、ルカも同じく思っているらしい。彼は眉間に皺を作っている。
「ええ。正直、ありえないことですよ」
「でもまあ、レベッカが助かるのなら良いことだ」
「まあ、それはそうですけど……。『理由』はわかって『理屈』がわからないのが、どうにも……」
唸るルカの声に、フィオナの声が重なった。
「皆さん、一旦森へ」
緊張が見える、少し固い声だ。その声に姉弟は顔を見合わせる。フィオナはそんな二人へ促すような視線を寄こして歩き出してしまった。
そうなってしまえば、アルヴァたちも着いていく他ない。アルヴァはケネスたちを振り返って「行こう」と声をかけ、静かに歩き出した。
森の小道を歩きながら、アルヴァは先程ルカが言っていた『理由』と『理屈』について考えていた。
――傷が塞がった『理由』。こちらは簡単だ。『レベッカを死なせないためにトニトゥルスが何かしたから』だろう。私でも想像がつく。
道は、エルフたちが日毎使うからだろう、歩きやすいように整えられている。とはいえ、街道のように整備されているわけではないので石や枝が落ちていた。
アルヴァの足は後続が歩きやすいようにと石や枝を端に避ける。これはもはや、彼女の癖と言っていいものだ。
そうしていながらも、アルヴァの思考は止まらない。
――傷が塞がった『理屈』。これがわからないんだよな。精霊魔術でそういったことができるという話も聞かないし。……そもそも、もし出来るのであればルカが疑問を持つようなこともないだろうしな。
しばらく考えて、アルヴァは小さく息を吐く。
彼女は、こればっかりは本人に聞くしかないか、と結論付けて、前を歩くフィオナに声をかけた。
「フィオナ。トニトゥルスはレベッカと一緒にいるのか?」
「はい。本当は広場で羽根を伸ばして休んでいただこうと思ったのですが、レベッカさんの近くにいたい、とおっしゃって……」
「そうか……まあ、そうだよな」
今からそちらに案内しますね、と言う声は、その奥底にある緊張を隠せてはいない。
アルヴァはフィオナの背中を静かに見つめてから「ありがとう」と声をかけた。
そこからは誰も喋らず、ただ落ち葉を踏む音だけが夕暮れに響いていた。
そうして歩いて、木漏れ日の赤が弱くなり始めた頃。
アルヴァたちは、フィオナに案内されてエルフたちの集落へとたどり着いた。
エルフたちが、炎の光ともまた違う柔らかな光に包まれた集落を慌ただしく駆け回っている。ある者は風を纏って樹上の建造物に飛んで行っては薬草を抱えて降りてくる。まさしく縦横無尽に飛び回り駆けまわるエルフたちは、その全てが、レベッカのために動いてくれている。
こちらへ、と忙しく駆けまわるエルフたちの隙間を縫ってフィオナが小走りになるから、アルヴァたちもそれについて歩いた。そうやって案内されたのは、集落の奥、一際大きな樹に寄り添うように背を伸ばしている建物だった。
その建物の三層目の部屋の扉をくぐったアルヴァの金の目に映るのは、浅黒い背中と、それから、静かに――それこそ死んだように横たわる友の姿。たまらず、アルヴァは友へと駆け寄り膝をつく。隣で小さな唸り声が聞こえたが、その声の主がアルヴァを視認したのだろう、唸り声は直ぐに聞こえなくなった。
「レベッカ」
アルヴァの静かな声に、閉じられていた瞳が薄っすら開く。
それだけで十分だった。アルヴァにとっては、それで十分だった。彼女は静かに安堵の息を溢し、それを隠すべくと微笑んだ。
「無事でよかった」
レベッカは何も言わない。ただ、小さく頷いたようだった。アルヴァは綺麗に血の拭われたレベッカの手を握り、それから横を見た。
浅黒い肌。稲妻のような金の髪。レベッカと揃えて誂えたかのような薄い金の瞳がアルヴァを映している。
「トニトゥルス」
トニトゥルスは、頷く代わりにゆっくりと瞬きをした。
――何を聞かれるかわかっている顔だな。
アルヴァはレベッカの暖かな手を握ったまま、目の前の人の姿をとる竜に質問を投げようとして――
「……フィオナ様」
――それは、部屋に入ってきたエルフの声に遮られることとなった。
「言伝を預かりました、フィオナ様」
そう言ったエルフはフィオナの耳に口を寄せ、小さく何事かを呟いたようだった。聞き終えたフィオナが静かに目を上げて、アルヴァを見た。
「――神樹様より、『雷竜の長を連れ、雷神竜の祠へ』……と」
フィオナは、そう言いながら一行の顔を見回して、そして最後にトニトゥルスを見据えた。自然、一行の目も彼に向く。
トニトゥルスは、静かに目を伏せてレベッカを見つめていた。
「……トニトゥルス」
アルヴァは用意していた問いを飲み込んで、静かに語り掛ける。
「頼めるか」
アルヴァの言葉に驚いた様子を見せたのは、カレンだけ。ルカもケネスも表情を変えずにトニトゥルスを見つめている。
が、トニトゥルスは動かない。
金の長い髪を背中から溢しながら、ただただレベッカを見つめている。
「――頼む」
アルヴァが頭を垂れても、トニトゥルスは動かない。
と、そこで微かに動いたのは、アルヴァの手の中にある温かな手だった。ぴくり、という小さな動きが『少し離してくれ』を言っているのがわからないアルヴァではない。彼女はレベッカの手をそっと逃がした。するとレベッカの手はゆるゆると動きだした。
そして、トニトゥルスの頬へと収まった。
「――レベッカ」
トニトゥルスの低い声に、レベッカの唇が微かに動く。
『いってやれ』と。
『たのむ』と。
無言の願いに、トニトゥルスはレベッカの手にすり寄って、それから、やおら立ち上がった。金の目がアルヴァを見下ろし、それからフイっと逸れる。と、アルヴァの手を何かが優しく撫でた。見れば、レベッカがそっと指を動かして促すようにアルヴァの手の甲を撫でていた。
「レベッカ、ありがとう」
『いい。いけ』
はくはくと小さく口を動かして微笑んだ友の頬を撫で、アルヴァは立ち上がり振り返った。
彼女の金琥珀に映るのは、稲妻の髪をなびかせ部屋を出る雷竜の長の背と、真剣な表情のフィオナと、真っ赤な顔で顔をそむけるカレン。それから、アルヴァを見ているルカとケネスの姿だ。
エルフが静かに扉を開く。すると、トニトゥルスは迷い一つ見せずにそこから出て行って、バルコニーのような場所から、ふわり、と身を投げた。
直後、突風が駆け登る。
アルヴァは、風に髪を煽られるのも気にせずに部屋を出た。後ろからルカたちが着いてくるのを――ついでにカレンの悲鳴をルカが抑えたであろうことも――感じながら、アルヴァは静かに目を上げる。彼女には、大きな薄金色に己が映っているのが良く見えた。
トニトゥルスは鋭い歯列を覗かせている。そこから飛び出すのは、咆哮ではなく、深い深い、男性の声である。
「私の背に乗れ。お前の竜に合わせていては、レベッカのもとに素早く戻れない」
さあ早く、と。覗いていた顔が見えなくなる。言葉と共に、トニトゥルスはアルヴァたちが乗りやすいように、と地面に腹をつけたようだった。
「ぼくたちが風でお手伝いいたしますから、そのまま飛び降りても大丈夫です」
傍から聞こえてきたエルフの声に頷いて、アルヴァは戸惑うことなくバルコニーから身を投げた。




