雪崩と消失②
氷妖精は、氷竜の存在を忘れたかのように雪原を進んでいく。これを好機とばかりに、ルカたちを乗せた氷竜が力強く羽ばたいた。
吹雪の渦を飛び越える。と、その直後、吹雪の渦が伸び上がった。吹雪が氷竜の足を掠めるが、間一髪、氷竜は迫る吹雪の手を躱した。
どうやら、氷妖精たちを飛び越えられたのはルカたちだけだったようだ。後続は皆、渦に阻まれ二の足を踏んでいる。
ルカたちを乗せた氷竜は、一層力強く羽ばたきソリを追う。ルカは鬣をしっかり掴みながら、大きくなってくるソリと、その後ろに迫っている白い蠢きに唾を飲む。
しばらくして、氷竜は駆けるソリへと着地した。
ルカは何かを見つけて呆然とする氷竜の背から飛び降りて、いの一番に姉のもとへと向かった。
「ルカ!」
「姉上、エクリクシスは」
「俺はここだ!」
イグニアの頭に乗っていたエクリクシスが炎を纏ってルカの前へと飛び上がる。ルカは、防寒着代わりに纏っていた毛布を体からはぎ取って姉を見る。
「ルカ、すまない。これは、私の手には負えなかった」
「自然を相手に、人間一人で立ち向かえるわけないでしょうが」
何を当たり前なことを、と言いながらルカは姉に毛布を押し付ける。と、ルカの顔の横で飛んでいるエクリクシスが、自然現象じゃないぞ、と否定を口にする。
「追いかけてきてるの、ほとんど紙の蛇だ」
「ああ、そっか。そうだったね。でもまあ、やることは変わらないよ」
ルカは、強く息を吐きだして、準備体操をするようにプラプラと両手を振る。そんな彼に、アルヴァは真剣な顔を向けている。
「これから、どうするんだ」
「僕とエクリクシスで、これを止めます」
「私に出来ることは」
ルカは、真剣さの中に自責の見え隠れする表情の姉を見上げ、ニッと唇の端をあげた。
「姉上にしか、頼めないことが」
ソリは猛然と駆けている。この速度で行けば、数十分ほどで氷妖精たちとぶつかってしまう。だからルカは、この後の計画をアルヴァに口早に説明し――そして今は、猛り狂って転がってくる蛇の群れの上空で、静かに蛇を見下ろしている。
空に君臨する赤は、イグニア。ルカはその背の上に、姉と共に乗っている。二人乗せてもなおイグニアが不自由なく最速を出せるのは、繰り手がアルヴァだからである。無理なく風を掴み、イグニアをその流れに乗せる。簡単なようでいて、難しいことだ。
これこそ、アルヴァにしか頼めないことなのである。
例えばルカ独りでイグニアか、もしくは氷竜に乗っていたなら、これから成そうとすることは、失敗に終わる。ルカには、そう断言できた。
蛇の雪崩の大まかな規模を把握した彼は、頃合いを見計らって姉の耳元に口をを寄せた。
「始めます!」
「わかった!」
気を付けろよ、と言うアルヴァの声に頷きながら、ルカは飛ぶイグニアの上で、慎重に慎重に体勢を変えた。
前を向いて跨っていたのがまるっきり反転して、ルカはアルヴァと背中合わせだ。大きく開いた股の下、イグニアの翼が必死に動いている。
――飛びにくくしてごめん。少し耐えてくれよ、イグニア……!
そう考えながら、ルカは蛇を濃琥珀で蛇を見下ろし静かに口を開く。
「いける? エクリクシス」
「俺はいつでも」
じゃあ、やろう。
ルカの言葉を呼応するように、リングブレスレットのルビーが輝く。
ルビーは、いつかの砂漠でヘリオドールが熱を発したように、熱く熱くその身を滾らせている。負の魔力の過変換が起こっているのだ。
エクリクシスの言う『奥の手』とは――。
『ルカ、俺を作ってる負の魔力、できるだけゆっくり流してるけど、きつかったら言えよな』
――精霊そのものが本来持ち、その身の核としている魔力。常若の国原産の純粋なる負の魔力の使用権限をルカに明け渡す、という事である。
属性魔力の消費で生まれる負の魔力とは、純度の桁が違う。超高純度のエネルギーを孕むそれを、エクリクシスは、今まさにルカへ委ねているのだ。
『心配しないで。もっと速くてもいいくらいだよ』
そう返しながら、ルカは若干の頭痛と手の甲に集まる熱に眉を寄せる。だが、余裕で耐えられるレベルだ。砂漠でリュヒュトヒェンが張り切った時に比べれば、無いも同然である。
ルカはチラリと背後、つまりは進行方向を見て、目印となりそうなものを探した。
――あの木にしよう。
ルカはそう決めると、景色を目の奥に焼き付けてから、大きく深呼吸をして目を閉じる。そのまま集中して、エクリクシスから流れ来る熱い奔流を、梳いて束ねて織り上げる。
そうしてルカが作り上げた構造式は、火竜の長がシレクス村の人々を守るために立ち上げた結界のものと、良く似通っていた。
ルカは冷静に構造式を立ち上げる。瞬間、目印とした――結界の起点と決めた場所から、燃え広がるように赤が広がる。
『――使うよ、エクリクシス』
ルカは己の側にいる火精霊に断って、それから、己に預けられた異界の魔力を、細長い結界へとぶち込んだ。エクリクシスの声無き絶叫が響き渡る。歓喜のそれは、ルカが魔力を使えば使うだけ、色を濃くしていく。
ルカが魔力を完璧に敷き終わった直後、アルヴァの声が響いた。
「ルカ、まずいぞ! 氷妖精たちが見えてきた……!」
その言葉とほぼ同時に、ルカは煌々と輝くルビーを掲げるように右手を振り上げた。彼の中を何かが下から上へと抜けていくような感覚が走って、周囲を取り巻く風を無視してルカの髪がフワリと持ち上がる。
その、直後。
まるで滝が逆巻くように、燃え盛る炎の激流が立ち上がった。
空を食らう勢いで伸びる真っ赤な舌は蛇の雪崩の倍の高さでそそり立っている。
それを見下ろすルカは、全速力で駆けた後のように荒い息を溢しながら、姉の背にもたれた。
「……これで……大丈夫……の、はず……!」
「よく頑張った、ルカ!」
一旦ソリに戻ろう、とアルヴァがイグニアに言う。
姉の労いに言葉を返せずにいるルカの耳には、イグニアが吠える声と水の蒸発する音と、それから、蛇が次々火に飲まれる音が聞こえていた。
残る問題は――とルカは進行方向を見る。
吹雪の渦は、甲高く叫びながらルカたちの方へと迫っていた。




