泥沼③
カレンに見上げられている。それを感じながら、ルカは小物入れをそっと開いた。
遠くで炎が唸っている。急がなければ、と思いながら、ルカの手は静かに丁寧に、その宝石を取り出した。
氷のように透明な、小さな宝石。三つの水晶。ビーズのように穴の開いた水晶だ。
それから――ヘリオドール。
「そ、それって……」
カレンの震えた声に、ルカは彼女にチラリと目をやって、「そう」と呟く。
「リュヒュトヒェンを喚びます」
「それじゃあ、その……地精霊さんは……」
「アルデジアにも、留まってもらいます」
カレンは青い顔のまま、ルカが何をしようとしているのかを、必死に考えているようだった。
「そ、れは……つまり、どういうことで……」
カレンの言葉を聞きながら、ルカはリングブレスレットからブロンザイトを外す。アルデジアが苦い顔をするのを横目に見て、ルカは台座にヘリオドールを納め、手首で留まっているリングブレスレットの結び目を解いた。そこに水晶を通そうとして、ルカはやっと、自分の手が細かく震えていることに気が付いた。
遠く響く炎の唸り声と、ずっと向こうで響く銃声と、それから、自分がこれから行おうとしている事への、緊張。
――僕が、何とかしなければ。
ルカはグッと水晶ごと手を握り締め、強く息を吐く。――と、彼のその手に柔らかい手が触れた。ルカの手よりももっと震えるその細い指は、ルカの握りこぶしの隙間を撫でて、何とか開かせようとしているらしい。
「わ、わたしが……やります、片手で通すよりは、いいと思うから……」
「――ありがとうございます」
ルカは一瞬躊躇して、それからゆっくり拳を開く。赤くなった手のひらの上、転がっている三つの水晶をカレンの指が拾い上げる。
「これを、どこに通せば……」
「ここ、留め紐の所に……そうです。……ありがとう」
カレンの震える指が、きっちりと紐を結ぶ。ルカの手首を見つめていた彼女の青い瞳が、ついっと上がってルカを見る。涙のはった大きな瞳は、不安の色しか載せていない。
それを見たら、ルカはなんだか吹っ切れた気がした。
――僕が守らなければ。
「大丈夫。カレン、大丈夫です」
濃琥珀を細めて。口元には、薄く笑みを乗せて。それはまるで――彼の姉がするような。
「ルカ……」
カレンの手が、ルカを引き留めようと伸びる。それに背を向けて、ルカは静かに目を閉じて――彼らの名を呼んだ。
――喚んでから時間が経ってないから、全員名前だけで喚べる。
だから、その名に――ルカが彼らに与えた名に、全てを乗せて彼らを呼ぶ。
「フォンテーヌ」
ルカの足元、泥水が清水に変わり、そこから水精霊が浮かび上がってくる。そして、水晶の一番上に青の光が灯る。
「エクリクシス」
ルカの周囲に火が遊び、火精霊を形作る。そして、水晶の二番目に赤の光が灯る。
「アルデジア」
ルカの足元で諦めたようにうなだれていた地精霊の体がほんのり輝き、それと同じ緑の光が水晶に灯る。
ルカは、流れ込んでくる魔力を束ねてものにしながら、自分に集まる視線を……無茶を咎める悲しそうな青い目を、無茶に憤る怒った赤の目を無視して、スッと息を吸いこんだ。
つぶさにそれを感じ取った精霊たちが――主に、年長のフォンテーヌとエクリクシスが――ルカへの負担を少しでも下げようと、魔力を繰っているのがルカにはわかる。そうしてアシストしてもらって、やっとできた隙間に捻じ込むように、ルカは、その名を噛み締めるように囁いた。
「――リュヒュトヒェン……!」
疾風。旋風。大嵐。風が、ルカを中心に喜び叫んでいる。流れ込む魔力が、ヘリオドールを熱く滾らせる。
「ルカ! また喚んでくれたね! わー! しかもみんないる! ねえ、ねえ、どうしたのっ!? みんなで遊ぶのっ!?」
ハイテンションの幼い声が、ルカの頭の上に止まる。ルカは可愛らしい風精霊をそっと抱いて目の前に降ろし、そして真剣な顔をした。
「リュヒュトヒェン。今、すごく大変なことになってるんだ」
「そうなんだ! じゃあ、ワタシは何すればいいのっ?」
「――君は、僕と一緒に。フィオナさんを探そうと思うんだ」
ルカは頭痛を押し隠し、エクリクシスを見る。エクリクシスは、怒っている。しかし、それすら気にせずに、ルカはエクリクシスに指示を出す。
「エクリクシス、君は、姉上とケネスの所に。多分、一緒に戦っているはず。二人の剣に、属性付与を」
「……ルカ」
「さあ、行って」
有無を言わさぬ声だった。それは命令とも言えるお願いだったのに、エクリクシスは唇を噛み締めてから、素直に飛び立った。炎の渦が火竜に似た姿に変化するのを横目に、ルカは今度はフォンテーヌとアルデジアの方を見た。リュヒュトヒェンの次に年若い彼は、今の状態に随分とやられてしまっていた。そんな彼を、フォンテーヌが支えている。
「フォンテーヌ、君には、アルデジアと――それから、カレンを任せます」
「簡単に言ってくれるわね」
「だって、君ならできるから。君なら、断らずにやってくれるから」
「……断れるわけないじゃないの……!」
泣きそうなフォンテーヌは、しかし、気丈に顔をあげて、アルデジアを抱きしめた。フォンテーヌの青の中に、アルデジアが沈んでいく。それと比例するように、フォンテーヌの青の髪が、白い肌が、濃紺の瞳が、茶色に染まっていく。丁度、泉に泥を投げた時のように。
「アルデジアはこれで大丈夫よ」
フォンテーヌの声が歪んでいる。だがそれは、彼女の体内に見事にアルデジアを匿えたことを示したいて――これで、アルデジアが暴走する可能性は大きく減った。ルカは茶色に染まったフォンテーヌの頬を撫でて、それから、やっとカレンを見た。
カレンは、何が何だかわからないという顔で、ルカを見つめている。
「カレン。君は、フォンテーヌの側にいてください。いいですね?」
「ま、待って……ルカ、あなた……これ、大丈夫なんですか」
顔が真っ青で、と言いかけた彼女の口に人差し指を当てて、ルカは笑う。アルヴァのように笑う。彼の瞳には、煌く星が輝いていた。
「口に出さなきゃ、何とかなるもんです」
カレンが息を止めてルカを見ている。彼女の青い目をじっと見つめながら、ルカは再び口を開いた。
「フォンテーヌの側に。できますね」
「……っあ、で、でも……」
「できますね?」
冷静な、普段通りな――しかし、普段の声音とはまた違う声で、顔で、ルカが言う。そうすると、カレンはそうする他ない、というような顔で、泣きそうなまま頷いた。
「フォンテーヌ、出来たら、この沼地から出て応援を呼んで。君はレベッカさんにあったことあるよね?」
「わかったわ」
「ああでも、沼地と草原の間、あそこはダメだ。気持ち悪い何かが……多分、精霊避けってやつだと思うけど、それが張られてるから。……気を付けて」
「あなたこそ、ルカ。本当に、本当に……無茶だけは、ダメよ?」
わかってる、と笑うルカにせがむように、リュヒュトヒェンが風を巻き起こす。
「じゃあ、フォンテーヌ、アルデジア……カレン。気を付けて」
ルカはそれだけ言うと、彼らに背中を向けて駆け出した。




