挿話――乗合馬車:火精霊とは
水神竜マイムと共に病院に戻ったルカを出迎えたのは、水竜の長のレインだった。レインに案内されて向かったのは、ノエルの病室。部屋の中では、すっかり元気を取り戻したらしいノエルと、それから、彼の話し相手になっているアルヴァたちがいた。
ルカは、昨日のようにストールを顔に巻いた姉に、先ほどあったことの一部始終を伝えた。
後ろに浮かぶ青い球体のこと。祠は無事起動できたこと。それから、祠に向かう前と、ここに戻ってくるまでに、王室魔導士の襲撃に遭ったこと。
特に姉が興味を示したのは、幾度か目を合わせただけで、機械兵がルカをルカだと突き止めた、という事実だった。これまた隠すのが難しいところを、と姉が腕組みして呟いた言葉に、ルカは深く頷いて同意する。
そうして、今まであったことを姉に報告し終えた、その時だ。
病室のドアが、控えめにノックされる。
顔を見合わせるルカたちに変わって、動いたのはレインだ。彼女は躊躇せず、ドアを開く。と、そこに居たのは、アルヴァたちを迷いの山からここまで連れてきてくれた、水竜の少女だった。
「長、なんか変な人たちが病院の近くまで来てるの」
その言葉に、ルカは姉に目配せする。アルヴァもほぼ同時にルカのことを見ていて、その顔は真剣そのものだった。姉の金琥珀に、ルカが「王室魔導士ですね」と視線だけで言えば、アルヴァは小さく頷く。それから彼女はストールをずりおろし、マイムの方へと素顔を向けながら口を開いた。
「マイム様、私たちはもう行こうと思います」
「そっか。気を付けてね。僕もついていければよかったんだけど、そう言うわけにもいかないからさ」
そう言って、マイムはルカたち一人一人の額に、口づけでも落とすように触れて回る。最後にフィオナの額に触れてから、水神竜は開け放たれていた窓からフワリと空へ躍り出た。
「代わりと言ってはなんだけどさ……君たちが無事に島から出られるように、少しだけ手伝わせて」
その言葉と共に、晴天を覆い隠すように、極小の水滴が広がっていく。
――霧だ。迷いの山を迷いの山たらしめているのと同じ、色濃い白。
見る間に島の端まで包み込んだ霧は、しかし、ルカたちの視界を邪魔することは全くなかった。
不思議な気分だ、とルカは目を見開きながら窓の外を見る。
――霧で煙いのに、島の向こうのその先まで見える。つまりこれは、ただ霧を呼んだのではなく、魔力由来の濃霧ってことか。火精霊の操る火が、何を燃やすか自分で決めるように――水神竜の操る霧は、誰を迷わせ誰を導くのか、意のままなんだ……。
そう考えながら、ゾクゾクとルカの背中を駆けあがるのは、格の違いを見せられたことへの畏れと、それから、喜びだ。それが自分の物なのか、繋がっているフォンテーヌから流れ込む物なのかはわからない。だが、欠片も不快感は無い。
と、ルカがある種の恍惚を感じている間に話は進み、一行は霧に満ちた街を駆け抜け、玄関港と大きく離れた砂浜にやってきて――そして、大きな水竜の姿に戻ったレインの背に乗って、無事にプラートゥス島を脱出したのだった。
レインの背中は、六人乗せてもなお、広かった。
六人のうちの一人は、ルカとフィオナの手で再び人の姿に変えられたイグニアだというのに、レインは疲れ一つ見せず、小さな港町の近くの海岸まで一行を乗せて泳いでくれた。
「カレンちゃん、申し訳なかったわね。怖かったでしょう」
レインの優しい声に、ルカにしがみついて今にも腰を落としそうなカレンは、ぎこちない笑みで首を横に振って見せている。駄々をこねないだけ成長したな、なんて考えながら、ルカはレインを見上げた。
彼女の頭には、見送りについて来てくれたノエルがいる。彼の顔色に問題ないことにほっとしてから、そう言えば、とルカは慌ててネックレスを引っ張り出した。
「レイン様、お借りしていたマイム様の鱗を――」
ルカの声を、君が持ってていいよ、というレインの優しい声が遮る。
「この後も必要になるかもしれないし。あとでいいよ、返してくれるの」
