4-1.凍りついた陰謀
一
緩やかな時間が流れる静かな空間。落ち着いたクラシックの音楽が心安らぐ穏やかな空気を作りだしている。陶器の食器がぶつかり合う音さえ心地よい。コーヒー豆の香りが鼻をくすぐる。スイートな香りもする。目まぐるしく回る日常を忘れ、肩の力を抜き、自然体でその場に溶け込んでいた。
おもむろにテーブルに手を伸ばす。ガラスのコップに手を当てると指がひんやりした。コップを口元に運び、中の液体を口に流し込む。芳醇な香り、そして見事なコク。飲み込むのを一瞬ためらうほどだ。アイスココアの味わいを楽しんでから、音を立てないようにコップをトレーに置いた。
大人だ。大人って、こんな気分なのか。そんな感想を抱きながら、江雷は椅子の背もたれに上体を預けた。テーブルに向けていた顔を前に向ける。テーブルの先、向かい合わせにも人が座っていた。
テーブルの下に両手を隠し、うつむきがちになっている。かしこまった様子だ。相手のトレーの上にもマグカップがひとつ。真っ白な液体からほんのり湯気が立っている。ホットなロイヤルミルクティー。コーヒー類を避け、飲みやすいものといったらああなるのか。夏が近づいてきたとはいえ、涼しい店内でコールドドリンクは体が冷える。
自分もホットにすればよかったかな。次への参考にするとしよう、と、江雷は冷えた胃の中の感覚を教訓とすることに決めた。
江雷はもう一度手を伸ばす。フォークを手に取り、皿の上のスイーツに向ける。抹茶が練り込まれたモンブラン。さくっと一口サイズに切り、口に運ぶ。甘さが口の中から脳に広がる。
「……甘党なんですか?」
目の前の女の子が聞いてくる。
「そうなんだよね」
近頃はスイーツ男子という言葉も見かけるわけだし、堂々と宣言しても恥ずかしがることはないだろう。さすがに男ひとりでカフェに入って、スイーツを堪能するなんてことは勇気が出ないが。
「一口いる?」
「大丈夫です」
素っ気なく返された。
つい舞い上がってしまっている部分もあって、フレンドリーに接しようとしてみたが、いささか不用意過ぎたかと江雷は後悔した。
彼女のことはまだよく知らない。わかっているのは、自分が通っていた中学の後輩だということ。そして、自分のことをなぜかよく知っているということだけ。
名前は、確か……。
「人探しを頼みたいんです」
数日前の記憶が脳裏によみがえる。
あの日、街で茶本大と遭遇して話をしていたところで、この女の子は現れた。
思いもよらない発言が飛びだして、江雷は反応に窮した。
茶本も急な展開に戸惑いを隠せず、江雷と女の子を交互に眺める。
「だ、大事な話があるなら僕はこれで……」
茶本は空気を読んでこの場から退散しようと試みるが。
「待ってください」
女の子に呼びとめられる。
「申し訳ないのですが、ここにいてもらえませんか?」
まっすぐな目を向けられ、断れなくなる茶本。
「ええと、君はどちら様かな? 見たところ、茶本と同じ学校のようだけど」
ようやく江雷は言葉を紡ぎ出す。
「私は……。私の名前は、清水といいます。二年生です」
二年生。ということは、卒業する前の三年生の時に、すでに一年生として在学していたわけだ。この子とは、どこかで知り合っていただろうか。部活動? 体育大会? それとも他の学校行事か。江雷は目を彷徨わせて記憶をたどる。
「お話するのは初めてなので、知らないのも無理ないと思います。立ち話もなんですので、進みましょうか。道はこっちですよね?」
そう気を利かせて進行方向を示す。が、江雷としては困ったことになった。本来ならば、ここで茶本と別れて来た道を戻るつもりだったのだが、たった今一緒になった彼女にそこまでの事情は知らない。江雷は茶本に目配せすると、家とは反対方向の道をさらに歩み始めた。
「それで、人探しだっけ?」
何のジョークか知らないが、とりあえず本題に入ってみる。
「はい。探してほしいのは、私の父親です」
江雷はうつむき加減の清水の横顔を見た。耳の隠れたボブの横顔。その表情からは憂いを帯びていた。
「もともと出張の多い仕事をしているのですが、ここ三か月ほど、一度も家に帰ってきていないようなのです。連絡もつきませんし。こんなことは今まで一度もありませんでした。時々ですが必ず家に帰ってきてくれます。私はどうしたら……」
