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PRIVATE EYE  作者: 広田けい
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3.めぐる殺意の終着点


     一


「……ヘマをやらかしたようだな。せっかく秘密ルートで入手したアレを渡したというのに」

 平たんな口調で男は吐き捨てた。昼間だというのに締め切られたカーテンのせいで部屋は薄暗くなっている。カーテン越しに浮かび上がった人影の大きさは、大男を思わせた。

「ヘマ、というのはどうかしらね?」

 その背後にもうひとつの人影が近づく。

「用意は周到で、かつ手順にミスはなかった。計画は完ぺきだったはずよ。けれど、奴らの頭脳はそれを上回った」

「……」

 男はカーテンのほうを見つめたまま、背後からの声に耳を傾け続ける。

「正確には、奴らではなく、彼……。驚いたわ。あの子が見つけてきた彼が、こんなにも優秀だったなんて」

 女は優越感に浸るように、ふっと鼻を鳴らした。すると、男は顔だけをわずかに動かして背後の女を睨むように視界にとらえた。

「使える人材かどうか、見極めるにはまだ早い。現に、俺たちはすでにひとつ色を失っている。それを補って余りあるほどの素材なのかどうか」

「グレイは優秀だったはず。それが、疑いがかかったとたんに捨て駒にされちゃうなんて……」

「セキュリティ部門に報告をあげておけ。社外秘のパスワードが流出した。漏えいした原因の究明と、パスワードの変更およびその旨を関係各部に通達しておくように、とな」

「その原因がいったい誰なのか、気になるわねぇ」

 女は皮肉を吐いたつもりだったが、男は意に介さず話題に乗りかかる。

「奴とその周辺の人物を遠隔操作するためなりきった策だ。LINEを乗っ取り、いかにも社内からの通達だと思わせるための、な」

「それがすべてあの人ひとりの責任ということになるのね。哀れな男、飯田康司……」

「……ところで」

 男は話題を転換した。これ以上の論議は必要ない。固有名詞まで出てしまった。念のため盗聴器など仕掛けられていないか確認済みだが、万が一のことがあっては困る。

「何か手がかりになるものは見つかったか?」

「いいえ。何かしら不審な行為をしているという痕跡はゼロ。机も棚もきれいなもの。あるのは仕事に関するものだけだわ」

「まあいい。使えぬ色は捨てていくまでだ。俺たちは粛々と与えられた色で染め上げていくだけ。……ん?」

 男は何かに気づいたように視線を戻した。カーテンの隙間の窓越しに外を眺めやる。

「これは、これは……」

 平たんだった男の声がやや上ずった。それは驚きよりも喜びによるものだろう。赤いパトライトを乗せた白黒の車を見下ろしながら、男は女に向かって言い放った。

「どうやら、俺たちにとって試練の時らしい。引き上げるぞ、ローズ」

「了解」

 図体に似合わず身軽な動作で部屋を後にする男。高飛車な雰囲気をまとう女。彼らはあの名前を口にした。先日高層マンションで起こった殺人事件の犯人の名を。そしてその事件に関与していたことをほのめかしたのだった。



 少し前。

「ありがとうございました」

 温かい日差しが降り注ぐ昼下がり。威勢のいい挨拶とともに、颯爽とバイクで走り去っていった。

 見送った男が手にしているのは一通の茶封筒。裏には緘の字が押印されており、重要な書類であることを示していた。裏面には法律事務所と書かれている。

 その名を見て、にやりとほくそ笑む。

 ようやく届いたか……。これで奴の陰謀を暴くことができる。

 男は振り返ると、壁に備えつけられたカードリーダーに首から下げたネームホルダーをかざす。ピッという読み取りの音を発するや否や、出入り口の扉が自動で開く。

「ん?」

 自室に戻ろうとすると、その部屋から出ていく人がいた。

「何をしている?」

 不審者を見かけたかのように声をかける。

「あ、すみません。資料が出来上がったので報告に来たのですが、席を外していたようなので机の上に置いておきました」

「たわけ。俺は今ここにいるだろうが。ちゃんと手渡ししろ」

 理不尽に怒鳴りつけられるものの、部下らしき男は委縮して「すみません」と平謝りする。そして机に置いてきたという資料を取りに戻ろうとするが……。

「わざわざ戻らんでもいい。資料は気が向いたら目を通しておく。言っておくが、不備があったら書き直しだからな」

「はい。よろしくお願いします」

 頭を下げて立ち去ろうとする部下に、「そうそう」と呼びとめた。

「お前たちの誰かが隠しごとをしているのはわかっているんだ。今に暴いてやるから覚悟しておけよ」

 部下は返答に困り、黙って振り向くと、すでに男の姿はそこになかった。去り際になんて言葉を残していくんだ。

 上司があんなのでは、嫌気がさして部下の誰かが反発心を持っていてもおかしくない。自分だって……。いや、やめておこう。そのわずかな反抗心さえも看破してしまうくらい敏感な人なんだ、あの人は。取引先に怒られてしまえと、わざと数値をおかしくしたファイルを送り先に送ったら、メールのccに入れておいただけのあの人が真っ先に気づいて修正を指示してきた。見ていないようで見ている、すごい人だよ。唯一の欠点は、すぐに部下の感情を逆なでするようなことを言い放つことか……。

「お、葉山。何をしてるんだ、ぼーっと突っ立って」

 感傷に浸っていたところを、声をかけられて我に返る。

「ああ、玉原さんか。ちょっと……」

 玉原と呼ばれた人物は、葉山に歩み寄って小声で話しかける。

「自分の部屋の前で物思いにふけるなんて、お前も相当病んでるな」

「お前もってことは、玉原さんも?」

「気を遣うんだよな。上司とはいえ、一応叔父さんだから。まあ、部長のすぐ隣の部屋である葉山よりは、ストレスは少ないと思うけど」

「それはちょっとひどい言い草だ」

「それじゃ」

 玉原はそのまま通路の先にあるトイレに向かって歩いていく。葉山はため息をつきながら、部屋に戻って作業の続きに入ることにした。

「……」

 何気なく腕時計に視線を落とすと、もうすぐ十二時になるところだった。どうりで小腹がすくわけだ。報告書のとりまとめにほとんど午前中使い切ってしまった。昼休みまでの残り時間、何もせずだらだらと過ごしてしまおうか。

 ただ、もしのびのび過ごしているところを報告書の指摘にやってきた部長に見られてしまったら……。

 身震いがして、とりあえずデスクに座ってパソコンと向き合うことにした。

「いや、まてよ」

 再び心に葛藤が起きる。

 報告書を投げたまま放置してしまっていいのだろうか。こちらから、いかがでしたかと聞きに行くのが筋では?

 しかし、うかがったところでしつこいと追い払われるような目に遭ったら辛いし……。

 居ても立っても居られない。部屋から出ようとしてドアの付近に寄ると。

 コツコツコツ。

 誰かの足音だ。

 まさか、部長が報告書を持ってやってきた?

 体を硬直させたまま身構えてみたが、その足音は次第に遠ざかっていく。

 なんだ、違ったのか……。安心して、ドアをそっと開けて隣の部屋の様子をうかがおうとすると。

「あれ?」

 視界の端にとらえたのは玉原の背中だった。部長の部屋は自分の右隣りだが、玉原の部屋はその隣の倉庫、階段を挟んだ先にある。さっき、トイレに向かったはずだがもう済ませたのだろうか?

 っと。今はそんなことより、部長の様子をうかがわなくては。よくよく考えたら、報告書について口頭で説明する必要もあるだろう。

 改めて通路へ出ると、玉原の姿はもうそこにはなかった。葉山は深呼吸して、部長の部屋へ赴いたのだった。


「ふう、すっきりした」

 男はトイレから出てくると、ハンカチで手をぬぐいながら一息つく。そしてなぜか、自分の服の襟元や袖口に鼻を近づけて嗅ぎ始めた。

 よし、大丈夫だな。

 要領の悪い葉山や、親戚だからって初めから目をつけられている玉原には悪いが、俺はこうやって悪事を隠し通すことができる。バレなければ何も問題はない。

 でも、さっきはヤバかったな。あれがもし部長だったら、糾弾されていてもおかしくない。こっちはただ、トイレで格闘しているだけだっていうのに。

「おはようさん」

 唐突に声をかけられて、びくりと体を震わせる。

「な、なんだ。勇崎さんか、驚かせないでくださいよ。ずいぶんな重役出勤じゃないですか。もうお昼ですよ」

「午前中は出張だと言ってあっただろう。皮肉なやつだな」

「それは失礼しました。で、打ち合わせはうまく行ったんですか?」

「平行線だ。というより、こちらの話に耳を傾けてもらえない」

「じゃあダメですね」

 明るくない話題に微塵も残念そうな様子を見せない。勇崎はドスのきいた声で名前を呼びつける。

「有原」

「はい」

「会社の存続の危機なんだぞ。もっと危機感を持て」

「わかりました」

 生返事でしかない。たしか、こいつはお金持ちの家のお坊ちゃん。たとえ仕事を失ったとしても何も困ることがないというわけか。

「とにかく、もうすぐ昼休みだろう。トイレなら、お昼に入るまで我慢できなかったのか」

「我慢できませんでした。なぜなら、大きいほうだったから。というか、そんな細かいところを指摘していると、他のメンバーから部長と同類とみなされちゃいますよ。屈辱じゃないですか、そうなったら」

 とことん失礼な人である。それは勇崎だけではなく、部長すら軽蔑していることになる。

「有原。軽口は大概にしておけ。お前も給料をもらって雇われている身だ」

「それに」言葉を区切る。と同時に、昼休みを告げるチャイムが鳴り響いた。

「お前はよく隠れてこそこそしているが、いったい何を隠しているのか、おおかたの目星はついているからな」

 勇崎は身を翻して通路を歩いていく。

 取り残された有原は、わざと聞こえるほど大きく「ちっ」と舌打ちをする。だが、その音はチャイムにかき消されてしまったのだった。


「部長。勇崎です」

 ノックをして名乗る。返事はない。

「失礼します」

 ノブを回して部屋に入る。

 オーデコロンの匂いがする。コロンは香水の中でも濃度が低かったはずだが、部長はいったいどれだけたくさん振りかけているのだ。

 内心でぼやきつつ室内を見渡すが、当の本人がいない。ラック、パソコンデスク、シュレッダー、本棚、観葉植物など、いたって普通のオフィスルームを個人向けに縮小したような部屋。

 パソコンの電源はつけっぱなし。そのキーボードの上にはいくつもの封書が散在している。昼休みに入ってもしばらく机に向かっていることが多い人だ。今日は昼休みに入ってすぐにご飯を食べに出ていってしまったというのだろうか。

「勇崎さん」

 ドアの外から声がかけられる。振り向くと、葉山が顔をのぞかせていた。

「やっぱり部長、いないですよね?」

「外出中みたいだな」

 やっぱり、ということはもっと前から姿が見えないということか。

 どうも腑に落ちない。

「部屋の片隅に、心筋梗塞でも起こして倒れてたりするんじゃないか」

 その言葉を聞いて背後の葉山は頬をひきつらせる。もし聞かれでもしたら、どんな怒りの雷が落ちるかわからない。急いでその場から立ち去ろうとするが、「一緒に探してくれ」と頼まれて、逃げだすことができなくなってしまった。

「そういえばさっき……」

 葉山は報告書の件で訪ねたことを思い出す。

「そこの本棚の陰から部長の手が見えました。振り払うような仕草だったので、邪魔しちゃ悪いと思って黙って部屋を後にしましたが」

「ほう」

 そういえば勝手に部屋に入られるのも嫌がる人だったな。そう思いながら勇崎は葉山が指さす本棚へ移動する。窓際の位置だ。

「あ、いたいた。何やってるんですか、こんなところで寝転がって」

 姿が見えてくると気軽に声をかける。初めは、本棚の下に何か物を落として取ろうとしているのかと思ったが……。

「え……。ちょっと、どうしたんですか。血が出ていますよ」

 慌てた声とともに勇崎が本棚の裏に隠れる。葉山は嫌な予感がした。狭いところで足を滑らせて転んで頭でも打ったのだろうか。

「葉山! 大変だ、ちょっと来てくれ!」

 呼びかけられて、慌てて駆けよる。そこで、絶句した。

 予想に反してもっと悲惨な状態だった。

 胸の辺りから大量に出血させて倒れている。ぴくりとも動かない。

「救急車だ。すぐに救急車を呼ぶんだ」

「わ、わかりました」

 動揺によるものか足をもつれさせながら部屋を出ようとする。ところが。

 ドン。

「痛いな、おい」

 運悪く玉原とぶつかってしまう。

「何を騒いでいるんだ、部長の部屋で」

 開けっ放しのドアに不審に思った玉原が部屋の中をのぞいてくる。

「大変なんです、部長が」

「くっそ。窓の外にも怪しい人はもういないか」

 部屋の奥で勇崎が窓を開けて外を確認している。

「……部長が大変?」

 玉原は訝しげに聞く。大変な人なのはいつものことだが、どうも冗談で済む雰囲気ではないみたいだ。

「おーい、有原。なんか部長が大変なんだって」

 振り返って近くにいた有原にも声をかける。

「大変って、とうとう気でも狂ったのか?」

 有原は相変わらずの憎まれ口である。

 だが、葉山が救急車を要請したことがわかると、その表情は一変した。

「いったい、何があったんだ?」

「部長が血を流して倒れていたんです。何かに刺されたような跡もあって」

 葉山から答えを聞いた玉原と有原は、事実を確かめようと部屋の奥に駆けだす。

「誰が、こんなことを」

「わからん。呼びかけても反応がないし、下手に動かすわけにもいかない。お前たちはここから離れて、救急車の到着を待っててくれ」

「それは、あんたもだぞ、勇崎さん」

「あ、ああ」

 玉原に鋭い眼光で見下ろされると、勇崎は立ち上がって共に倒れた部長から離れたのだった。


 四人は落ち着かない様子で救急車の到着を待った。

 しばらくするとサイレンの音が聞こえてくる。葉山や玉原は少しだけ安堵の顔を浮かべた。しかし、サイレンの音が一定の近さまで来てから変化がなくなってしまう。

「あ、出迎えて案内しないと」

 葉山が一番に駆けだす。

 すると、勇崎がそれとは反対方向に歩きだした。

「もしかしたら、停める場所に困っているのかもしれない」

 窓を開けると、聞こえてくるサイレンの音がひときわ大きくなる。

 辺りは木々で覆われており、傍に一台だけ車が停められているが他にスペースはなく、案の定、停める位置に困っている様子だった。

「あっちに停める場所がありますから、そこに停めてください」

 救急車に向かって声を投げかけると、助手席から了解した旨の手を振る動作が見えた。そのあとで葉山の案内している声が聞こえてくる。

「傷病者は?」

「こちらです!」

 救急隊員を葉山が部屋の奥まで案内する。

「早く部長を病院へ!」

「まずは傷病者の容態を確認します。見たところ死亡している可能性もあるので。その上で病院へ搬送するか判断します。後ろへ下がっていてください」

 隊員に手で制され、おぼつかない足取りで葉山は後退する。

 早く病院へ連れていってほしいと思うのは普通だろうが、隊員の役割は急いで病院へ運ぶ者ではなく、まずその場で救命活動を行うことである。救急救命士というやつである。ただし、傷病者が明らかに死亡していると判断した場合は不搬送とし、そのまま警察に引き継ぐことがあるのだ。

 一見して死亡していると判断できる場合を除くと、その判断基準は次の通り。

 意識レベルが痛み、刺激に反応しない。

 呼吸が全く感じられない。

 総頚動脈で、脈拍が全く蝕知できない。

 瞳孔の散大が認められ、対光反射が全くない。

 体温が感ぜられず、冷感が認められる。

 四肢の硬直または、死斑が認められる。

 以上であるが、条件や隊員の判断によっては搬送してもよいケースもある。

 三人の隊員がECGモニターを使うなどして判定を下していき、バインダーに挟まったチェックリストに記入していく。

 一人の隊員が勇崎たちに近づいてきた。

「患者の名前、年齢を教えてください」

「今井貞治。五十八歳です」

 その他にも持病はないか、普段飲んでいる薬はないかなど聞かれていく。家族ではないのでさほど詳しく知らないが、今井はいたって健康で持病があると聞いたことはない。せいぜい最近は肩コリに悩まされていると愚痴をこぼしていたくらいだ。

 そうこうしているうちに検査を行っていた隊員たちが立ち上がる。判断すべき材料がそろったようだが……。

「今井さんは助かりそうですか?」

「残念ながら見込みはありません。死亡しています」

「そんな……気を失っているだけでは」

「脈や呼吸はなく、刺激や光にも反応しませんでした。そしてわずかに、死斑が出始めています。警察へはすでに要請を出しておきました。状況を伝えたら警察へ引き継ぎ、我々は引きあげます。その後は警察の指示に従ってください」

 淡々と説明する救急隊員。

 仕事として慣れている彼らと違って、勇崎たちは現実を受け止められずその場で立ち尽くしてしまう。

 事故か、それとも誰かに襲われたのか。そうだとしたらいったい誰に。

 まさか、犯人は自分たちの中にいるのでは? 部下の扱いがひどい今井なら、殺したくなるほど憎まれていたとしても不自然ではない。

 そう思うと、同僚と目を合わせづらくなった。各々、うつむいたまま地面を見つめていたり、壁の方を向いて震えていたり、スクリーンセーバーの映像が流れ続ける部長のパソコンの画面を呆然と眺め続けていたりしていた。

「……来たか」

 再び窓の外からサイレンの音が聞こえてくる。パトカーのサイレンだ。

 音が次第に近づいてくると、続いて落ち葉や枯れ木をバキバキと踏みつける音がしてくる。救急車は入ってこれなかったが、パトカーは生い茂った窓付近まで強引に入り込んできたようだ。

「早いな。さっき要請を出したばかりなのに」

 救急隊員も驚くほどの到着の早さだった。

「ご苦労様です。ちょうど近くを走っていたところに本部から連絡が入りまして」

 セキュリティドアを内側から開けてもらうと、警察官は大股で部屋に入ってきた。直進で救急隊員の待つ部屋の奥まで進む。

「交通課の人に来てもらっても、意味がないんだけどよ」

 近くを走っていたということは、巡回中のそこら辺の駐在さんではないのか。有原の中に疑心が募りだし、つい怪訝な顔で率直に聞いてしまう。

「交通課……?」

 指摘の意味が汲めず、警察は有原の顔を見返す。

「ああ……。私は歴とした捜査第一課の人間ですよ。そう、あなたがたが俗に刑事と呼ぶ者です」

 そういうと、ふところから手帳を取りだした。間違いなく警察手帳だ。

「どうしてたまたま刑事さんが近くを……」

 得心がいかず、疑問を重ねる。隣にやってきた勇崎が肘でつつき、たしなめようとするが、有原は勇崎の顔を見ることもせず無視した。

「実は、客人を乗せていまして、その人を送り届ける途中でした」

「客人? いいのか、乗せたままで」

「ええ……。本人が問題ないと」

 問題はそこじゃないだろう。と、突っ込みを入れようとしたが、有原は呆れてしまい声も出なくなった。その客人とやらは、護送中の容疑者ではないのか? もし目を離しているうちに逃げだされでもしたら、世間は大騒ぎになるぞ。

「警部さん、警部さん」

 窓の外から声が聞こえる。若い男の声だ。

「今、呼んだかね?」

 すりガラス越しに黒い人影が浮かんでいる。その影は呼びかけに答えて窓を開けようとする警察と比較して明らかに小さいような気がした。

 がらり。

 窓が開けられると、そこにはひとりの少年が立っていた。

「子ども、だと?」

 有原たちは驚きを隠せない。

 あれが、警察のいう客人?

