氷神竜ザミルザーニアの……祠?④
部屋の奥、鎮座する王座。そこに収まる銀の光は、アルヴァの『あなた様は、氷神竜ザミルザーニア様、でしょうか』という問いに瞬いて、それから、男とも女ともつかない声を凛と響かせる。
「ええ、そうです。あたくしはザミルザーニア。お前、よく知っているではないですか」
感心したような声を溢す銀の光に、アルヴァはその場に傅きかける。彼女のその動きを遮ったのは、氷神竜の声だった。
「ああ、傅かずともよいです。早く、こちらへ」
言われるままに、アルヴァは歩き出す。滑る氷の床で転ばないように注意を払いながら、それでも早足で歩を進める。
やがて王座の前に辿り着いたアルヴァを見下ろすのは、エザフォスやレビンと同じ、超高濃度の魔力――氷の魔力でその体を形作る、銀の光。
静かな圧――神威とでも言うべき圧を身に受けて、アルヴァは静かに跪き、首を垂れる。そんなアルヴァの横に、イグニアも腰を下ろして頭を垂れた。
「娘、そう畏まらずともよいですよ」
そう言いながら、まんざらでもない声色だった。顔をあげなさい、と声が降ってくる。静かに顔をあげたアルヴァは、金の目で王座を見上げた。
近くで見るとほんの少し青の差した銀の光――氷神竜ザミルザーニアは、満足そうに瞬いている。
「――まあ、悪い気はしませんが」
まるで、脚を組んで背もたれに身を預ける様子が見えるような声である。ザミルザーニアは、アルヴァに見上げさせながらしばらくチカチカ瞬いて、それから、思い出したように椅子からフワリと飛び立った。
「ああ、そうでした。そんな場合ではないのでした」
フワ、と頭上を舞う氷神竜の姿を追いながら、アルヴァはここに来た目的を伝えるためにも、と静かに口を開く。
「恐れながら、ザミルザーニア様。お伺いしたいことがございます」
アルヴァの声は、確かに部屋の空気を揺らして、小さく余韻を残して消えた。部屋にいる者なら――アルヴァの頭上にいるならなおさら――聞こえる声量だった、のである、が……。
「娘、こちらに。あたくしのあとを着いてきなさい」
ザミルザーニアは、アルヴァの声など聞いていないかのような様子で、フワリフワリと飛んで行ってしまう。その背をポカンと見つめたアルヴァだが「ほら早く」という声に急かされて、彼女は静かに歩き出した。
王座の奥。小さな小さなティアドロップ型の氷が連なってできたカーテンが、近付いてきたザミルザーニアに、音もなく道を開ける。それを何度か繰り返し、アルヴァは気が付けば、寝室と思しき部屋の入り口に立っていた。
王座の間よりほんの少し小さなそこを覗き込み――アルヴァは目を見開いた。
そこに広がるのは、晴天の下に輝く海すら霞む、青。
中央に据えられた天蓋付きの大きなベッドの周囲を、青い花弁の花が囲んでいる。葉と茎の白が、波間の泡のように美しい。
咲き誇った花の香りなのか、清涼な、ミントにも似た心地よい香りがアルヴァの鼻を抜けていく。
と、目の前の光景に目を奪われているアルヴァを放って、ザミルザーニアがフワフワ飛んで行く。遠くなる銀にハッとして、アルヴァは慌てて歩き始めた。
美しい青を踏みつぶしてしまわないように注意を払い、アルヴァは歩く。――アルヴァがそんな風に歩いているからだろうか。聞こえてこなくなった、爪が氷をひっかく音に振り返れば、イグニアは花の海を前に、歩きあぐねているようだった。右前足を、出しては引っ込めてを繰り返している。
やがて、アルヴァが戻るのを待つことにしたらしいイグニアは、ちょこんとお座り。そんなイグニアに代わってか、彼女の頭に陣取っていたエクリクシスが、一足飛びにアルヴァの肩に着地した。
「これ、すごいな。ルカが見たら、目を剥いてぶっ倒れそうだ」
耳元で聞こえる火精霊の声に、アルヴァは小首を傾げる。
「この花、珍しいのか?」
「けっこう珍しいと思うぞ」
へぇ、と目を瞬かせたアルヴァは、足の置き方に一層気を付けて、歩を進める。そうして歩いて、やがて、前を飛ぶ氷神竜の進みが止まったところで、アルヴァも歩きを止めた。が、あげた右足が下ろせない。ベッドの近くとなると花も密集して咲いていて、アルヴァは足の踏み場を探して視線を床に這わせた。と、そんな彼女に声が掛かる。
「何をしているのです。踊っているのですか?」
「あ、いや……不格好な姿を晒してしまい、申し訳ありません」
この花が綺麗で、と呟くアルヴァに、ザミルザーニアはフッと笑うような息を漏らす。
「雑草です、好きにお踏みなさい」
――エクリクシスは珍しい花だと言ったけど、雑草なのか、コレ。
氷神竜の言葉に、アルヴァは小さく首を動かして、エクリクシスを見る。と、彼は苦笑を浮かべ「氷神竜様にとっては、抜いても生えてくる雑草だろうなぁ」と溢している。
ああここにルカがいれば、とアルヴァは弟を思う。