「落ち着いて。とりあえず、落ち着いて」
堰を切ったように話す清水の様子から、事態が逼迫していることは一目瞭然だった。だが、相手の実情を理解するまでは時間と言葉がいる。もう少しゆっくり話を聞いてみたいと、江雷は手伝う意思を伝えた。
「ありがとうございます。そしたら……今度の日曜日、お時間空いていませんか?」
大丈夫だと江雷は答える。
「都合を合わせて会いましょう。そこでちゃんとお話します。……あ、その時はひとりで来てくださいね?」
念を押す。
茶本はやっぱりそうなるよね、と複雑な心境だった。中途半端に人様の家庭の事情に首を突っ込みかけてしまったというのに。
詳細な場所と時間を取り決めると、清水は深くお辞儀をして立ち去っていった。
そう。名前は、清水と名乗っていた。
あの後、茶本に同級生のようだが知り合いかと聞いてみたが、クラスメイトではないし全く知らないという答えが返ってきた。隣のクラスの生徒だとか、校舎で見かけたことくらいはありそうなものだが、まったくもって覚えがないというのは、二年間過ごしている学校でそれがないというのは違和感を禁じえない。
ひょっとして……。
「どうかしましたか?」
まじまじと見つめていると、清水は不思議そうに首を傾げた。
「いや、ごめん。どうしてぼくのことを知っていて、声をかけてきたのかな、と」
「それは……奇怪な謎を解いた卒業生がいる、という噂を耳にしたからです」
奇怪な謎。まあ、そうなるか。
「それで頼りにして声をかけてきたということだね」
「はい」
「でも、まさかその人がパトカーに乗っているなんて思わなかったんじゃないかな?」
「え?」
「この前、パトカーに乗っているところを見られちゃったんだけど。見えてなかった?」
「ああ、あれですね。見えていました。警察と関わりのある人だったらどうしようと思いました」
「あはは。たまたま乗ることができる機会があっただけだよ」
「そうなんですね。よかったです」
「あの時、近くにいたのは友達?」
「クラスメイトです」
「信号のところで立ち止まって話し込んでいたよね」
「まあ、そうですね。なかなか話が終わらなくて。追いかけるのに苦労しました」
「すごい形相で追いかけてきたよね」
「えっ。そんな怖い顔をしていましたか」
「パトカーで連行されていた人が脱走してるーって」
「そんな気はなかったんですけど」
「冗談だから大丈夫だよ」
「あ、はい」
「けど、相談するなら警察と“関わったことのある”人の方が、いいんじゃないのかな」
「そうなんですか? でも、そういうわけには。このことは内密でお願いします」
「……わかった。極秘捜査だね」
「はい」
会話が途切れると、清水はロイヤルミルクティーをすすった。淑やかな振る舞いに品のある身なり。慎ましやかな印象からにじみ出る芯の強さと行動力。その十二分の素質を持った相手に、江雷は興味を惹かれずにはいられなかった。
「さて、そろそろ本題に入ってもいいかな?」
「大丈夫です」
清水は、事の成り行きを話し始めた。
所在不明となっているのは父親だという。昼夜問わず仕事で外出していることが多く、具体的にどのような仕事をしているのかあまり知らないそうだ。それでも週に一度は必ず自宅に戻り、顔を見せてくれていた。それがここ三か月ほど、めっきり顔を見せてくれなくなったらしい。
「単にすれ違っているだけということは?」
学校や外出している間にたまたま帰ってきていた、ということはないか。
「ないと思います。今までそういうこともないことはなかったのですが、そういうことがあっても気づくよう決めごとをしてあるんです」
「決めごと?」
「はい。お土産です。出張が多いので、その地域の名産品や特産品を買ってきてくれるんです」
「たとえばお菓子とか?」
「そうです」
「そうなんだ。いいお父さんだね」
「いえいえ」
といいつつ少しだけはにかむ清水。そういった仲の良い親子だからこそ、今回のことをとても心配しているのだろう。
「前回もらったお土産と一緒に、今度は長期出張するよ、など書いてなかったんだよね?」
「はい。いつもお土産と一緒にお手紙も書いてくれるんですが、そのようなことは一言も」