 明らかに子どもだ。

 もしかして、万引きしようとして捕まったのか。かわいそうに……。

「警部さん、ちょっと気になるところを見つけました。確認してほしいんですけど」

「待ってくれ。まだこっちの話が全然進んでおらん。あとで確認するから、ちょっとそこで待機しておれ」

「わかりました」

 叱る大人と、反省する子ども。だが、違和感を禁じえない。あれが客人だというなら、対等の立場で話しているように見えるのはなぜだ。

「歩きまわってはダメだからな、わかっているな、江雷君?」

 念を押して窓を閉めると、あらためて室内のほうを向く。そこには呆然とした顔が並んでおり、警察は場の空気を入れ替えるためわざとらしく咳払いをした。

「失礼しました。改めて名乗らせてもらいます。私は愛知県警察本部捜査第一課の警部、岡田達人と申します」

 その言葉は、窓の外に残された少年の耳にも届いていた。少年は言われた通りその場で待機、窓のほうを見つめ続ける。すりガラス越しに滲んで浮かぶ数名の人影を見つめながら、少年はわずかに笑みを浮かべたのだった。



   二


「すみません、ちょっとそこのお二方」

 高身長の男女二人組に、背後から声がかけられる。男のほうだけが、おもむろに振り向いた。

「少しお時間よろしいですか? 今、そこの建物から出てきましたよね。お二人は、そこの住人でしょうか?」

「……」

 男は即答せず、声をかけてきた人物の頭から足先までをさりげなく視野にとらえる。

 職質か。

「そうですが。それが何か?」

 先を行こうとしていた女性が、背中を見せたままその場で立ち止まっている。

「実は、あちらの建物で事件が発生しましてね。何か目撃などしていないか確認しておきたいので」

「さあてね。カーテンを閉めていたので何も見ていないし、救急車やパトカーがやってきてようやく何かあったのだと気づいたくらいですよ」

「そうですか。何かあったら連絡を差し上げたいので、こちらにお名前と連絡先を書いてもらってもよろしいですか?」

 警察は手際よくメモ帳とボールペンを取りだした。だが、男はそれを受け取るかと思いきや、緩やかな動作で伸ばした腕を今出てきた建物の方へ向けて指をさした。

「連絡なら直接訪ねてくれればいい。201号室だ」

「あ、そうですか」

 任意の聞き取りなので警察としてもこれ以上追及はできない。立ち去る二人組を尻目に、警察はやや残念そうに手帳を懐にしまった。見るからに怪しい人たちだったので、せめて指紋をもらっておこうと考えていたのだが。

 一方。職質をかいくぐった二人組は。

「なんであんな嘘をついたの。さすがの私も肝を冷やしたわ」

 女は怒るというより半ば呆れたような目つきで男を見やる。

「まだ捜査網がきちんと機能していない状態で、警察は周りに目もくれず俺たちのところまでやってきた。俺たちが現場の近くにいた怪しい人物だと認識したということだ。だから、もし嘘なら後でばれる、という簡単な嘘をついて油断させた。実際のところ、俺たちは事件とは無関係。わざわざ俺たちを調べに来るなんてことはもうない」

「でも……」女は眉間にしわを寄せた。

「顔を覚えられでもしたら」

 男は鼻で笑って一蹴した。

「初対面で少し話しただけの人の顔を鮮明に記憶しておくことなんてできないな。仮に覚えたからといってなんになる。それに」

 男はポケットから鍵のようなものを取り出した。

「こいつはもう、手遅れなのさ」

 鍵のようなもの、それはまさしく鍵だ。

 そう、家の玄関の鍵。

 本来は持ち合わせていないはずの、201号室の鍵。

 不法侵入だったのだ。二人は知り合いのあら捜しをするために。

「手遅れって。もしかして、あの部屋から見つけたの? 不正なことをしているっていう証拠が」

「いや、それはなかったさ」

「じゃあ、なんで」

「事件だよ」

「え?」

「奴がここを拠点とする理由を聞いたことがないか? 裏で取引をしていたんだよ」

「まさか、今、事件のあったあの会社と?」

「事件が取引のことと直接関係はないと思うが、少なからず会社にも捜査のメスが入る。裏取引が明るみになるのも時間の問題だ」

 水音が聞こえてきた。せせらぎだ。近くには川が流れていた。

「使い捨てだ」

 男は川べりに近づくと、なんの躊躇もなくその“合い鍵”を投げ捨てたのだった。


 ひとりぼっちになってしまった。

 内側から窓を閉め切られ、建物によって日が陰り草木が生い茂って湿潤とした空間にひとり取り残された。

 だが、これをむしろ好機と見るや否や、少年は辺りを見渡して何かを探し出す。

 眼前に二階建ての建物。背後には先ほど乗ってきたパトカー。そしてもう一台、この会社の所有物だろうか、ライトバンが停まっていた。

 足元に落ち葉や枯れ枝が散らばっている。壁一面を見渡すと胸の高さの窓がいくつか見られるが、裏戸のような出入り口は見当たらない。普段からあまり足を踏み入れる場所ではないことは明らかだが、それにしても手入れや掃除が行き届いていない状態だ。

 少年は、パトカーに乗っていた時のことを思い出す。

 自宅へ送り届けてもらう途中、運転する警察官が所持する携帯電話が鳴った。

 車をいったん路肩へ停めてかけ直す。

「事件だと?」

 その言葉が印象的だった。

 携帯の通話を切ると、困りきった顔で助手席の自分の顔を眺めてきた。

「申し訳ない。ちょっと寄るところができたんだが」

「構いませんよ」

 ややこしくすることを回避するため、端的に答えた。

 警察はもうひと声、謝罪の言葉を述べると、車を急転回させアクセルを踏み込んだ。この時サイレンを鳴らさなかったのは、クライアントを乗せていたから、だったらしいが、現場に到着する寸前で合図の意味も含めて結局鳴らさざるを得なかったとのことだ。

 事件、か。

 ここに到着するまでの間、詳細を聞きだしておきたい気持ちはあったが、警察官の顔付きの険しい横顔を見ていたらとても容易にできるものじゃなかった。

 それでも、だいたいわかってしまった。

 先ほど警察が窓を開けた時に、窓際で血を流して倒れている人が見えた。さらに、引き揚げんとする救急隊員の姿も奥のほうに見えた。

 傷病者を搬送せず、そのまま警察に引き継ぐパターンだ。つまり、その人物は死亡している。警察の介入が必要な事件というわけだ。

 ただ、何者かに襲われたとか、自害したとか、はたまた不幸な事故だとか、まだ一概に言える段階ではない。

 一概には言えないが……。

 再び、足元の周辺を見やる。

 自分がつい踏み荒らしてしまった場所以外に、不自然に踏み倒された草が右手に点々と続いている。目で追って行くと、建物の端に窓がひとつあり、その下には……。さらに向こう側は古ぼけた民家が建っているようだ。反対側も同じような感じだ。

「……」

 と、ここまで考えたのはいいが。待てといわれても、このようなところで突っ立っているだけというのは少々気が重い。陽があたらず、湿気に満ち、何かしら虫が目につきそうなこの場所では。

 すると、人の気配が近づく感じがした。

 がらり。目の前の窓が開く。

「待たせてすまんな、江雷君。反対側に正面入り口があるから、そこから中に入ってきてくれ。ひとりにして待たせるわけにはいかんからな」

 その言葉を待ってました。

 江雷は嬉しそうにうなずくと、左手のほうに駆けだした。窓をふたつ通り過ぎて端まで来ると、方向転換をして建物の側面、つまり東側を通り抜けて南側まで移動した。

 入り口の前まで来ると、扉が勝手に開いた。警部が中から開錠ボタンを押したらしい。壁にはICカードを読み取るような装置が取り付けられていたので、セキュリティドアであることは江雷にはすぐにわかった。

 警部に促されて、江雷は建物の中に足を踏み入れる。少し進むと、通路が左右に分かれていた。ふたりはドアが開け放たれたままの正面の部屋へ入る。

「ちょっと、その辺で待機してくれ」

 指示の通り、江雷は部屋の隅に寄った。

「なんで、子どもを連れてきた?」

 有原の疑問は当然だ。まだ江雷の存在に気づいていなかった者も含めて、一斉に子どものほうを向く。その江雷を見つめる目つきはとても訝しげなものだった。

「私の大事なお客さんです」

 警部が弁明を始める。

「置き去りにしておくのは忍びなかったのでこちらに招きました。別に邪魔はさせませんし、理解のある子なので大丈夫ですよ」

「いや、そう言う問題じゃなくて……。勇崎さん、何か言ってやってくれよ」

「え、私か?」

 急に話を振られた勇崎は心の準備ができていなかった様子だったが、慎重に言葉を選びながら意見を出す。

「有原の言うことはもっともで、いくらお客さんといっても、見せていいものじゃないと思いますよ。それに、あくまでセキュリティで守られた建物の中ですし。隣にも部屋はありますので、そちらで待機させていてはどうでしょう?」

 警部は答えを迷っていた。

 事件の詳細もわからぬ状態でひとりにさせるのは危険だ。とはいっても、警察の応援が来たら警備を同伴させて待機、もしくは送り届ければいいだけの話。それでも、警部は江雷を傍に置いておきたい理由があった。

 おそらく、さっき窓を開けた段階で現場を見てしまっただろう。それに、彼はすでに何かに気づいているようだ。前にもあったように、的確な情報を提供してくれるかもしれない。そう思うと、やすやすと手放せないというわけだ。

 警部が返答に窮して冷や汗を流していると、

「下手に動きまわるのは危険です。犯人が近くにいるかもしれないので」

 と、江雷が言う。

「危険? 犯人?」

 玉原が疑問を感じたキーワードを復唱する。

「さっき窓の外から見てしまったんですが、倒れていた人は血を流して倒れていたので、刃物のようなもので傷を負ったんだと思うんです。ただ、その刃物らしきものが近くに落ちていないようなんです」

 何を言いだすかと思いきや。一同はぽかんと驚いたような、呆れたような顔をする。救急隊員も含めて。唯一子どもの素性を知る警部だけが、真剣な面持ちで話を聞いていた。

「な、なんだ、お前は。偉そうに。立場をわきまえろよ」

 有原は呆れたのを通り越して怒り心頭といった様子で江雷に詰め寄ろうとする。

 すると、間に勇崎が立ちふさがる。大きな図体を前にして、小柄な有原の姿が完全に見えなくなった。

「落ち着くんだ。有原、子どもにあたっても仕方がない」

「ちっ」舌打ちが聞こえる。

「玉原さんも、葉山も、なんか言ってやれよ」

「その子の言っていることもおかしな話だが、子どもにあたるのも場違いだと思うぞ」

「誰の味方なんだよ……。葉山はどう思うよ?」

「え、私は、別に、何も……。ただ、このまま待つのは疲れるので、やっぱり自分の部屋に戻っていたいですね」

「やっぱりそうだよなー」

「まあまあ、落ち着いてください。捜査の応援を呼びましたので、とりあえずしばらくこのまま待機していてください」

 警部が場を馴染ませる。

 今の会話で、警部と江雷にわかったことがある。四人の関係だ。

 役職までは不明だが、勇崎と玉原が上にいて、次いで有原、そして葉山という上下関係だろう。

 もし、不運や事故や自害ではなく、この四人の中に襲った犯人がいたとしたら、決してひとりにはさせず目を離してはいけない状況だ。おかしな話と一蹴する者もいたが、警部も江雷もすでににらみを利かせていた。


 折しも、再びサイレンの音が建物に向かって近づいてきた。警部が呼んだ応援が到着したようだ。

 多数の警察官が部屋に雪崩れこんできた。そのうちのひとりが敬礼をする。

「岡田警部。お待たせしました」

「うむ。車両はどうした? 停める場所がなかっただろう」

「はい。やむを得ず裏の道端に停めておきました」

 それしかないだろうな、と警部はうなずく。幸いここは大通りから外れた路地裏。通行の妨げになってしまうことはないだろう。

「あ、君は」

 部屋の隅に立つ少年の姿に気づく。

「こんにちは」

 江雷もその顔を見て、誰だか思いだした。

 八十島刑事だ。岡田警部直属の部下。先日もお世話になっていた。

 警部が警察署に招待して自宅へ送り届ける途中だった旨を説明すると、八十島はなるほどと納得した。それ以上の追及はない。

 ただ、関係外の人たちにとっては違和感しかなかった。

「だから、なんでその子どもは警察と仲良くしているんだよ」

「いろいろ縁があって仲良しなんですよ」

「よし、八十島君! 捜査を開始するぞ。救急隊員のみなさん、ご苦労様でした。あとは我々警察に任せてください」

 警部は有原に追及するいとまを与えず話を進めた。救急隊員は荷物をまとめるといそいそと撤収していく。それと入れ替わりで鑑識員も姿を現した。いよいよ本格的な捜査の幕開けである。

「さて、まずはあなたたちと被害者のことをうかがっていきましょうか」

「ちょっと待てよ」

 再三割って入ってくるのは有原だ。

「今、被害者っていったよな。さっきから聞いてりゃ、部長は誰かに襲われたって判断しているみたいじゃないか。それはどうしてなんだよ」

「それは、現場に凶器らしきものが落ちていないからで……」

「子どもの言ったことを鵜呑みにしているのか」

「そういうわけでは」

「だったら、さっさと身体検査をすればいいだろ。そんなもの、もちろん持ってないけどな。みんなもそうだろ?」

 有原に言われて、三人は神妙な面持ちでわずかに頭を縦に振る。

「身体検査か。よし、八十島君、開いている部屋を借りて……」

「待ってください」

 次に割って入ったのは江雷だった。大人たちの視線が子どもの江雷に集まる。

「凶器らしきものなら、窓の外の草むらに落ちています。あと、草を踏み荒らしたような形跡も」

「そ、そうか。八十島君、確認を頼む!」

「わかりました」

 八十島は部屋を飛び出す。三十秒ほど経って窓の外に人影が現れた。警部は察して窓を開ける。江雷は部屋の隅から窓際まで移動した。

「西側の窓の下の辺りです」

 江雷が指示すると、八十島はしゃがみこんで草むらを掻きわける。

「あ、警部、ありました! 血のようなものが付着したナイフです」

「鑑識に確認してもらってくれ。足跡のほうはどうだ?」

「うーん。確かに草を踏んだ跡のようなものはありますね。警部が顔を出している窓の下まで続いています。そこの窓の下は特に踏み荒らされていますね」

「あ、それは……」

 江雷は素直に白状しておくことにした。それは自分の足跡であると。

 区別しておかないと捜査をかく乱させることになってしまう。これにはさすがに釈明の余地はなかった。

「さて。被害者が何者かに襲われた可能性がある以上、あなた方を簡単に空き部屋で待機させるわけにはいかなくなりました。順番に話をうかがっていきましょうか。まずは、みなさんの関係と名前から。たしか、被害者は部長でしたかね」

