くちなわの雪②
粉雪の柔らかい渦に包まれた氷竜フロスティアは、アルヴァたちの前で、その姿を人へと変えた。
今、ベッドにいるのは、薄い水色の髪の裸の女性だ。
柔らかいベッドに手をつき、やっと体を起こしている彼女の、その晒された体に、アルヴァはぐっと眉を寄せた。
もとは艷やかだったであろう髪は、触らずとも水分が抜けきっているのがわかる。
その髪の下、こけた頬。静かに涙を溢す、白く濁った瞳。
死人のように白い肌。骨ばった肩と、あばらの浮いた脇腹。
そして、伸びる長い足は、肉が落ちてまるで棒きれのよう。
まさしく、病人の体。
それも――……と、その続きを脳裏に浮かべそうになったアルヴァは、浮かびかけたものを追い払ってから、ぎこちなく微笑んだ。
「私が、必ずあなたを――息子さんのもとへ」
アルヴァはフロスティアにそっと近寄り、彼女を抱え上げようとして、それからキョロキョロと周囲をに目を這わす。
「どうしました」
そんなアルヴァに声をかけたのは氷神竜だ。
「あ、いえ……このまま抱え上げて行っていいものか、と」
不思議そうに瞬くザミルザーニアに、どのように説明しよう、とアルヴァが考えたところで、どうやら氷神竜は自力で答えに辿り着いたようだった。
「――ああ、そういうことですか。人間は裸でいることが少ないんでしたね」
それならこれを、とザミルザーニアがチカっと光る。と、その直後、フロスティアの肌の上に、純白の布がふわりと落ちてきた。これは、とその布に触れたアルヴァは、その触り心地の良さに瞠目する。
「それで肌を隠してやればいいでしょう」
さあ、と促すザミルザーニアの言葉に従って、アルヴァはフロスティアにその布をかけ、そっと横抱きに抱え上げる。――そして、その身の軽さに唇を噛んだ。
「さ、行きますよ」
沈みかけたアルヴァを引っ張り起こしたのは、ザミルザーニアの声だった。ほら早く行きますよ、と続けるザミルザーニアが、先陣切って飛んで行く。その丸い背中? にアルヴァは慌てて声をかけた。
「ザミルザーニア様、一緒に来てくださるのですか」
「ええ」
だって、と氷神竜は振り返るようなそぶりを見せた。
「娘、お前はフロスティアの息子を知らぬでしょう」
ああ、とアルヴァは口ごもり、それから曖昧に微笑んだ。それを氷神竜は肯定と取ったらしい。ザミルザーニアは再び前を見て、フヨフヨと前進し始めた。アルヴァは腕の中の人を優しく抱えなおし、銀の光球を追いかける。
城の中を、城の主の背を追って歩く。そして、アルヴァたちは、氷城の入り口――アルヴァたちが入ってからは氷の壁となっていた扉を開き、外に出た。
分厚い氷で外界から遮断され、ザミルザーニアの魔力によって作られた銀青の光源に慣れていたアルヴァの目に飛び込むのは、赤みの強くなり始めている、とろりとした陽光だった。アルヴァは、ふう、と息を吐きながら、白い平原のずっと先、シロック村があるであろう辺りを見つめる。
そんな彼女は、フロスティアの息子について、察しがついていた。
――『フロスティア』という名をザミルザーニア様の口から聞いた時から、うすうすはわかっていたことだが。
そこまで考えて、アルヴァは漏れそうになる溜め息を押し殺し、雪を歩く。
氷竜の長は氷神竜の祠にいる、と言ったのはニックスだ。
氷神竜の祠にいる氷竜の長を、フロスティア、と呼んだのは氷妖精たち。
そして、氷の城に、他に氷竜はいなかった。依り代を探してあちこち駆けまわったのだから確かなことだ、とアルヴァは一歩、また一歩、と雪を踏む。
つまるところ――アルヴァの抱きかかえる竜こそが、氷竜の長フロスティアというわけである。
腕の中、荒い息を溢すフロスティアに気取られないように、アルヴァは小さく息を吐く。
――そもそも、氷竜の長に会いに来た理由は、氷妖精の暴走を何とか治めてもらえないか、お願いするためだった。だが、今この状態の氷竜の長に、氷妖精が氷竜に反旗を翻している、なんてことを伝えていいんだろうか。
そんなふうに考えながら、アルヴァは、防寒着を着ていない自分を包む寒さを、ごっそり無視して歩く。
歩いて、歩いて、最終的にはフロスティアを出来るだけ揺らさないように、という事だけ考えながら歩いて――でも、どうしても無視できないことが一つ。アルヴァは自分たちの歩く、綺麗に均された雪の道――ではなく、その隣、深くなり始めた積雪に、そっと目を向け、それから小さく唇を舐めて口を開いた。
「……ザミルザーニア様」
雪の中から、くぐもった答えが返ってくる。
「なんです」
「あの……教えていただきたいことが」
「いいでしょう。なんでも聞きなさい」
その言葉に、アルヴァはフロスティアを優しく抱えなおし、言葉を選ぶように黙り込む。そんなアルヴァを応援するように、イグニアが彼女の背中に額を当てる。イグニアの防寒着のフードの中で、エクリクシスが悲鳴を上げる。
火精霊がイグニアを窘める声を聞きながら、アルヴァは意を決して口を開いた。
「ザミルザーニア様、なぜ先ほどから、その……雪の中を転がっていらっしゃるのですか?」
「そんな簡単なこと――とは言っても、ああ、人間にはわからないのですね。いいでしょう、教えてあげます」
そう言いながら、ザミルザーニアが雪から飛び出してくる。銀青の体に雪を乗せながら、ザミルザーニアは今度は空を飛んでアルヴァの横に並んでいる。
「いいですか、娘。あたくし、雪遊びが楽しくて、ああしていたわけではありません」
――そうだったら、どうしようかと。
氷神竜の言葉に思った率直な感想を腹にとどめ、アルヴァは氷神竜が整えてくれている雪の道を歩きながら、銀の球体をジッと見つめて答えを待つ。
「なぜあたくしが雪の中を進んでいたのかというと――それは、なんだか雪の様子がいつもと違うからです」
氷妖精の暴走に起因した違和感なのだろうか、と思いながら、アルヴァは小さく口を開く。
「それは、どのような――」
アルヴァのその問いを搔き消したのは、一行の後ろから響いた――三つの、絹を裂くような高い叫び声だった。とっさに身構え振り返るアルヴァの目に映ったのは、聳える雪山を背景に、猛スピードで飛び来る氷妖精。アルヴァは、その氷妖精たちに見覚えがあった。
――祠まで案内してくれた氷妖精だ……! まさか、彼女たちも暴走……!