「お手紙か。いいなぁ」
江雷は羨ましそうに目を細めつつ、ふとそれ以外の連絡手段があるはずだということに気づく。
「普段は連絡を取り合っていないの? たとえば、電話とか」
「私が携帯電話を持っていないので」
「なるほど」
今日の待ち合わせも口約束だった。清水の方から、きっちりとした日時と場所を指定され江雷はここにやってきた。実際に会うまでは不安があった。だから、会えた時の安心感で気が緩んでしまい、ついスイーツまで注文したのだった。
何か手掛かりがないと、探しようがないなぁ。と、次の質問を考える江雷。現状ではあまりにも漠然としすぎている。ただ、あまり深入りするのもどうか。執拗な質問攻めは印象も悪い。
「そういえば、遠藤先生は元気?」
「え、誰ですか?」
「君の通っている学校の先生だよ。前は科学部の顧問をやっていたかな。といっても今はその部活なくなっちゃってるけど」
「そうなんですか? 全然知らなかったです」
ふむ。やはりそうか。
江雷は情報を引き出す糸口を見出すべく、さりげなく他愛のない話題に転換してみた。相手の回答を受けて、推測していたことがほぼ確信に変わる。
清水を疑っているわけではない。嘘をついているわけでもないだろう。江雷としては初めから、話してもらえることはすべて心をオープンにした状態で受け入れるつもりだった。だが、相手としてはそうではない。模索している状態であるはず。
「といっても、ぼくは科学部ではなかったんだけどね」
「そうなんですか? 今の話だとてっきり、その部活にいたのかと」
「……」
「……」
では何の部活だったのかと聞かれる予定をしていた江雷は、ついその言葉を待ってしまい、微妙な空白の時間ができてしまった。慌てて進路変更をして、
「清水さんは部活は何を?」
と聞く。
「部活ですか? 部活は……」
焦点が合っていなかった。視点は明らかに江雷の先を見ていた。
すると、突然顔を下げて自分の腕時計を確認した。
「あ、ごめんなさい。私、この後用事があって……」
「え、用事?」
思わず前のめりになる。予期せぬ出来事に、江雷は動揺を隠せなかった。リラックスモードが一転してストレス状態になり、体中が強張る。
「ごめんなさい。もう行かないと」
座席の横に置いてある手荷物を手にして立ちあがろうとする。江雷には止める手立てがなかった。
「わ、わかった。用事なら仕方ないね」
つられて江雷もショルダーバッグを肩にかけて立ちあがる。
「トレーを頂戴」
江雷は清水の分のトレーをもらうと、自分のものと重ねる。さらにカップも預かってその上に一緒に乗せた。
「ありがとうございます」
礼儀正しい子だと感心しつつ、トレーを返却口に返す。
「忘れ物はないね?」
「はい。大丈夫です」
レジのところに立っていた店員に「ご馳走様でした」と挨拶して店を後にする。江雷は春の暖かい日差しに目を細めた。
「今日はありがとうございました。いろいろ話を聞いてもらって」
「いえいえ」
江雷はぶっきらぼうに答えてしまう。すぐに後悔したが、さっきまでの明るさで話したい気持ちと、わざと不機嫌そうに振る舞う気持ちの相克する感情で揺さぶられていた。
「えっと……。何かわかったらまた連絡します」
「どうやって?」
「あ……」
携帯を持っていない相手がどうやって連絡をしてくるというのだ。携帯を持っていないと聞いた時点で、こちらからも連絡先を聞く手立てがない。
江雷は不機嫌さが徐々に感情を侵食し始めた。
「何か連絡を取れる方法を考えておくよ」
「ごめんなさい。もう時間がないので。お疲れ様でした」
清水は両手を前にそろえて丁寧にお辞儀をすると、スッと振り返って足早に歩いていく。五秒くらい江雷はその背中を見送っていたが、やがて江雷も反対方向に振り返って歩き出したのだった。
初めはいい感じで上昇気流に乗っていたのに、突然の乱気流によって瞬く間に墜落してしまったような気分だ。
江雷は鬱々とした感情に侵食される。
どうせならもっと突っ込んだ質問をしてやればよかっただろうか。でもまあ、そういうわけにはいかないか。むしろ、遠回しながらど真ん中をついてくる質問が嫌らしかったのかもしれない。野球でカーブボールを投げるように。
懺悔をしながら歩いていくと、広い入り口のある場所に辿りついた。広い敷地と大きな建物。
