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  雪崩と消失④

 ひッひッと短く息を吸い込んでは吐き出す氷妖精の女王は、氷の涙を零しながら、崩れ落ちるようにソリに降り立った。


「フ、フロスティア様、フロスティア様……」

「ラヴィネ、良いのですよ……あなたが気にすることでは、ありません」


 ラヴィネは、その言葉が聞こえているのかいないのか、頬に爪を立てている。見開いた目は絶望を宿して床を見つめる。


「ああ、そんな、だって、わたし……わたしを、庇って……」


 フロスティアはそれが見えているかのように「良いのです」ともう一度言って、ググっと体を起こし、乾燥しきった唇をゆっくり開いた。


「ニックス……」


 ルカの隣に年若い氷竜が体を捻じ込む。ルカは、よろけたカレンを支えながら静かに数歩退いて、二頭の竜を見守る。


「もう少し、一緒に居て……いろいろなことを、教える、はずでしたが……ごめんなさい、出来なくなってしまった」

「母さん」

「いいですか、ニックス……わたしは、最期の、仕事を……」


 フロスティアの周囲がにわかに明るくなる。氷の魔力(エーテル)を多分に含んだ銀の光が集まっているのだ。ルカがその眩しさに目を眇めた直後、フロスティアはその姿を竜へと変えていた。

 ルカは苦い唾を飲みこむ。


 ――こんな……憔悴しきった竜、初めて見た。


 病に長年蝕まれた体でも、ここまでひどくはやつれない。そう思いながら、ルカは拳を握る。

 竜の姿に戻ったフロスティアの前、その息子であるニックスは、グッと胸を張り姿勢を正す。それを、白く濁った眼で見つめ、フロスティアは微笑んだようだった。


「……氷竜の長として、お前に告げます。ニックス、わたしの息子。わたしは、お前を、次の長に選びます」


 その体からは想像できないくらい、凛々しく澄んだ声でフロスティアが言う。


「次代の長として、ザミーニャ様に良く仕えるのですよ」

「……わかった」

「――ああ、ジェーニャ。あなたもここにいるのですね」

「はい、フロスティア様……!」


 ジェーニャがフロスティアの前へと駆けていく。ルカは、すれ違いざま、彼女の目に大粒の涙が浮かんでいるのを見つけた。


「ニックスを……おねがいします……。あなた達なら、永遠に溶けぬ氷のように、確かな愛を紡ぐでしょう……。ああ……わたしは、お前たち二人を、愛しています。それだけは、どうか、忘れないで……」


 声が徐々に弱くなる。凛とした声が嘘のように、しぼんで掠れていく。

 呼吸音にはざらざらと雑音が混じり、起きていたそのボロボロの体は氷が解けるようにゆっくりゆっくりへたり込んでいく。耐えきれなくなったように、ジェーニャがニックスの毛皮に体を寄せる。すると、ニックスの翼が彼女を抱き寄せるように動いた。

 カレンが縋るようにルカの服を握る。ルカはほとんど無意識で、宥めるように彼女の肩を撫でた。


「……ザミーニャ様、ザミーニャ様……」


 迷子のような声だった。


「ここにおりますよ、フロスティア」


 ――母親のような声だった。


「お前は、良くあたくしに寄り添いました」


 ニックスの向こう、白い瞳から涙がこぼれるのが見えて、ルカはグッと唇を噛む。

 ザミルザーニアは、ふわり、とフロスティアの顔の横に降り立った。


「そしてお前は、長としての役目を全て立派に終えました。呪いに侵された体で、よく――頑張りましたね」


 ああ、と溜め息にも似た声がフロスティアの口から零れる。


「さあ、おいで。あたくしの翼の下で、眠りなさい。深く、深く……」


 ああ、ともう一度零れた声は、恐らく末期(まつご)のもの。

 長く長く息が漏れ出て、そして最期にフロスティアは――苦しみ全てを忘れた笑みを浮かべた。

 それを合図にするように、彼女の体は端から光の粒子に変わっていく。キラキラ輝く銀色は、ニックスとジェーニャを抱くように漂ってから、ザミルザーニアのもとへと還っていった。


