雪崩と消失⑤
ソリは雪原を静かに駆ける。周囲に満ちていた悲痛に叫ぶ吹雪も、今や欠片一つ見えない。代わりに、ソリの周りに、静かな泣き声と粉雪が舞っている。
ルカは深い溜め息を吐いて、俯いていた顔を上げた。彼の濃琥珀に映るのは、氷女王の最期の啼泣をその身に宿し、こちらに猛進してくる雪崩である。
風に髪を弄ばせながら、ルカは静かに口を開いた。
「ザミルザーニア様」
ぽつ、と氷神竜を呼ぶと、ベッドの上にいた銀の球がルカの横に来る。ルカはその光の方へチラリと一瞬、顔を向けた。
「雪崩です」
落ち着き払った声音だった。というのも、ルカは知っているのだ。この雪崩が自分たちに害を成すことがない、ということを。
どんどん迫ってくる雪崩に、ルカは眉一つ動かさず、ただ、なんとも言い難い表情をしている。
「ああ、好きに追わせてやりなさい」
「追いつかれたら、ザミルザーニア様が従えるからですか」
「そうです」
いよいよ、雪崩はルカの眼前まで来ている。それでも、ルカは焦らない。遣る瀬無い思いを抱えた瞳で、ただじっと向かい来る白を見つめていた。雪崩が大口を開けてソリを飲まんとしているのを見上げていたルカは――直後、傅くように解けて沈んだ淡雪の、微かな安堵の声を聞いた気がした。
ルカたちの帰りを迎えてくれたシロック村は、夕日の赤に染まっていた。
吹雪の中では人っ子一人いなかった村だが、今は、多くの村人が積もった雪をかいている。その中を抜けて、ルカたちはジェーニャの家に戻っていた。真っ赤な目元で「もう一晩、どうぞ泊っていってください。吹雪は――止んだけれど、それでも、暮れかかった空の下を歩くのは、危険です」と言ってくれたジェーニャの好意で、ルカたちは、もう一晩シロック村で過ごすこととなった。
ジェーニャの家。カレンやケネスがくつろいでいる部屋。
そこでルカは一人、窓の外を眺めている。
遠くで姉がジェーニャに謝罪している声を聞きながら、夕日の赤の中、徐々に村の中から掻きだされる雪を見つめている。ルカの肩の上に、エクリクシスは居ない。彼は、暖炉の中で休んでいる。
沈んでいるとも、表情がないともいえる顔で外を見る。そんなルカに声をかけたのは、ジェーニャの家までついて来て、我が物顔でフワフワしていた氷神竜ザミルザーニアだった。
「アルヴァの弟のルカ、でしたね」
「ザミルザーニア様。僕に何か」
「お前は、他の者より妖精に詳しいようですね」
「ああ……まあ、はい」
「お前が落ち込んだところで、何が覆ろうはずもないのですよ」
「それは、わかっています。しっかり、わかってる」
――そう。ザミルザーニア様のいうとおり、僕があの時何をしたところで……今、落ち込んだところで、何にも変わらない。氷竜の長も、氷妖精の女王も帰ってはこない。
ただ、とルカは言い淀む。
「精霊も……――妖精も、僕にとっては、身近な存在なんです。だから、なんというか……」
「お前の側に侍る精霊がああなったら、と怖いのですか」
「そのへん、僕にはよくわからないんですけど……多分、その感情が一番近いんだと思います」
「それは怖いでしょう。本来、人を置いて逝くことのない者たちですから」
ですが、とザミルザーニアは静かに瞬いている。
「お前の精霊は、お前より先に逝くことは決してない。あたくしは、そう思いますよ」
それだけ言って、ザミルザーニアは部屋を出て行った。
流石は神、とでも言えばいいのかな。そんなふうに考えるルカの心は、少し軽くなっていた。ザミルザーニアの指摘したことだけがルカの心を重くしていたわけではなかったが、ルカが抱えていた言葉に出来ない不安感を、ザミルザーニアは気まぐれに掬い上げていった。ルカは、窓のヘリに肘をつき、髪をかき上げ溜め息を吐く。彼は、今はしっかりと表情を取り戻していた。
台所の方面がにわかに騒がしくなったから、恐らく、氷神竜は夕食の準備をしているアルヴァとジェーニャの所に乱入したのだろう、と考える。その音の方向で氷の魔力が高まったのを感じ、ルカは暖かい夕食のためにも、と台所に向かって駆け出した。
翌朝。
ルカたちは、氷竜たちの背に乗って、雪原の西へと向かっていた。
当り前のようについてくるザミルザーニアの銀の体を見つめてから、ルカは前を見る。そう遠くない距離で、雪原の白が途切れていた。
そここそ、ルカたちが次に向かう祠――最後の祠である、雷神竜レビンの祠がある雷鳴山に続く道。
雷鳴山の裾野に広がる、沼地への入り口である。
徐々に高度を落とした氷竜が、地面が沼地に代わる手前に降り立った。礼を言うルカたちに、氷竜は申し訳なさそうな顔をする。
