水神竜マイムの祠④
水竜のかたちをした結界が、そろりそろりと海底を歩く。そのたびに舞い上がる細かい砂に、そこに潜んでいたらしい魚が迷惑そうに逃げていく。
そうして海底を運ばれるルカだったが、彼を包む結界の進みが、ピタリと止まった。
――わかる。立ち止まりたくなるよね。
そう考えながら、ルカは、水の結界にそっと手を触れさせた。
『ご、ごめんなさいね、ルカ……ちょ、ちょっと、緊張して……』
脳内に響くフォンテーヌの声は、聞いたこと無いほど緊張にまみれて震えている。
普通ならば結界なんて維持できないだろう状態で、しかしフォンテーヌが結界にたわみ一つ表さない。他でもないルカのため、と言うのがルカにはよくわかる。なんて言ったって、今は宝石を通して心が通じ合っているのだから。
『大丈夫、ゆっくりでいいよ』
追手が来てるわけでもないし、とルカは言葉を続ける。それを聞いたフォンテーヌが大きく深呼吸したのが、結界の中に小さく響いた。俯いた水竜の口元から、小さなあぶくがポコポコ生まれて昇って行った。
それを見上げながら、ルカはキュッと唇を軽く噛む。
『――ていうか正直僕も……』
ルカは、そこで考えるのを一時止めて、チロリと唇を舐める。これだけ水に囲まれているというのに、ルカの唇は乾燥しきっていた。それから、ルカは自分の胸元を見下ろして、いろいろがない交ぜになった笑みを浮かべた。
神竜たちの鱗が通ったネックレスを握り締める自分の手が、カタカタ震えていることに気づかないルカではない。
『……僕も、かなり、緊張してる』
ルカがそう溢した時だった。ぐぐ、と結界が動く。
フォンテーヌが舵を取ったわけではない。
水竜を模る結界の足は未だに歩を進めておらず――しかし、海底の砂に線を引きながら、ルカたちは青い光の方へと引き寄せられている。
『えっ!?』
『やだ、急に海流が……っ! 待って、あたし、まだ心の準備がっ!』
できてないわよぉ! というフォンテーヌの悲鳴を聞きながら、ルカに出来るのはただ立ち尽くすことだけ。
最初はゆっくりだった進みだが、今や飛ぶような勢いで引っ張られている。周囲の魔力の青い灯火がどんどん流れて、ルカの視界に青い線を引いていく。その青の面積がどんどん増していき―。
「――……うっ、わ!」
がくん、とスピードが落ちて、ルカはふらりとよろけてから、周囲を見回した。
あたりを彩る、青、蒼、碧。
様々な青が、暗い海底を綺麗に照らし出している。そんな美しい景色の中を、ルカたちは、緩やかに変わったらしい海流に流されるまま、進んでいく。フォンテーヌも、もう心の準備をするのを諦めたようだ。流れに逆らう様子一つ見せないし、何なら、結界も元の姿に戻っている。
その水壁からポロリと零れるように出てきたフォンテーヌは、まるでルカに縋るように彼の肩に腰かけた。
結界は、海流に乗って二人を運ぶ。目的地は、周囲よりも一際青の濃い中心だ。
やがて海流は、海底からモコリと生えている、ルカの背丈ほどの岩の前で足を止める。
その岩は、中をくり抜かれてそこにある。
くり抜かれたその中に収められているのは、深い青の光球と、それから、海を閉じ込めたような青の魔力塊。
内部が丁寧に磨き上げられて柔らかく青を反射しているのは、その祠の主人の性格か、それとも海流が甲斐甲斐しく磨いて行った結果なのかは、ルカにはわからない。
ただ一つ、わかるのは――。
「……やあ、来たね」
遠くで止まっちゃうからつい引き寄せちゃったよ、と言葉を続けながら、微睡むように瞬く深い青の光球こそが、水神竜マイムそのひとである、ということだけ。
ルカは、水の結界の中、頭を垂れて跪く。
「わー、やめてよ。そういう柄じゃないんだ、僕」
ゆったり凪いだ声は、他の神竜同様、性別も年齢も判別できない。しかし、その声から感じられる雰囲気は、風一つ起こらない海底をその身に体現しているよう。
「きみ、結界の起動をしに来たんだよね?」
「は、はい……水神竜マイム様」
ルカは緊張に声を震わせながら、顔をあげる。仰ぎ見れば、青い光球――水神竜マイムは、ふわり、と祠から出てくるところだった。円い体が欠伸でもするようにほんの少しだけ縦長になる。そんな水神竜に、ルカは経緯を説明する。
「――という理由があって、僕たちは禁足地に入らないといけないんです」
「エザフォスの方から魔力流れてきてたし、禁足地関連だろーなーと思って、準備はもう終わってるよ。もう結界を起動できるけど――」
その前に、とマイムの体が水の結界にめり込んでくる。と、フォンテーヌが悲鳴を上げた。
「あ、ま、まってください、あなた様が結界にお入りになられると、あたし、結界の維持……っ!」
言葉と共に、結界がたわむ。刹那、ルカの頭にフォンテーヌから流れ込んでくるのは、ルカの名前を叫ぶ声と、彼を案じる感情。
ルカは、フォンテーヌの魔力の手綱を何とか取ろうと、暴れる水球の床に手をつく――が、一足遅かった。
――まずい、結界が……!
キン、と金属がぶつかり合うような音が響く。たわみ揺らいでいた結界が、まるで先ほどまでの様子は夢か幻だったかのように、静かに凪いで丸みを戻す。
ルカとフォンテーヌは、同時に息を飲んだ。
フォンテーヌと感覚を共有しているルカだからわかる。
ルカを検分するようにフワフワしているマイムが、フォンテーヌの結界に干渉して結界を修復したのだ。
他者の編み上げた結界を、許可も取らず、権限も譲渡されず――それなのに、ひとつも崩さず修復するなんて。
竜にも精霊にも、ましてや人間になど、逆立ちしたってできない芸当だ。
――神竜にしか、できない芸当だ。
その『御業』と言ってもいい芸当をやってのけた本人は、特に疲れを見せることもなく、のんびりともまた違う、感情の起伏の薄そうなしゃべり方で言葉を紡ぐ。
「だいじょーぶ、僕が維持するから」
そう言いながらルカを一通り眺めまわしたらしい水神竜が、チッカリ、とゆーっくり瞬いた。
「――うん、きみ、悪い子じゃないね。結界起動しても、だいじょーぶそう」
じゃあ、起動するね、と。
マイムが一言口にすれば、魔力塊が煌きはじめる。夜のように暗い水底に、青い光が満ちる。
その光の奔流に目を閉じたルカは、国の周囲を巡る規模の結界が、三段階目まで組み上げられたのを敏感に感じ取った。
――後で……何もかも終わった後で、神竜様たちに結界の組み方をご教授いただきたい……。
ルカは静かに目を開けて、目の前で揺蕩う水神竜に、きらきら輝く濃琥珀を向けながら、そんなことを思うのだった。




