――うつしよの精霊王
細い木の棒を握りしめるカレンの目の前で、ルカが、ああ、と吐息を一つ溢して静かに目を閉じた。
何が起こったのか、カレンには分からない。けれど彼女は、何かが起こった、という事実は肌で感じ取ることができていた。
変わらず、風は空で唸っている。しかし、先程までとは空気が変わっているのだ。
静かだった。ルカの周りだけ、静かだった。
――空気が……ううん、何か、もっと違う……『何か』がルカの方に動いてる……?
先程まで苦しんでいたルカがただひたすらに静かに目を閉じて、ほんの少しだけ顎を上げ、空に顔を向けている。もっと近寄って彼の様子を確かめなければ、と思うのに、カレンの足は動かなかった。
だって、世界すらもが息を潜めて動かないのに、どうしてカレンが動けよう。
そう。世界は息を潜めている。
王の御前にあるように、息を潜めている。
戴冠を待つように目を閉じているルカの周りで、静かに静かに息を潜めている。
神聖性すら孕んだ空気を揺らす勇気などない――いや、そんなことをしようとも思えないカレンは、自分の背後にいる王室魔導師のことすら忘れて、吐息ひとつ零せずに立ち尽くす。
そんな状況を動かしたのは、ジョルジュだった。
「……妙な真似をしたら、少年、お前の体に穴が開くことになると警告しておくぞ」
警戒を多分に含んだ掠れ声が、止まった世界を動かすように言葉を紡ぐ。動けないカレンの後ろで、地を踏みしめ近付く足音が聞こえてくる。
「……確保しろ」
その一言で、機械兵が動いたようだった。カレンの頭上を簡単に飛び越えた機械兵が、未だに目を閉じ跪き、空を仰いでいるルカの背後に降り立つ。
そして、その手がルカの腕を掴み――その刹那。
風、が。
機械兵の腕を弾き飛ばした。
「――なん……っ!」
ジョルジュの言葉は続かなかった。彼の言葉を警告音が遮って秒と経たずに、肩から先が弾けとんだ機械兵が左腕だけで彼を抱えて飛び退ったからだ。
カレンは、巻き起こる風に髪を押さえるのも忘れ、ルカを見ていた。この風の中心、空まで届いて雲を払った嵐の中心で、静かに目を閉じるルカから、目が離せなかった。
「現在装備中のナノボットでは対応不可能なレベルまでイーサー粒子濃度が上昇いたしました。退避命令を」
無機質な声が警告音に差し込まれる。
その音に、呼び覚まされた様に――ルカが、静かに目を開けた。
途端、世界は動き始めた。
勇ましい炎が、ルカの足元に傅いている。
輝く水球がルカの周囲で舞い遊んでいる。
歓喜する大地がルカを湛えて歌っている。
柔らかな風がルカの前髪を揺らしている。
天から零れる陽光がルカを祝福している。
自然全てが――王の誕生を待つ民のように。
彼に、祝福を。
それは、なんとも――現実離れした、美しい光景で。
ゆっくりと立ち上がるルカを目で追う事しかできないカレンは、ルカの瞳に、濃琥珀のその瞳に――赤、青、緑、黄の光が。四色の光が、灯っているのを見た。
ルカが歩き出す。一歩ごとに、周囲を舞う水球が、彼の白衣についた汚れを恭しく丁寧に落としていく。一歩ごとに、炎が祝砲をあげながら、彼の足元を照らす。彼のその足が、泥に沈むことはない。そうして、彼はカレンの前を過ぎていく。春の風の香りを残して、過ぎていく。
彼の向かう先にいるのは、機械兵に抱えられたジョルジュと、汎用機、と呼ばれた機械兵たちの生き残りだけ。ルカの方を呆然と見つめるカレンの視界に、ジョルジュが慌て切った顔で怒鳴り散らすように、汎用機械兵に命令を送っているのが映る。
その命に従った汎用機械兵が、ルカに飛び掛かる。四方八方から飛び掛かる。銃の鳴く乾いた音すら沼地に響く。
が、その全てを、ルカは軽く手を振るだけで――羽虫を払うように小さく手を振るだけで、退けて見せた。
まず弾けたのは風だった。
ルカを中心に、風が唸って機械兵を切り刻む。
それに耐えた機械兵が突っ込んでくるのを、炎が喰らう。大地が穿つ。水が圧しつぶす。
カレンは、今にも腰が砕けそうだった。
眼前に広がる蹂躙に、その流麗な蹂躙に、見惚れて惚けて、地面に尻をつきそうだった。
指揮者のように指を振るルカに合わせて、自然が動く。動いて、機械を食らっていく。
その光景を前に、ジョルジュは退却を決めたようだった。そこからは早かった。最早一機しか残っていない機械兵に指示を出し、ジョルジュが機械兵と共に飛び去っていく。空に赤を一筋残しながら、彼方――恐らく、聖都イグナールの方へと、姿を小さくしていく。
