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31. ――空が割れる

 ルカへと伸ばした手を引っ込められずにいたカレンを現実に引き戻したのは、水精霊(ウンディーネ)の歪な声だった。


「行くわよ」


 凪いだ声が内側にどれだけの感情を隠しているのか、フォンテーヌとの付き合いが長くないカレンにはわからない。でも、きっと平常では無いだろうことは彼女でもわかる。

 フォンテーヌは茶色の瞳でカレンを見上げている。カレンは恐怖と緊張に震える足を叱咤して頷いた。


 カレンは走る。先行するフォンテーヌと、彼女の中のアルデジアが道をマシにしてくれるから、泥に足をとられることもない。

 

「ルカが言ってたとおり、沼地と草地の境に気持ち悪いのが漂ってるみたいね」

「ま、まだ距離があるのに……わかるんですか……!?」


 カレンが息を切らして言うと、フォンテーヌはちらりと振り返り、大きく頷いた。


「ルカに言われてなきゃ気のせいとして放っておくくらい、小さい違和感よ。それが、向こうの方から漂ってるの」

「じゃ、じゃあ、どうやってこの沼から出れば……」

「……雪山の方を回るといい」

「あらアルデジア、もう大丈夫なの?」

「ああ。フォンテーヌが抑えてくれるおかげで、おれは随分楽になった。まだ君の中からは出られそうにないが、喋るくらいはできる。それで、さっきの話だが」


 カレンは必死で走りながら、フォンテーヌの背中のあたりから聞こえてくるアルデジアの声に耳を傾ける。


「おれ、さっきからずっと土の中を探ってたんだ。土の続く限り、あの『気持ち悪いの』に当たるまで感覚を伸ばしてみた。そうしたら、ちょうど土が冷たくなるあたりには、『気持ち悪いの』はなかった」

「ああ……あそこは氷神竜様のお膝元だものね。下手なことする前に氷漬けになるもの、きっとあそこには『気持ち悪いの』を用意できなかったんだわ。カレン、そこまで走れるかしら?」


 カレンは、随分向こうにそびえる雪山の微かに見える頭を見つめ、それからフォンテーヌを見た。

 足場は悪い。顔から体から、汗にまみれている。まだ騎士として出来上がっていない体では、息すらも、もう既にきれぎれで。


 でも、と。脳裏をよぎるのは、先ほど自分の前で微笑んで風を引き連れ走っていった彼の姿で。


 ――わたしだって……!


「……走れ、ます!」


 本当なら、私だって戦うべきだ。カレンにはそれがわかっている。

 でも、それができるほど強くないことだって、カレンはわかっているのだ。

 だから、自分の出来ること(応援を呼びに)――。


「うげえ、なんでこんな沼地でやりあわなきゃいけねぇんだよ……」


 カレンは聞こえてきた男の声に、びくりと身を硬くして足を止めた。止めてしまった。

 必死で駆けることで誤魔化していた恐怖が、カレンの心臓を忙しなく動かしている。


「上ふたりは、地形適応特殊ブーツだろ? 俺もアレを支給してほしかったなー」

「ていうか、全部隊員を招集する必要あったか? たかが五人相手に」

「バカやろ、その五人に『DEM(ディーイーエム)試作小型機』をぶっ壊されたんだぞ」

「あー、だから部隊長は焦ってるわけだ。中将になんて報告すりゃいいかわからない状況だもんなぁ」


 前方、背の高い草の向こう側。男三人組の声。

 カレンは小動物のように細く速く息をしながら、どうすれば、と考えていた。でも、考えたところで何も思い浮かばない。だって、カレンは、まともに戦ったことも窮地に陥ったこともないのだ。模擬戦だってまだだ。剣を振るのもまともにできないし――そもそも、彼女は今は剣を佩いていない。


 もう駄目だ。

 そうやって諦めそうになったカレンを、褐色の濁流が飲み込んだ。


 何が起きたのか、最初、カレンには理解ができなかった。

 自分の足が地から浮いたこと、持ち上げられて視線が高くなったこと、その視線を茶色の波が遮ったこと。まずわかったのはそれだけ。それにワンテンポ遅れて自分が泥に包まれているらしいことに気が付いて、それで彼女はようやくパニックを起こしかける。

 慌てて叫ぼうと口を開いて――それを、生温い泥が阻んだ。


「……っ! う、ぶ……!」


 空気を求めて手足をばたつかせて暴れるカレンの背中を、なだめるように泥が撫でる。と同時に、カレンは声を聞いた。


『静かに』


 くぐもった男の声がカレンの鼓膜を揺らす。その声が地精霊(ノーム)のものだったから、カレンはほんの少しだけ落ち着きを取り戻せた。

 なんで、と問おうとして、自分が呼吸出来ていることに気が付く。その事実にもう少しだけ平静に近付いて、カレンは柔らかく暖かい泥の(はら)で漂いながら、周囲を見回した。薄っすらと、本当に薄っすらと、褐色の向こうに、男の影が三つ見える。それを視認できていることによって、カレンは自分を包む泥水が、自分に害をなしていないことに気が付いた。これだけ染まった泥水の中で、カレンの目は痛み一つ感じていない。

 

 ――フォンテーヌさんと、アルデジアさんだ……。


 完全に落ち着きを取り戻したカレンの耳に響くのは、歪なフォンテーヌの声だ。


『あらぁ……コンニチハ』


 舌なめずりするような声音に男たちの影がたじろぐように動くのが見える。


『……なんだこいつ。敵性生物か? これ、俺ら食われるんじゃねぇ?』


 せせら笑うような声音は余裕の証なのだろう。男たちの佇まいからもそれが見て取れる。

 そんな彼らの横っ面を殴るように、フォンテーヌが笑い声をあげた。彼女の胎の中に取り込まれているカレンは、その声に骨の奥まで揺らされたような気分になった。

 ひとしきり笑ったフォンテーヌは、溜め息のように息を溢し、ぐぐ、と男たちに顔を寄せたようだった。


『やだわ、人を大喰らいみたいに。ご飯なら――もう済ませたわよぉ』


 男たちはフォンテーヌがここまで流暢に喋ると思っていなかったらしい、一瞬ぎくりとしたようだった。カレンを包む褐色が動く。腰から下を包んでいた色がゆらりと揺れて登ってきて、カレンの足が顕になる。それを見た影が三つ、緊張したように腰に手を持っていく。

 カレンの耳元で、アルデジアが『動かないように』と囁く。カレンはコクコク頷きそうになるのを必死に抑え、なるべく体から力を抜いて泥水に漂った。

 力の抜けた彼女の足を、フォンテーヌが上手い具合にユラユラ揺らす。

 まじかよ、とか、なんなんだこいつ、とか言う声を聞きながら、カレンはふと、呼ばれるように上に目線をやった。


 フォンテーヌとアルデジアが形作る大きな泥の女性の頭の、その向こう。一瞬泥が晴れて、そして見えるのは、今までうねっていた黒雲が、ピタリと動きを止めて包んでいる空。

 その空が――ぱっくりと、アケビのように割れていて。

 見える青空と、隙間から漏れ出る光がなんとも神々しくて。


 カレンが状況も忘れて感嘆の息を飲んだ、その瞬間、遠くで炎の渦が巻きあがる。

 それとほぼ同時に――カレンを包むフォンテーヌとアルデジアが、声にならない悲鳴を上げた。 

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