手紙と翼竜⑨
イグニアの口に灯る炎のおかげで、二人が立っている周辺は焚き火を燃やしているように柔らかな光で照らされている。
その明かりのもとで顔に影を落としたルカが、そっと口を開く。そこから零れるのは、重い声。
「姉上……これ……」
「……うん」
ルカが姉へ向けたその真剣な声への短い返事もまた、真剣で固い響きを帯びている。
アルヴァの頬を、つ、と伝う汗が、炎に照らされて光る。
「『竜の聖女と神竜』……陛下の紋章だ」
――やっぱりそうだよな。
ルカは返ってきたアルヴァの声にそう思いながら、小さく唇を噛んだ。それから彼はゆっくり立ち上がって、姉を呆然と見つめる。
「……陛下の――国の物ってことですよね」
ルカの確認するような声色に、アルヴァは深刻な顔で頷く。ルカは片手で口を覆って眉を寄せた。
「嘘だろ……どうしましょうか」
知らなかった、で済むことでもない。それはルカにだってわかる。そんな彼の横で、アルヴァは小さなため息を漏らした。
「……理由を……こいつが暴走していたって説明できれば、何とかなるとは思う……」
陛下が以前のままでおられれば、の話だが。
そう続いた低い声に、ルカは、そこも懸念材料かもしれませんけど、と姉を見る。
「どっちにしろ謁見できなきゃ無理ですし……父上でさえ謁見できないのに、姉上が申し出たって通るわけがないですよ」
「そうなんだよなぁ……」
ため息交じりのルカの言葉に、アルヴァが唸る。最大の障害に、姉弟はそろって表情を更に苦いものに変えた。
陛下の――国の所有物を、しかもおそらくは陛下の近衛騎士団である聖都騎士団の竜騎士が乗るであろう翼竜を、自己防衛とはいえ殺してしまったのはまずい。
どうしたら、と立ち尽くす二人の後ろで物音がした。と同時に悲鳴が上がる。
聞き覚えのある高い声に、ルカとアルヴァは振り返った。
その視線の先にいたのは、姉弟に追いついたカレンとケネスだ。
アルヴァに小言を投げるケネスの横。わなわな震えるカレンは、そのサファイアブルーを見開いて、翼竜――ではなく、アルヴァの方へと視線を向けている。
震えていた唇がゆっくりと上下に割れる。そこから飛び出したのは、悲痛ともいえる叫び声だった。
「それも借り物なのにぃっ!」
そう叫んだカレンの青い目、そこに溜まるのは、今にも零れそうな涙。薄闇の中、イグニアの炎に照らされて、カレンの目じりがキラリと光って見える。
ルカはその視線を辿って、頭を抱えた状態で金縛りにでもあったように、ピタリと固まっている彼女が見ている物を突き止めた。
手だ。彼女は、アルヴァの手を見つめている。
ルカと同じようにその視線を追ったらしいアルヴァが、「あっ」と言って右腕をあげる。その手に収まっているのは、ひしゃげた銀の剣。
「あーあ……」
ルカは思わずため息を漏らす。それから、彼は横を見る。
やってしまった、という顔のアルヴァも、ちょうどルカを振り返ったところだった。
ルカは姉の手元を覗きながら、目を眇める。
――見分するまでもなく、ひしゃげた理由は明白。
最後に翼竜の頭に突き刺した時に加わった力に、付与された力が耐えきれなかったのだ。
修復不可能なほどひしゃげた銀の剣をアルヴァは申し訳なさそうな顔で、おずおずとカレンに差し出している。その時やっと柄に目を落としたらしいアルヴァが、ぎょっと目を見張ったのがルカの瞳に映る。アルヴァの金琥珀が映すのは、比較的以前の姿を保っている柄の装飾だ。
「……ああ、まいったな。これ、儀礼用の剣か」
近寄ってきたイグニアが小首をかしげる。それすら気づかずに、カレンは青い目に涙をためていた。
左手で頭を掻いてから、アルヴァはカレンに深く深く頭を下げる。
「本当に申し訳ない。後で、君のせいでこうなったわけではないと私の方から女王陛下に弁明をしないとな……」
「あ、あう、借り物、借り物なの……ひやぁぁ! りゅ、竜ー! ごめんなさいごめんなさい、許しますから! アルヴァさんのこと許しますから食べないでぇっ」
ボロボロと涙をこぼしてカレンが腰を抜かす。
イグニアは不思議そうに首を傾げたが、カレンが自分を怖がっていることは気づいたようで、一歩二歩、と退いて、行儀よくお座りした。
「おいこれ……」
ケネスの声に、アルヴァは顔をあげた。
「まずくないか、これ陛下のだろ」
「そうなんだよ。多分聖都騎士団の所有だろう、そうすると識別用に何か魔術をかけてあるはずだ」
