4-5.凍りついた陰謀
五
「それですよ」
江雷はある人物の胸元を指さした。
「わ、私?」
郡山は狼狽する。
「郡山さんが混入?」
桐川があり得ないだろうと口にする。
「いえ。郡山さんが所持しているものです。そこに、入っているじゃないですか」
郡山は顔を下げて自分の胸元を見る。そこには、業務で使用しているボールペンと鉛筆が入っていた。
「あっ」
郡山だけが察した。そして、鉛筆だけを胸ポケットから取り出す。
「これですね」
「その通りです」
「よくわかりましたね?」
「鉛筆を使ってって、言っていましたから」
ふたりだけの会話。他の者には何の話をしているのかわからなかった。
「おーい、わかるように説明してくれ」
岡田が介入する。
「郡山さん。お手間ですが、もう一度話してくれませんか? それを使って何をしたのかを」
「了解です」
自分だけがわかって優越感があるのか、郡山は意気込んで快諾した。
「最近、厨房の鍵穴がつまって使いにくいって話があったのは、みなさんご存知ですね」
「うん、確か堀尾が抗議してた」
桐川が相槌を打つ。
「今日はその対処をしておいたんです。滑りをよくするために」
「でも、駆けつけたときは押し込みにくかったって言ってなかったか?」
「あれ? そうですね?」
よく考えるとおかしい。心配になって江雷の顔を見る。
「続けてどうぞ」
それを聞いて安心する。
「でも、対処しておいたんです。この、鉛筆を使って」
手に持っていた鉛筆を前に差し出す。
「鍵が回しにくくなったときの対処は、シリンダーの鍵穴の中のゴミや埃を取り除くとともに、滑りをよくしておくことも大切です。そこで使えるのが、この鉛筆です」
「え、言っていることがよくわからないんだけど。それが何に使えるっていうの?」
桐川にはピンと来ていないようだ。
「いや、郡山さんの対処は正解です。滑りをよくするために黒鉛、つまり鉛筆の芯を使ってきれいにする方法が一般的にあるんです」
岡田が説明すると、桐川は「へー」と感心した様子だ。
「でも、掃除したのなら、なんで押し込みにくかったんだ?」
「さあ? 芯が中で折れたわけでもなく、きれいにしたはずなのですが」
「いえ、入っていたのは芯ではなく」
江雷が説明に戻ってきた。
「たぶん氷の欠片、破片です」
「あー、だからか」
「そう、だから微量に残っていた破片が解けて、シリンダーに水が垂れた痕が残ってしまったんです。初めから折れてしまっては使い物にならなくなっていたでしょうから、おそらく鍵をかけて抜くときに割れてしまったのだと考えられます」
「なるほどな」
「で?」
納得したものの、だから何? と言いたげな能見。
「ですから、掃除した痕跡、鉛筆の芯の屑が、残っているはずなんですよ」
「!」
「凍らせた氷は、霜がつくせいなのかな? 常温で扱っていると物が少し吸着しやすくなります。つまり、鍵穴に残っていた芯の屑が氷の鍵に付着しただろうということ。それをプリンに突っ込んだとしたら」
「プリンから、黒鉛が検出されるということだな!」
岡田が結論付けた。
証拠はまさに目の前にあったのだ。
だが、テーブルに置かれたそれを取ろうとすると。
「やらせないわよ!」
なんと、岡田の手よりも先に、能見がそれを手に取ってしまった。
「お、おいおい」
岡田はバランスを崩してテーブルに肘をついてしまうが、体勢を立て直して、能見に落ち着くよう冷静を促す。
「早まってはいけない。そんなことをしても罪がなくなるわけじゃないぞ」
能見はプリンをとても大事そうに抱えるように手に持つ。その表情には悲壮な感じが溢れでていた。
「そんなことをしたら、自分が犯人ですと言っているようなものじゃないか」
桐川が説得するが。
「いいじゃない。私が犯人なんだから」
自供した。この瞬間、警察は意識を変えた。逃れようとする犯人を全力で、安全に、だが確実に逮捕すると。
八十島はまず、関係のない者を部屋から出そうとした。
江雷、桐川、郡山の三人だ。
「待ちなさい。誰も出ていってはダメ。さもないと」
しかし、抵抗してきた。だが、人質がとられているわけでもない。何ができるというのか? ただ油断はできないと感じ取り、八十島は部屋を出ていくのを躊躇った。
