〝鱗吐き〟と迷いの山③
病院からの帰り道、ルカたちはすっかり暗くなった空の下を、濃紺の髪の女性について歩いていた。
大通りを右へ左へ、街を進んでいく。周囲の家々には、暖かいが灯っている。その光は、心配そうなルカの横顔を照らしていた。彼が見つめるのは、姉が腕に抱きかかえているノエル少年。アルヴァに身を預けてクッタリしている彼を見ながら、ルカは心の中でため息をついた。
――やっぱり、無かったか。
何が無かったのか、と言えば、『鱗吐き』の症状を緩和する薬だ。
先ほど、病院で医師と話をしたのは、ルカだ。拾い集めておいた魔力の鱗を見せながら、ルカはノエルの症状を子細に伝えた。結果、帰ってきたのは申し訳なさそうな顔と、苦々しい声。
喉にできているであろう傷、それから、過度な嘔吐によって引き起こされるであろう炎症。それらに対する薬はあった。錠剤と、とろりとした水薬。どちらも病院で受け取って、今はルカのカバンに入れてある。
問題は、肝心の『鱗吐き』を何とかする薬が無いことだ。
まぁ、仕方ないか。『鱗吐き』の薬、日持ちしないもんな。
ルカは、そう思いながらもう一度ため息をつき、前を向きながら思考を巡らせる。
魔力凝固を溶かして、体外排出を促す薬は数種類ある。そのどれも、作って一週間ほど経つと効果が消えてしまうのだ。聖都なんかの大きな病院ならいざ知らず、街の病院にはまず常備されていない類の薬だ。
それでも、港街ならもしかしてと思っていたんだけど、とルカが三度目のため息をついた時には、もうノエルの家へと着いていた。
濃紺の髪の女性は、手慣れた様子で扉の鍵を開け、それから扉を開いて道を開ける。促されるままに、ルカたちは家に入った。
生活の火の灯っていない家は、春の夜を過ごすにはいささか寒い。と思っていたら、濃紺の髪の女性が、壁際の小さなテーブルに置いてあった水晶を撫でた。それと同時に、天井にくくられているいくつかのカンテラに光が灯る。部屋の中も、ほんのりと暖かくなり始めた。
「うわぁ、魔力感応式……」
思わず零れたルカの呟きに、女性は控えめに微笑んで口を開く。
「ノエルのお父さんが新しいもの好きなの」
ノエルの部屋はこっち、と家の中をすいすい歩く女性に、アルヴァがついて行く。そのすぐ後を追うのはイグニアで、彼女は心配そうに「んー」と鳴いている。そんな彼女を宥めながらケネスが続く。そこに、フィオナもついて行く。ルカは、きょろきょろとあたりを見回しているカレンを一瞥して、それから彼女を放って歩き出す。と、慌てたようにカレンも歩き出した。
廊下を歩いた奥、貝殻やサンゴで飾られているドアプレートがかけられた扉を、濃紺の髪の女性が押し開く。扉をくぐって部屋の真ん中に立ったアルヴァが、ノエル少年を抱えなおしながらルカを振り返った。
「……とりあえず、ベッドに寝かせて大丈夫かな」
「ええ。しばらくは嘔吐もしないでしょうし、寝かせてあげてください」
わかった、と答えながら、アルヴァが窓際のベッドへと近づいていく。ルカも彼女の後を追った。そうしながらショルダーバッグをまさぐって、薬を取り出す。
ノエルは、涙の跡の残る目元を安らかに閉じて寝息を立てている。息音に異変がないか耳を傾けながら、ルカはベッドの横に膝をついた。
――フォンテーヌ。
心の中でそう呼ぶと、フォンテーヌはひょこりと鞄から顔を出した。ルカはまるでエスコートでもするように、リングブレスレットとアクアマリンで彩られた手をフォンテーヌに差し伸べる。
「――体調の確認ね。わかったわ、一緒にやりましょ」
