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32. 雷竜の長①

 リュヒュトヒェンを傷つけた。

 まだまだ幼いリュヒュトヒェンの、柔らかな心を。

 傷つけて、しまった。

 

 ルカの頭に巡るのは、今、目の前から消えうせるように常若の国(ティル・ナ・ノーグ)へと還ってしまったリュヒュトヒェンへの謝罪の言葉である。

 己の未熟さのせいで、油断のせいで、こうなった。それがルカにはよくわかっている。わかっているからこそ、今、彼は、息ができないほどの絶望に体を支配されているのだ。伸ばした手からも力が抜ける。べしゃり、とリングブレスレットを纏った右手が沼に沈む。ルカの光の失せた濃琥珀が見つめるのは、泥に半分沈んだ右手の甲、そこでうなだれるように暗く濁ったヘリオドールの姿だ。蜘蛛の巣が張るように走るヒビの中心に、銃弾が抉っていった痕が痛々しい。


 隣に誰かの体温を感じながら、ルカの体はどんどん冷えてくようだった。絶望が、ルカの体温をどんどん食っていく。それと同じくらいの速さで、ルカの心に黒い靄が入り込んでくる。

 誰かに縋ることができなければ、体に蝕み広がる絶望に溶け込んだこの黒い靄に心全てを支配されてしまう。心が軋んで、砕け散ってしまう。

 そんな瀬戸際でルカの鼓膜を揺らしたのは、ソプラノの声だった。


「……アルヴァさんっ!」


 耳元で、しかし、何重にも張られた水の膜の向こうから聞こえるように籠ったその声が模る名前に、ルカはゆっくり顔をあげる。


 ――あねうえ。


 いつでも穏やかな、焚き火のように暖かいその姿を探す。

 安心して背を預けられる大樹のような、その背を探す。

 姉上、と鉄の匂いのする口内で言葉なく呟いて、ルカは、ようやく、赤を見つけた。


 黒髪に追われている、赤を見つけた。見つけてしまった。


「カレンさん、ルカさんに()()()()()()()()()!」


 秋風の香りがルカの鼻を一瞬擽るがそれもすぐに血の匂いに変わってしまうから、ルカの意識はそちらに向かない。


 ――あねうえが、おわれてる。


 その事実が、ルカの心に滲みこんで黒い根を伸ばしていた靄に、火をつける。

 

 ――そもそもなんで、あねうえなんだ。


 心に引っかかっていた疑問が、燃え上がる。


 ――なんで。


 沼地が燃え上がる。昏い炎が、ぽつ、ぽつ、と沼地を赤で汚していく。

 背筋を虫が這いあがるような()()()()と、温い水に落ちていくような()()()

 それを原動力に、ルカは、沼を蹴って跳びあがる。春風の残滓を使って己の背中を押し、空を駆けて――剣戟を続ける赤と黒の間に割り込むように舞い降りた。最後の理性を束にして風をぶん投げ、着地の衝撃を散らす。そのひと吹きで、ルカの中から風が消えてしまった。リュヒュトヒェンの残り香が、消えてしまった。

 その事実すらも、ルカの中で燃える炎の薪に。湧き上がってコントロールできない怒りの、薪になった。


「――っルカ!」


 酷く遠くから聞こえる姉の声。

 

「邪魔してくれんなよ」


 目の前の王室魔導士――ヨセフの冷たい声が、切っ先と共にルカに向けられている。

 

「ヤれ、ポンコツ共」


 その声と共に、機械兵が飛んでくる。ルカに組み付いて、彼を泥へと押し付ける。ルカの名を呼ぶアルヴァの声が近くなるが、それを金属のぶつかる音が遮ってしまう。


「お前の相手は俺だろ? 浮気はダメって教えてもらわなかったのか? ええ、美形の竜騎士さんよぉ。俺はこれからなぁ、お前を叩きのめしてェ、お前の目の前で弟くんをブチ犯させてェ、切り刻んでェ……そんで、見るも無残にミンチになった弟くんをよぉ、お前にぶっかけてやるんだよ。『殺すな』の命はもらってるけど? 心をぶっ壊すなとは言われてないもんなァ? それくらいしたって、良いはずだ」