ね、と言う声は、優しいけれど有無を言わさない色を持っている。だから、ルカは「ありがとうございます」と深く頭を下げて、そしてネックレスを懐に戻そうとし――姉を見た。
彼女はルカを促すように頷いている。
お前が持ってろ、と姉は目でそう言っている。ルカは観念して、ネックレスを胸元に戻した。
じゃあ帰るね、とレインが海に戻っていく。先ほどからルカの肩の上でそわそわしていたフォンテーヌが、こらえきれず、と言うように声をあげた。
「す、水竜様! あなたのお姿を、お借りしてもよろしいですかっ!」
レインが、いいよー、と朗らかに答える。フォンテーヌの喜びの感情が流れ込んできて、ルカまでなんだか踊りだしたい気分になった。と、海岸から十分離れたレインの周囲で、噴水のように細く美しく水柱が上がる。それと共に聞こえてきたのは、大きな、しかし、穏やかなレインの声。
「お前たちを運ぶ流れの、清らなることを。いと深き清水の導きあらんことを」
いつでも遊びにおいで、と。そう言って、レインと、それから彼女の頭の上からこちらに手を振るノエルが遠くなっていく。
それを十分見送って、それから一行は歩き出す。
氷神竜の祠を目指すためには、まずは乗合馬車を見つけなければならなかった。
――と、ルカはおおよそ馬車に乗る前までを振り返りながら、死んだ目で、向かい側の馬車の壁を見つめていた。
女装はしていないから、精神的に参っているわけではない。
乗り物嫌いが顔を出しているだけだ。
どうせ僕は馬車に揺られて眠ることができないから、とルカは姉と妹分とケネスと、それからフィオナも寝かしつけたところだった。
都合のいいことに、馬車を一両、貸し切ることができていているから、前や後ろの車両と違い、ここにいるのはルカたちだけ。
「……姉上、いくら使ったんだか」
ルカがぽそりと溢した言葉に、船を漕いでいたカレンが顔をあげる。が、ルカはそちらを見もせず、ただぐったりと馬車の壁に寄り掛かる。そんなルカの頬を、フォンテーヌが気づかわしそうに撫で擦る。
――しばらく無言が続いたところで、投げ出されていたルカの腕、二の腕当たりを包んでいる白衣がクイクイっと控えめに引かれた。ルカは億劫そうにユルリと目だけを動かした。そこにいるのは、怯えたような表情のカレン。彼女は翳り始めた西日に照らされながら、恐々と、小さく口を開いた。
「あの……なんか、聞こえませんか」
「あぁ……? 聞こえませんよ……」
「――ちゃんと聞いてください! ……ほら、やっぱり聞こえる。なんか、小さな手拍子と鼻歌みたいな……」
と、そこでその『音』とやらに察しがついたルカは、向かい側、ルカと同じように壁にもたれているアルヴァを指さした。
眠っているのかは定かではないが、彼女は静かに目を閉じている。伸ばした右足をイグニアの枕にしてやって、それから、左足は立てて、それを抱えるように腕を回していた。
ルカの指はは、その腕の中、大切そうに抱え込まれた剣を指している。
「あれです」
「あれ、って……アルヴァさんですか?」
「違います、姉上が抱えてる剣。あれが歌ってるんですよ」
正確に言えば、姉上の剣を仮宿にしているらしい火の妖精が、だけど。
ルカがそう続ければ、カレンはコテンと首を傾げて見せる。そうなるだろうと想像がついていたルカは、カレンに説明でもしてた方が気がまぎれるかも、と思いながら、ゆーっくりと瞬きをして、静かに唇を割った。
「砂漠で、機械兵の襲撃に遭った時。姉上の剣に、エクリクシスが炎を付与してくれました」
ふむふむ、と青い目を大きくしながら頷くカレンのことを、ルカは馬車の壁に頭を預けながら見つめる。そうしていると、車輪が跳ねる音やら振動やらが直にルカの頭を揺らすが、ルカは気にせず口を開く。
「その炎に寄ってきたんでしょうね。砂漠に居た炎の妖精が、姉上の剣に近寄って――」
そのまま、ポン、と。
「どうも、姉上の剣を依り代にしたみたいなんですよ」
そうするとどうなるか。
精霊の魔力付与のように、その妖精が司る力を借りることができるようになる。