「どうする気かね?」
岡田が刺激せぬよう静かに問いただす。
「これよ」
プリンを掲げる。飲み干して証拠を隠滅しようというのか。
だが、小さいなりにもケース一杯に入ったプリンを一気に飲み干せるとは思えない。
ならば、飲み干そうとした瞬間を狙って取り押さえにかかればいい。岡田はそう判断し、八十島もきっと上司はそうするだろうと考え、バックアップする態勢を取った。
「ふふふ」
だが、能見は笑っていた。
「何がおかしいのかね?」
「飲んだり捨てたりするのを押さえようって言うんでしょ? そんなことで間に合うとでも思っているのかしら?」
「間に合う?」
どういう意味なのか。
「なぜなら、このプリンには」
言葉を区切る。
「毒物が混入されているのだから!」
警察は動けなくなった。
犯人に人質はいらなかった。人質となっているのは、犯人自身だったのだから。
先刻の病院の報告によれば、堀尾が持っていたスポイトの劇物は数滴程度で死に至るという話であった。ならば、氷以外に嵩が増えているとしても判別できぬ程度のもの。だが、それが入れられているということは。
「バカな真似はよしなさい。第一、堀尾さんは死んでいない。命に別状はないという話だ。治療が済んで安静な状態となったらお見舞いに行ってあげるといい。大切な友達なのだろう?」
「大切な友達?」
能見は鼻で笑い飛ばした。
「違うわ」
「違うとは? 恨んでいたのかね?」
「それも違う」
否定され続ける。
「愛していたのよ!」
「……」
「……」
岡田も、桐川も愕然とした。
「だから、邪魔をしていたの。本番前に。彼は沈み込むから。励ましにね。結局、口論になっちゃうだけだったけど。他の人はただ、邪魔をしていただけのように見えてたみたいだけど」
「では、なぜその彼を襲ったのだ?」
「愛しさ余って憎さ百倍? みたいな? ううん。ずっと悩んで、鬱っぽくなっていたのよ。ケガをして、技術が磨けなくなって、自分の作品が思うように作れなくなって。そしたら彼はある日、こう漏らしたわ。いい作品が作れないなら生きている価値がない。もう死にたい、とね」
「なんと……」
「尊重、してあげたくてね。止めてもどうせ聞かないだろうし。それならいっそ、私自身の手で」
岡田や江雷に鳥肌が立つ感覚が襲った。考え方が理解できないことはないにしてもそれを実行するなど尋常ではない。
「毒物はたまたま調べていたら裏取引をしているところがあったから、そこで買って手に入れた。でも、なぜ毒を使って殺さなかったと思う?」
岡田は答えあぐねた。下手な回答をして刺激を与えてはいけないから。
「わからないでしょうね。彼は気づいてしまったのよ。私が毒を盛って殺そうということをね」
「そんな、まさか」
「まさかだったわ。まあ厨房にスポイトを持ってきている時点で、不審がられていたけれど」
やはり、スポイトは犯人のものだった。堀尾自身の証言もあることだし、岡田も江雷もうすうす感じていたが、答え合わせまではここまでできなかった。
「そうよ。彼は私が着々とトリックの準備をしている間に、スポイトを取って作った焼きプリンに毒を入れてしまったのよ」
桐川はこのとき胃が痛くなる思いがした。自分がつまみ食いをして怒られたのは、トリックに使う分がなくなるからだけではなかった。毒が入っているプリンを食べてしまう恐れがあったからだったのだ。
「今まさに毒の入ったプリンを食べようとしたところで、私がとっさに思いついて必死に取った行動は」
「まさか、保管庫から取りだした氷を使って」
「その通り。おかげで肩を痛めてしまったわ。これでいろいろな予定が狂ってしまった。とりあえず毒が入ったプリンは流し台に捨てたけど、トリックのためにどうしても一個だけは残しておかなければならなかった」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
岡田には少し、話の見えないところがあった。
「予定とは、いったい何なんだね? もともと殺す予定だったのに、何の予定が変わったのだ? 何をそこまで準備する必要があったのだ?」