どこかソワソワとした様子で鞄から出てきたフォンテーヌに首を傾げつつ、ルカはノエルに両手を伸ばす。左手はノエルの額に、右手は心臓の上に。そっと、優しく触れる。そんなルカの隣に漂っていたフォンテーヌは、ふわり、とノエルに近付いて、その腹の上にそっと腰かける。
そして、ルカとフォンテーヌは同時に目を閉じた。
視界を閉ざし、集中。
静かに静かにゆっくりと息をしながら、ルカはノエルに意識を集中させる。そうすると、フォーンテーヌを通してノエルの体の中を感じることができるのだ。
――心拍は正常。呼吸は……若干、異音があるけど、まあ許容範囲。問題は……。
ルカは息を吐き切って、目を開けた。眉間には皺が寄っている。
「あの、何か問題があった?」
また魔力塊ができてる? と、不安そうに溢される女性の声に、ルカは言いにくそうに口を開く。
「――ノエルくんの貯めこんでいる魔力の量が、多すぎる。これじゃあ、明日の朝になるころには……また魔力塊が気道に生えてしまいます。一度生えてしまったら、その場所に何度も生え続けてしまいますから――また、フォンテーヌにお願いして溶かしてもらわないといけなくなる」
問題があるとすれば、鱗吐きには、今のところ、根治させる方法がないことだ。
その旨を伝えると、女性は悲痛に満ちた表情を浮かべた。
ルカは軽く唇を噛みながら、すうすうと眠っているノエルを見る。
――僕たちがミーティアの街にいる間は、フォンテーヌにお願いすれば何とかなるけど……。
ずっとここにはいられない。ルカたちは、祠を巡らなければいけないのだ。
「じゃ、じゃあ、どうしたら」
「今できる最良は、抗凝固薬と魔力排出促進剤を飲んで寛解に向かわせることです。確か、聖都には鱗吐きを専門に診る病院があったはずですから……」
そこで、ルカは言葉を切る。
その病院に行って、薬をもらう。それが一番なのだが――。
「でも、もう船は出ていないんじゃ……」
カレンの不安そうな声に、ルカは頷いた。それから、『なので、朝まで僕が看てます。そのあと病院へ』と続けようとしたルカを、女性の声が遮った。
「――あたし、泳いで行ってくる……!」
ぎょ、と目を見張ったルカの目の前、女性は決死の表情で、部屋から飛び出していこうとしている。それをとどめたのは、アルヴァだったのだが……。
「う、おぉっ?」
ルカの目の前、あり得ないことが起こっている。
同性――そこらにいる異性にもだが――に力でなど負けたことのない姉が、女性に引きずられてバランスを崩しているのだ。慌てた様子で、ケネスがアルヴァを受け止める。
そこでルカは、『アレ?』と思った。
――姉上が同性に力負け。
実は、ルカは一度だけ、姉が同性に力負けしたのを見たことがある。相手は、人の姿に変化した火竜の女性だった。
――それから、フォンテーヌが何だか落ち着きがなくて。
ルカは、火竜が傍にいるときのエクリクシスも、こんな感じで落ち着きがなかったことを思い出す。エクリクシス曰く、『火竜は火精霊にとっては憧れの人のような存在』らしい。
――ノエルくんが倒れた広場で、この女性がやってきてから雨が降り出したよな。
火竜の怒りがそのまま業火の発生に直結するように、属性竜は感情が高ぶり魔力コントロールの箍が外れると、無意識に自然を動かしてしまうことがあるのだ。
火竜はそこかしこを燃やす。雷竜は雲もないのに雷を呼ぶ。地竜は地を揺すり、そして水竜は――刺すような大雨を呼ぶ。
「あなたもしかして……水竜ですか?」
濃紺の髪を揺らし、女性が動きを止める。沈黙が続く。
しかしこの場合は、沈黙が何よりの答えになっていた。




