30. 泥沼①
ジェーニャとニックスたちと、それから結界に阻まれて平べったくなった氷神竜に見送られたルカたちは、歩きにくい沼地をえっちらおっちら歩く。どうにもこうにも、泥が足を掴んでくる。眉間に皺を寄せるルカに、エクリクシスが声をかけた。
「ルカ、交代だ、交代」
「え? 交代?」
答えたのはルカの隣を歩いていたカレンだ。途中で転んだ彼女は泥まみれで、ほんのり生臭さを纏っている。
「そ、交代だ。こういうところを行くなら、適任がいるだろ? それに、俺もさ、魔力の大部分持ってかれたし……いったん、常若の国に帰って蓄えたいってのもあるし」
それもそうだな、とルカはバッグを漁って小物入れを出して、そこから茶色の宝石を取り出した。それを見届けたエクリクシスがふわりと飛び上がる。じゃあ俺は戻る、と手を振りながら火精霊は曇り空に掻き消える。それを見送ったルカはリングブレスレットの宝石を付け替えた。
今、彼の手の甲に輝くのは大地の茶色を切り取ったブロンザイトだ。アルヴァに声をかけて止まってもらってから、ルカはしゃがみこんだ。
――本当は、もっとしっかりした大地が良いんだけど。
そう思いながら泥の中に躊躇なく左手を突っ込む。その上に右手を翳して集中すると、ブロンザイトが煌き始めた。柔らかい光とともに、泥が暖かくなってくる。それに合わせて、ルカはゆっくり手をあげていく。
ルカが静かに息を吸いこむ横で、カレンが目を輝かせている。が、集中しているルカは気付かない。
盛り上がった泥に、ルカは静かに、地精霊の名を呼ぶ。
「アルデジア、来てくれる?」
ルカの声とともに、泥が流れるように沼地に戻っていく。
その後に残ったのは小さな人影。
ごついブーツと、丈夫そうな緑の上着。手にはツルハシ。
口元を覆い隠すマフラーは、使い込まれて灰色だ。
ざんばらの茶色の髪の上、飛び散る石の破片から目を守るためのゴーグルが乗っている。
そして、ルカを見上げる大地の色の瞳は、緑の瞳孔を真ん中に、静かに瞬いている。
「……泥だらけだ。ここ」
「ごめんね、アルデジア。ちゃんとした土の上で喚びたかったんだけど……」
ルカは、人影に手を差し伸べる。そこに小さな足が乗る。
「いや、いい。おれは、お前が喚んでくれたことが嬉しい」
地精霊――アルデジアは、マフラーを引きあげながら、目元でニッコリ微笑んでいる。ルカは彼を肩に乗せ顔をあげ、そしてそこで初めて、カレンがキラッキラした目で自分を見ていることに気が付いた。
「おお……こちらのお嬢さんは、ルカの恋人か?」
アルデジアは、自分の足にツルハシを乗せ、小首を傾げながら、髭のように顔を覆うマフラーを撫でる。彼の問を秒で否定して、ルカは姉とケネスを追い抜いて、先頭を歩き出した。
「彼女じゃないのか」
「違うって」
君もフォンテーヌもまったく、と首を振るルカの足元は、もう泥から姿を変えていた。
しっかりと踏みしめることのできる、乾いた地面だ。ルカの歩いた後には、乾いた大地の道ができている。自然を動かしてそうしてくれているのは、他でもない、ルカの肩の上に腰かける地精霊だ。
ルカはそのままずっと先頭を歩き、遠くで唸りをあげている雷鳴山を目指して歩を進めた。
――のだけれど。
「何度も言わせるな。人間を山に入れるつもりはない」
響き渡る轟雷は、山の中腹から上を覆う黒雲から漏れ出ている。その光の下、へたり込んで涙を浮かべるカレンは、顔すら上げられずにガタガタ震えていた。
その横。ルカは姉の隣に立って耳を塞ぎ、灰色の若い竜のその大声を何とか遮断しようとしていた。ちらりと見れば、姉を挟んだ向こう側でも、ケネスが耳を塞いでいる。
「さっさと踵を返せ」
ごう! と突風のような大声だが、恐らく本人には大声を出しているという自覚はない。あくまで淡々と、目の前の灰色の――雷竜は、ルカたちを睥睨している。雷竜の口が完全に閉じたので、ルカはこの隙に、とカレンを引き起こす。
「ふぃゅ……」
「ちゃんと立ってください、ほら」
変な鳴き声を出すカレンを支えていたら、イグニアが横から小さな手を伸ばして手伝ってくれる。そんなやり取りをしているルカの横、アルヴァが口を開く。
「そうはいきません。約束があります」
「約束?」
「はい。雷神竜レビン様と――」
「レビン様だと!」
はん、と鼻を鳴らした雷竜が、アルヴァにぐっと顔を寄せる。が、ルカが見た感じ、怒っているだとか気分を害されただとか、そういう様子はない。