殺す予定だったのなら、衝動的に殴り倒してしまってからでも、毒を仕込んで殺すことは可能だったはずである。
「しょうがないじゃない。急に、殺せなくなったんだもの。血を流して倒れている、あの人の、あの苦しそうな顔を見たら……」
「……」
「でも、そこまでいってもう手を止めている猶予はない。計画通り、残りのトリックも仕上げた」
「自殺や事故に見せかけるために?」
「そう。そしてあわよくば、桐川に濡れ衣を着せればいいなと思って」
「な、なんで俺が」
桐川にはそんなことを考えていたなんて理解できるはずがなかった。なぜなら。
「あなたは私を好いていた。堀尾に代わってね」
「……」
「でも、残念でした。堀尾との仲は切れていなかったのよ」
「そ、そんな」
「腑抜けた顔をしちゃって。だいたい、自分が私の力に慣れてるとか思って、うぬぼれているんじゃないの? 氷アートは繊細さに欠けるデカブツしか作れない。堀尾の代わりになろうと必死に甘いもの摂取していたけど、バレバレなんだからね。個性もセンスもなさすぎるわ。でも、案の定、すぐ来てくれたわねぇ。悲鳴をあげたら飛んできた」
他の誰かにも早く事件を発見してもらい、そのあとの行動も監視されていなければ、自分のアリバイやトリックなどがあやふやになってきてしまう。だから、すぐに駆けつけてもらって発見させた。
「でも、あれだけは本当に肝が冷えたわ。つまみ食いをするなんて。幸い毒の入っていなかったプリンを食べたみたいだけど。ふふ、それとも甘いものが苦手だから、おいしかったって食べたふりをして、流し台に吐き捨てたのかしら?」
「そんなことはしないっ」
「愛する人が死に、目障りな人が逮捕されていなくなれば、すべてが完璧だったのに。殺せず、捕まえられず、全部、曖昧なまま終わってしまった。でも、最後に仕込んでおいたネタだけは、この手に確保できた」
そういうと能見は、愛おしそうに手元のプリンを見つめた。
まさか、最初から?
思っても口に出せない。
最初から、最後に自殺を図るつもりだったのか。
誰も予測していなかった事態。岡田も、江雷も。
予測できていたなら、江雷は堂々とテーブル台に放置するなどしなかった。
悔やむ。
そこまで推理できなかったことを。
これじゃ、探偵ですと名乗っていた自分がちっぽけに見える。
何か打つ手は?
思考を巡らすが、能見のやろうとしていることを止める手立てが見つからない。
「さっき、毒が入っていることに気づかれていたものだと思ったわ」
自分が発言してきたことを思いだす。
すると、江雷は気づいた。自分が気づくべき場面があったことに。
「もっと別のものも混入されている」
江雷は歯ぎしりした。
この言葉を発したときの相手の驚いた反応。あれは証拠の黒鉛ではなく、毒が入っていることに気づかれたという意味での驚きだったのだ。初めに自分が飲もうとする仕草をしたとき、能見は慌てて止めに入った。あれは本当に毒が混入されているか確かめるためだったのだが、まさかそれを自分用に取っておいてあったとは、予想していなかった。
「やめるんだ、能見さん。そんなことをしても堀尾さんが悲しむだけだ」
岡田は説得を続ける。
「私が生きて逮捕されて悲しむのと、何が違うというの?」
「……」
「それならいっそ、悲しむところをこの目で見たくない。もう。見たくないの。私がいなくなれば、吹っ切れて新たな道を進めるかもしれないわ。氷アートにとらわれた私が邪魔なのだろうから。いえ、むしろ悲しんだ彼が私のあとを追ってくるのかも。それならそれで、いいのかもしれないわね。あはは」
空虚な笑い。
完全に諦めてしまっている。
岡田は身構えた。
飲もうとした瞬間に飛びかかる。
手を動かした瞬間を狙えば、はたき落とせるはずだ。
間に合う。
必ず。
必ず間に合わせる。
岡田は自分に言い聞かせる。寸分の瞬きも許されない。今、警察官として、ひとりの人間として全身全霊をかけて彼女の自殺行為を食い止める。
他の者も身動きが取れない。自分が動いたら、それが相手の行為を実行する引き金となりかねないからだ。