「二十年前なら、雷鳴山まで送ってあげられたのだけれど……今は、雷竜たちが神経質になっているから、ここまでしか送れないわ。ごめんなさいね、坊やたち」
その言葉に反応したのは、アルヴァだった。
「雷竜たちが神経質に?」
「ええ。理由はわからないのだけれど」
「そうなのか……ふむ……。ああ、いや、考え込んでしまって申し訳ない。ここまで送ってくれて、ありがとう」
アルヴァの笑みに、氷竜たちは周囲に雪の花を咲かせる。
――『生き物誑し』め。
ルカがそんなふうに考えていることなどつゆ知らない様子のアルヴァは、今にもへたり込みそうなカレンを抱えながら、ジェーニャとニックスに向き直った。
「ジェーニャ。何から何まで、助かった。ありがとう」
「気にしないでください。私たちの方こそ、助かりました。あなた方が来てくれなければ、事態は最悪の方向へと向かっていたかもしれません」
「俺からも礼を言わせてくれ。俺が母さんに最期に会えたのも、お前たちのおかげだと思ってる。……ありがとう」
深い声でそう言って、新たな氷竜の長が首を垂れる。
と、流れかけていたしんみりした空気を破ったのは、またもや銀の丸だった。
「さ、早く行きますよ。レビンのもとへ」
「ザミーニャ様、もしかして、ついて来てくれるのですか?」
「ええ。乗りかかったソリです、あたくしが、しっかり先導してやりましょう」
氷神竜が意気揚々と進み始めてしまうので、ルカたちはジェーニャとニックスたちと手早く別れを済ませ、丸い背中を追いかけた――のだが。
「……あの、ザミルザーニア様? 何をしているんですか?」
誰もが問いたかっただろう言葉を、ルカは迷わず口にする。その視線の先にあるのは、まるで見えない壁に当たっているかのように平べったくなった、氷神竜の姿である。
「……あたくしとしたことが、結界があるのを忘れていました」
「結界?」
「なんだ、知らないのですか」
いいですか、と言いながら平べったい体を空に浮かべたザミルザーニアは、ぷく、と膨れて元に戻る。
「今までお前たちが巡った祠の場所を思い浮かべなさい。いいですか、あたくしたちの祠は、線でつなぐと星の形になるのです」
星、とカレンが呆けた声を出す。その隣、脳内の地図を指でたどっていたケネスが「ああ、なるな」と呟いた。
「その星の手足」
ザミルザーニア様の言いたいことはなんとなくわかる、とルカは星のとがりの一つ一つを思い浮かべる。
「そこから、あたくしたちは出られないのです」
首を傾げるカレンに、ザミルザーニアが言葉を変えた。
「星を一筆で書くと、五つの三角と、真ん中に五角形ができるでしょう。それを思い浮かべなさい。良いですか? あたくしは、あたくしの祠がある三角と、それから、イグニスが引きこもってる五角形の――人間は何と呼んでいましたか……ああそう、禁足地。禁足地のある五角形の中しか動けません。隣の三角には移動できないのです」
こんなふうに、と氷神竜は先ほどのように平べったくなって見せている。
「そうなのですか。じゃあ、ザミーニャ様は、こちらにはこられない、という事ですね?」
「ええ。だから、お前たちだけで頑張って沼地を抜けなさい」
それだけ言って、ザミルザーニアは氷竜たちの方へと行ってしまった。それと入れ替わるように、ジェーニャとニックスがやってくる。
姉上に用事か、と思っていたら、彼らはルカの前へとやってきた。
「これを」
そう言ってジェーニャが差し出しているのは、ほんのり水色がかった銀の鱗である。これは、というルカの声に答えたのは、ザミルザーニアだった。
「あたくしの鱗です」
「私たちには、ザミルザーニア様が付いていてくれます。だからどうか、ルカさん。あなた達が持っていてください」
「でも、これって……長が、受け継ぐ物でしょう。受け取れません」
「母さんがいたら、同じことをしたと思う。だから、受け取ってくれ」
「でも……」
「エザフォスとマイムと、それからイグニスの鱗も持っているのに、あたくしの鱗が持てないと?」
「ありがたく借り受けます」
鱗の持ち主に脅されては、受け取るほかなくて。
ルカは、ジェーニャの手から、そっと銀色を受け取ってネックレスに通した。彼は姉を見る。アルヴァは促すように頷いていて、ルカは素直にネックレスを自分の首に戻した。
さて一行は沼地に足を踏み入れる。雪原の清浄な冷気が沼の臭気を抑え込んでいる。
泥に足を取られそうになりながら歩くルカたちの背を、朗々とした声が押す。
「お前たちに降る不浄を、峻厳たる氷壁が防がんことを。静かなる氷雪の導きあらんことを」
ニックスの声に、ルカたちは手を振る。そうやって振り向くことで見えた銀の球体は、チカチカと大きく瞬きながら、結界にべったり張り付いてルカたちを見送ってくれていた。




