雷竜の長②
精神の均衡はとうに崩れ、四色の感情はもうルカの手を離れて好き勝手している。
泣きながら愉しんで、怒りに任せ何もかもを壊したくなる。それがなんとも言えない心地良さをルカへと与えている。
そんな状態で無意識に動けば、普段のルカならしない行動が飛び出すのだ。
ルカは体を支配する怒りに任せて踏み抜くようにヨセフの胸に足を振り下ろし、体重をかける。くぐもった呻きと荒い息とが混ざり合う。荒い息を歯の隙間からなんとか吐き出して、心と頭を焦がす熱を逃がそうと必死のルカは憤るように首を振りながら、大粒の涙を浮かべて笑い怒り、ぐっと体を前に倒した。
そんなルカを慮る――本当は、ルカが無意識に動かしているのだが――ように、ヨセフの首を捕らえていた泥がぬるりと引いていく。ルカはゆらりと両腕を動かして、咳き込むヨセフの胸ぐらを掴んだ。
「答えろ……なんで、姉上なんだ」
低い声が笑みの形に歪んだ口から零れだす。
「なんで、姉上を狙うんだ……」
ヨセフは冷えた目でルカを見ながら、奥歯を噛みしめるように小さく歯を軋ませて、数秒してからニッコリと笑ってみせた。
「黙秘しまーす」
ヨセフはせせら笑っている。ルカの心を乱そうとしているのは明白だった。
ルカは、そうはいくか、とヨセフの胸ぐらから乱暴に手を離しきつくきつく拳を握って激情を抑え込む。そんな彼を追い詰めるように、ヨセフが昏い笑みを浮かべたまま口を開いた。
「どうしたバケモン二号くん。俺の手首と足首、もぎ取るおつもり? どんどん泥の締め付けがきつくなって――ああ、ほら。今度は俺の体まで飲み込もうとしてる。俺の事絞め殺すつもりか? 流石はバケモン王国のバケモンだ」
「黙れ……」
髪をまとめていたゴムが弾ける。と同時に、風もないのにルカの髪がふわりと持ち上がった。
それから、ルカは目の奥に、燃えるような痛みを感じた。その痛みが早い心音に合わせてズキズキするのと同時に、沼地に炎の花が咲く。流水音に紛れて聞こえていた女性の声を、火が爆ぜる音が搔き消してしまう。
「おおっと、炎まで持ち出したか。ヤダねぇ、バケモンは。俺の事、生きたまま焼き殺すつもりか? まったくご趣味のいいことで」
今のルカの感情のぶれは、精霊魔術の暴走に直結している。大地も、水も、炎も、ルカの感情の高ぶるままに暴れまわれるのを、今か今かと待っている。
それをルカが何とか、何とか、欠片ほど残った理性で留めているというのに――。
「殺せばぁ? バケモンらしく、俺の事、殺せばぁ? ほらほらぁ」
ケタケタ笑う声が、その理性すら削っていく。ルカの精神を負の魔力から守る最後の砦を、どんどん崩していく。
「――黙れ!」
ルカは歯を食いしばってそう叫び、獣のように息を漏らしながら右手で髪をかき上げた。そして彼は頭の奥を暴れまわる鈍痛を鎮めるように額に強く手を押し付けて、それから大きく頭を振って髪を乱し、睨むようにヨセフを見下ろした。
その顔からは、笑みも、怒りも、消えていた。
ルカの心はもう数多の感情に侵されて殆ど黒に染まっているというのに、彼の顔を飾るのは、まったくの無表情だった。
ルカは、目元に一滴残っていた涙を頬に伝わせて、ヨセフの胸を踏みにじる。そして彼は、静かに静かに体重をかけながら、ゆっくりと口を開いた。
「僕が聞いたことだけ、答えろ」
温度の無い低い声。
それに答えるのは、返事の代わりの呻き声。それから、濁った笑い声。
「なんで、姉上を狙う」
感情の消え去った声でルカが問えば、ヨセフはくつくつ笑いながら舌を出した。
「誰が答えるかよ、ばーか」
「いいから――」