――なるのだが、妖精と言うのは気まぐれで不安定。だから、なかなか人の言うことを聞いてはくれない。妖精と完璧に心を通じ合わせられる人間は、『妖精使い』と呼ばれる一握りしかいない。
『この人を援けてやろう』と妖精に思わせることができれば、彼らは相手が良く使う物に宿って、そっとその人を支えるらしい――と言うのも、ルカはまだ妖精使いに会ったことが無いので全てが伝聞なのである。
――これから向かうネーヴェルク地方には、有名な氷の妖精使いがいるって聞くけど、一目会えたら嬉しいな。
そんな風に思いながら、ルカはそれを口にも表情にも出さず、説明を続けようと口を開く。
が、視線の先にあるカレンの顔があまりにもポワンと呆けていたので、ルカは言葉を腹の中で選びなおしてから、音にした。
「――ええーっと、要は……姉上の剣には今、妖精が住んでいて……その子たちが、歌ってるんです」
「ほ、ほえぇ。そう……なんですね。その妖精さんたちは、なんでまた剣に? 剣なんて、沢山振られて住み心地悪そうなのに」
妖精が――火の妖精が、剣に宿ったその理由。
見当はついていたが、ルカは、一瞬言葉に詰まってしまった。
だからだろうか。静けさを縫うようにカレンの疑問に答えたのは、ルカの頬を撫でるフォンテーヌだった。
「――アルヴァの剣の振るいに、死に場所を見つけたんでしょうね」
「死に場所を、見つける?」
カレンが声を潜める。
ルカは静かに目を伏せて、馬車の床を見た。薄っすら空いている隙間から、街道の石畳が見えている。
「……そうよ。火の精霊も妖精も、みんな、素敵な最期を夢見て生きてるの」
水面を揺らす小さな波紋のような声で、フォンテーヌは語る。
「華々しい最期を。誇れる最期を。――炎の大輪を咲かせて死ぬのを。それを夢見て、みんな生き急ぐのよ」
だからでしょうねぇ、とフォンテーヌはどこか遠くを見ているようだった。
「火の精霊って、普通は、人よりも早く死ぬのよ」
ルカは、人より早く死ぬことができない火の精霊を、知っている。
「じゃあ、エクリクシスさんも……?」
カレンのほんのり沈んだ声に、フォンテーヌは悲しそうに笑って首を振る。
「アイツはね、普通から外れちゃってるみたいなの」
そう、エクリクシスは長くを生きている火精霊。
華々しく弾けることを夢見る彼は、フォンテーヌより少し長く生きている。
――つまりは、ルカの十倍以上を生きているのだ。
フォンテーヌとエクリクシスが初めて出会ったのは、常若の国にある泉だったと、ルカはそう聞いている。その泉はフォンテーヌが住処としている清らな水の湧く泉で、ある日、その中に飛び込んできたのがエクリクシスだったのだという。
自殺しようとする精霊なんて、初めて見たわ、と。
そう言ったフォンテーヌの寂しそうな辛そうな笑顔を、ルカは未だに鮮明に覚えている。と、そんな風に頭では過去を呼び起こしながら、彼の手は現在の世界でバッグを漁り、本型の小物入れからルビーを取り出していた。
ルカはその赤を手で包み、静かに静かに撫でる。
「――エクリクシス、死ねないことを気にしているから……妖精たちの死に際に、鉢合わせたりしなきゃいいんだけど」
過去に頭を向けていたルカは、フォンテーヌの声に現実へと引き戻されて、ふっと顔をあげた。その目が見るのはカレンだ。彼女は『どういう顔をしていいのかわからない』と言うような表情を浮かべてフォンテーヌを見つめていた。
そんな彼女に、フォンテーヌは静かで柔らかな、悼むような笑みを見せる。
「――カレン。今の話は、ここだけの話にしてね」
懇願するような響きを隠したいつも通りのフォンテーヌの声。そんな声に、カレンは、ルカが見た中で一番真剣な顔をして、それから静かに頷いた。
――馬車が揺れる。
射し込む赤はすっかりその色を弱くして、馬車の中にも柔らかな夜が忍び込み始める。
ルカが「君も寝ていいですよ」と静かに伝えても、彼女から返ってくるのは、「わたしも起きてます」という静かな、しかし退きそうにない雰囲気の混ざった声色で。
ルカは隣に体温を感じながら目を伏せて、静かに静かにルビーを撫で続けた。