――ルカがいてくれれば、この花の一般名から学名、効能、果ては市場価格までわかるだろうに。
だが、弟はいない。シロック村で、アルヴァとイグニアと、それからエクリクシスの帰りを、心配しながら待っていてくれている。
なぜ氷神竜様が私を寝所に案内したのかはわからないが、とアルヴァは気合を入れなおし、比較的花の咲いていない床に右足を着き、ついでに、足元を見ながら左足も引き寄せた。彼女が居間立っているのは、丁度、天蓋のあわせの前だ。
アルヴァは、床を撫でている天蓋の裾を見つめながら、フッと息を吐く。
ザミルザーニアがマイペースな神であることは、アルヴァも何となく気が付いている。なので、彼女は今度こそ、氷神竜に自分の言葉を聞いてもらおうと息を吸いこみながら、顔をあげ――。
「――ああ……ザミーニャさま、と……人間の子の匂いだわ。なんて暖かな火の香り……そちらのお嬢さんは、エシュカさんの翼の下で、育った子供ですわね……」
――吸った息を、細く細く吐き出した。
「フロスティア」
「ザミーニャさま、人の子が、ここに来たという事は、扉が開いたのですね……わたし、早く、息子のもとに、ゆかねば……」
げふげふ、と重い咳が空気を揺らす。
横たえられた頭が揺れるのに合わせ、元はフワフワしていたであろう濁った水色の鬣の、手入れの行き届いていない絡まった毛束がガサガサ震える。
――と、声を出せないアルヴァの前で、巨体がグラリと身を起こす。
戴く一対の角さえ重そうに、目の前の竜は、獅子に似た顔をゆっくりあげた。――それだけで、フウフウ辛そうに息を吐いている。
首元を覆う鬣は、縮れ絡まり、見る影もない。
その鬣から覗く、緩くカーブした角は、元が黄色かったことなど忘れたようにくすんでいる。
そして、何より背中を飾る翼。トレードマークの羽毛も、ところどころ抜け落ちて、肌の色を晒している。
アルヴァは、やっとの思いで唾を飲みこみ、静かに口を開く。
「――氷、竜……」
アルヴァの声に、閉じられていた竜の――ボロボロの氷竜の瞳が開く。深い深い銀色を灯していたであろうその瞳は、雪のように白く濁っていた。
「匂いと同じく、優しくて、暖かい声」
見えないけれど、と氷竜はゆっくり鼻を鳴らして口を開いた。
「きっと、あなたのお顔も、灯火の様に、優しいのでしょうね……」
二度目の咳と共に、風が空気を揺らす。
アルヴァは、自分の隣に降り立ちクウクウ鼻を鳴らすイグニアの首を、慰めるように撫でる。そうしてやりながら、アルヴァは、目の前の光景を信じられずにいた。
――竜の長い命が終わるとき……少なくとも、火竜は、こんなふうにボロボロにはならなかった。
アルヴァは、一度、老竜の死に立ち会ったことがある。
まだ彼女が幼い頃の話だ。
命の灯が消えるという時も、その火竜は、鱗も、角も、変わらず輝いていた。その瞬間だって、咳の一つもしない――本当に、眠るように……淡く微笑みながら、だった。
そして、その姿のまま、静かに燃え上がった火竜は、淡く輝く火の粉となって、フワリと天に昇って行った。
その記憶が引き金となって、幼い思い出が脳裏に湧いてくる。
――どうして笑ってたの。
火竜の死を目の当たりにした幼いアルヴァの、涙ながらの問いかけに、エシュカはこう答えた。
――竜の死は、死ではありません。別れでは、ありません。
――父たる、母たる神竜様の御許に向かい、そして、一つになるのです。
――そうして、しばらく休んでから、再び生まれるのですよ。
ほら、と微笑むエシュカの金の眼の見る先にあるのは、マグマの側で微睡む大きな卵。
――私の娘もそうですよ。ずっとずっと、ずーっと昔。神竜様の御許へ向かい、そして十分休んだ竜の御魂が戻ってきたのです。
――私たちは、神竜様の許で一つだった。そして、再び一つになる。
――だから、竜の死は死ではなく、別れではないのです。
でも私は人間だから、みんなと離れ離れになるんだ。そう言って泣いて、エシュカを困らせた思い出をよみがえらせながら、アルヴァは目の前の氷竜を見る。
くすみ、ボロボロになった姿。
盲いた瞳は、もしかしたら、ずっと昔から『こう』なのかもしれないが。
――それにしたって……これは。
死を無理やり遠ざけ続ける代わりに、その身をボロボロにしているのだろうか。
神竜様の――目の前にいるザミルザーニア様の許で、安らぐつもりはないというのだろうか。
一体どうして。
そんなふうに考えるアルヴァの脳裏に、先ほどの氷竜の言葉がよぎる。
『わたし、早く、息子のもとに、ゆかねば……』
もしかして、とアルヴァは目を見開いて、口を開きかけるが――それは、やはりと言おうか、氷神竜によって遮られた。
「娘。お前に頼みたいことがあります」
ザミルザーニアの声に現実に引き戻されたアルヴァは、はい、と静かに返事をしながら、真剣な眼差しを氷神竜へと向けた。