乾いた大地が。周囲で燃え盛っている炎が。中に人を匿っている水が。それぞれ、その身を群れから切り離し、鋭い牙に変え、ヨセフの眼前に迫る。それすら無表情で見つめながら、ルカはもう一度、問う。
「――答えろ」
切っ先のように鋭く研ぎ澄まされてルカに侍るように浮かぶ牙三つ。それを見つめるヨセフの喉が小さく上下する。
と、ルカが見ている前で、ヨセフは静かに目を閉じて、溜め息を吐いた。
「アンタの姉ちゃんが狙われた理由? んなもん、簡単だ。今の俺らの上司がぁ、アンタの姉ちゃんをぉ……売ったからだよ」
「お前らの上司……?」
「ああ勘違いすんなよ。ウィル隊長じゃねぇよ? 第二部隊長の……ほら、豚みてぇな貴族の坊ちゃんだよ。アイツがなぁ、テメェの姉ちゃん売ったんだよ」
王室魔導士団の制服を着こんだ小太りなその姿を思い出し、無意識にルカの両手に力がこもる。そのせいで喉が詰まったのか、数度咳き込みなが、、ヨセフはこれ以上ないくらい楽しそうだった。
「ペイン家は確かにさ、俺らにすり寄ってきてたよ? ちょっと金をやればさァ、かーんたんだった。なけなしの権力使って、俺らを国の中央へ捻じ込んでくれたよ。あの貴族はまぁ腐ってるけど、中でもクソ坊ちゃんは別格だよ。ホント、最高。最高すぎて、絶対本国には連れて帰りたくないくらいさ。アレは性根から腐ってる。アンタの姉ちゃんはその腐り切った坊ちゃんからさァ……」
よっぽど恨み買ってたんだなぁ、とヨセフがニタリと笑う。
「確かにさ、俺らは言ったよ。あのクソ坊ちゃんに、ちょっと『実験』に向きそうな頑丈な人間がいたら教えてくれると嬉しいなァって。そしたらアイツ――即答。即答だよ。アルヴァ・エクエスと言うのが良いだろうって、即答。そんでそれから――なァ、なんて言ったと思う?」
――ペイン家が、マキナヴァイス帝国を手引した。その上、あの野郎は、ゲイリー・ペインは、姉上を……!
あまりの怒りが、ほんの少しだけルカを正気に戻す。
目の前が明滅しているのを感じながら、ルカは浮上した理性の欠片をかき集めた。だって、明滅に合わせるように、ヨセフに照準を向けている炎と水と大地の牙がブルブル震えているのだ。早くコイツを殺させろ、と身を捩る牙の鎖を握っているのは――ヨセフの命を握っているのは、ルカの理性なのだ。
今にも獲物を噛み砕きそうなこの牙を何とか抑え込まなければ、と必死のルカの鼻から、一度は止まった鼻血が再度流れ落ちていく。
――落ち着け。落ち着け。落ち着け、おちつけ、おちつけおちつけおちつけ……。
ルカはよろけながらヨセフの胸から足を退かした。胸ぐらを掴んでいた手も離し、強く強く拳を作る。そうしながら、ルカは無表情を崩すことなく息を荒くしている。そんな彼の奥深くを覗き込むように見つめるヨセフが言葉を吐きだしていく。
――このままでは、僕は……。
「『何に使ったって構いやしない――が、何かするときは、必ず俺を呼べ』」
――人を……。
「『幼かった、などと言う言葉は言い訳にはならない。奴は俺を、この俺を! コケにしたんだ! だからまず俺がこの手で、奴に恥辱を味あわせてやるんだ』……ってさァ! バッカだよなァ? テメェのちっぽけなプライドのために、アイツはお前の姉ちゃん売ったんだぜ!」
小太りの王室魔導士――ゲイリー・ペイン。彼のねっとりした声を真似るように口ずさむヨセフの口は、ニマニマと、ルカを煽るような笑みを形作っている――作って、いた。
ルカの下から、ミシミシと嫌な音が響いている。ヨセフの骨が軋む音だ。うめき声と骨の軋む音が、ルカを慰めるように響いている。
だが、それでも、ルカはまだ踏みとどまっている。
「――……じっ、けん、とは……」
「は、はははは……こんなに絞めつけといて、まだ聞くぅ? てかさ、答えると思うぅ?」