「そうです」

 勇崎が紹介を始める。

「部長は今井といいます。私は主任の勇崎です。同僚の玉原、有原、葉山です」

 紹介されると、各々軽く会釈した。

「では、発見した時の状況を詳しく説明願います」

 勇崎は午前中、取引先との会議のために出張していた。出社したのは十二時前だ。建物に入ると、通路で有原と出くわした。少し会話を交わしてから、部長の部屋に向かった。

 部屋に入ると部長の姿はなかった。会社の昼休憩は十二時からだが、部長がその時間よりも前に部屋を後にすることは普段なかったので、少し不思議に思った。

 すると、勇崎に次いで葉山が部屋に入ってきた。葉山も部長に用があったようで、少し前に部屋を訪れたようだが姿が見えなかったので、諦めて出直してきたらしい。

 机のパソコンはスクリーンセーバーとなっていた。どうやら部長が席を外してからそれなりに時間が経っているらしい。だが、室内の電気はつけっぱなし。もしや物陰に隠れているだけかもしれないと思い、勇崎は部屋の奥まで移動した。

 すると、発見した。部長の姿を。ただしそれは、血にまみれて倒れた悲惨な姿で。

「それで、葉山にお願いして通報しました」

「なるほど。出張からはどうやって戻ってきたのですか? 徒歩で?」

「ああ、車ですよ。裏に停めてある車です」

 江雷も見た、建物の裏に茂みのところに強引に止めてあったあの車のことだ。

「そのとき、不審な人物などは見かけませんでしたか」

「いや、見ていませんが。発見したときも窓を開けて探しましたが、人っ子ひとりいませんでした」

 勇崎は無念そうに首を振ると、岡田はしかつめらしく腕を組んだ。

「実際、凶器と思われるナイフはその近くに落ちていた。それに、部長さんは窓辺のところに倒れていた。外から狙われた可能性も考えられる」

「それは私が犯人だと疑っているということですか」

「いえ。犯人とニアミスしていてもおかしくない、という話ですよ」

 勇崎へ揺さぶりをかけてみる。あくまでも仮説のひとつだ。

 だが、その仮説に追随する人物がいた。

「十分あり得ると思いますよ、警察の人。勇崎さんと通路でばったり出会う前、私はトイレに籠っていたんですけど、窓の外から何やら物音が聞こえたんです」

「その話は本当ですか、有原さん」

「何を言うか! 私が車でやってきたときの音に決まっているだろう」

 当人が答えるよりも先に勇崎が吠える。

「エンジン音以外にも聞こえた気がしたのになぁ。エンジンもしばらくかけっぱなしだったようだし」

「駐車に手間取ったからな。そういう有原こそ、トイレに籠って何をしていたんだ? 最近トイレによく入り浸っていることが多いという報告を受けているが?」

 何やら応戦が始まった。あまり仲が良くないのだろうか。警部は仲裁に入らず、とりあえず聞き出せる情報は聞いてしまおうと静観していることにした。

「誰だ、チクった人は」

「……私だよ」

 玉原が会話に突入する。

「仕事中に席を外し、よくトイレに行く。一度トイレに行くとなかなか戻ってこない。そういう話を聞いたので調べさせてもらったよ。何かよからぬことをしていないか」

「さ、サボってるだけだよ……」

 尻すぼみになる有原。だが、様子からしてそれだけではないようだ。

「スマホでゲームか、内緒で誰かに電話か。いずれも証拠をつかむのが難しい。だから、トイレに行くときに追跡して犯行現場で身柄確保、といきたかったが、やっと今日、その足取りをつかめたよ」

「今日、だと?」

「うすうす感じてはいたが、間違いない。衣服などに染みつくその匂いだけはすぐに消せないものだからな」

 この時点で、警察にも江雷にもおおよそ察しはついた。トイレに籠ってやっていた、よからぬことというものの答えが。

「お前、タバコを吸ってるな?」

「……」

 有原は黙り込んでしまった。

「部署内は禁煙だ。特に部長は匂いにはうるさい。だが、ヘビースモーカーのお前はどうしても吸いたくなり、トイレでこっそり吸うことを考えた。吸殻はトイレに流してしまえばいいし、窓を開けたり換気扇をつけていたりすれば匂いはさほど残らない。やっと今日、後をつけてトイレで吸っているところが確認できた。大便器のところに鍵をかけて籠っていたから、姿までは見ていないが。タバコの種類が有名な銘柄だってこともわかったぞ」

「へへ、心配してくれてどーも」

 悪びれた様子もなく謝辞を述べる有原。

 それにはわけがあった。

「要するに、トイレに籠っていたことを証明してくれたわけですよね。やはり、窓の外から聞こえた怪しい物音は間違いなかった」

 勇崎を一瞥する。

「どうかな? タバコを吸っていると見せかけて、窓から外に脱出して犯行に及んだと考えることもできる。火をつけたタバコを放置しておいて」

 勇崎は、すかさず応戦して持論を展開する。

「そんなバカな真似すっかよ。そもそも、玉原さんに追跡されていることに気づいてなければ、そのアリバイ工作は無理だ。そういう玉原さんこそ、一緒にトイレに来ていたと見せかけて、窓から脱出して犯行に及んだのではないですか?」

「相変わらずの減らず口だな」

「……あー、すみませんが」

 どうにも終わる気配がない。静観していた警部が口を挟んだ。

「そのトイレというのはどちらにあるんですかね?」

「あっちですよ」

 指し示された方向は通路に出て右手の方向。建物の西側ということだ。

「窓はふたつあるんですかね?」

「ひとつですが?」玉原は首を傾げる。

 警部の思い違いに、会社の人間たちは気づいていなかった。今の話では、有原は個別トイレの窓から外に、玉原は男子トイレそのものの窓から外に出たと推測できるのだ。

「岡田警部。ひとつだけですよ」

 窓の外から八十島のフォローが入る。

「あちらの窓から中をのぞいてみたらトイレでした。個室ではなく全体の。ちなみに、ナイフが落ちていたのはその窓の付近です。反対側は窓が三つあって、あちらは誰かの個室のようでした」

「それは私と有原の部屋ですね。あと空き部屋です」

 玉原が答えて、部屋の数を指で折っていく。

「西からトイレ、葉山の部屋、部長の部屋、空き部屋、有原の部屋、私の部屋という並びになっています。葉山と部長の部屋の間に、二階に上る階段もありますけどね」

「二階は私の作業場です」と勇崎。ただそこは、ほとんど物置状態らしい。

 もともと外回りや出張の多い勇崎は個室を与えられていなかった。そこで、物置となっていた二階にスペースを作って作業場としているようだ。

「みなさん、同じフロアで仕事していないのですか?」

 岡田はもっともな疑問を呈する。

 この職場はもともとアパートだった物件を土地ごと買い取ったものだと勇崎は説明する。当時は建て替えや改装までする資金が足りず、現状に至るというわけだ。

「そういえば、葉山の部屋と交換するって案もあったんだよな」

 葉山の部屋は窓のない小さな部屋だが、葉山が気を利かせて、勇崎と作業場を交換しようと提案した。一階のほうがいいのではないかと。ところが、勇崎自身が拒否したという。

「理由はいろいろあると私は思うね」

 有原が悪態をつく。というのも部長があの性格じゃ近くの部屋に来たがる道理はない。部署内で立場が一番下の葉山に、一番みなが嫌がる部屋を押し付けてあるのが実情、というわけである。

「あの性格とは?」

「ああ、それは……」

 次いで、玉原は部長のことについて説明する。

 部長の今井は、人遣いは荒いし言葉遣いも聞いていて気持ちいいものではない。かといってざっくばらんな人かと思いきや、身の回りのことはやたらときめ細かく潔癖症かと思うくらいきれい好きだ。定年も近づいた中年のおじさんにも関わらず、香りのいいものが好きで自身にはオーデコロンをつけ、ビジネスバッグに消臭剤を常備しているほどだ。部内で使っている車にも消臭剤を置くよう指示しており、使い切って予備もなかった日にはカンカンになって怒鳴られ、実費で買いに行かされたというエピソードすらある。

「備品は経費で落としてくれるのに、あの日だけは違ったな」

「まあ、虫の居所が悪かったんだろうよ」

「そういえば昨日の帰り、次の予備を買っておけって言われてなかったか?」

「言われました。ただ残念ながらいつもの種類がなくて、ラベンダーで我慢してもらいました。まだレシートを持っているんですけど、経費で落としてくれますかね」

「さあね。でも花の香りならいいんじゃないか? 花の面倒を見るのも好きみたいだからね。観葉植物の隣に植木鉢を置いて、何かしら育てていたくらいだし」

 一同がその方を注目する。オフィスルームによくありそうな背の高い観葉植物が窓際に置かれていて、その隣にも何かの花だろう、たくさんの小さな緑の葉がかわいらしい花が植木鉢に植えられていた。

 誰もその花の名を答えられるものがいない。今井の趣味に誰もが無関心だった。

「あの匂いフェチがガーデニングとは。気色悪い」

 最後に有原がそうつぶやいた瞬間。

「おい」

 これまで淡々と話していた玉原の表情が一変した。

「その言い方はないだろう。もう本人に聞かれることもないから大丈夫、とでも思ってるようなら私は許さんぞ」

 目を剥いて迫る玉原に気圧され、有原は両手を挙げて撤回した。

「わ、悪かったよ。今の発言は言葉が過ぎた」

「いくら嫌われ者でも、私の叔父さんに違いはない。親戚を悪く言うやつは許せん」

「親戚の叔父さん、なのですか?」

 警部が聞くと、玉原は一転して寂しそうにうなずいた。

「叔父さんです。私が学生のとき就職活動に失敗したところを拾ってくれました。口は悪いし変な性癖はありますが、根はいい人です。有原の隠しごともうすうす気づいていて、怒りが爆発する前にやめてくれるよう願っていたようだし」

「ふむ……」

「でも、実際に殺したくなるほど憎んでいる人がいた……」

 しんみりしそうになった空気を、有原は再び強張らせた。再三の出しゃばりに、玉原はいよいよ怒り心頭といった様子で寄りかかっていくが。

「あなたもだろ、玉原さん」

 歩みを止める。

「私は知ってますよ。先ほどあなたは拾ってもらったと言いましたね。でも実際はそうじゃなく、自分のメンツを守るため、自分から頭を下げて入れてもらったということ。その恩を返すために部下として働いてる。かなり酷使されているようだがねぇ」

「……貴様、言っていいことと悪いことがある。ルールを守らなかったことも含めてその態度、本部に報告して懲罰を与えてもらわねばならんようだ」

「結構、結構。クビにしてくれるなら望んでもいないことですよ」

「まあ、落ち着いてください」

 いよいよ険悪なムードになってきたので警部は慌てて仲裁に入った。

 そもそも論点もずれてきている。大人の事情にはまだ疎い江雷だが、さすがにこの空気には息苦しさを覚えていた。

 警部はそっちのけになった話題を手繰り寄せる。

「個人の事情については後ほどうかがいますが、要は有原さんがトイレに向かい、ついていく格好で玉原さんもトイレに向かったということですな。で、有原さんが部屋に戻る途中で、出社してきた勇崎さんと鉢合わせた、と。玉原さんはトイレのあと、どちらへ?」

「有原がタバコを吸っていることがわかったら、すぐに引き返して自分の部屋に戻りましたよ。決して、窓から外に出たなんてことはしていません」

 聞いてもいないのに自分から否定していく。もちろん有原に追及されそうと見越してのことだが、有原自身もそこまで空気を読めない人間ではない。これ以上は警察に注意されると思って追及する気持ちはさらさら持っていなかった。

「それは私が証明します」

 葉山が証言する。

「通路で部長と話をして、自分の部屋に戻ったときに、トイレの方面から歩いていく玉原さんの姿を見ましたから」

「み、見たってどういうことだよ?」

 玉原自身は葉山の姿を見ていない。不気味に思って体を震わせた。

「ドアの隙間からこっそり見たんです」

「なぜそんな怪しい真似を?」

「本当は部長に用事があったんです。報告書を渡したので、自分から結果を聞きに行こうか迷っていました。ただ……」

「ただ、なんです?」

 警部は聞き逃さない。「なんでもありません」と首を振る葉山に、気になることがあれば些細なことでも遠慮なく言ってくださいと促す。

「入っていった先が、ご自身の部屋だったかどうかは。その手前だったようにも見えましたし」

 手前というと有原の部屋、もしくは階段だ。あるいは。

「今井さんの部屋に入っていったようにも見えたと?」

「いえ! あ、でも。そうかもしれません」

 玉原は顔がひきつった。せっかくトイレから出ていった姿を目撃してくれたのに、まさか逆に疑いをかけてくるよう仕向けてくるとは。わざとじゃないと思うが。

「それで、葉山さんはそのあと今井さんの部屋に行ったのですか?」

「行きました。ですが、ノックをしても返事がなかったので、諦めて自室に戻りました」

「私が出社したのはそのあとのタイミングということか」

 勇崎が話をつなげる。

「といっても通路で見かけたのは一服してきた有原だけだったな」

「おいおい」

「ノックをしても返事がなかったのは私のときも一緒だ。私はそのまま部屋に入った。部長の姿はそこになく、その時点で部屋の奥で倒れていたんだな。部屋に入ったところで、葉山もやってきた」

「はい。やはりどうしても報告書のことで話を済ませておきたくて」

「怪しいな、葉山」

「なんでですか」

「他に怪しい人を見ていないからだ」

「違いますよ」

「勇崎さん。犯人は現場に舞い戻る、というやつですよね」

 玉原が皮肉ると、葉山は口調を上ずらせる。

「そんなこと、ありませんよ! 玉原さんこそ、様子を見に戻ってきたじゃないですか。私が通報しようと部屋を出ようとしたときに!」

「ああ、痛かったよ。ちょうど通りがかった時だった。左腕が脱臼するかと思ったほどだ」

「それはどうもすみませんでした」

 葉山と玉原が互いに牽制している。たしかにそれらの可能性も無きにしも非ず、だがこれで四人の証言から状況はひとつにつながった。

 問題は、すべての人物に犯行が可能という点だ。

 それだけではない。犯行が可能だと証言する相手がひとりずつ、ループしてしまっている。玉原は有原を疑い、有原は勇崎を疑い、勇崎は葉山を疑い、葉山は玉原を犯行可能だと疑っている。

 無限ループしてしまいそうなリング状の条件に、抜け道というほつれ、謎をほどく結び目があるのだろうか。

 部屋の隅にたたずんでいた江雷は、ただじっと四人の様子をうかがっていた。



   三


「八十島君。引き続き、鑑識や検視官と協力して現場付近の調査を行ってくれ」

「わかりました。警部は?」

「私はもう一度、個別に聞き取りをしてみる。どうも事件の真相というか、犯行の動機が人間関係の中に隠れているような気がするんだ」

 長年の勘というやつだろうか。岡田が空いている部屋を貸してほしいと申し出たところ、隣の葉山の部屋を使わせてもらうことになった。ちょうど窓もなく尋問に適している。

「では、勇崎さんからひとりずつ……。あ、江雷君はその場で待機な」

 出鼻をくじかれた。江雷は訴えかけるような視線を岡田に投げかけるが、さすがに聴取に同伴させるわけにはいかない。何かあったら八十島君に、と指示を残して、勇崎とともに隣室へ消えていく。

「どうぞ、腰をかけてください」

 岡田が促す。部屋の中央に置かれたテーブルと椅子。窓もない締め切られた空間は、完全に取調室を連想させた。部屋の持ち主である葉山のデスクとパソコンは、部屋の隅へ追いやられている。

 勇崎が居心地の悪そうに座ると、岡田も向かいの椅子に腰をかけた。

「さて」

 おもむろにテーブルに乗せた両手を組み、相手の目を直視する。事件発生当時の状況は先ほどの話でおおよそ理解した。岡田が知りたいのはもっと別の視点から見る事件の全体像だ。

「お気持ちお察しします。つらいとは思いますが、どうか事件解決のためにご協力ください。うかがいたいのは、こちらの会社について、また人間関係についてです。そもそもこちらはどのような会社でしょうか?」

 丁寧に言葉をつなげて質問につなげる。勇崎は伏せがちだった目線をあげて、向かいの相手を見返した。

「運送会社です。とはいっても、ここにドライバーはいません。事務所みたいなもので、ドライバーの勤怠管理や運行の指示、配送状況のチェックなどをしています」

「あなたの仕事内容は?」

「私は営業担当なので外回りが多いです。今日も朝から出張でした」

「そうおっしゃっていましたな。すると、今井さんを発見するまで、今日は一度も顔を合わせていなかったということですかね」

「そうですね。朝から直通で取引先へ向かって、今日は昼前に初めてここに来ましたから」

「昨日は顔を合わせましたか?」

「はい。昨日は退勤までここにいましたから、退社するときに挨拶したのが最後でしたかね」

「そのときに今井さんに変わった様子などはありませんでしたか?」

「いいえ。いつも通りでした。明日も頼むぞ、ヘマをやらかしたら査定に響くぞと脅されたくらいです」

「ほほう。査定ですか」

「いつもの感じです。発破をかけるのがうまいといいますか。ですが、若い方は特に、それを言葉の暴力として素直に受け止めてしまい、すぐに辞めていってしまうことがこれまで多くありました」

「なるほど。今井さん自身は、そのことを気にする様子はなかったのですか」

「さあ……。上司からの激励や叱責に耐えられないようであれば、取引先やユーザからの理不尽なクレームに心が持たないぞと、言っていたくらいですから」

「なるほど」

 一応は正論である。今井がどれくらいの言葉を部下に放っていたか、岡田は実際に立ち会ったことはないのでそれ以上の判定は下せなかった。

「変わった様子といえば……」

「何か思い当たることがありますか?」

 勇崎は頻繁に目線を上下左右に動かし、記憶を思い起こしながら話し始めた。

 今井は最近、内緒で何かを調べていたらしい。外出から戻った際は、会社の郵便受けに入った郵便物の抜き取りも任されているのだが、先日見慣れぬ郵便が届いていた。切手貼りの茶封筒で、宛先は部長だった。なんとなく気になったので裏面を見てみると、法律事務所から届いていた。部長に伝えたら、慌てた様子でその封筒をもぎとって懐にしまい込んだ。内容を話してくれそうな様子ではなかったので、結局何だったのかわからずじまいに終わってしまった。