呼吸が浅くなり苦しい。張り詰めた空気に、誰もが卒倒してしまいそうになった。
「岡田警部!」
そのときだ。
「岡田警部、病院から報告が!」
なんていうタイミングだ。この身動きが取れないときに。
だが、報告に来た警察官は張り詰めた空気を感じ取って、厨房には入ってこず、扉の外から声だけを投げかけてきた。
「堀尾さんの手術が終わって、容体は安定しているそうです。それから、大切な人へと伝言を頼まれました。自分のせいで迷惑をかけた。でも、自身の夢を諦めないでほしい。自分ももう一度頑張ってみる。頭を叩いてくれたおかげで目が覚めた。だからお前も生きろ。お前は自分にとって一番の人。そして誇り。希望。お前の見せてくれる芸術は世界一だ。そして世界一のお菓子をまた作ってくれ。……以上です。失礼しました」
誰の目にも見えていなかったが、警官は敬礼して立ち去っていった。
「……」
その手が震えていた。
プリンを持つ手が。
「そんな……。なんで……」
プリンが手から滑り落ちる。
「私は、恨まれてもおかしくないことをしたのに……」
なんで、なんで。
繰り返される言葉。
自責の念と感謝、やりきれない思いが溢れだし、涙となって頬を流れていく。伝い落ちた涙のしずくは、零れ落ちたプリンに染み込まれていった。
気力を失った能見は、そのあと一切言葉を発せず静かに連行されていった。
悲しみに暮れた桐川や郡山も言葉少な。残りの現場検証をしている警察官だけが淡々と動きまわっていた。
江雷ももう居残る必要はなくなった。岡田や八十島に挨拶を済ませると、スタッフ専用の扉から施設の外に出た。
つらい事件だった。いろいろな意味で。
顔を上げて噴水広場を眺めると、やるせない思いが込みあげた。
建物から誰かが出てきた様子を、逆に広場から見かけた者たちがいた。
「あ、あれ。誰か出てきたわ」
さっきの男の子。事件は解決したのかしら?
記者の三田村は手を振って呼ぼうか、躊躇った。あまりにも悲しそうな顔をしているので。
すると、隣で待機していた少女が歩きだした。
外に向かう方へ。
「あら? もう行くの? あの子が待っていた彼じゃないの?」
その後姿に問いかけると、立ち止まって振り向いた。
「大丈夫です。用はもう、済みましたから」
「?」
意味がよくわからなかったが、彼が無事で安心したということでいいのだろうか。とりあえずそう判断して、よかったねと声をかけておく。
そして、聞いてないことがあることに気づいた。
「あ、ちょっと。君の名前を聞いてなかった。お名前はなんていうの?」
少女はちょっと考えるふりをした。
実際は名乗るものかどうか迷っていた。
「私の名前は清水です」
澄んだ声でそう告げると、逃げ去るかのような動作ですっと広場から消えていなくなったのだった。
不思議な子。
そんな印象が強かった。
おっと。
気になりはするけど、今はそれどころじゃなかった。
三田村は気を入れ替える。
「待ってたよ」
広場のところまで戻ってきた江雷に、気さくに声をかける。
ああ、あのときの。
江雷はすぐにさっき見かけた記者だと気づいた。
「私はこういう者です。よろしく仲良くしてください」
不思議な挨拶と、不思議な魅力に惹かれて、とりあえず話を聞くことにした江雷。それは事件のことや江雷自身のことをあれこれと詮索してくるものだった。
事件のことは警察に聞いてください。自分からは話せません。
かろうじてそう通したものの、結局押し切られて連絡先を交換する羽目になってしまった。
三田村小千都。新米記者。好物はフルーツサンド。趣味で武術を少々。
せっかく聞いたのだから、江雷はアドレス帳の彼女のプロフィールに律儀に書き加えたのだった。
そして、その夜。
「次のニュース、またもや事件です。今日の夕方、車の中でぐったりしている人がいると通りがかった人から通報があり、警察が駆けつけたところ、車の中の人物は死亡していることがわかりました。身元は現在確認中で、性別は男性、年齢は三十歳から五十歳くらいと見られています。なお、車内から毒物と見られる液体が見つかっており、警察は事件と事故、両面から捜査しています。以上、地域のニュースでした」
(凍りついた陰謀 終)