 己の体を押さえつける金属(てつ)を芯にする体が、聞こえてくる歪んだ声が、金属のぶつかり合う音が、舌打ちが――その全てが。


 ルカの心を、昏く照らすのだ。

 

 静かに握りこんだ泥から水気が抜けていく。ルカが押し付けられている泥濘が、恐れ戦くように震えている。

 憎悪を滲ませた声を吐き出していたヨセフも、異変を感知したらしい。彼が口を噤んだようで、ルカの鼓膜を揺らすのは大地の唸る音と、空で喉を鳴らしている雷の音だけになった。


 ルカは、体を持ち上げようとする。背中に感じる重さは、彼一人では到底持ち上げられないであろうものだ。


 でも、今のルカなら持ち上げられる。

 だって。

 この身に宿るのは、ルカ一人の力ではないのだから。


 沼から鋭い大地が伸びあがって、機械兵を押しのけるように穿って空へと手を伸ばす。もがいた機械兵を、怒りに塗れた炎が溶かしていく。

 それから――水の結界がアルヴァだけを包んで外界から切り離す。


「……どぉぉぉ言うつもりかなぁぁぁ?」


 水の結界の際に立つヨセフがルカを振り返る。


「なぁ、俺の言ったこと、聞こえてなかったかなぁ? ええ、おい。俺、邪魔すんなって言ったよな? あ? あー、もしかしてアレかなァ? ブチ犯されたい? 先にさ、オネエサマの前で? ごっめんなぁ、俺、そっちのケは無いんだわ。でも安心しろよ。この隊にさぁ、坊ちゃんみてぇに無駄にキレイな顔の男の子のこと、犯し殺しちまうくらい好きで仕方ない奴がいるからさ。ソイツに、体の形が変わるほど、抱いてもらえばいいんじゃない?」


 ヨセフが何かを言っているが、ルカの耳は意味を成す言葉として受け取ることはなかった。ルカの耳の奥、ごうごう流れる血流の唸りが、ヨセフの言葉をぐちゃぐちゃに噛み砕いているのだ。

 四つん這いで息を荒くするルカの方へと歩いてくる音と近付くケタケタ笑い。それをやっと聞き取って、ルカは拳の中の泥を――今や土に姿を変えている、泥だったものを一層強く握りしめ。

 そして、怒りに任せて拳を泥濘に叩きつけた。


 黙れ、とルカは叫んだつもりだった。しかし、彼の口から言葉が溢れることはない。彼の口から響くのは――。


「は、あは、あはははははっ」


 先程まで沼に響いていたのとそっくり同じ、笑い声だった。

 ルカは、瞳に怒りを燃やし、泣きながら、ひたすら楽しそうに笑っていた。


 その視線の先にいる目を見開いたヨセフの、『首』と名のつくおおよその部位に、沼から這い上がった泥がベロリと舌を伸ばして絡みつく。

 ルカは軋んで悲鳴を上げる心を抱え、怒りながら笑って、泣きながら楽しんで、泥濘に磔にされて芋虫のように見をよじるヨセフじいっと見下ろす。


 ――こいつらが、あねうえを。ああ愉しい愉しい。なんで。どうして。


「……ク、ソが。これだから嫌なんだ、この国は……」


 ――りゆうを。本当に頭に来る。あねうえをねらう、りゆうをききださなければ。


「――姉弟揃って……」


 ――おちついて、ききださなければ。ああこんなにも哀しい哀しい。


「この、バケモンどもが……!」


 瞬間、ルカは一抹残っていた理性を千切り捨て、怒りに己の身を任せた。

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