「相手が法律事務所ということは、何か困りごとがあったんでしょうな」

「そう思います。合併という話もありますし」

「合併ですか」

「あ、関係のない話です」

「ふむ。ちなみに今日は何か郵便物は?」

「何も届いていませんでした。いつも午前中に請求書やら取引関係の郵便が届くのに、珍しく今日は一通も。よく書留類も届くんですけどね」

「では最後にお聞きします。今日この建物にやってきたとき、気になることや不審な人を見かけなかったですか?」

「いえ。何も」

「社内の人も?」

「あ、そういえば。建物の中に入ったら有原と出くわしたとさっき言ったと思いますが、その前に葉山を」

「見たんですか?」

 岡田は急かすように身を乗り出す。

「はい。たしか、自分の部屋に入っていく後姿をチラッとですが見た気がします……」

 引き出せる情報はここまでだった。ここで勇崎の尋問は終了した。

 次に警部は玉原を呼んだ。

「今井さんのことを叔父さんと言っていましたな」

「はい」

 岡田は玉原の次の言葉を待ったが、一向に出てくる気配がなかった。叔父さんというフレーズを出せば、その人物について親戚の立場から語ってくれるかと思ったが、そうは問屋が卸さないようだ。

「先ほどの話は本当なのですか。就職先にここを選ばせてもらったというのは」

「本当です。それから、こちらから頭を下げて入れさせてもらったというのも本当です。個人的なプライドと、叔父さんの面目を守るためにも、拾ってくれたという話で通してあったのですが、知らない間に有原に嘘がバレてしまっていたようです」

「その叔父さん、今井さんについて、何かご存知ありませんか。たとえば、部下に隠しごとをしているとか、調べ物をしていたとか」

「特に思い当たらないです。親戚といっても部下のひとり。特別扱いするようなこともなかったですし」

「最近様子がおかしかったというのもありませんか?」

「ないです」

「では、今井さんを最後に見たのはいつのときですか?」

「ええと、朝に挨拶を交わしてから一度も姿を見てないです」

「いつもと違った様子などはありませんでしたかね?」

「なかったと思います」

「では、お昼前の出来事について詳しく聞かせてください。あなたはたしか、有原さんが隠れてタバコを吸っている証拠を押さえるために、トイレに向かったんでしたな。そこは間違いありませんか」

 玉原は黙ってうなずく。

「トイレに着くと、有原さんが籠っていると思われる個別トイレからタバコの匂いがした。それで、そのまま引き返したと?」

「そうです。実際に姿を見たわけではありませんが、確証がつかめたと思ってすぐ引き返しました」

「自分の部屋に?」

「はい」

「その行き来する間に、気になったことはありませんでしたか? たとえば今井さんの部屋から物音が聞こえたとか、他に怪しい人影を見たとか」

「見たというか、普通にすれ違いましたよ」

「誰ですかな?」

「葉山です」

 また葉山か、と岡田は率直に思った。

「少し言葉も交わしましたよ。部長に報告書を提出したはいいが、口頭でも説明に行くか迷っていたようです」

「あれ?」

 おかしなことに岡田は気づいた。さっきの話と一致しない部分がある。

「先ほどの話では、葉山さんが玉原さんの後姿だけを見たと言っていた気がしますが」

「ああ、ごめんなさい。すれ違ったのはトイレに行く前のことです」

 ぼりぼりと頭を掻いて説明不足を詫びる。

 玉原が葉山とすれ違い、言葉を交わしたのは有原を追跡してトイレに向かう前のことだった。そのあと部屋に戻る際に、葉山に後姿を目撃されたらしい。

「ところで」

 岡田が強調して言う。

「玉原さんは自室に入っていったかどうか怪しいものだと葉山さんが言ってましたが、実際のところはどうなんでしょうか?」

「じ、自分の部屋ですよ、何を言ってるんですか」

 若干の慌てぶりが不審さを倍増させているが、ここで追及しても得るものは少ないだろう。今は情報収集が先決だ……。

 玉原の尋問は終了。

 続いて有原だ。指示するまでもなく、部屋に入るとどすんと音を立てて椅子に座る。

 態度の悪さが目に余る有原であるが、いろいろと情報提供をしてくれそうだと岡田は期待を寄せていた。

「さて、お聞きしたいことがたくさんあるのですが」

「なんでも話してやりますよ」

 やはり、これは期待できそうだ。

「まずは、状況の整理から。あなたは昼前にトイレに立った。ただし、実際の目的は隠れて一服するためだった。これは間違いありませんか?」

「本当にトイレに行きたかったんだよ。勘違いしないでくださいよ」

「それは失礼しました」

「まあ、タバコを吸ったのも本当だけどな。今更隠し立てしても意味ないか」

「以前から隠れて吸っていたというのも」

「本当だよ。ってか、禁煙ルールを破ったことに対する糾弾かよ。ここは学校で、あなたは先生のつもりか?」

「いえいえ。そんなつもりはありませんよ。で、実は有原さんを後ろから玉原さんがつけていました。これには気づいていなかったのですか?」

「気づいていたらタバコも我慢してましたよ」

「ごもっとも……。それで、あなたはトイレにいたとき、窓の外から物音がしたと言っていましたな。どのような音だったか覚えていませんか?」

「エンジン音と、がさがさといった音だったかな。こちとら隠れてタバコを吸ってる身だから、下手に窓を開けて顔を出すわけにもいかなくて。まあ、たぶん勇崎さんが出張から帰ってきたんだろうと思っていたよ。正解だったみたいだけど」

「確かめたのですか?」

「いいや? さっきの話で、勇崎だと決定したのも同然だろう?」

 おそらくは。岡田は曖昧に判断を下しておく。

「で、トイレとタバコを済ませたあなたは、自分の部屋に戻ったのですか?」

「そうだよ。その前にあいにく勇崎さんと出くわしちゃったけどな」

「何か会話しましたか?」

「少し、な」

「ふむ?」

「いや、勇崎さんには感づかれていたみたいんだよ、トイレで隠れて何かやってたこと。玉原が尾行してきたのが勇崎さんの指示だったかわからなかったけどさ」

 そこは聞き漏らしていた点だった。事件とは直接関係ないだろうが、岡田は念のため頭のメモ帳に記しておくことにした。

「でも。弱みを握っているのは私だけじゃないんだぜ」

 急に前かがみになってくるので、反対に引いた岡田はのけぞって椅子ごと背後に倒れてしまいそうになった。

「弱み、というと、勇崎さんにも他人に漏らされては困るようなことがあると?」

「あるんだな、これが」

 有原は何やら嬉しそうに話しだした。

 賭博。

 一言で言えばそういうこと。

 どうやら負債を抱えているらしい。これにはたまげたというほかない。おそらく部長に次ぐ役職者のはず。それが実は借金にまみれたギャンブラーだとすれば大問題だ。

 このことは部長にも聞き及んでいるらしい。だが、勇崎のほうはそれが一切暴かれていないと余裕こいている、ということだった。

「ちなみに、今井さんと最後に会ったのはいつですか?」

「いつだったかな。覚えてないや。もしかしたら今日は一度も顔を合わせていないかも。出社して直行で自分の部屋、だからな。下手に愚痴やら文句やら言われるくらいなら、挨拶しに行かないほうがいい。生真面目な葉山は、毎度それで痛い目に遭っているみたいだけど……」

 こうして有原の尋問も終わった。最後に、葉山だ。

 緊張した面持ちで椅子に座り、肩をすぼめている。岡田はリラックスしてください、実際にあったこと、思ったことを正直に話してくれれば大丈夫だと前置きしておいた。

「あなたはいろんなところで見たり見られたりしているようなので、状況を整理するために重要な聞き取りになります。よろしくお願いします」

「え、そうなんですか。よろしくお願いします」

 真面目な性格なのだろうが、かわいそうなくらい緊張している。有原とは対照的だと思うと不躾ながら微笑ましくなる。

「えー。まずあなたはたしか、報告書を今井さんに提出したんでしたな。直接手渡したのですか?」

「いえ。手渡ししたかったのですが、席を外していらしたようなので、自前の新しい封筒に入れて部長の机の上に置いておきました」

「時間としては昼前の話ですかな?」

「そうですね。お昼までに仕上げろという命令でしたから。ただ、置いてきて自分の部屋に戻ろうしたら、部長とばったり鉢合わせてしまったのです」

 悲観的な言い方だ。勇崎の言っていた通り、今井の性格は若い人間にかなり堪えていたように見える。

「そのときはどのような会話を?」

「報告書を仕上げましたと。そしたら、直接自分のもとへ持ってくるのが常識だろうと、理不尽に怒られてしまいました」

「そのとき、今井さんに変わった様子などはありませんでしたか?」

「どうでしょうか」

「では、今井さんが席を立っていた理由はわかりませんか?」

「どうでしょうか」

「トイレ。ではなかったんですかね?」

「どうでしょうか」三度、その回答が帰ってくるかと予想したが。

「トイレじゃないと思います。入り口のほうの通路から歩いてきましたから」

「すると、建物の外に出ていた? なぜ?」

「客の訪問があったんじゃないでしょうか。たしか、その少し前に誰かが訪ねてきたようですから」

「ほう。部長が自ら客の応対を?」

「訪問客の応対はすべて部長が率先してやっています。というか、インターホンが部長の部屋にしか鳴らないようになっています。私のこの部屋が入り口の通路に近いので、足音や聞こえてくる話し声で、いつも誰か来たんだなって判断できるんです」

「……」

 岡田は今の証言で、いろいろなことが垣間見えたような気がした。さて、どこから手をつけて整理すればいいやら。

「ということは、今井さんが客の応対で席を外しているのにも関わらず、今井さんの部屋を訪ねたということですか?」

「え、いや。気づかないことだってありますよ!」

「ああ、それは失礼しました」

 思いのほか大きな声で言い返されたので岡田はとっさに謝った。

 あえて鉢合わせないよう席を外しているタイミングを狙って訪ねる策を取ったとも考えることもできるが、手渡ししたかったといっていたからこの線はなさそうだ。

「しかし、あなたは誰かが訪ねてきたようだと今しがた言いましたよね。つまり今回は気づいていたと。気づいていたのになぜ今井さんの部屋へ行ったのか……あなたの説明に違和感があるのですが」

「それは……」

 葉山は困惑して目を伏せる。

 まだ疑う段階ではない。少しばかり厳しい指摘だったか? 岡田は冷や汗を流す。

「期限が昼まででしたので、どうしても提出だけはしておきたかったんです。手渡ししたいと言ったのはあくまでも願望です」

「なるほど。そしたら戻ってきた今井さんと鉢合わせたと」

「はい」

「今井さんひとりだったのですか? 客はどうしたのでしょうか」

「わかりません。帰ったんじゃないでしょうか」

「今井さんにいつもと違った様子などはありませんでしたか?」

「どうでしょうか」

「手に何か持っていませんでしたか? そう、たとえば、郵便物とか」

「えっと、ああ。持っていました。封筒を何通か」

「やはり」岡田は、声に出さずに納得した。

 推測は当たっていた。昼前に会社を訪ねてきたのはおそらく郵便配達員だ。受領印または署名が必要な書留が届いたのだ。その対応のために今井は席を外した。そして、ついでに本日届く予定の郵便物も受け取ったのだろう。だからそのあと、勇崎が郵便受けを確認しても何も入っていなかったというわけだ。

「あの、その封筒が何か?」

「ああ、すみません。少し考え事を。で、あなたは通路を歩く玉原さんの姿を見たんでしたかな」

「はい。自分の部屋に戻ったあと、通路で足音が通り過ぎていったので、誰かなと思ってドアを少し開けてのぞいたら、玉原さんの背中が見えました」

「どこへ向かったか、そこまで見てはいませんか?」

「チラッと見ただけなので、よくわかりません」

 さっきは玉原自身の部屋よりも手前だったと証言していたが、今回はよくわからないときた。本当に一瞥しただけで記憶も曖昧だということがわかる。

「ありがとうございました。以上です……」

 葉山の尋問も終わり、かくして個別の取り調べは無事終了した。


 一方、現場周辺の調査を任された八十島は、黙々と室内を調べまわしていた。

 その様子をただじっと見つめる江雷。

 もどかしい。

 その一言に尽きる。ミステリアスなことが好き、問題を解くのが好き、謎を解き明かすのが好き。今、まさに目の前でミステリーが展開されているのだ。それに臨まぬとしてなんとする。手がうずく、頭がうずく。大人しくしていろと言われていても、このまま指を咥えて見ているだけなんて嫌だ。事件に挑む。それが探偵の性だ。

 それにしても。

 オーデコロン、といったか。未だに部屋に香りが充満している。じっとしている分、余計にそれが敏感に感じる。

 香水は普通、自分の体や衣服につけるものじゃないのか。芳香剤やアロマならまだしも、これだけ香りが残っているのは変に思う。

 もしかして。

 江雷は膝を曲げて身を低くし、床上をざっと見渡した。

「屈伸なんかして。退屈かい?」

 八十島に誤解される。

「いえ。この部屋に残っている匂い、コロンだと思うんですけど、ちょっと匂いが強すぎませんか」

「言われてみればね」

「もしかして、匂いを発している元があるんじゃないかと」

「元?」

「はい。あくまで予想ですが、たとえば香水がべたべたにつけられた布があったり、香水そのものがどこかにこぼれていたりするんじゃないかなーと」

「なるほどね。ちょっと探してみようか」

 江雷と八十島は身を低くして、まるでクモのように這いまわる。

「おや」

 まず、八十島が何かを見つけた。

「なんだ、よく見たらただの土だった」

 江雷が二足歩行になって駆けよったが、たしかに土がわずかにこぼれているだけだった。おそらく傍にある植木鉢の土が散らばったものだと思われる。

「あっ」

 今度は江雷が何かを見つけた。

「机の下です、八十島刑事。何かが落ちています」

 灯りが届かない机の下は暗く、それが何かはわからない。すると、八十島が懐中電灯を取りだし、照らした。

「あ、これは」

 江雷の予想は的中した。落ちていたのはガラス製の瓶。蓋が開いたままの状態で横倒しになっており、中身の液体がこぼれていた。

 匂いの元凶は間違いなくこれだろう。

「こんなところに落ちていたなんてなぁ。一応カメラで撮影しておいて、と」

 八十島は懐中電灯を床に置き、光の方向を机の下の瓶の方へ向ける。懐からカメラを取りだすと、照らされたそれを撮影した。

「間違いなく今井さんのものだろうね。これと同じ匂いが今井さんの服からもしたから」

 問題は、なぜ机の下に転がっていたのかということ。

 被害者が襲われたタイミングで落としたとは考えにくい。狙って転がさないと入り込みにくい位置だからだ。

 だとすると、犯人がわざと転がした? どうして?

