28. くちなわの雪①
アルヴァの声が聞こえたようで、寝室の中央に置かれたベッドの天蓋が揺れる。そこから覗いた銀の光が、青い花の海の上を、ふわりふわりと飛んでくる。
やがて、アルヴァの前で光球は止まる。
「ああ、その袋の中にいるのですね」
ザミルザーニアの問いにアルヴァが「はい」と答えると、今まで大人しかった袋がグニャリグニャリと蠢いた。その様子を睥睨するように、ザミルザーニアが瞬いている。
と、氷神竜がアルヴァを見た気配がした。
「娘」
「はい」
「それを放りなさい」
澄んだ香りの寝室に、一瞬の静寂が満ちる。
「――はい?」
氷神竜の命令に、アルヴァはパチクリと目を大きくして、袋と、それから目の前で輝く銀の球体を交互に見つめた。
私の聞き間違えかも、とアルヴァは手に持つ袋を掲げ、小さく首を傾げてザミルザーニアの言葉を繰り返す。
「放る、のですか?」
「ええ。放りなさい。高く、この部屋の天井に届くくらいに」
高く高く放りなさい、と。
氷神竜はそう言ったきり、アルヴァの動きを待つように、口を閉じる。
放るって……とアルヴァは蛇が四匹入った袋と、天井を見比べる。
――ザミルザーニア様は、なぜこれを放らせようとしてるんだ……?
神様の考えることをなんとか理解しようと、難しい顔をするアルヴァ。そんな彼女に、再び氷神竜の声がかかる。
「安心なさい。天井に届くくらい、というのは、ものの例えです。そこは気にしなくともよいですよ」
そこはかとなく気品の漂う声が、なんともすっとぼけたことを言う。
――気にしてるの、そこじゃないんだよなぁ……。
その気になれば、この蛇入りの袋を天井にぶつけるくらいはできるのではないだろうか。と、そんなふうに考えながら、アルヴァは、唇をモニョモニョさせてから、ゆっくりゆっくり口を開く。
「ええ……と。恐れながら、ザミルザーニア様」
「なんです」
「あの、なぜ、これを放れとおっしゃるのですか」
「ああ、そんなこと――」
もしもアルヴァの目の前の銀の光球が人の姿をしていたならば、髪でもかき上げていそうな声音だった。その声色で、氷神竜は言葉を続ける。
「――氷に閉じ込めて、そこに込められたモノごと、依り代を壊すためです」
そのまま凍らせてしまえば――と続くザミルザーニア言葉に、アルヴァは自分の右手を見る。
「あたくし、力の調整とやらは苦手です。お前の手ごと、微塵に砕いていいのなら――」
恐ろしい言葉にアルヴァは全力で袋を放った。ベッドに袋が近づかないように、出来るだけ真上に、と放った袋は、ぐんぐん高く昇って行って――そのスピードが緩み始めたところで、空中に固定される。
ピタリ、と昇りもせず落ちもせず、袋は空に縫い付けられている。
おお、と思わず声を漏らしながら、アルヴァはグッと目を凝らす。
ジェーニャの貸してくれた防寒着で出来た袋は、まるで輝く星のように、あちらこちらから棘を伸ばしながら、凍っていた。
そう。袋ごと、凍っていた。
――あれ。ちょっと待った。
アルヴァはゆっくりと、ザミルザーニアに目を向ける。
――防寒着も一緒に粉微塵には、ならない……よな?
「ザミルザーニア様……」
アルヴァが問いかける前に、鏡が砕けるような高く美しい音が、寝室に響き渡る。それから少しして、ほんのり黒に染まった雪が、アルヴァの上に降り注ぐ。その黒い雪も、床につくころには真白に色を変えていた。
恐る恐る、と見上げた先。アルヴァの目に、袋は――防寒着は、映らない。
ああ、と溜め息とも呻きともつかない声を漏らすアルヴァの隣、ザミルザーニアは自慢げな雰囲気を纏っている。
「あたくしの氷は美しいでしょう。惚ける気持ちもわかります。許しましょう、存分に惚けなさい」
どこまでも食い違う。
これが人と神の感性の違いか、なんて思いながら、アルヴァは、シロック村に戻ったらジェーニャさん弁償しよう、と固く目を閉じる。そうしながら、彼女は氷神竜に問いかける。
「ザミルザーニア様、これで、結界は壊れたのですか」
「ええ。この依り代が孕んでいた呪いも、あたくしの氷で上書きして搔き消しました」
その言葉に、アルヴァは安堵する。これならあの氷竜も、呪いから開放されていることだろう、と小さく笑みを浮かべる彼女の前で、ザミルザーニアが言葉を続ける。
「あとは――」
そう呟いたザミルザーニアがゆっくりと動く気配に、アルヴァは目を開けそちらを見る。と、氷神竜は、ベッドの方へと戻っていくようだった。
それについて行ったアルヴァは――ベッドに横たわる氷竜の、未だボロボロの様子に目を見開いた。
ぜえぜえ、と息をするのすら苦しそうな氷竜。その姿を見つめながら、アルヴァは硬い表情で口を開く。
「――……結界は……結界の呪いは、もう、なくなったのですよね」
「ええ。今ここにあるのは、結界の呪いを少しでも打ち消すために、あたくしが張った結界だけです」
「じゃあ、なんで――」
アルヴァは、その端正な造りの顔を苦しそうに歪めて、それ以上の言葉を紡げなかった。彼女の言えなかった言葉を引き継ぐように、ぐったり横たわっている氷竜が、ひゅーひゅーと言う吐息に混じって言葉を吐きだす。
「削られた……命は……――戻らないのです」
白く濁った氷竜の目が、確かにアルヴァを見つめている。
「でも……火の、香りの、子。あなたのおかげで、わたしは、楽になりました……」
ありがとう、と。か細い声が、柔らかく言葉を紡ぐ。
アルヴァは、自分の力ではどうにもならないことがわかっていて、でも――と手のひらに爪を食い込ませる。悔しさに任せ握った拳を、隣にいるイグニアが鼻づらで掬い上げるように押してくる。肩に乗るエクリクシスが、アルヴァの頬を優しく撫でる。
満ちた沈黙を破ったのは、氷竜が立ち上がろうとする音だった。
「結界が、無いなら……わたし、息子の、もとへ……」
震える氷竜が倒れそうになるのを、ザミルザーニアが受け止める。その小さな丸い体のどこにそんなに力があるのか、大きな氷竜を支えながら、氷神竜はアルヴァを見たようだった。その視線に、アルヴァは唇を噛みながら背筋を伸ばす。
「娘」
「はい」
「お前にもう一つ、命を与えます」
深く頷くアルヴァには、氷神竜が下す命が、どのようなものか察しがついている。
その命とは――。
「この者を……フロスティアを、これの息子のもとへと、送りなさい」
「お任せください」
間髪入れずに答えるアルヴァを見る氷神竜は、満足そうだった。
「そう言うことになりました、フロスティア。人の姿をとりなさい」
できますね、と言い方だけ見れば高圧な女王のようだが、ザミルザーニアの声は慈愛に満ちて優しい。
はい、と静かに涙を流す氷竜――フロスティアは、舞い散る雪を集めながら、その姿を変え始めたようだった。