ここは副都心にある市民会館。ホールや会議室などが入った会館と、噴水を備えた広大な広場。普段は町おこしのイベントや、学生によるコンサートなどに利用されている。
今日ここでは、あるイベントが開催される予定となっていた。
階段を数段上って施設に足を踏み入れると、大々的に掲げられたのぼり旗が風にはためいていた。氷の彫刻コンクールと書かれている。
江雷は腕時計に視線を落とす。
予定より少し早かったか。
イベントが始まるまで、付近を散策することにした。
大人から子供まで幅広い年齢層の人たちが会場内を行き来している。みなイベント目的なのだろうか。
実を言うと清水も見学に誘ってみようと考えていたのだが、今回は仕方がなかったと江雷は気持ちを切り替える。寂しいけどひとりで楽しむとしよう。
植木に沿って歩いていくと、イベント会場に辿りついた。
掲示板には過去の入賞作品が紹介されている。それらの写真をじっくり眺めていると、江雷はその氷アートの美しさとリアリティに息を呑んだ。
初めは四角い氷のボックスに花が閉じ込められていると思った。実際はそうではなく、のこぎりを使って氷を削り、花びらに見立てているのだ。そこに色のついた液体を流し込むと、まさに花が浮かび上がるという仕組みだ。
こんな芸術が制作過程のところから間近で見られるとは。江雷は期待に胸が膨らみ思わず感極まりそうになった。
これはいい席を確保しておかねば。
江雷は広場を見渡して、氷アートが実演される場所を探す。
すると、屋根のついた簡易テントが設置されている場所があった。奥にある建物に割りと近いところだ。
あそこかもしれない。
江雷は足早にそこまで移動する。
「すみません。コンクールの会場はここで合っていますか?」
テントの下で作業中のふたり組の男女に声をかける。
「合っていますよ。……見学者かな?」
男の方が手を止めて聞き返す。がたいが良く短髪に白シャツ姿で、二十代半ばのように見えた。江雷は「そうです」と答える。
「まだ始まるまで二十分くらいあるんだけど」
「よく見られるいい席を確保したくて、早めに来てしまいました」
「それは嬉しい」
女の方はにっこりと微笑む。こちらも同じくらいの年齢で、黒く長い髪に白いシャツにすらりとしたジーンズを履き、ふたりして爽やかな印象だった。
「俺は桐生。ぜひ俺の作品に投票してくれよ」
「ちょっと。ひいきはずるいんじゃない? 清き一票はこの私、能見によろしく」
「色目使うな」
「そっちが先にやったんでしょ」
何やかんや言い争っているが、どうやらコンクールに出場する人たちのようだった。見学する一般の人は出来上がった作品を見て、どの作品が一番気に入ったかを投票で選ぶことができる。一番票の集まった優秀作品は新聞にも載るし、賞金も出る。先に印象付けておきたいのも当然だった。
「今は何をされているんですか?」
「工具の調整と準備だよ」
桐生が答える。
「興味があるなら、後でやってみるかい?」
「いえ、大丈夫です」
遠慮した。興味があるのは確かだが、自分だけ他の客を出し抜いて特別扱いされるわけにもいかない。あくまで見学に来た客のひとりでありたい。
と、そう思い至ったその時、ポケットに入れてあるスマートフォンが振動した。何かしらお知らせが入ったらしい。
一瞬、さっきの話のお礼か何かか? と思いを馳せるが、その気持ちはすぐに萎む。よく考えたら清水とは連絡先を交換していないのだった。画面をタップして表示させると、メールを受信していることに気づく。見たことも聞いたこともない相手から、やたらと馴れ馴れしい内容のメールだ。迷惑メールだった。
ため息を吐きながらメールはそのまま削除する。
「兄ちゃんのスマホ、俺と同じ機種じゃないか?」
兄ちゃんと呼ばれた江雷は、誰のことかすぐに判断できず一秒ほど反応が遅れる。
「……そうなんですか?」
「おう。俺もその機種なんだよ。俺はシルバーじゃなくてブルーなんだけどな」
「確かにブルーもかっこいいですよね。買う時はどちらにしようか迷いました」
「ついでに今、何分だ?」
「十一時十五分です」
時間を聞いた桐生は、作業の手を止めた。
「そろそろ蔵出しの連絡を入れた方がいいか」
