マリッジブルー・イン・エレミア後編③
ゆっくりと湯に浸かって芯まで温まったルカはまだ乾ききっていない茶色の髪をタオルで覆って、ラフの部屋へと戻ってきた。部屋の主はいまだに戻ってきていないようだった。扉の開く音に振り向いたカレンの青い目がまん丸くなってルカを見ているが、彼は特に気に留めなかった。
扉に向かい合う方のソファに腰かけて、渇いた髪を一つにくくっていたアルヴァがルカを見る。同時に、彼女の傍にいたフォンテーヌがルカを目掛けてふわりと飛んできて、ルカの後ろに回った。
「ルカ、髪の毛やったげるわね」
そう言いながら、フォンテーヌはルカの髪を梳き始めたようだった。小さな手がルカの髪を何度も何度も撫でている。
「ありがとう、フォンテーヌ」
「いいのよ、好きでやってるんだものー。放っておいたらルカの柔らかい髪の毛が傷んじゃうしねぇ」
一撫でのたびに、ルカの髪が乾いていく。ソファに行って大丈夫よお、と言うフォンテーヌののんびりした声に甘えて、ルカはゆっくり歩いてアルヴァの隣に腰かけた。
「ん? どうした、ルカ?」
一緒に出て行ったはずのケネスが戻らないことにアルヴァが疑問を持たないのは、ルカが超早風呂で、ケネスが長風呂だと知っているから。髪を結び終えた姉に、ルカはフォンテーヌのゆったりした鼻歌を聞きながら質問すべくと口を開いた。
「ピンクの髪の人って見たことありますか?」
「ピンク?」
アルヴァの眉がピクンと動く。
「どんなだ? こう、淡いピンクか、それとも――」
――どぎついショッキングピンク。
姉弟の声がぴたりと合わさる。アルヴァの難しい表情に、これは王室魔導士関係か、と察しがつく。
「城の中で見かけたのか?」
姉の質問に首を振って、ルカは口を開いた。
「ラフさんの婚約者いるでしょう。あの人の肩に、抜け毛がくっついてたんです」
「んん、そうか。……うーん、ちょっとまずいかもな」
「王室魔導士ですか」
「うん。ほら父上が、私たちが村にいなかった間の話をしてくれたろう」
こくり、と頷くルカの髪が柔らかく揺れる。湿気はフォンテーヌによって、ほとんど取り去られていた。目にかかった髪をかき上げ、姉に続きを促す。
「王室魔導士と火竜でひと悶着あったって話、覚えてるか?」
「はい。確か、姉上は火竜を撃った王室魔導士の女を見たんでしたよね」
アルヴァが肯定しながら腕を組んだ。
「その女性の髪がな、ピンクだった。闇でも目立つ、ショッキングピンク」
まずいな、ともう一度アルヴァが溢した言葉にかぶさるように、扉の開く音が重なる。振り返ればそこにいたのは、ほこほこと湯気をまとってほんのり肌を赤くしているケネスだった。ルカはソファの背もたれに腕をかけて彼を見つめて口を開いた。
「王室魔導士の髪でしたよ」
「何の話……ああ、さっきのピンク髪か」
わしゃわしゃと髪をタオルで擦りながら、ケネスがアルヴァの隣に座った。彼を目で追っていたアルヴァが、あれだよ、と言う。
「ほら、エシュカ様と対峙してた女性」
しばらく中空に目をやって腕を止めていたケネスが、勢い良くアルヴァを見た。
「――……ああ! そうだそうだ、思い出した! 確かにソイツ、ピンク色だったな」
まずくないか、とケネスが姉弟を見る。まずいですよね、とルカが返すと、窓から景色を眺めていたカレンとフィオナが不穏を感じたのか不安そうな顔で三人に近寄ってきた。
「何か問題が……?」
カレンの声に、アルヴァがあいまいに笑みを返す。
「まあ、そんなに不安がらなくても大丈夫だよ」
これくらいなら何とかなる、と呟いたアルヴァのもとに、床に寝そべって天井を見上げていたイグニアが体を起こして歩み寄った。カレンの肩がびくっと跳ねるが、これでもだいぶマシになったほうなのだ。最初の頃のように飛び跳ねないのは大きな進歩だろう、と彼女を見ていたルカだったが、姉に目を戻した。
「ラフさんが戻ったら、伝えた方がいいですかね」
「うーん……いや、変に情報を与えるのも怖い」
確かにあのエネルギッシュさでは、エレミア騎士団やら衛兵やらを動かして街の中をひっくり返す勢いで捜索しかねないな。
ルカはその様子と、恐らく黒い瞳を黒曜石のように鋭く光らせるであろうラフを想像してコクリと頷いた。
「じゃあ、ラフさんにはとりあえず秘密ですね」
うん、とアルヴァが頷く。その少し後で、こんこん、と扉が叩かれた。入っていいですか、と小さく響いたのはラフのしょげ切った声で、アルヴァたち女子三人が慌てて扉に駆け寄っていく。その背を眺めながら、ルカは髪をフカフカに乾かしてくれたフォンテーヌに礼を言って、鼻から息を吐きだした。息とともにソファの背に身を沈め、ルカは窓の向こう、揺蕩う闇に目をやった。
翌朝。
朝食をラフの部屋でいただいて、ルカたちは現在、静かに駆ける風馬が牽く馬車に乗っていた。
エレミア城の後ろ、城からまっすぐ伸びる大通りには夜通しどんちゃん騒ぎをしていたらしい赤ら顔の男たちが、道端でいまだに酒を飲み交わしている。その横を通れば、男たちは楽しそうに、ラフィー様婚約おめでとーごぜーまーす! と調子っぱずれの声をあげて手を叩く。
彼らに手を振るラフは、控えめに笑みを返し、彼らが見えなくなると小さくため息を吐いたようだった。
しばらく無言が続き、一行を乗せた馬車は都を出て砂漠へと入った。輝く砂の海の向こう、赤茶がゆらゆら揺れて見える。その赤茶が、ルカたちの目的地がある岩石砂漠だ。
女装ではなく普段着を身に纏うルカは窓の外から目を動かして、向かい側の席を見た。
「大丈夫だよ、そんなに落ち込むな」
アルヴァが心配そうに言う。
「でも……」
「避けられているから彼女に会えなかったわけでは、絶対にないよ」
はい、と返事をしながらもしょんぼりと見えない尻尾を下げているラフを姉が慰める。よしよし、とあやすように肩を擦ってやっているアルヴァをルカは窓枠に頬杖をつきながら眺めていた。ラフを挟んだ逆側に座るケネスは、もうその光景を見ないことにしたらしい。貧乏ゆすりをしながら窓の外に目をやって、さも景色を楽しんでいるような顔をしていた。
大丈夫だ、ともう一度念を押して、アルヴァがラフの頭を撫でる。
長女と一人っ子の違いなのかな。そう思いながら、ルカは目の前の同い年には見えない二人をしばらく見つめ、また自分の足元に腰かけたイグニアの髪の毛を弄った。