逃げられてしまう、という声と、お前が追ったところで、という声がカレンの頭の中に響く。
――わたし、どうすれば……。
縋るように握っていた木の枝が軋む。その音にハッとした彼女は、ここで立ち尽くすよりは、と震える足を踏み出して、ルカの背中を追いかけた。
一歩一歩確かめるように歩いていたルカは、どうやらジョルジュたちをどうにかしようと思っているわけではないようだった。
ルカは去り行く王室魔導士を一瞥はしたが――それを追うでもなく、何かを探すように空へと視線を向けていた。
やっとルカの隣へと追いついたカレンは、周囲を舞う、自分を傷つけることのない火や水を目で追ってからルカへと目を向けて、『何を探しているのですか』と言おうと開いた口で、息を飲んだ。
四色の光を濃琥珀に泳がせながら空に目を這わせるルカの頬は、紙のように真っ白だった。
今にも倒れそうな顔色だ。その白の上に乗る瞳だけが、嫌にきらきらと――彼の命の輝きを凝縮させて、それを薪にした篝火が燃えるように、きらきらと輝いている。
――これは、きっと、ダメだ。
これはいけない、とカレンでもわかる。このままではルカは、と思った彼女は、ルカを止めようと手を伸ばす――が、沼地で最初に別れた時にそうされたのと同じように、ルカの人差し指がカレンの口を塞いでしまう。触れた指の冷たさに、カレンは泣きそうになりながら無理やり口を開く。と、彼女の声が空気を揺らすより先に、ルカの視線が空の一点で定まった。
「――……見つけた」
ルカの掠れた小さな声が、カレンの言葉の行き先を奪う。ならせめて体で彼を引き止めなければ、とカレンはルカの腕を――いつ倒れてもおかしくない顔色のルカの腕を捕まえようと手を動かして、そしてその手は空をかいた。
ルカは、風を引き連れ飛び立った。春風が、カレンの髪を、マントを撫でていく。届かないことがわかっていて、しかし、カレンははためく白衣に手を伸ばさずにはいられなかった。
「――……ル、カっ!」
叫んだところで、カレンの声は、今や耳鳴りがするほどに響き渡っている風の狂笑に消されてしまう。カレンはもはや魂を奪われた様に立ち尽くしてルカの姿を追う事しかできなかった。
カレンの頭上で、ルカが風を纏って飛んでいる。見えない何かを追い立てるように飛んでいる。空気の流れを変えて、何かの鼻づらに炎を炸裂させて、その何かの形を暴くように水を纏わりつかせて――と、それをたった一人でこなしながら、ルカは腕を振るっている。
水を纏った風が――巨大な怪鳥のような影が、空に浮かんでいる。煩わしそうな叫び声が沼地に響き、空に浮かんだその影は、水を引き剥がそうと体を捻り、震わせ、飛び回ろうとし――それを、ルカが許さない。彼の手の先から伸びる水の鎖が、精神を引っ掻くような金切り声を発しながら暴走する巨大な怪鳥の動きを戒めているのだ。
ルカが大きく腕を振り上げる。炎に照らされた彼は、蒼白なその顔を、鼻から滴る赤で汚していた。
カレンは、震える手でマントを握り締める。そんな彼女の目線の先ででルカは腕を思いっきり振り落とそうとしていて――そこにカレンは、一瞬の躊躇を見た。
その躊躇が、命とり。
怪鳥はその一瞬を素早く突いて、ルカを引きずり回すように空を往く。捻り、回り、乱高下を繰り返し、ルカを振り回しながら、楽しさに塗れた声を響かせる。
カレンは、泣きそうになりながらルカたちを追いかける。
彼女は泥に足を取られかけながら、必死で走った。喉の奥に滲む鉄の匂いを感じながら、それでも必死に走った。
走って走って、躓いて。泥に突っ込みそうになったカレンの体を――秋の香りが包んで、支えてくれた。
目を見開くカレンの隣に、風が吹き下ろす。ついで、柔らかくて優しい手が、カレンを守るように彼女の肩に添えられる。
森の香りに、溜め込んだ緊張と不安とを流すように、カレンの目から涙が零れた。
「――フィオナさん……!」
涙に塗れた声で、喉を引きつらせながら名を呼ぶと、秋の風を纏うフィオナは、カレンを安心させるように微笑んでくれた。
「ご無事でよかったです、カレンさん」
「ルカが、ルカが……!」
「大丈夫、わかっていますよ。リュヒュトヒェン様が暴走したのですね」