「けほっ、けほっ」

 突然、八十島が咳き込む。

「だ、大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫。実は香水とか香りの強いものが苦手でね。すぐ咳き込んじゃうんだよ」

「それは大変ですね」

「普段かかないような複雑な匂いがダメ。被害者に近づいた時もなんだかいろんな匂いがしたし」

「え? コロンの匂いだけじゃなかったんですか?」

「なんだろうね。酸っぱい匂い? あれ、加齢臭ってやつかなぁ。絶対に本人の前で言えないやつだけど」

 違いない。だからこそコロンをつけていたのかもしれない。もう確かめようがないが、人に不快を与えてしまう匂いを覆い隠すために。

 まあ、失礼な詮索はしないようにしよう。

 そう思って立ち上がろうとすると。

「痛」

 机の角に肘をぶつけてしまう。

 ちょうど神経に近い部分を打ち付けたようでしびれが走った。

「だ、大丈夫かい?」

「平気です。ドジなところを見せちゃいました」

 江雷は苦笑いして恥ずかしさをこらえる。照れ隠しで顔を背けると、パソコンのディスプレイと目が合った。

 先ほどまでずっとスクリーンセーバーを映し出していた画面は、派手なデスクトップに切り替わっていた。

 ああ、肘をぶつけた衝撃でマウスがずれてしまったのか。

 江雷は猛省する。

「そういえば、このパソコンもちょっと調べておかないとね。被害者が襲われる直前まで触っていただろうし」

 そう言うと八十島は、立ったままマウスを操作し始める。

 カチ、カチ、カチ。フォルダの階層を巡っていく。

「んー、期待できそうな情報はざっと見ただけじゃ見当たらないね」

「そうですか」

 幻滅しかけるところを遮るように、八十島が画面の一部を指さした。

「あ、でもこれを見て」

「これって……」

「日記みたいだよ」

 興味がわいて画面に顔を近づける。

 どうやら上層部へ報告する日報や週報とは異なるようだ。完全に個人のフォルダにファイルが格納されている。それも、ほぼ毎日。話で聞いた通り、几帳面さがうかがえる。

「本当は黙って見ていいものでもないけど、気になるものは気になるからね。ここ数日の日記をちょっと覗かせてもらおう」

 西暦と日付がファイル名になっているテキストファイルをダブルクリックして開く。レスポンスが短くストレスなく開かれる。都度、一個ずつ開くのは手間なので、先に複数のファイルをまとめて開いておいた。

「まず、一週間前」

 通常業務。配送に遅延や不備はなし。昼から山本運送と打ち合わせ。私は行きたくないので部下に一任した。もとより成果は望んでいない。誰が出席しようが結果は変わらない。

「……」

 一日分読んだだけでため息が出そうになる暗い日記だ。

「なんだか投げやりな日記だねぇ」

 八十島は頬をポリポリとかく。

「投げやりというより……」

 江雷は書き手の心理を読み解く。

「精神的に参っているような感じじゃないでしょうか」

「そうかな。面倒ごとを部下に押し付けて、でも期待はしていないって、少し酷いような気もするけど」

「違うんですよ、八十島刑事。期待していないのは部下の実力ではなく、成果そのものなんですよ。誰が出向いても結果は変わらないってこと」

「そうなのかな」

 首を傾げる八十島に、さらに説得するため江雷は別の日記を指さした。

「二日後のこっちの日記ですよ」

 ようやく弁護士から回答が来た。これで打開する道が開けるかもしれない。消滅会社となってしまうくらいなら、いっそ破産申請をして無くしてしまったほうがいい。四季折々の自然の四人が移動して私は居まい。その方がよほど本望だ。

「は、破産申請って。そんなまさか」

 ここに書いてある破産の申請は、簡単に言えば借金などの支払いが困難になった場合、裁判所に申し立て、破産者となることである。ここで言う弁護士は、その時に選任された弁護士のことであろう。

「業績不振だったのだろうか」

「それもあったんでしょうね。後半の自然の四人とはどういうことでしょう?」

「うーん。たぶん誤植じゃないかな。自然に四人が異動、と打ちたかったのかも」

 それでも四季折々の意味が繋がってこないが。八十島の推理にも一理ある。江雷はなるほどと理解を示しておいた。

「あ、まだ下がありますよ」

 八十島がマウスから手を離してしまったので、江雷は代わりにマウスをつかんでホイールを回し、画面をスクロールさせる。

「こ、これは!」

 驚愕の事態が記されていた。

 だが、破産の申請はあくまでカモフラージュ。新の目的は悪事を暴くこと。申し訳ないが部下たちよ、私が甘い顔をするとすぐ手を抜くお前たちを、これまで通り怒鳴り散らしてやろう。育て始めたあの花のように。

「カモフラージュ、だって? 一体どういうことだ?」

「誰か、悪いことをしていたんでしょうか」

 調べれば調べるほど謎が深まる。これほど興味深いことはあろうか。

 江雷の予想では、社員たちは各々何かしら事情を抱えていそうなので、今井がその誰かの隠しごとを白日の下にさらそうとしているのではないか、そう考えていた。

「この日の日記はここで終わっていますね」

 ホイールを回し続けるが、画面はスクロールされなくなる。肝心の内容が見えず、江雷は脱力感を覚えた。

「たぶん、部下には破産したと伝えたんだろうね。でも、弁護士に頼ることって一体?」

 八十島の疑問に江雷は答えられなかった。

 考えても埒が明かない。江雷は他の日付の日記を次々開いて関連する情報がないか探っていく。見終わったファイルを閉じないので、タスクバーにどんどんタスクが溜まっていく。

「あ、ちょっと江雷君。さすがにほどほどにしておかないと」

 八十島は嫌な予感がしてマウスを取り返しにかかる。ふたりの手が重なり合ったところで、急に手元が暗くなる。

「おーい、八十島君?」

 背後から声が聞こえた。人影によって室内の明かりが遮られたのだ。

 振り返るのを躊躇する。

「ふたりで何を遊んでいるのかなー?」

 岡田が皮肉たっぷりに質問してくる。

「あ、遊んでなんていませんよ。被害者のパソコンに何か手がかりがないかと」

「ほー。それで有効な手がかりはあったのかね?」

 その言葉に微塵も期待がこもっていない。

「す、すみません。興味のある情報は見つけました」

「私が怒っているのは、不用意に江雷君を使うなということだ。信用していないわけではない。現に、江雷君の手を見てみろ、八十島君?」

「手?」

 ピンと来ない八十島は、未だ重ね合う相手の手を見ても何も返せない。

「素手で触らせるな、といっているんだ。じっとしているよう指示したのはそういうこともあったんだぞ」

「あああ。申し訳ありません」

 八十島は慌てて江雷の手を握ってマウスから引きはがした。確かに自分は白い手袋をしているが、江雷は素手のまま。思い切りマウスに彼の指紋をつけてしまったのだ。

 うかつだった。江雷も事態を把握し、自分の手を見つめて失望とする。

「まあ、やってしまったものは仕方ない。とりあえずパソコンの画面は元に戻しておけ」

「は、はい」

 八十島は開きすぎたファイルを一個ずつ閉じていく。複数のファイルを楽に閉じる操作もありそうなものだが、今はそこまで頭が回らなかった。

 派手なデスクトップの画面が少しずつ顔を見せる。

 鮮やかな色合い。デスクトップの背景は人の好みによってそれぞれだが、あまりカラフルであるとデスクトップに置いてあるアイコンが見えにくくなるという欠点がある。作業のしやすさを求めるならシンプルな柄が一番だ。

 そんなことを思いながら眺めていると、デスクトップの画面が完全な姿を現した。近くで見るとむしろぼやけてわかりづらかったが、少し離れた位置から見るとその正体がよくわかった。広大な森林に色とりどりの花が咲き誇る大自然の写真だ。

 消臭剤や芳香剤の話といい、窓際の観葉植物や植木鉢といい、案外オシャレな性格の持ち主だったのだろう。

 すべてのファイルが閉じられるのを見届けると、岡田は話を戻した。

「で、興味のある情報とは何のことかな?」

「ああ。実は、机の下に転がっていた瓶を見つけたんですよ」

「瓶? なんだ、それは?」

「どうやら、中身は香水だったようです。机の下に中身がこぼれた状態で転がっていたんです」

「ほう」

「おそらく、被害者がいつもつけていたコロンかと」

「なるほど。どうりでさっきから部屋の中が甘い香りがすると思っていた」

「先に撮影はしておきました。よいしょ、と。これです」

 八十島は這いつくばって、机の下の瓶を拾い上げた。

「なるほど。香水の瓶のようだな」

「あ、それ。部長がいつも使っているコロンです」

 部屋の入り口から声がした。勇崎だ。

「いつも引きだしの中に入れてあるみたいですが」

「へえ。部長は家でつけてくるわけじゃないんだな」

「自分も引き出しにあるなんて初耳です」

 勇崎以外にも取り調べを終えた他の三人がいる。

「聞き取り終わったんですね」

「うむ、一応な。とりあえず情報の共有をするぞ。別室で聞き取りしている間にわかったことを、この瓶のことも含めて教えてくれ」

 岡田と八十島は他の人物たちから離れた位置に移動して、相談を始めた。江雷の耳にも会話の内容が聞こえないくらいの位置だ。

「それにしても」

 尋問を終えて、待ちぼうけになってしまった会社の関係者たちが話を始めた。

「えらく葉山の取り調べが長かったな。そんなに疑われてたのか」

「丁寧に、正直に答えていただけです。そういう有原さんこそ、他の人と比べて長かった気がしますが?」

「私は情報通だからな。一番身近かったのは玉原か?」

「叔父さんを殺した犯人を許せない、それだけだ」

「許せない、とな。玉原、部長を憎んでいるのは自身もそうじゃないのか?」

「な、何を言うんだ」

「あくまでもコネで入った会社。次はないと告知されていただろう」

「何を! それはあなたが無能だったせいだろう。乗っ取られるのはあなたの責任だ。営業しているふりをして、実はパチンコに行ってたんじゃないのか、この遊び人め」

「言ったな、この野郎」

 勇崎と玉原の間に火花が飛び散る。有原は肩をすくめるだけ。葉山はおどおどしているだけ。またこの展開かと、傍から見ている江雷すら呆れる状態だ。

「だ、ダメですよ、ケンカしちゃあ。どうか落ち着いてください」

 八十島がなだめに入ってきた。

「オホン」

 その後ろから、岡田が悠然と歩み寄っていく。

「話し足りないことがあるなら、もう一度じっくりと個別にうかがいますよ」

「……」

 さすがにそれは嫌なのだろう。四人とも押し黙ってしまった。

「ところで……。憎んでいるとか、告知されたとか、乗っ取られるとか、一体全体どういうことなのかね。この会社で何が起こっているのか。細大漏らさずお聞かせ願いたいところですな」

 困惑、焦燥、そういった表情で視線を彷徨わせる四人の顔を岡田は順に見ていく。

「……」

 だが、誰も話そうとはしない。

 話して困ることなのか。これは名指しして質問するべきか。岡田がひとりの名をあげようとしたその矢先。

「岡田警部」

 八十島が展開の方向を変えた。

「今の話と関係がありそうなもの、実は見つかっています」

「本当かね?」

「はい。机の上に置かれていた封書。その中に、とても大事そうなものが混ざっていました」

「ひょっとして、今日届いた書留郵便か?」

「よく郵便とわかりましたね。ご明察です。切手の部分に押されていた日付印が昨日の日付でしたから、今日届いたものと見て間違いないかと」

「差出人は、法律事務所か?」

「さすがですね」褒める八十島に、当然だといわんばかりに鼻を鳴らす岡田だった。

 さらに内容を、と話そうとしたところ、岡田は手を前に出して言葉を制する。本題はこれからなのに。きょとんとする八十島に岡田はそっと耳打ちした。

「それは亡くなった今井が内密で進めていた案件だ。関係者の前で話すことではない」

「は。そうでしたか、失礼しました。では場所を変えて」

 すんでのところで明るみになることを回避した。だが、そこまで聞いてしまっては気にならない人はいない。特に会社関係者であればなおさらだ。

「なんだよ、その大事な郵便って。なぜ急に隠そうとするんですか。すごく気になるんですけど」

 茶々を入れてくる有原。有原は勇崎に向かって、あなたなら知っているのではと尋ねたが、勇崎は私も知らない、そんな郵便が届いているはずがないと首を横に振るのみだった。

「勇崎さんにも教えてもらえてない……そうか、わかったぞ」

 察しがついたのか、有原は膝を打った。

「勇崎さんに鉄槌を下すためだ」

「なんでだよ」

 突飛な発言にツッコミを入れるしかない。

「営業成績は思わしくない。プライベートではギャンブルにうつつを抜かしている。どうにか実態を暴いて審判を下そうと法律事務所、つまり探偵を雇っていたんだよ。間違いない、我ながら見事な推理だ」

 自慢げに胸を反らす有原。玉原や葉山はリアクションに困って呆気に取られている。勇崎は事実だとしたらまずい事態だと、今更ながら怯えている様子だ。

「なるほどな」

 その傍らで、岡田が八十島の話をうんうんとうなずきながら聞いていた。勝手に言い争っているうちにこっそり真実を聞いていたのだった。

「いい線をいっていると思いますよ」

 機嫌取りのためにわざとらしく褒めたたえておく。

「だが、真相はもっと奥深くにあったようです。今話をしたいのは山々ですが、やはりその前に事件の真相を解かなければなりません」

「な、なんだ。話してくれるんじゃないのか」

 身構えていた有原は拍子抜けしたようだ。

「ひょっとしたら、有原のことかもしれないな」

 玉原が皮肉った目線を投げかける。

「実家が裕福だからといって、いつ首を切られても問題ないと常日頃から仕事を軽んじていて、挙句には隠れて禁煙ルールを破りだした。それこそ、お前がいう、お前自身に鉄槌を下すための調査だったんじゃないかなぁ?」

「なんだと? 同情だけで入社させた人を、どう理屈をつけて辞めさせて、代わりの人材を募集するかの調査だったかもしれないだろ」

「いずれにしても、まともな調査じゃないことは確かなようだ」

「違いない。安泰なのは葉山だけか?」

「そんな、私は別に……」

「いつも媚びへつらっているから、そりゃ相手から見たら悪いところはないわな」

「なんでそうなるんですか! 私は部長を……」

「尊敬しています、とでも言うつもりか?」

「……」

「うわべだけの優等生はやめたまえ。もう手遅れだけどな。結局のところ、全員が何かしら都合の悪いものを持っているってことなんだよな」

 またぎすぎすした口論が始まるかと周りは思っていたが、自分たちで自らの首を絞めるようなことを口走って勝手に事態は沈静化したのだった。警察としては、犯行の動機として参考となる話も聞けたのでなおよしといったところだ。

 犯人はこの中にいるのではないか。そう思わざるを得ない状況になってきた。



   四


「さて、話を戻しますよ」

 岡田はうつむく四人の顔を上げさせる。

「先ほど、乗っ取るという単語が出てきましたが、それは一体どういうことなのか。その言葉が出てきたとき、誰も疑問に思ったり聞き返したりする様子はありませんでしたね。つまり、あなた方が把握していることだと判断できます。話してもらえませんか? 調べればいずれわかること。今ここで話しておいてもらえると助かるのですが」

 刺激を与えないよう慎重に言葉を選ぶ。勇崎、玉原、有原、葉山の四人は、それぞれ都合が悪そうに目線を外していた。

「会社の存続の危機。……違いますか?」

「……」

 誰もが黙して答えようとしない。だが、その言葉を受けてわずかに反応を示したことは明らかなように見えた。

「個別に取り調べをしていた間に部下が見つけた情報によると、どうやらそのような気配があるらしい。先ほどから自分たちの立場の危うさを指摘し合うのはそういうことも含まれているのではないのですかね」

「……その通りだよ、警部さん」

 有原が白状した。すると、勇崎が有原を制して前に出る。

「私が説明する」

 推測した通りだった。

 どうやらこの会社は近々、大手の運送会社に吸収合併されるらしい。その会社にはもちろん、情報処理センターなるものが存在するので、今のような事務所は不要になるというわけだ。ただ、そこで相手側が取り込む人材を必要最低限に絞ると言いだした。全員一緒に異動することにはならないかもしれない。行き場を失って職を失うかもしれない。そのことが知れ渡ったとたん、一気に四人の関係は悪化した。互いが互いに短所や欠点を炙りだすことに執着し、陰口をたたきあう始末。タバコやギャンブルの件もどうやらそれが発端だったらしい。

「しかし、ひとりだけ飄々としている人がいた」

 有原である。実家が裕福だとか首を切られても問題ないだとかいう話があったのはこれが理由だ。有原自身としては、大きな会社の下っ端に投げ込まれることになるなら、いっそ退職して他の仕事を探そうとする魂胆だったのだ。

「ところが。部長がそれを許そうとしなかった」

「なんと」

 第一印象はチャラそうなお坊ちゃん。辞めてもらったほうが清々しそうなものだが?

「お前は人嫌いではなく、誰とでも仲良くできる素質があるから一緒に来てほしい、ってなぜか推してきたんだよ。わけわかんねえよな」

「私にはそれが気に入らなかった」

 玉原が有原を睨みつける。

「私にはお褒めの言葉なんてひとつもない。今ついてきてもらっても足手まといになるだけだと一蹴したんだ」

「ほう。それで叔父さんを殺めたのか」

「そんなわけあるか!」

「玉原はともかく、葉山も覇気がないだの影が薄いだの、よく怒られていたな」

「……」

「勇崎は、なんて言われていたんでしたっけ?」

「私はその件に関しては、むしろ全責任を負う立場でしたからね。合併に関する調整は一任されていましたから。丸投げとも言いますけどね。負担を全部こちらに押しつけてきた。それなのに調整がうまくいかなかったら、減給とかボーナス無しとか営業担当から失脚させるだとか言い始めて……」

 声がだんだんしぼんでいく。陰湿な空気になってしまった。

「つまりだ、勇崎さんも玉原さんも葉山も、部長を恨む動機があったってことなんだよ」

 うまいことそういう結論につなげてくる。

「有原はむしろ、私たち三人と違って巻き込まれることを嫌がって犯行に及んだと考えることもできると思うが」

「……まあ、否定はしない」

 あっさりと受け入れる有原。だが結局は、全員にそれなりの動機があるというだけの話に落ち着いている。特定の人物が怪しいとはなっていない。もちろん、動機があるから犯人だと睨むのは筋違いである。貴重な資料として捜査の参考にするまでだ。