と、そう考えたアルヴァだが、迫りくる氷妖精たちの、怯えを孕んだ必死の形相に、考えを改める。そう、あの表情はまるで――。
「ぁあああああ! なんで追いかけて来るのよぉぉぉぉぉ!」
「というか、なんなのです、あれは!」
――まるで、翼竜から逃げる、羊のような……。
「――あっ! 顔の良いお方……それに、フロスティア様――えっ、ザミルザーニア様も!?」
「なんてこと、ああ、なんてこと! みなさまぁぁぁぁ!」
逃げてくださいましぃぃぃ! と叫びながら、氷妖精たちが近付いてくる。何から、と言おうとしたアルヴァは、氷妖精たちの後ろを見て、頬を引きつらせ言葉を飲み込んだ。
アルヴァの金の目に映るのは――雪山を覆い隠さんばかりの大きさの、白蛇。
もたげた頭に嵌め込まれた、真っ赤な瞳がアルヴァたちを見ている。真っ赤な舌が、炎のように伸びている。
雪を跳ね上げ、こちらに迫ってきている。
「な……んだ、あれ……!」
思わずフロスティアをギュッと抱きしめながら、アルヴァは考える。
――戦う。……いや駄目だ、フロスティア様を抱えたままは無理だ。だったら……。
「――逃げましょう、ザミルザーニア様!」
アルヴァの横に浮くザミルザーニアは、「おや」と意外そうに声を出す。
「お前のようなタイプの人間は、フロスティアをあたくしに預け、猛然と飛び掛かっていくものと思っていました」
「お言葉ですが、ザミルザーニア様! 私は、無茶はしますが無謀はしません!」
――今ここで私が斃れれば、誰がみんなを守る? 誰がフロスティア様を息子のもとへ……ニックスのもとへ連れていく?
それだけはしっかり分かっているつもりだ、とアルヴァは氷神竜を見る。と、ザミルザーニアは頷くように上下に揺れた。
「――娘。お前は、あたくしが思っているよりは、正しい判断の出来る人間のようですね」
何をのんびり、と考えるアルヴァの足元が持ち上がる。一瞬バランスを崩したアルヴァだが、転ぶこと無く態勢を整えて――そして、目を瞠った。
アルヴァの足元の雪は、今や、巨大なソリへと姿を変えていた。
「気に入りました、娘。お前に免じ、あたくし、ほんの少しばかり、力の調節を頑張ってみてやりました。褒めて良いですよ」
巨大なソリは、ザミルザーニアの声を合図にしたように、ひとりでに進む。揺れ一つ起こさず進むソリの上には、なんと、ベッドまで備えられている。
「フロスティアはそこに寝かせてやるといいでしょう。妖精、お前たちも、ココで寛ぐことを許しましょう」
ありがとうございますぅ! と三人の妖精たちがソリに飛び乗りへたり込む。
一瞬、脳で処理が追いつかなかったアルヴァだが、とりあえず、とフロスティアをベッドに寝かせる。この硬いソリを形作る雪と同じもので出来ているはずのベッドは、ふんわり柔らかくフロスティアを包み込む。
彼女の顔色を確認して、それから、アルヴァは走るソリの後部へ歩く。そして、柵を掴み、舞い上がる雪の向こうに目を凝らす。
見える大蛇は、変わらずアルヴァたちを追ってくる。
その姿は――徐々に大きくなっているように見えた。
――迎撃が必要かもしれない。
そう思いながら、アルヴァはそっと腰の物に手を這わせる。すると、アルヴァの愛剣は、「待ってました」と言うように、その身を――炎妖精が二人宿る身を、ほんのり熱く滾らせた。