状況を説明する言葉を紡ぐこともできないで、カレンはこくこく何度も頷いた。そんな彼女の頭の上で、溜め息のように細長く秋の風が吹く。
『――あぁン、困ったものねぇン。この魔力量で暴走でしょお? 止めるの、たぁいへんよぉン』
そして降ってくる、低い声。聞き覚えの全くない、低い声。
誰の声? としゃくりあげながら空を、フィオナの向こうを見たカレンは、ひぐ、と喉を引きつらせて固まった。そんな彼女を置いて、話は進む。
「そうですね……。しかも、今、季節は春です。リュヒュトヒェン様は春風を司っていらっしゃいますから……」
『あンらぁ! この大笑いの主、リュヒュトヒェンちゃんなのお? それはまた、厄介な話ねぇン』
「止めるのを手伝っていただけますか、ソージュ様」
ソージュ、と呼ばれた半透明の大男は、快活に笑って『もちろんよぉン!』と答えている。
均整の取れた美しい体は筋肉を薄っすら纏っていて、その体をノースリーブでハイネックなボンテージ・スーツがぴったりと覆い隠している。
と、逆立った短髪をかき上げる男の目が、カレンを捕らえ、にっこりと三日月型に細くなる。
『小さなお嬢さん、初めましてぇン。アタシの名前は、ソージュ。南風様の子、金風の主よぉン。フィオナちゃんの一大事に、南風を引き連れ参上しましたわン』
よろしくね、と金風の主が笑っている。その声に、カレンはやっと「よろしくお願いします」を返して、己の腹を支えてくれていた彼の見えない手から降りた。そして、青をフィオナに向ける。
フィオナは赤味がかったブラウンを優しく細めてカレンを見つめて「大丈夫」と言うようにゆっくり頷いて、それから引き締まった顔でソージュを見上げた。
「では、ソージュ様」
『はいはぁい』
ソージュが指をくるくる回す。と、風がくるくる踊りだす。そのままフィオナを囲むように飛び回る。マントとスカートが柔らかく持ち上がってはためいている。
カレンはその様子を見ながらキュロットスカートを握り締め、一瞬俯いてから、顔をあげた。丁度、フィオナがふわりと風を掴んで空に浮いたのが目に入る。カレンは、真剣な顔で上を――徐々に小さくなりゆくルカの姿を見つめているフィオナの手を、両手で掴んだ。
「わ、わたしもっ! 連れていってください!」
――わたしだって、騎士を志しているのに。騎士は、人を守る職業なのに。
「手伝わせてください!」
――わたしだって騎士になるのだから。
今はまだ、『騎士なのだから』がカレンの動力源。
でも、今は、それで十分だった。
驚いたように目を見開いていたフィオナが、こくりと一つ頷いて、カレンを空へと引っ張り上げて、そして二人は風になってルカを追いかけた。
ゴロゴロと雷鳴山が唸る声と風切り音と笑い声とが混ざり合って、酷い耳鳴りをカレンへと運んでいた。気持ちが悪くなるほどの耳鳴りの奥で、フィオナの声が聞こえてくる。
「ソージュ様! 彼らの行く先につむじ風を!」
『オッケーよぉン!』
その声に、カレンはきつく閉じていた目を薄っすら開いた。
ルカと彼を引き回す怪鳥はどんどん近づいている。どうするんだろう、とフィオナを見れば、彼女は左手を軽く振るった。それを合図に、カレンたちの上を飛んでいるソージュが大きく腕を広げ、羽ばたくように腕を動かす。すると、間髪入れずに、暴れ舞わるリュヒュトヒェンの鼻先で、風の渦が弾けた。
驚き叫んだリュヒュトヒェンが、沼地へと落ちていく。ルカを道連れに落ちていく。
悲鳴をあげそうになったカレンだが、ルカの顔が一瞬こちらを向いたのを見て、無意識に声を飲み込んだ。
フィオナが、ルカたちを追って高度を下げる。自然に、カレンも地面に近付く。無様に転びそうになったところを、上手に着地したフィオナが支えてくれる。礼を言おうと顔をあげるが、フィオナはすでに駆け出したあと。カレンも、慌てて後を追う。
金属を擦り合わせているかのような叫び声が沼に満ちていて、ただでさえ大きなそれは、カレンがルカに近付くごとに大きくなって彼女を苛む。カレンは耳を塞ぎながら、フィオナを追う。
やがて、フィオナが足を止めた。寄った眉の下でブラウンが見つめるのは、泥をまき散らしながら暴れるリュヒュトヒェンと――それと対峙している、ルカである。
と、リュヒュトヒェンが飛び立とうとのたうって、沼地を強風が這っていく。吹き飛ばされそうになりながら、カレンはなんとか踏ん張ってルカを見る。