「あ、待って。私が直接彼を呼びに行ってくるわ」
「そうか? 連絡すればいいだけだと思うが」
「いいの。焼いたお菓子の状態も確かめておきたいし」
「じゃ、頼むわ」
そのような会話が交わされると、能見は作業を中断して建物に向かって歩いていった。
「もうすぐここに氷が運ばれてくるからな。もう少し待っておけよ」
蔵出しとはつまり、氷のことだった。
いよいよメインとなるものが登場する。今年も写真で見たような花を作るのか、それとも別の何かを生み出すのか。江雷はわくわくする気持ちを抑えきれなかった。
と、その時だ。
「桐生! ちょっと来て! 大変なの!」
連絡に行ったはずの能見が建物の陰から姿を見せる。遠目から焦った様子で手招きしている。
「どうしたんだ」桐生は工具をテーブルに置いて立ちあがる。
「堀尾がケガをして倒れてて……。動かないの!」
「なんだって⁉」
桐生が駆けだす。
江雷は近くの人に救援を頼もうかと思ったが、あいにく声の届く範囲に人がおらず、桐生の後を追うことにした。
能見と桐生は建物の裏手に回り込んでいった。江雷も続いて行くと、そこには開け放たれたドアがあった。関係者以外立ち入り禁止と表示されている。
構わずそこから中に滑り込む。左右に視線を動かして状況を確かめると、すぐ近くの部屋の前で立ちすくむ三人の姿があった。その人たちは室内に視線を固定させたまま呆然と立ちすくんでいる。
「何かあったんですか?」
江雷は駆けよりつつ、隙間から室内の様子を覗き込む。
「危ないから近づいちゃダメ!」
女に制止されるが、江雷ははっきりと見た。部屋の中で頭から血を流して倒れている人がいることを。
「能見、郡山さん。何があったんだ?」
「わ、わかりません。部屋に入ったらこのありさまで」
能見と一緒にいた、作業服を着た男が答える。
「とにかく救急車に連絡してきます」
「いや、俺が携帯で呼ぶ。スマホ、スマホっと……。あれ、どこ行った?」
桐生がポケットに手を突っ込むが、何も出てこずあたふたしている。
「私が呼ぶわ。ちょっと待ってて」
「頼む」
機転を利かせた能見がスマホを取り出す。
「見ていないで、さっさと応急手当してあげて!」
何もせずに様子を見ている男ふたりに指図する。男たちは「あっ」と声をあげて部屋の中に入った。
「こら。危ないって言っただろ」
すでに江雷が部屋に入っていた。負傷した人の傍まで寄って状態を確かめている。
「頭をケガしているようです。とりあえず起こして止血しましょう。タオルか何かありませんか?」
「タオルは、あったはずだぞ。ええと、どこにあったか。おい、能見。タオルはどこにしまってある?」
桐生が振り返って聞くが、返事がなかった。
「あれ、どこ行った?」
返事がないだけではなく、能見はその姿すらなくなっていた。
「なんでスマホで呼ぶだけなのに……」
ぶつくさ言いながら桐生は部屋にある棚を片っ端から開けていく。もうひとりの郡山と呼ばれていた作業服の男も別の棚や引きだしを漁っていく。
「ありました!」
郡山が引きだしから見つけたタオルを引っ張りだす。
「大丈夫か、堀尾。しっかりしろ」
桐生が負傷した人を抱きかかえ、頭にタオルを巻いていく。堀尾という人は目を閉じたまま苦痛に顔をゆがめたままだ。
「救急車を呼んだから!」
能見が部屋に飛び込んでくる。
「電話するだけなのにどこ行ってたんだ」
「間違えて110番しそうになって混乱してたの!」
能見はスマホを持つ手を振り回して弁解する。
「それより堀尾は大丈夫なの?」
「死んではいないようなんだが、頭を打ったらしくて意識が朦朧としている」
「って、ちょっと。そこに落ちているの、何……?」
能見が声を震わせながら床を指し示した。
桐生、郡山、そして江雷の三人は一斉にそちらに目をやる。
するとそこには、大きな塊が落ちていた。人の頭ほどもある大きさ。無色透明。部分的に室内灯の光を反射して光って見えるそれは、白い蒸気をあげていた。
氷の塊。まさかあれに頭をぶつけて……?
誰もがそう予想して、再び負傷した人物を見やる。頭に巻かれたタオルが血によってみるみる赤く染まっていった。
(その2へ)
覚書
登場人物
江雷宏一
清水
郡山、桐川、堀尾、能見
岡田達人、八十島
三田村千小都