「ふうむ、どうも腑に落ちんな」

 岡田が息を吐きながらぼやく。

「というと?」

 八十島が問う。江雷もその理由を知りたい。江雷は一歩あたり三十センチにも満たない歩幅で徐々にふたりに近づき、聞き耳を立ててみた。

「彼らが今井さんを悪く思う理由だよ。たしかにこれまで聞いてきた話では、性格はよくないし部下に対する当たりが厳しかったように思う」

「他にも理由があると?」

「いや、違う。逆だ」

「逆……?」

「そう、逆だ。厄介なことに事態が逆転してしまっているのだよ」

 言い切る。その根拠は一体何なのか。

 江雷は耳に神経を集中して目線はじっと八十島の手元を見つめる。続きを聞きたい。そう思っていたところ。

「何をしているのかね?」

 バレてしまった。

「ダメだよ、江雷君。今回はあくまで事件とは無関係。首を突っ込める立場じゃない」

 言われてみれば、そうだった。

 学校で起きた事件も、高層マンションで起きた事件も、江雷は事件現場に居合わせていた。だが、今回はそうではない。まったく事件とは無関係なのだ。

「……あれ、その封筒?」

 耳に集中していた意識が緩和され、視覚に入ってくるものを認識する。

「その封筒はどこにあったものですか?」

「被害者の近くに落ちていたよ」

 見てみると、およそ四百円の切手代が貼り付けられている。

 簡易書留か。

 さっき話していた法律事務所から来ていたという封書ということ。

「その封筒、宛先のところに何か書かれていませんか。宛名以外に」

「ああ、書いてあるね」

 八十島も認知している事実。

 でも、明らかに違和感があった。

「何かのマークにも見えますけど、何でしょうか?」

「僕はてっきり会社のマークか何かかと思っていたけど」

「どれどれ、私にも見せてくれ」

 全然気にも留めない八十島の指から、岡田はすっと封筒を引き抜く。

「なんだ、これは?」

 丸と十字で組み合わされた女性を表す記号のように見える。丸いところには、雲のようなもくもくとしたものが被せられていた。

 明らかに宛名とは異なるペンで書かれているようだ。

「女性が帽子をかぶっている図か?」

「それにしては花丸みたいな帽子がでかすぎませんか」

「それもそうだな。……ん? この色は、まさか」

 封筒を顔に近づけて、目を見開く。丸いところにわずかに赤いものが付着していた。

「これは、血ではないのか?」

「え? そうなんですか?」

 鈍すぎる八十島はさらに、血かもしれないなら鑑定してもらわないと、と続ける。確かにそうなのだが、岡田が言いたいのは別のところにあった。

「もし、これが血だとしたら……」

「ダイイングメッセージ」

 声のしたほうを向く。

「そういうことだろ、警部さん」

 有原だった。

「被害者の近くに落ちていた封筒に、いかにも怪しげな文字と血で塗りつぶされた跡があったなら、それは被害者が死ぬ間際に残したメッセージと考えてもいい」

「まだ断定はできませんが」

 岡田は曖昧に答えておく。

「そういうものなら仕方ありませんが。あれやこれや会社のことを詮索しないでくださいよ。調べるのは封筒だけで、中身までは見ないでください。社外秘の情報だって含まれているはず」

「それは私も同意見です」

 勇崎の言い分に玉原が同調した。

「確かに。その机の上には葉山の恥ずかしい報告書だってあるわけだし」

 有原が煽ると、葉山は机の上の書類を不安げに眺めていた。

「葉山さんの報告書? そういうものは見つかっていませんが」

「はい?」

 腑抜けたような声を出す。

 本当に報告書らしきものは見つかっていないらしい。あったのは取引先からの請求書や事務用品の通信販売に関するダイレクトメールのみ。

「封筒に入れて置いておいたのに……。じゃあ、私の報告書はどこに……」

 葉山は戸惑いを隠せなかった。たしかに自分は昼前、今井が席を外している間にその机の上に置いたはずだ。それは警察にも説明した通り。

 しかし、それが無くなっている?

「そこら辺に落ちているんじゃないの?」

 有原の意見に八十島は無言で首を振った。

 いったいどこへ消えたのか。不可思議な事態に部屋に沈黙が舞い降りる。

「……まあ、この部屋に置いてきたならどこかにあるはずです。もう少し探してみます」

 どこかにある。本当にそうなのか。

 傍で聞いていた江雷は可能性を探ってみる。

 見つからない理由。それは、この部屋に存在しているが目につかない、あるいは認識できない状態にあるのではないか。

 とすると、報告書の在り処はひょっとして……。

「それにしても、腹が減ったな」

 唐突に、何を言いだすかと思えば有原は相変わらずであった。

「そういえば昼食を食べ損ねていますね」

 さすがの一番若い葉山も同意せざるを得ない。

「腹が減ったー、腹が減ったー。弁当が腐っちゃうよー」

 わざとらしく振る舞う様子に、警察は無視するわけにもいかなかった。

「もう少し我慢してください。取り調べが一通り落ち着いたら食事の時間を設けますから」

「さすが、話がわかる。あー、腹が減ったなぁ」

「腹、腹、うるさいぞ」

 玉原が指摘する。

「そういうお前も、はらだろ?」

「ん?」

 何を言いだすかと思えば。

「そういえば。そんなこともあったな」

 何やらまだ思い出話があるようだ。警部が話してほしいと促す。

「部長がある日、私たちに向かって、ハラハラコンビの片割れ、ちょっとこっちにこい。って、呼びつけたことがあって」

「すぐにわかったものの、どっちの原ですかと問い返したら」

「呼び出しのあてがないわけじゃないなら、どっちも来い、ということだったよ」

「あれまあ……」

 八十島が何とも言えない感想を示す。要は、ふたりにはどちらも苗字に原という漢字が入るのでハラハラコンビになってしまったらしい。

「葉山もついでにあだ名をつけられたよな?」

「あ、はい。ええと……」

 葉山は言い淀む。警察や江雷はトラウマなのかと案じたが、勇崎がそれを暴露してしまう。

「葉山も変な名で呼ばれていましたよ。たしか、葉っぱとか、青葉とか。まだ幼稚な社会人だから青二才という意味で青葉が似合うと、バカにされていました」

 それはひどい話だ。葉山はうつむいて反論できない。

「そういう勇崎さんも、何かあるのでは?」

「いや、私はなかったはず」

「そうでしたかね。何かあったような」

「気のせいだ。どうせロクなあだ名じゃないんだから」

 玉原が必死に思い出そうとしていたが、勇崎本人がこの話題に蓋を閉じてしまった。警察としても内輪の話。あえてこじ開けようとは思わなかった。


「警部さん、外に落ちていたナイフについて報告があります」

 作業服を着た鑑識の人が寄ってくる。

「人物の特定など詳細はまだですが、ナイフに付着していたのは血で間違いなさそうです。それから、指紋の鑑定も進める予定ですが、こちらは特定に至らないかもしれません。どうやら拭い取られたような形跡があります」

「そうですか。追加で、こちらの封筒の鑑定もお願いします。中の書類も一緒に。血痕らしきものが認められるのでね」

「わかりました」

 封筒を受け取った鑑識が部屋を出ていく。

 それと同時かやや早いか、玉原がドスの利いた声で指摘してきた。

「警部さん! さっき言ったじゃないですか。会社の情報やプライバシーに関わる問題。中身までは調べないでくださいって」

 岡田は目をつぶって首を横に振った。

「被害者が最後に触っていたものかもしれないなら、調べぬわけにはいかないのですよ。血がついていたのならなおさらね。中の書類まで血が染み込んでいる可能性だってありますから」

 押し込められた玉原は頭を垂れて黙ってしまった。

「さて、もう少し室内を調べてみるか。葉山さんの報告書もどこかにあるかもしれんし」

「そうですね。隈なく探してみましょう」

 こうして再び岡田と八十島による部屋の捜索が始まった。

 邪魔になってしまう四人は隣の葉山の部屋へ追いやられた。もちろん監視付きで。

 江雷はというと、岡田が目のつくところに置いておきたい、という名目で部屋に留まることを許された。建前はそうだが、邪魔はしないという前提のもと、気になることがあったら意見を出してくれて構わない、そういうメッセージと期待が込められていた。

「案外、報告書はすでにファイリングしてしまった……そういうことはないのかね」

「あり得るかもしれません」

 岡田は手当たり次第に棚の中に整然と並べられたファイルを漁っていく。

 対して八十島は、床に這いつくばって机や棚の下の隙間などをのぞいていく。

 這いまわって江雷の足元まで来ると、顔を上げて江雷の顔を見上げた。

「江雷君は、予想つかないかい? 報告書の在り処が」

「予想、つきますよ」

「やっぱりそうだよねー」

 ……。

「……って今、予想つくって言ったかい?」

「ええ」

「ど、どこ、どこ?」

 岡田も手を止めて江雷の方を見る。

「あくまで勘ですから、まだ確信がありません。それに、そうだとしても理由がわからないんです」

「理由……?」

「はい。もしそれを実行したのが被害者だとしたら、なぜそんなことをしたのか理由がわからない。被害者が今まで聞いてきたような性格だとしたら、可能性としてなくはないのですが」

 遠回しすぎる説明に八十島は眉に皺を作った。

 だが、岡田には察しがついたようで、室内のある物を見てつぶやいた。

「まさか、な。だが、あり得るのか?」

「今の話でわかったんですか、警部?」

 八十島は驚きを隠せない。自分の洞察力が足りないのかと嘆く間もなく、岡田はその方を指し示そうとした。

 だが、その瞬間。

「岡田警部!」

 四人の監視についていた警官が、慌てた様子で部屋に飛び込んできた。

「どうした?」

「あの四人が、また口喧嘩を始めまして」

「……またか。収拾できないのか」

「私ではとても。手を貸してください」

「仕方ないな」

 やれやれと岡田は隣の部屋に向かって歩きだす。

 八十島としてはとんでもない邪魔が入ったものだ。だが、帰ってくるまでのうちに答えを見つければ、少なくともすぐに対等に話に入っていくことができる。

 意気込む八十島だが、そこでさらに邪魔が入る。

「八十島刑事」

 江雷が呼ぶ。

「気になることが他にもあって」

「今はそれどころじゃ……。え、気になること?」

 それどころでは、あるじゃないか。江雷は重要な手がかりを見つけてくれる。その洞察力は折り紙付きだ。

「教えてくれないか、江雷君」

 八十島が江雷の肩をつかむ。遠回しではなく、今度は直接言ってほしい。

「実況見分です」

「え?」

「実況見分というか、再現はしないんですか。それでわかるはずですよ、嘘をついていることが」

「嘘、だって?」

「あの四人の中に、ひとり嘘をついている人がいます」

 八十島は驚きのあまり後ずさりしそうになる。

「まさか、その人が犯人?」

「いえ、あながち嘘イコール犯人とは断定できません。そもそも、四人の証言が全部正しいなら誰も犯人ではないことになっちゃいますからね。どこかに隠れているはずですよ、犯行に直結する決定的な嘘が」

「よし、再現でそこまでわかるなら警部に進言してみるよ」

「あ、決定的な嘘まで炙り出てくるかどうかはわかりませんよ」

「わかってる。けど、そういう状況確認も必要だから」

 やはり八十島経由のほうが話を通しやすい。それはかつての事件で見つけた手段であり、互いに認識している事柄なのであった。

 さて、岡田警部はいつ戻ってくるか。

 そう思った矢先に当の本人が肩をすくめながら戻ってきた。

「やれやれ」

「あ、おかえりなさい。落ち着きましたか?」

 八十島が出迎えると、岡田は疲労感たっぷりのため息をついた。

「なんとかな。なんであんなに揉めるのやら……」

「今回はどんな内容だったんですか?」

「また有原が煽ったそうだよ。タバコの件を嗅ぎ回っていたのは誰だ、と」

「あれ、それは玉原さんなのでは?」

「いや。実行したのは玉原だろう。だが、彼に指示した人が他にいたんだ」

「もしかして、勇崎さん?」

「察しがいいな。まあ、普通はその人しか考えられないか。有原はむしろ、勇崎に感づかれていることを察知していたらしいんだ。だから、今日も勇崎が出張中のタイミングを見計らってタバコを吸っていた。だが、実際に現場を押さえに来たのは玉原だった」

「ああ、それで……」

「なのだが、それで済まないのが有原でなぁ」

「え?」

 目を瞬かせる。

「なぜトイレに行くタイミングがわかった、と言うんだ」

「ああ、なるほど。確かに、有原さんと玉原さんの部屋は正反対の位置にありますね」

「その通りだ。だから、有原はある人物に目をつけた」

「葉山さん……」

「うむ。矛先が彼に向いてしまったようだよ。彼ならすぐ隣の部屋だからな。耳を澄ましていれば部屋を出たことくらいわかるだろう。そこで玉原に連絡したんじゃないかって、組織ぐるみで自分をつけまわしたんじゃないかって、疑ってかかったんだよ」

 疑り深い性格なら、そう思うのもわからないではない。八十島はそう思った。

「……もし本当にそこまでしていたというなら、たとえルールを破った側だとしても、嫌な印象は受けてもおかしくないですね」

「いやまあ、実際葉山は関与を否定したんだがな。玉原も、昼前にトイレに行くことが多いからそのチャンスをうかがっていただけだと言っていたし」

「なるほど……」

「……で、こっちはどうだ」

 仕切り直す。

「何か発見はあったかね?」

 八十島と江雷が顔を見合わせ、うなずき合う。

「はい。まずは事件当時の再現が必要かと。この部屋の周りで細かい人の動きがあったようなので整理が必要でしょうし、再現することによって、実は犯行が困難であったり証言と食い違ったりする部分が出てくるかもしれません。もしくは、誰かが嘘をついていたとか。……ね、江雷君?」

 視線を向けられた江雷は、肯定の意思を込めて肩をすくめつつうなずいた。

「君の考えでもあるのか」

 岡田は腕組みをして少し考えた。

「わかった。令状がないから正式な実況見分とまではいかないが、検証の一環という名目で簡単に再現してみよう。あの四人にもきちんと協力してもらって」

「はい、ぜひやりましょう」

 八十島は意気込んだ。本当にそれで嘘がわかるならすごいことだ。内心から沸いてくるわくわくするような感情が抑えきれなかった。

 四人は多少文句を垂れたものの、協力してくれることになった。

 勇崎は窓の外、出張から帰ってきて車から降りてきたところ。

 有原は西側トイレに入るところ。

 玉原は有原を追ってトイレに向かうところ。

 葉山は今井の部屋に報告書を置いて自分の部屋に戻るところだ。

「ええと、こんな感じでよかったかな」

「もうトイレに入っちゃっていいかー?」

「それなら私もトイレに向かって歩きます」

 有原が気怠そうに進行しようとすると、玉原もつられるように動きだそうとする。

「あ、ちょっと待ってください」

 待ったをかけたのは葉山だった。

「私が最初に通路であったのは部長ですから、ふたりはまだです」

「あれ、そうだったの? 知らなかったぞ」

「細かいことはいいから早くー」

 玉原と有原にケチをつけられると、葉山は肩を落としてすみませんと平謝り。

「ああ、ややこしくなりますから、ふたりは黙っていてください。我々警察が順番に進行させますので、指示通りに動いてください」

「はいはい」と、面倒くさそうな返事が通路の先から返ってくる。

 初めに動いていたのは葉山だけだ。まず、今井の部屋に報告書を持って行く。その際、今井は部屋にいなかった。おそらく、郵便配達の応対のため正面玄関から外へ出ていたのだろう。ここでいきなりチェックポイント。岡田はこの地域の郵便局に連絡を取って、昼前に配達に来たかどうか、裏を取るよう部下に指示を出した。

「自分の部屋に戻るときに、部長とばったり会ってしまいました。手には、確かに郵便らしきものを持っていたと思います。報告書を机の上に置いてきた旨を話して、自分の部屋に戻りました」

「どうせ、お小言を言われたんだろう?」

「え、あ、はい。言われました」

「それで、腹が立ってグサッと」

「違いますって!」

 岡田は茶々を入れた人物を一睨みしてから、進行を続ける。

 葉山は今井に言われた言葉が気になって、少しの間、通路に留まっていた。そこで、玉原に背後から声をかけられた。

「ストップ」

 岡田が進行を一時停止する。

「背後から声をかけられたということは、西側を見ていたということになりますね。だとすると、トイレに入っていく有原さんを見たということですかな?」

「え、どうだったでしょうか……」

「おいおい、勘弁してくれよ。ちゃんと見ててくれないと、私がトイレに行ったかどうかも怪しまれてしまうじゃないか」

「どうなんですか、葉山さん」

 立て続けに追及され気が動転した葉山は、顔を紅潮させて定まらない視線を泳がせる。

「わ、わかりません。ぼーっとしていたので、有原さんがトイレに入っていったかどうか、ちゃんと見ていなくて」

 遠目の有原は黙ったまま失望を現す仕草をした。

「まあ、いいでしょう。玉原さんはどうです?」

「私も、いつもならトイレに向かったはず、と当てずっぽうだったし、葉山のほうが気になってトイレのほうは見ていなかったので」

「お、お前ら、グルになって私を落とし込もうとしていないか!」

「まあまあ、落ち着いてください」

 いちいち感想を述べないと気が済まないのか。岡田はいい加減にうんざりしてきた。

「では、有原さん。トイレに入ってください」

 有原は片手をあげて合図を示し、トイレの中へ姿を消した。

 葉山と玉原は少し会話を交わしてからそれぞれ分かれて動く。

 葉山はもう一度、今井の部屋へ。玉原は有原がいるだろうトイレへ向かう。

「部長は部屋にいませんでした。物陰に隠れているだけかもしれないと思って、声をかけたんですが、棚の裏から手を振るような仕草が見えたので、邪魔しちゃ悪いと思ってそのまま部屋を後にしました」

 ここは初めに説明があった通り。

「勇崎さんが来たのはこの頃ですかな?」

「おそらく」

 勇崎が会社の車で建物へやってくる。そのときのエンジン音などの音を、トイレに来ていた有原が聞いていた。

 同じタイミングで、玉原がトイレでタバコの匂いを認識する。玉原は隠れてタバコを吸っていた事実を突き止めるが、実際は有原の姿は見ていないので、本当に有原が個室トイレに籠っていたかは定かでない。玉原はそのまま引き返す。