アルヴァは困ったように眉を下げて続ける。
「となると、多分もう聖都はこの事態を把握してると思うんだ。そう日を置かずに、誰か遣いが来る」
「……その場合、来るのは聖都騎士団の誰かじゃなく、王室魔導士か」
そう言って眉間に皺を寄せるケネスに、アルヴァがひとつ頷いて見せてから翼竜の死体に目を戻す。
「――かといって、このまま放っておくのは忍びない。だから、まずは埋葬しようと思ってるんだ」
アルヴァの言葉に、放心状態だったカレンがそちらを見ないようにしながら叫んだ。
「こ、こんなに大きいのに、そんなの埋める穴、どうやって!」
「そうなんだよなぁ、どうしたものか……」
と、その時だ。アルヴァの声にこたえるように、かさかさと葉を揺らす音が四人の周りに響いたのは。
一瞬身構えたルカだったが、ここがどこだか思い出して肩の力を抜いて息を吐く。一方、いきなり現れた気配に、何もわからないカレンは抜けた腰で必死に立ち上がろうとわたわたしている。
ルカは彼女に手を貸して引っ張り上げながら、静かに言った。
「大丈夫ですよ」
がさっと一番近いところの茂みが割れる。そこから、ひょこり、と心配そうな顔を出した小人は、アルヴァの顔を認めるとホッと胸をなでおろす仕草をして、後ろに合図を出してから茂みから出てきた。
わらわら、とアルヴァの膝の高さほどの小人が周囲の木々や背の高い草の間から出てきている。彼らは葉っぱを編んで作った腰巻やワンピースを身にまとい、手には細い木の棒やお花を携えていた。
小人たちはアルヴァを囲むと、つぶらなブラウンの瞳で彼女を見上げた。
アルヴァがゆっくり静かにしゃがみ込む。彼女がそうすると、小人の群れから一歩前に出てきた、髭を蓄えた小人――おそらく長なのだろう――がアルヴァに向かって小さく手をあげてから、その手でゆっくりと、横たわる翼竜を指さした。
アルヴァはゆっくり頷いて、ひそめた声で言う。
「ああ。死んでいるよ。耳の良い君たちにとっては、ものすごい騒音だったろう。すまなかった」
「――?」
長はパクパクと聞き取れない小さな声で囁く。
だが、一番近くで耳をそばだてていたアルヴァには聞こえたのだろう。何の問題もなく小人たちの声を拾ったらしいアルヴァは、再び、静かに静かに囁いた。それこそ、夜のそよ風に攫われそうに小さい囁きだ。
「そうなんだ、あの子を埋葬したい。君たちのやり方でいい、私を助けてくれないだろうか」
彼女の囁きを聞き届けたらしい長は、アルヴァの顔を見ながら、胸に手を置いて悼むような表情を顔に乗せた。後ろの小人たちも同じ動きをする。
それから長は小さく口を動かして、大きく頷いて見せた。
「――ありがとう。あの子をよろしく頼む」
アルヴァはそう言って、優しく笑う。すると長もにっこり微笑んで、それから小人たちに指示を出し始めた。
小人たちがわらわらと動き出す。幾人かはアルヴァの足元に残り、彼女を交えて何やら話し合いをしているようだった。
と、ルカに縋りついていたことにようやく気づいたらしいカレンが、慌てて彼から身を離しながら、小さく尋ねた。
「何ですかあれ」
「オークですよ」
なんでもない声で言ったルカを遮って、オークという単語にカレンが叫びそうになる。その口を慌てて塞いで、ルカは小さな声で続けた。
「君、勘違いしてるみたいだけど、彼らは『花オーク』。君が想像してるオークとは違います」
訝し気な瞳に、ルカは説明を続ける。
「この国のオークは周囲の環境に沿って育ちます。君らみたいな女騎士の天敵なのは、山賊や性質の悪い傭兵なんかを見て育ったオークですよ。花オークは、穏やかな生き物が多い森の中で植物と一緒にゆっくり育ったオークです。彼らを囲む穏やかな森と同じく、優しい気質で、耳がかなり敏感なんです。絶対に叫ばないでください。それとも君、森を出るまで僕がずっと押さえてましょうか」
それは嫌だ、と首を振るカレンに、ルカは「大きい声出したら猿轡噛ませますからね」と念を押してから、ゆっくりカレンの口から手を離した。と、姉と花オークたちの小さな小さな話し合いも終わったらしい。
「――あの子のことは彼らに頼んだ。私たちは行こう。早く父上に報告したほうがいい」
アルヴァの言葉に、ルカとケネスが頷く。
植物を操って作った大きな目隠しを翼竜の顔に着けている小人たちに背を向けて、四人はゆっくりと歩き出した。