ルカは、今度こそ躊躇に打ち勝ったようだった。リュヒュトヒェンが浮き上がって、水の鎖がピンと張った瞬間、彼はこちらに聞こえるほどの声で唸って、リュヒュトヒェンを泥濘へと叩きつけた。
「――ソージュ様! 今です! 彼の援護を!」
半透明の金風の主が、膨らむように息を吸う。そして、まるでコマでも回すように腕を動かした。
生まれた風は、暴れるリュヒュトヒェンを遥か上空から押さえつけて離さない。
「ルカさん!」
水の鎖が輝き消えて、ルカへと戻っていく。
目に美しい四色の光を孕んで輝かせるルカが、咆哮をあげながら沼に手を振り下ろす。
刹那。
乾いた大地がせりあがり、リュヒュトヒェンを包み込む。
間を置かず、業火の渦が堅牢な土塊の檻を飲み込み唸る。
そして、とどめとばかりに、激流のベールが全てを覆う。
一瞬の静寂の後、絶叫が響き渡った。
土塊の檻から出られずに。
業火の渦に空気を食われ。
激流のベールが、新たな空気を遮断する。
苦痛に喘ぐ鳴き声が、幼子の泣き声に変わる。
瞬間、リュヒュトヒェンを覆っていた全てが消えうせる。
ひっ、ひっ、と泣くリュヒュトヒェンに一番に駆け寄ったのは、ルカだった。その姿を一番に追ったのは、カレンだった。
ルカに追いつくのは簡単だった。彼は確かに駆けていたが、それは、見方を変えれば、リュヒュトヒェンに転ぶ姿を見せまいと、傾ぐたびに足を踏み出していただけだ。そんな彼の背にカレンが手を伸ばすよりも、ルカがリュヒュトヒェンの前に膝をつくのが先だった。
「リュヒュトヒェン……」
「あ、あ……! ワ、ワタシ……?」
「体に、違和感は、ない?」
掠れた声で途切れ途切れに尋ねるルカへと、リュヒュトヒェンの橙色の瞳が向けられる。その目が絶望に見開かれる。
「ル、ルカ……」
背後から見えるルカの頬は、真っ白。その白を汚す赤は、恐らく彼の鼻血。
ルカの体が揺れている。今にも倒れそうに揺れている。カレンは慌てて駆け寄って隣に膝をつき、彼を支えた。
ルカの体は、まるで体中の血を抜いたように冷たかった。カレンは血の気が引く思いがした。
ルカは、カレンが触れたことにすら気が付いていないようだった。フラフラと手が伸びてリュヒュトヒェンを撫でようとして空を掻く。
「ルカ、ルカ……ご、ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい……!」
「大丈夫、だいじょうぶだよ、リュヒュトヒェン……君は何も悪くない、悪いのは、ぼくの、みじゅくさ、だから」
ルカの、死人のように冷え切っているであろう指が、ようやくリュヒュトヒェンの頬を撫でる。その瞬間、リュヒュトヒェンがルカの手を振り払って空へと飛びあがる。
ガタガタ震えながら、涙を溢しながら、彼女の手は口を覆っている。そこから漏れ聞こえるのは、謝罪の言葉。
「ごめんなさい、ごめんなさい、るか、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
身を裂くような叫び声を残し、リュヒュトヒェンの姿が消えうせる。
それを引き止めるように手を伸ばしていたルカが、力なくうなだれる。
漂っていた暗い空気を搔き消したのは、近くで響いた銃声と、金属が金属を叩き切る音だ。
びくっと体を硬くしたカレンは、周囲に炎の香りが満ちていることに気が付いた。
先ほどまで、リュヒュトヒェンの声が響いていたから気が付かなかったが――。
――もしかして、わたしたち、アルヴァさんたちの近くにいる……?
カレンは、ルカを支えたまま周囲を見回し、そう遠くない場所に、赤い髪と――それを追い立てるように動く黒い髪を見つけた。
「……アルヴァさんっ!」
思わず叫んでしまったカレンの横で、ルカがゆるゆると顔をあげる。彼は、自分の姉を探しているようだった。ゆっくりと濃琥珀が沼地と空の境を、背の高い草の隙間を見つめている。
と、フィオナが弾けるように叫んだ。
「カレンさん、ルカさんに見せてはいけません!」
「えっ!?」
何を、と考えてしまったカレンは、咄嗟にルカの目を塞ぐことができなかった。
だから、ルカの目は、自分の姉を追い立てる黒髪を見つけてしまって――。
沼地に火が点いたのと、ルカの濃琥珀に暗い光が灯るのは、ほとんど同時だった。