「また、私が不利になるようなことを。しかも、ナイフはトイレの窓のすぐ傍だったんだろう?」

「有原さん、話を飛ばさないでください。そのままトイレで待機です」

「はいよ」

 勇崎は、建物を回り込んで正面玄関へ移動する。

「ちなみに、どちら回りですか?」

「左から……ええと、東側からです」

 勇崎は建物を回り込んで正面に移動、中に入る。

「あ、待ってください。まだ私が背中を目撃されたシーンがあります」

 玉原に指摘され、岡田は失敬と言って詫びる。

 玉原が引き返して自分の部屋に戻る際、葉山に歩いている後ろ姿を目撃されていた。葉山が通路の様子をうかがっていたのは部長の今井が気になって仕方がなかったからだ。

「トイレにしては戻りが早いな、と思っていたんです」

「そりゃ、有原の様子を確かめに行っただけだったからね」

 玉原は自分の部屋に戻り、葉山はそのまま部屋で待機。

 勇崎が建物に入ってきたのはその後だろう。

 勇崎は、タバコを済ませて自分の部屋に戻ろうとする有原と鉢合わせた。少し会話を交わしてから分かれ、有原は自分の部屋に戻り、勇崎は今井の部屋へ。

 ノックをしても応答がないのでそのまま今井の部屋に入るが、やはり姿がどこにも見えない。そこで、葉山が今井の部屋に再びやってくる。

 勇崎が部屋の奥まで探しに行くと、血を流して倒れている今井を発見。葉山に通報するよう指示を出す。もちろん葉山も今井の状態を一度見ている。

 葉山が部屋を飛び出そうとすると、部屋の前を通りがかった葉山とぶつかってしまう。

「玉原さんはなぜそのとき通路に?」

「ああ、それは……」

 口ごもる。

 これは怪しい。

「ん? ちょっと待った。玉原と葉山、もう一度ぶつかってみてくれないか?」

 何かに気づいた有原が再現を要請する。

 頭に疑問符を浮かべつつ、葉山はスタンバイする。

 だが、玉原は何かに気づいた様子でその場に立ちすくんでいた。

「どうしたんですか、玉原さん。早く位置について」

 岡田に催促されるが、焦燥感に満ちた様子の玉原は動けないでいた。

 ふたりの人物がにやりと笑みを浮かべる。そのうち、大人のほうが声をあげた。

「さあ、早くぶつかってみてくださいよ。それともぶつかった腕がまだ痛いのか?」

 皮肉に対して玉原は顔をゆがめた。

「痛いのでしたら形だけでも……おや?」

 岡田は察した。

「あなたは確か、ぶつけたのは左腕だったはずでしたな。自分の部屋から歩いてきたのなら、ぶつかるのは普通右腕のはずですよ」

 聞こえるか聞こえないかの声で、八十島が「ああっ」と感嘆の声をあげた。

「葉山さん。玉原さんとぶつかったとき、彼はどちらから歩いてきたのか覚えていますか?」

「ええと、たしか右手から出てきたところを」

「……」

「どういうことですかな、玉原さん」

 岡田が追及を始める。玉原は焦りの色を隠せず目線を床に向けた。

 そう、玉原が証言通り自分の部屋に戻っていたならば、室内から見て左から出てくるはずである。

「葉山の受けた印象は正しかったってことだ」

 有原にフォローを出す気はさらさらないようだ。

「本人の部屋ではなく、もっと手前だったような気がした。正解だったんだよ、葉山。玉原は自分の部屋ではなく、手前の部長の部屋に入っていったんだ。犯行に及ぶために」

「ち、違う」

「何が違うというんだ」

 容赦ない有原。

「違う。私じゃない。なぜなら私は……」

「違うというなら本当のことをだなぁ」

「有原さん。やめてください。話を進めるのは我々警察です」

 いよいよたしなめられて一歩引く。有原はなぜこうも気が立っているのか、よくわからない人だと思うほかなかった。

「私が向かったのは自分の部屋でも部長の部屋でもなく」

 重くなった唇が動き始める。

「階段です」

「階段とは、どういうことですかな?」

「階段から、二階へ行っていました。黙っていてすみませんでした」

「なぜ?」

 隠しごとをしていたことに対して謝れば済むという話ではない。時と場合によっては公務執行妨害に相当してしまう。

 とにかく今は、その嘘をついてまで隠したことを問い質さねばならない。

 玉原は苦悶の表情を浮かべる。二階といえば、勇崎の作業場があるという話だ。そこに何か用事があったということだろうか。

 それに気づいた勇崎が、警察に変わって質問する。

「私に用でもあったのか?」

「いや、用があったのはあなたではなく」

 言葉を区切る。この時点で、大概の者は察しがついた。

「あなたが保管している書類に用があったんですよ」

「なんだと?」

「私はあなたを、信用していなかったのだ」

 再び不穏な空気が流れ始める。玉原は堰を切ったように話しだした。

 玉原は探したいものがあった。勇崎が保管している議事録を。特に、最近の取引相手との会議の記録。先の話で、この会社は近い将来、吸収合併されることが決まっているが、その細かな調整については勇崎に一任されているということだった。調整はうまくいっているのか? 本当に引き抜かれないで首になってしまう人物がいるのか? 問題はそこではなかった。吸収合併そのものが、正当な理由、手続き、互いの承諾があって進められたものなのか、そこが気になっていたのだ。

「そんなに疑り深い性格だったか?」

 勇崎が感想を述べる。有原も何か言いだそうとしたが口をつぐんでいた。

「まあいい。私の作業場を漁って何を見つけたのか?」

「何もありませんでしたよ。そもそも、階段を上がった先のドアに鍵がかかっていた」

 警察や江雷が気になって見てみると、確かに上った先にドアがあるようだ。それは下の階から見上げてみても見える位置だった。

「そうだろう。そういう資料は厳重に保管しているからね」

「二階の鍵をかけてあるのは私は知っていましたよ」

 葉山の証言に有原もうなずく。どうやら玉原だけ知らなかったようだ。

 鍵のことなど歯牙にもかけず、玉原は勇崎に向かって牙を向いた。

「あなたに任せておいて不安だったんだ。だいたいの事情を知っているあなただからこそ。引き抜いてほしくない人の欠点を晒して首にする人を調整してるんじゃないかってね」

「そんな汚い真似をするはずが……」

「今だから白状するけど、有原のタバコの件も勇崎の指示だったんだ。有原のルール違反、私のコネによる採用。あと葉山は若く即戦力とはいかない点。そう考えると、自分だけ助かる道なんて容易いものだからさ」

「……お前、ずっとそんな気持ちで仕事してたのか?」

「うっさい。叔父さんが殺されて、余計に何もかもが疑わしくなったんだよ!」

 やけになっている。取り乱して震える玉原を、八十島が歩み寄ってなだめる。

 親戚が誰かに殺されてしまったのを目の当たりにして、気持ちの整理がつかず、怒りや悲しみの感情が不安定になっているのだろう。岡田も残る同僚のふたりも沈痛な面持ちになる。

 だが、それは本心か、言い逃れの材料か。表向きはともかく、本心ではまだ疑いを晴らすわけにはいかなかった。

「さて、玉原さんの証言が本当のことだとして、再現を続けますよ」

「あれ、まだ終わっていなかったのか」

「当たり前です」

 葉山が通報をするため部屋を飛び出したあと、玉原に続いて有原も部屋にやってきた。有原は、大きな声がしたから気になって見に来たという。そこで、玉原も有原も血を流して倒れている今井の姿を見た。勇崎は下手に触らないで救急車を待とうと言い、玉原は自分たちだけじゃなく勇崎自身も触らないで離れているよう指摘したという。これはこの時点で玉原が勇崎を少なからず疑っていたからだったそうだ。

「なるほど、発見したふりをして、実際はその場で実行する方法か。犯人が自らの証言によりアリバイを作ろうとする、よくあるトリックだ」

「勝手に決めつけるな、有原。そんなことはしていない。私が最初に見つけたとき、葉山は後ろで見ていたはず。私は何も怪しいことはしていなかっただろう?」

 有原の指摘に、勇崎は躍起になって反論した。聞かれた葉山は「確かに」とうなずいてフォローを入れる。

「ちなみに、部屋に入ったとき、または発見したとき、何か気になったことや気づいたことはありませんでしたか?」

 岡田がまとめに入る。ふたりは初め、首をひねったが同時に「あ」と言葉を発した。

「どうぞ、どうぞ」

「いえ、勇崎さんからどうぞ」

 譲り合った末に勇崎から証言することになった。

「オーデコロンの匂いがしたくらいですかね」

「オーデコロンというと香りをつけるあれですかな。それがどうかしたのですか?」

「いえ。部長がコロンの香りをつけているのはいつものことです。が、今日に限ってはその香りがきついと思うほど強かったなと。部屋に充満しているくらいでしたから」

「ほう。葉山さんも同じことを思いましたか?」

「はい。そのことを言おうと思っていました。ただ……」

「ただ?」

「気のせいかもしれません」

「何なりとおっしゃってください。些細なことでも捜査の役に立つことがあります」

「部長に近づいたときは、別の匂いもあった気がします」

「別の匂い?」

「もしかして、血の匂いじゃないか? 私もそれは思ったぞ」

「そうでしょうか。みかんのようなスイーツな香りがしたような」

 スイーツの香り。

 江雷には今一ピンとこなかった。血の匂いでそのような感想を持つ人などいるものだろうか。それとも、近くにあった観葉植物や植木鉢が発している匂いと勘違いしたのだろうか。

 まてよ、匂いといえばあのとき……。

「被害者は襲われる直前にみかんでも食べていたのかな?」

 岡田がなんとなしにボケてみるが、反応する者は誰もいなかった。

 反応の代わりに江雷が意見を呈した。

「ちょっと調べてほしいことがあります」

「何かね?」

 江雷は気づいたことを警察に説明した。要点としては、窓付近を詳しく調べること、被害者の衣服に血以外のものが付着しているかどうか調べること、そして勇崎が乗ってきた会社の車の中にあるものを確認することだ。

「構わんよ」

 岡田はあっさり意見を受け入れる。そのくらいを調べるなど造作もないし、普通に調査してしかるべきところ。手がかりが見つかるなら早い段階で調査に踏み切った方がよいということだった。

「警察が車の中を調べ出したぞ。疑われているんじゃないですか?」

 有原は例外なく勇崎を煽る。

「それはどうかな。今の再現で振り返ってみたら、一番怪しいのは葉山だと私は思ったんだが」

「一理ありますね」

 勇崎を疑っているかと思いきや、勇崎の予想にも同調している。つくづくつかみどころのない人物である。

 これまでの再現による状況がすべて偽りのないものだとすれば、一番怪しむ人物は葉山ということになる。二度も人目のつかない状況で現場に行っているのだから。

「それを言うなら、嘘をついていた玉原さんが怪しいのではないですか」

 葉山は焦って矛先を別人に向ける。

「私は二階に行っていただけだ。それなら、私は有原を疑うぞ。タバコを吸っていると見せかけて窓から脱出し、部長の部屋に窓から侵入して犯行に及んだんだ。さっきから誰かを犯人に仕立てようとする物言いが一層怪しいと私は思う」

 矛先は順に巡っていく。

「適当なことをぬかすな。外に出ていたなら私は勇崎に姿を見られているはずだ。窓から侵入したというなら、勇崎さんのほうがよっぽど怪しいね」

「確かに誰も見ていないし。というか、そんな真似はしていない。誰かな、嘘をついているのは?」

「私は報告書を出しただけです」

「私は二階に行っていただけだ」

「私はタバコを吸っていただけだ」

「私はすでに倒れていた部長を発見しただけだ」

 そう、すべてが正しそうであり、疑わしくもある。

 だが、江雷は気づいていた。再現によりすべて正しい証言がそろったならば、疑うべき人物はたったひとりに絞られるということに。



   五


 捜査は大きな進展を迎えた。江雷の進言により調査個所を絞り込む。きびきびと動き続ける警察を横目に、事件の関係者は猜疑の目をその子どもに向ける。初めから追い出されることもなく、むしろ警察が彼の発言に耳を傾けている。何者であるのか? その答えが今まさに導かれるところだった。

「車内の確認が終わりました。車種は有名メーカーのライトバン。特に荷物が積まれているわけでもなく、中はすっきりしたものでした。一応、車内に置かれていたものの一覧がこちらです」

 報告に来た警官がリストを岡田警部に渡す。

 江雷はふたりに歩み寄ってリストをのぞき込んだ。

 自賠責保険の書類に、周辺の地図、予備のタイヤと燃料、それから工具が何種類か。そしてひときわ目立つものがある。消臭剤だ。

「この消臭剤、種類は何でしたか?」

 江雷は警官を見上げる。やはり大人の中に紛れると明らかに存在が小さく見えた。

「種類? ええと、ベルガモットだったかな」

 警官はあごに指を当てて見てきたものを思い出す。

「タイプは?」

「タイプ?」

「設置しておくだけのものとか、霧吹きタイプとか……」

「ああ。霧吹きタイプだったよ」

「そう、ですか」

 やや素っ気なさそうに答えると、江雷は窓のほうを見やった。岡田に窓を閉め切られ、江雷が最初に見つめていた窓だ。

 その近くには観葉植物と植木鉢。

 被害者が残したと思われるダイイングメッセージ。

 消えた報告書。

 充満していたコロンの香りと近づいたときの酸味のある香り。

 なるほど。だいたい一本の線でつながった。

 江雷は不敵な笑みを浮かべる。

「まさか、わかったのかね?」

 あらぬ方向を見ているが、ひとりだけ勝ち誇ったような表情をしている人を見逃すはずがない。岡田はその心理を読み取って尋ねた。

「ほぼほぼ、ね」

 否定はしない。江雷は向きなおって正面を向く。

「ナイフに指紋をぬぐったような形跡があったということは、指紋に注意を払っているが軍手などをしていたわけではなかったということ。至るところの指紋を調べていけば、いずれ犯人を導き出すところまで辿り着けると思います。ですが、そこまでしなくても犯人は割り出せそうですよ」

「おお」

 八十島が期待のまなざしを向ける。

 対照的に、嘲笑うものがいた。

「ふん。学生さんの出る幕じゃないんだよ。さっきまで案山子のように突っ立っていただけの子どもに何がわかる? 警察でも探偵でもないやつは引っ込んでな」

 有原が手で払う動作を見せたが、その間に岡田が割って入った。

「いえ、彼は探偵です」

「……」

 言明したことに誰もが度肝を抜かれた。そう言われては有原も反論できない。

「雇われているのか」

「そういうわけではありません。あくまで任意です。任意であり、お互いの思惑が一致しています」

「つまり、まったくの部外者ではなく探偵として扱うことにより、互いにやりやすくしているってわけだ。ふん、面白い。じゃあその探偵とやらの謎解きを聞かせてもらおうか」

 やけに挑発的になる有原だが、盛り上げる布石としては十分であろう。

「では、江雷君。順番に話してもらおうか」

「はい」

 江雷は目をつぶって、一度大きく深呼吸した。

 目を開くと、別人のように目つきが鋭く変わる。

「もう一度、証言をもとに状況を整理してみましょう。全員が嘘をついていないことを前提にね。まず、出張から帰ってきた勇崎さん」

 いきなり名指しされ、身構える勇崎。

 勇崎は車で建物の裏側にやってきた。その際、怪しい人物などは見ていないという。

「つまり、勇崎さんの証言は有原さんのアリバイを証明していることにもなります。窓から脱出して犯行に及んだ、ということがなかったということですね」

 続いて有原はどうか。犯行に及んでいないならトイレに籠っていたのは事実となる。玉原が確認したタバコの匂いは間違いなく有原のそれだ。なお、勇崎の証言は玉原にも通用し、窓から脱出はしていない。

 その玉原は通路を行く際、行きには葉山と遭遇しているが、帰りは後姿を見られただけ。しかも、嘘をついて自分の部屋に帰っていなかったことがわかっている。それは内緒で勇崎の作業場に向かっていたから。ただ、階段を上った先のドアに鍵がかかっており侵入は失敗し立往生となった。のちに通路の左手から現れたことを踏まえると、嘘をついていたことが本当のことだと見て間違いないだろう。

「そして、葉山さん」

 残された葉山の血の気が引く。

「まさかお前か」

 有原が指摘するが。

「早まらないでください」

 江雷は落ち着き払って波立てないようにする。

「確かに、わずかな時間を狙って唯一実行できそうなのは葉山さんだけ。しかし、玉原さんの嘘が本当なら、玉原さんの後姿を見たのも本当なのです」

 表現がややこしい。何を言っているのかわからなくなりそうになる。

「要するにそのタイミングでは間違いなく自分の部屋にいたということ。となると、犯行はもっと前の時間。でも、報告書を提出した、と報告した直後に通路で出会った人物がいますね」

「あ、私だ」

 そう、玉原である。ふたりは互いにアリバイを立証し合っていたのだ。

「ただし、犯行可能なタイミングはもうひとつだけあります。玉原さんが階段を上っていった後です。そこから勇崎さんが建物に入ってくるまでの間……」

「やっぱり、葉山が犯人だったか」

「いえ。まだです」

 江雷はもう一度否定しておく。

「玉原さんの立ち位置を考慮すると難しいのです。それを知った葉山さんならなおさらですね」

「どういうことだ?」

 岡田が口を挟んできた。

「二階のドアの鍵がかかっていた。つまり玉原さんは階段を上った先、下から見上げればすぐ見える位置にいたということ。逆に考えれば、玉原さんは一階の通路が見える位置にいたということになるんです。通路を移動する姿を見られるかもしれない。鍵がかかっていることを知っているなら、なおさらすぐ引き返してくるかもしれないことに容易に予想がつく。勇崎さんが部長の部屋に入ったあとで、葉山さんが部屋にやってきたことも踏まえれば、葉山さんに犯行可能な時間はなかったということになるんですよ」