 しばしの沈黙の後、「さて」とザミルザーニアが声を発した。


「新たなる長、ニックス。それから、ジェーニャ。お前たちの母は、あたくしの中にいます。特に、ジェーニャ。お前は死を別れと認識する文化を持つ人間です。寂しさが募り、身を裂きそうになったら、あたくしを訪ねなさい」


 はい、と涙に濡れた声が聞こえる。それに満足して頷くように上下に揺れたザミルザーニアは、「それから」と言いながら今度はルカたちの方へと顔を向けた。それに釣られて振り返れば、ルカの後ろには、姉だけでなく、ケネスも立っていた。と、彼はそこでようやく、自分がカレンを抱き寄せていたことに気づき、目立たぬようにその柔らかい体から離れて一歩退いた。


「お前たちは、結界を起動しに来たのでしょう。ええ、みなまで言わずともわかります。アルヴァがイグニスの鱗を持っているのを感じましたし、それに、イグニスの祠と、それから、マイムの祠から魔力が来ていますからね。加えて、マイムからは通信も入っています」


 応答がないのは少し気になりますが、という氷神竜の言葉に、ルカは『マイム様が埋めたあの双子水晶の片割れは、未だに銀に光っているのだろうか』と頭の隅で考える。


「マイムが了承したなら、お前たちは正当な理由があって、起動して回っているのでしょう。だから、あたくしも起動してやります」


 前触れなく、空気が揺れる。ルカは鳥肌を立てながら周囲を見回した。見えるはずもなく巨大な結界が、四段階目まで組まれたのが肌でわかる。


「さ、これでいいでしょう」

 

 村に戻りますよ、という言葉に被せるように氷妖精の女王がゆっくり浮かび上がった。

 先ほどまで呆然としていた彼女は、どうしてか、静かに微笑んでいた。その様子に嫌な予感がしたルカは、そちらに駆け寄ろうとして――できなかった。

 彼の足は、氷でもって、ソリへと縫い付けられていた。見れば、ソリに足を着けている物は皆、氷竜すらも例外でなく、氷に足を食われている。

 どういうことだ、とルカはラヴィネを睨む。が、その表情もすぐに困惑へと変わった。


 氷妖精の女王は、ラヴィネは、泣いていた。微笑みながら、泣いていた。


「ラヴィネ。何をするつもりです」


 ザミルザーニアの静かな声に、ラヴィネはドレスの飾りから、大人の手のひらくらいの長さの雪の棒を取り出し、答える。


「正しいことを。私はこれから、正しいことをするのです」


 雪がほろほろ解けていく。そこから顔をのぞかせたのは、鈍色の塊だった。それを見たエクリクシスが、未だぐったりしていた体を起こし、ルカの頬に手をつく。彼から伝わってくる焦燥は、ルカにも正しく伝わった。


 ――あれ、鉄か……!


 息を飲むルカの前で、鈍色――全てが鉄からできたナイフが現れる。その柄を握るラヴィネの手からは、肉が焼けるような音が聞こえていた。


「ラヴィネ」

「ザミルザーニア様、この後ここを、雪崩が通るでしょう」

「ラヴィネ、それを離しなさい」

「どうか、どうかザミルザーニア様。私の願いをお聞き入れください」


 ラヴィネの願いとは。今まさに、ラヴィネがしようとしている事とは。

 ルカには、どちらも想像がつく。ルカがやめろと叫んだところで何も変わらないだろうことも、彼にはわかってしまっている。


「……わかりました」


 ザミルザーニアは悲しいまでに寛大だった。雪原の白のように、何でも受け入れる。己が命じれば止められることだとしても、それを強いることをしない。

 

「ラヴィネ以外の氷妖精は、あたくしのソリに着いてきなさい。良いですか、これは命令です」


 声とともにソリが走る。それを、悲鳴じみた声をあげながら吹雪が追う。

 そうやって、ルカたちがラヴィネから十分離れた頃。足が自由になったルカは、ソリの進みに逆らって後方に駆けた。飛び出さん勢いで柵に身を乗り出し、目を凝らすのは、先ほどまで自分たちがいた場所だ。


 雪原に、絶叫が小さく響く。苦しみに呼応するように雪崩が起きて――そこから氷妖精の気配が完全に消えたのを確認したルカはきつく、きつく目を閉じた。 

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