「大胆な嘘を吐くものだな」
「嘘など」
「レビン様との約束などと! 片腹痛い。レビン様は今、ここには――」
黒雲から紫電が走る。それは、喋っていた雷竜の頭に落ちた。見れば、黒い雲の中、色濃い竜の影が泳いでいる。
「――……そう言う事だ! さっさと帰れ!」
拳骨を落とされたような顔をして、雷竜が吠える。大きく広がった翼が一つ羽ばたき、風が巻き起こる。突風に、それでも追いすがろうとアルヴァが叫ぶ。
「でも、私たちは祠に行かねば……!」
瞬間、アルヴァの鼻づらスレスレに雷光が迸った。
黒雲の中から成体の雷竜が首を伸ばしてアルヴァたちを睨んでいる。長い首の先、二対の角を持つ竜は、鋭い牙の覗く口を大きく開いた。
「去れ!」
天から降り注ぐ声に、ルカたちはもう引かざるを得なかった。
○ ○ ○
「まいったなぁ」
ぽそ、とアルヴァが呟く。
「ああなった雷竜にわかってもらうのは……骨が折れるぞ」
「あの感じだと、レビン様は祠にいないんじゃないですか? 姉上」
「あー……」
いないだろうなぁ。
そう言いながら、アルヴァが唸る。その横で、ケネスが首を傾げた。
「何でいないんだろうな」
「そうなんだよな、ケネス。花畑で別れてから、結構時間経ってるし先に着いてるはずなんだけど……何かあったのかな」
ルカは、自分の背後のやり取りを聞きながら、水神竜の言葉を思い出していた。
――マイム様。あなたのおっしゃる通りでした。レビン様、準備にも取り掛かっていらっしゃらなかったようです。
せっかく、沼地を歩いてここまで来たのに。ルカは、ちらりと振り返り、雷鳴山を見上げた。山を覆い隠す雷雲は、周囲を威嚇するように紫電を振りまいている。雷神竜の不在は、どうやら、雷竜たちに大きな影響を与えているようだった。
溜め息を吐くルカの後ろでアルヴァが言う。
「これは、レベッカを頼ったほうがいいかもしれないな」
「何でレベッカ様を?」
カレンの未だに震えの抜けない声が問う。「ああそれは――」と答えを返しかけていたアルヴァの声が不自然に途切れ、直後、ルカは襟首を思いっきり引かれて、後ろに吹っ飛んだ。
姉上何を、と叫びかけたルカは、自分が先ほど立っていた場所が大きくえぐれているのを見つけた。息を飲んで、しかし即座に立ち上がったルカの耳に届くのは、感情の失せた機械的な声。
「標的捕捉失敗。次の行動に移ります」
ガラスの目玉。人工的に整った顔。
「機械兵……!」
「そうさ、機械兵だよこのクソどもが」
降り立つ、何機もの機械兵。その向こう側。影のように立っている、男。
「……ヨセフ……!」
「おやぁ、坊ちゃん、俺の名前覚えててくれたんだぁ? あの時はひどいことしてくれたなぁ? ええ、クソが。泳いで戻る羽目になったんだよ、てめえとあのクソ玉のせいでなぁ!」
猫なで声とどすの利いた声を行き来して、ヨセフは口だけニッコリ笑っている。その間にも、機械兵はそれから降り注いでいて、ルカたちはあっという間に囲まれてしまった。そして最悪なことに、この包囲の外、男の後ろに、砂漠でルカたちを襲ってきた大型の機械兵が降り立った。
ルカたちを守るように立つアルヴァとケネスの背がこわばっている。だが、スラリと剣を抜く動作は、滑らかなものだった。
ヨセフは静かに、構えもせずに立っている。
「なぁ、俺、この任務に就いてっからこっち、損のし通しだ。ポンコツどもがお前に潰されただけ、俺の給料は減る。泳いで走って、筋肉痛だ。それに、アニエスも死んだしな」
あっけらかんとした声だ。何も感じていないと錯覚するような声だ。
でも、目だけは違った。
昏い昏い色を宿した薄茶は、明確な殺意を持ってルカたちを見つめていた。
「よくある話だよな。上からの命には逆らえねぇし、まあ、今回に限っては、楽な任務だと思ってたんだよ。でもな、こういうときほど不幸がおこる。ああいや、俺は別にアニエスの恋人だったとか家族だったとかじゃねぇよ? でもまあ、あんなのでもな、いなくなると、結構クるんだよ」
だからな、とヨセフが右手をゆっくり上げる。
「もうさ、目標人物以外、ぶっ殺してもいいかなって。なあ、それくらい許されるはずだ。ああ、なんなら、アルヴァ・エクエス。お前捕まえてさ、その目の前で一人ずつ嬲り殺してもいいかもな」
ヨセフの手が振り下ろされる。同時に、機械兵が一斉に動き出した。