「さっさと答えろ!」
「さっさと殺せば?」
たまらず、ルカは口を横に裂いて自分を見上げるヨセフの胸ぐらを掴んで引き上げた。
ルカの唸り声に共鳴するように、伸びあがっていた大地の牙がヨセフの顔の横スレスレに噛みついて、沼地に穴をあける。
「……はやく、ハァっ……こたえ、ろ……!」
ルカは、グラグラとヨセフを揺する。
そうしてしばらく揺さぶって、それでも寄せた顔に嘲笑のみが浮かんでいることに苛立ったルカが、ヨセフを乱暴に突き放そうとした、その時だった。
ただただニヤニヤしていたヨセフの口元から、笑みが消える。
「――そろそろか」
「さっさと、質問に答――」
「さて問題。俺達みたいな末端は、こうして敵に捕まった時、どのようにせよ、と教育されているでしょーか?」
何を、と言おうとしたルカを遮って、ヨセフが今まで以上に昏くて悪意のこもった目を見せてから、ぐっと首を伸ばしてルカへと寄せる。
吐息のかかる距離、相手の心臓の音さえ捉えられそうな距離で――ルカは、規則正しい電子音を、確かに聞いた。目を見開くルカは、その電子音の意味を知らない。でも、何か危険な物だ、という事は本能で悟った。
そんな彼に、ヨセフが甘く囁く。
「俺の心臓にはなぁ、爆弾が埋め込まれてんだ。バクダン、わかるか?」
語尾をあげておきながら、ヨセフはルカの答えなど待つつもりは無いようだった。
「そんなの埋め込んでどうすんだ……って顔だな? あ? 違う? 違ったって知るかよそんなもん」
ヨセフの唸るように低くて甘ったるい声に、ルカのなけなしの理性がじわじわと危機を感じ始めている。が、動けない。頭と体の奥底に灯った怒りが、ルカをヨセフから逃がしてくれないのだ。
――ここで、聞きださなければ。実験とはなんだ。こいつらは、姉上に、何をするつもりなんだ。
――ここで、止めなければ。姉上を、守らなければ。
そう考えるルカの近くで、どんどん言葉が紡がれていく。その間も、電子音は、ピッ、ピッと小さく確かに響き続ける。
「この爆弾、起動方法は二つある。一つ目、俺の生命活動を終わらせる。その場でボカン! ――それから、二つ目。起動スイッチを押すこと。スイッチ、どこにあると思う? 俺の奥歯だよ。強ーく噛み締めて、数秒待つ。そうすると、俺の心臓は、俺は、時限爆弾に生まれ変わるわけだ。なぁー、俺、なぁんであんなにペラペラしゃべったと思うー?」
――まずい。でも、実験の事を聞きださなきゃ。その前に、この人を助けなくていいのか。敵だ。でも、命は救うべきだ。
常通りではないルカの乱れた思考では、答えを導きだせない。
そんなルカに、ヨセフはより一層顔を寄せ、甘く甘く吐き捨てる。
「標的を釣る餌が無くなっちまうけどさ、それでもバケモン一人くらい連れていかなきゃ、なぁ?」
電子音が消える。
ルカは咄嗟にヨセフを突き放す。
直後、ルカの肩に、水に塗れた手が乗って――。
炸裂音、同時に、爆炎。
それから、赤い雨。雨の鉄錆の生臭さが周囲に満ちる――が、それがルカの鼻に届くことはない。だって、今、ルカは誰かの肩口に顔を押し付けられるようにして抱きしめられているのだから。ルカの鼻が捉えるのは、暖かい太陽のような優しい香りだけ。
自分の前にいるのが誰なのか。それを理解すらしていない、いや、できないルカは、酷い耳鳴りの奥、早い心音だけを聞きながら、ヨセフが――自分が先ほどまでいた場所へと虚ろに目を向ける。
そこは、人ひとり分より少し広く沼地が抉れて、燃えていた。
ルカは、その光景を――火の赤を、己を抱きしめるびしょ濡れの誰かの肩越しに、ただただ静かにぼんやりと見つめていた。