 葉山は安堵した様子を見せ、他の三人は得心がいかないといった様子だ。

「てことは、誰も犯人じゃなかったということか」

 有原が結論付けようとするが、江雷は再び顔を横に振って話を続ける。

「いえ。ここまではあくまで三人が犯人ではなかったと説明しているに過ぎませんよ」

「さ、三人、だと?」

 片方の眉を吊り上げる有原。あぶれた奴は誰だと、四人は顔を見合わせた。つられるように岡田と八十島も視線を交わした。

 その様子を見ていることが楽しくなって、江雷は少しだけ間を持たせる。自ら名乗り出るか、また罵り合いが始まるのか。

「アリバイがあるとも、犯行は無理とも、一度も言っていない人がいるじゃないですか」

 ヒントを出すと、一斉にその人物に視線が集まった。

「……そう、勇崎さんです」

 名指しされた勇崎は数秒間、体を硬直させたが、我に返ると余裕の笑みを浮かべた。

「最後にやってきた私に、できるわけがないじゃないか。第一、発見したときはすでに襲われた後だったぞ。それは葉山も確認している」

「いえいえ。犯行がそのタイミングだったとは誰も言ってないですよ。犯行に及んだのは車で建物の裏にやってきたときです」

「まあ、そのタイミングならできそうだな」

 岡田が相槌を打ち、代わって説明を始める。

「窓を叩くなどして今井さんを呼び、窓が開いたところに不意を突いて刺したんだろう。ナイフはその場で西側の窓付近に投げ捨てた」

「いえ、ナイフを捨てたタイミングはそこじゃないかもしれません」

「は?」

 江雷が指摘すると、岡田は素っ頓狂な声をあげた。

「ナイフの処分が計画に含まれていたかは不明ですが、犯人にとってまだやることが多く残っていました。窓から部屋に侵入してまでやるべきことが。まず、邪魔をしに入ってきた人を退却させること」

「邪魔を、しに?」

「もしかして、葉山さんが」

 岡田が首を傾げる横で、八十島が推察する。

「そうです。葉山さんは報告書の件でもう一度この部屋を訪ねている。その時、部屋の奥で手を振る仕草が見えたと言っていました。それはおそらく、物陰に隠れて今井さんになりすまして振った犯人の手か、もしくは犯人が今井さんの腕を持って振っているように見せかけたか、そのどちらかでしょう」

「言われてみれば、こんな低い位置から手を振っていました」

 葉山は自分の膝の辺りを指で指し示す。

「追い返すことに成功した犯人は、もうひとつ用事を済ませました。それは、今井さんが手に持っていたものの処分です」

「何を持っていたというのかね?」

 岡田には察しがつかず、八十島も首をひねるばかり。

「つい数分前に持ちこまれたものですよ」

 ヒントを出せば、岡田も八十島も即座に手を打つ。

「そ、そうか。郵便!」

「はい。おそらく犯人は知っていました。大切な郵便が今日、届くことを。それに、郵便屋さんがだいたいいつも同じ時間に来ることを知っていれば、その時間帯を狙ってそれを奪い取ることも容易くなります」

「ちょ、ちょっと待て」

 岡田が手を出して制する。

「大切な郵便とは、さっき鑑識に回したあの書留のことではないのか。処分したかったけどできなかったというのか」

「いえ、犯人は封筒に入った書類を処分しましたよ」

「何を言っているのかさっぱり……」

「簡単な話です。処分した書類が、その書留じゃなかったということです。おそらく、被害者はふたつ以上の封筒を持っていたんです。それで処分したかったものを間違えた」

「ま、間違えた? ま、まさか、その処分された書類とは!」

 岡田が目を見開く。

「そう……。葉山さんの報告書ですよ」

 驚きをかみしめるように沈黙が舞い降りる。葉山は封筒に入れておいたと言っていたから、二通の封筒を見て、あるいは片方だけしか見ていなくて、犯人が見当違いを起こしたと考えてもなんら不思議ではないだろう。

「どこに処分したか。十中八九、シュレッダーでしょうね。だから、この部屋に置いて来たはずの報告書がなかったんですよ。犯人によって処分されてしまっていたから。ちなみに、犯人が窓から侵入した形跡も実は残っていました。窓付近に土がこぼれていたんですよ。あれ、最初は植木鉢の土がこぼれたものかと思いましたが、よく見てみると少し違います。そう、窓の外の土です。土足のまま入ったのかわかりませんが、靴裏の土が室内に落ちてしまったということです」

「全然気づかなかった」

 十分に室内を観察していたはずの八十島が今更ながらに感嘆する。初めに外の土を見ていた江雷だからこそ、見分けがすぐについた。

「それで、再び窓から外へ出た犯人はもう一個、犯行に使用したものを車に戻してエンジンを止めてから、東側から入り口に回り込んで何食わぬ顔で出張からの出社を装った。ああ、補足ですが、なるべく物音を紛らわすためにエンジンはかけっぱなしにしてあったものと思われます」

「もう一個、使用したもの?」

「消臭剤ですよ」

 完全に江雷のペースに乗せられている。岡田としては立場的に癪に感じる部分もあるが、真相を手早く見出すためには致し方ないと考えていた。

「確かに車に置いてあるリストにあったな。だが、なぜそんなものを?」

「用途はきっと目くらましです」

「め、目くらましだと?」

 そんな単純な理由で。意外性のなさにこっちの目がくらみそうになる。江雷はそんな様子に気にも留めず話を続ける。

「いくら普段から面識のある相手といっても不意打ちは難しい。だから霧吹きタイプの消臭剤を顔に向かって吹っかけ、目を晦ましたんでしょう。顔以外に吹っかけてしまった形跡が、実は残っていましたよ。窓にしっかりとね。最初はさすがに気づきませんでしたよ。でもよくよく思い起こしてみれば、水分で滲んでいた部分があったし、かすかにオレンジ系の匂いがしていた気がします」

 初めにここに到着したとき、岡田に内側から窓を閉められ窓の外でひとり置き去りにされていた。窓越しに室内を眺める江雷の目には、滲んでゆがむ室内の様子が見えていたのだった。

「だから、調べてもらえれば、もしかしたら検出されるかもしれません。今井さんのスーツやシャツから、車に置いてあった消臭剤と同じ成分が。まあ、葉山さんも近づいたときにみかんのような匂いがしたと言っていましたから、十分な根拠といえるでしょう」

「ああ、ベルガモットはミカン科の一種だったな、そういえば。でも本当に江雷君の言う通りなのか? ベルガモットはフレッシュな香りゆえに、オーデコロンにも使用されると聞いたことがあるぞ。単に、今井さんがつけていたコロンの香りだっただけの可能性も考えられるぞ」

 岡田の指摘に、八十島も何度もうなずいて納得する。そして心配そうに江雷の顔を見やる。

 だが、その表情に微塵も焦りなどの色は見られないのだった。

「だからこそ、充満させたんでしょう。コロンの香りをね。ベルガモットの香りだけが今井さん周辺にだけ香れば、この辺で消臭剤を吹きつけられたことが容易に想像できてしまう。それを曖昧にするために、コロンのケースの中身をわざとこぼした」

「なるほど。勇崎さんはコロンの保管場所も知っていたようだしな。で、入り口から入ってきた犯人は、あたかも初めて発見したかのように振る舞ったというわけか」

「そうです。不審者がいないか窓を開けたらしいですから、現場に残したナイフを投げ捨てたのはたぶんそのときじゃないかなと、ぼくは思います。葉山さんに通報して来いと指示して、自分から離れさせた後でね」

「そういうことか……。勇崎さん、どうやらあなたが容疑者として固まりつつあるようです。間違ったところがあれば、今のうちにおっしゃってください」

 岡田の中立的な発言は、ある意味容疑者に対する挑戦でもある。証拠が見つかり、容疑が固まれば任意同行、あるいは逮捕に踏み切ることができる。

「そんなの子どもの作り話みたいな妄想。私がやったという証拠があるんですか?」

 テンプレ通りの受け答え。やりやすい限りだ。江雷は素直にそう思う。

「ナイフを捨てましたか?」

「は? そんなことするわけないだろう」

「では、倒れていた今井さんに触りましたか?」

「触ったよ。容態を確かめるために」

「それは間違いないですか、葉山さん?」

「え、あ、はい。間違いないです」

「それ以外には何も?」

「はい。部屋を出ていくのと入れ替わりで玉原さんがやってきましたから、何もしていなかったと思います」

「左肩を痛めたやつか」

「すみません」

 自分は潔白だとわかって安心したのか、玉原は嘘をついていたことを棚に上げて自虐ネタとして使い始めた。

「玉原さんも、勇崎さんが他に何もしていないことを見ていますね?」

「そうだね。救急車を待とうという話になったときに、勇崎さんにも怪しい行動は慎むよう言っておいたからね。勘が働いたから言っただけなのに、それが奏功したみたいだ」

「ふん」

 自分自身に聞いてくれればいいのに、なぜ遠回しに他人から聞くのか。勇崎はそのことに苛立ちを覚え、地団太を踏んだ。

「いくら確認しようと、私が近づいて容態を確かめただけで何もしていないことは明白な事実なんだ。文句あるのか?」

 目つきが悪くなる。警察はその様子を見て、よからぬ行動に出ないか警戒を始めた。

「その証言を待っていました」

 当の江雷は責められても平然と、むしろ余裕綽々といった態度のまま。

「では、もし指紋が検出されたらどうしますか?」

「指紋?」

「葉山さんが提出した報告書の封筒のことですよ」

「そんなもの、シュレッダーされたっていう話じゃなかったか?」

「シュレッダー、したんですよね?」

「……」

 鎌をかけてみたが、さすがに引っかからないか……。江雷はちょっとだけ残念に思った。

 だが、否定しようが肯定しようが、もはや言い逃れはできない段階だ。

「シュレッダーしたら指紋が消えるわけじゃありません。封筒ごとシュレッダーしたのならなおさら、見分けがつきやすいので復元することは造作もないこと。新しい封筒と葉山さんが証言していた封筒からあなたの指紋が検出されたら、どう説明するんですか」

「……」

「それに、被害者に駆けよったときに香ったベルガモットの匂い。昨日の夕方買ってきて車に置いてあるはずの消臭剤が、なぜ被害者に吹きかけられていたんでしょうね。車でやってきたあなただけができることなのです」

 勇崎は唇を堅く結んだまま押し黙る。それもつかの間、諦観した様子で笑みを浮かべた。

「状況証拠は十分ということか。まあ、これ以上否認するのも見苦しいだろう」

 緊張の糸は切れた。

「認めるんですね?」

「そうだ」

 岡田の言葉にも深くうなずく。

 勇崎は潔く自供を始めた。

「だいたいその子の言う通りだよ。私は車でここにやってきて、窓を叩いて室内にいる部長を呼んだ。部長が窓を開けたのを見計らって、用意した消臭剤を部長の顔めがけて吹きかけた。消臭剤は車内にあったやつを使ったが、まさかいつものラベンダーじゃなくベルガモットに変わっていたのは正直知らなかったよ。それで、ひるんだ部長めがけて隠し持っていたナイフで部長を刺したんだ」

 淡々と話す勇崎に、他の三人はおびえた様子で見つめている。

「草を踏み荒らしておいたのも自分だ。あわよくば外部犯に見せかけられると踏んでな。そのあとも説明があった通り。窓から侵入して、部長が手にしていた封筒をシュレッダーにかけ、報告にやってきた葉山は物陰に隠れながら手を振って引き帰らせた。あのときはさすがに焦ったな。そして何食わぬ顔で出張帰りを装って発見者となった。葉山に指示して怪しい行動を見られないようにしたのは、窓から外を確認するふりをしてナイフを捨てておくため。まさか、もうひとつ封筒を持っていて何かのメッセージを残されていたとは夢にも思わなかったが」

「やはり、勘違いでシュレッダーを?」

 岡田の質問に、勇崎は黙ってうなずく。

「ちょっと待てよ。勇崎さんは封筒に書かれていた変な記号と血の痕の意味がわかったっていうのか?」

 有原が聞く。それに対して勇崎は、だいたいだと曖昧に答えた。

「ていうか、そもそもなんで封筒をシュレッダーする必要が? ただの書留だろう? シュレッダーしたかったのは……。弁護士ってことは今度の合併に関することじゃないのか。何も後ろめたいことなんてないと思うんだが」

 有原が機関銃のようにまくしたてる。

「……ばれるのが怖かったのさ」

 はやる有原に流されることもなく、冷静に言葉を選んでいく勇崎。

「吸収合併されることが決まり、手続きや段取りに関してはすべて私に任された。だが、示談はどうしてもうまくいかなかった。本当は部内の人間すべて切られることなく新しい会社へ移りたかった。そうしたら条件次第で検討すると相手は言ってきた。そこで私はついやってしまったんだ。お金を、相手に渡してしまったんだ」

「!」

 賄賂だ。

「渡してしまったのかね?」

 岡田の目つきが厳しくなった。

 これは余罪を追及する必要がありそうだ。

 それに、もし相手も不正な報酬として認識したうえで受け取ったのなら収賄の罪にも問われることになる。その辺のやりくりがどうだったのか、捜査する必要が出てきた。

「いや。合併したらこの建物は取り壊しになるから、その資金の前借として受け取ってもらいましたよ」

「……」

 口ではなんとでもごまかしがきく。あとですぐ捜査の手が回るよう、手配を進めることを岡田は心に決めた。

「まあ、要はその不正なやりくりを弁護士を通じて調べられているのではないか、そう思っていたわけですね?」

「そうです。だから事態が明るみに出る前に口を封じ、調査結果と思われる書類も処分したかったんだ」

 案外あっさり白状したものだ。不当な金銭の受け渡しがあったことに。

「そんなもの、いくら処分したところで、弁護士の調査がないことになるなんてあり得ませんぞ。ちょっと浅はかすぎるのではないか」

「それだけじゃないんだ。誰が指摘したか、打ち合わせという名目で実はサボって街をぶらぶらしていたことも本当にあったんだ。ばれたら困ることたくさんあったのさ」

 岡田は頭を抱えた。

 どうしようもない奴だ、ということではなく。別の意味で困っていた。

 今井に弁護士を通して素行を調査されていたと思っていたようだが。

 真相は異なるのだ。

「違うんですよ、勇崎さん」

 岡田が声をかけても振り向かず肩を落としている。

「まったくの事実無根です。今井さんがあなたのことを調査していたと、誰かから聞いたのかね。それとも見たのかね?」

「……」無言のまま。

「自身にやましいところがあるから、被害妄想が沸き起こってしまったのだと思います」

 なんの慰めのつもりか、勇崎は岡田をにらみつけた。

「何を知ったかぶりを」

「知ったかぶりじゃありません。事実なのです。すべてはこれに書いてありました」

 と、奇遇なタイミングで八十島が封書を持ってきた。

 鑑識に渡してあったはずの書留。

 八十島は絶対にこれが必要になると悟って、すばやく取り返してきたのだ。

 岡田は優秀な部下からそれを受け取ると、中身を取り出した。

「今井さんが極秘に弁護士に頼んで調べていたのは、あなたのことではありませんでした。いえ、あなたのことでも、他のお三方のことでもありません。調べていたのは、この会社を吸収合併しようとしている相手の運送会社のことです」

「な!」

「なんだって!」

 勇崎も有原も、口を開けたまま硬直した。

「どうやら不正な力が働いていたようですよ、今回の吸収合併の話には。この書面を見ただけでは詳細は不明ですがね。きっとそれに対抗し、悪事を暴こうとしていたんです」

「そ、そうか!」

 急に八十島が大声を出した。

「だから、なんだ」

「何が、だからなのかね」

 説明になっていない発言に、呆れ顔で岡田は聞き返す。

「あれですよ、あれ」

「だから何が」

「あれだよ、江雷君。日記に書いてあった」

「ああ」江雷も悟る。

「破産申請」

「そうそう、それそれ。警部、パソコンに保存されていた今井さんの日記に書いてあったんです。消滅会社となってしまうくらいなら、いっそ破産した方がいい、ということが」

「ふむ」

 岡田はたいして驚かずにその意味を吟味している。

「つまり、不正に吸収合併されて消えてしまうなら、いっそのこと破産申請して、同じメンバーで一からやり直したかったのではないかと」

「なるほどな」

 客観的に見ればそれですべて辻褄が合う。なんらおかしい話ではない。

 だが、今の今まで会社の中にいた人たちにとっては、急に事実がねじ曲がってしまっても納得できるはずがなかった。

「じゃあ、なんだったんだよ。今までの部長の態度は。いつも部下を見下し、けなし、雑に扱ってきた。私たちが嫌いだったからに決まっているだろう。私たちのことを思って、なんてこと、万に一つもあり得ない!」

 半ばやけになって勇崎が吠える。

 目をつけられていると思っていたから消したのに、実は自分たちを思って行動していたなんて。あってはならない、絶対に。

 それでは私は、なんのために殺したのか。

 勇崎は認めたくなかった。

「……残念ですが」

 しばらく黙って話を聞いていた江雷が一歩前に出る。

「今井さんが部下の皆さんのことを大切に思っていたのは事実だと思います」

「お前に何がわかる」

「勇崎さん、さっき、今井さんが今わの際に残したメッセージの意味、だいたいわかったとおっしゃいましたね」

「ああ」

「ぼくにもわかりました。あれは、花だったんです」

「花だと?」

 岡田が反応した。

「そう見えなくもないが」まじまじと手元の封筒を見つめる。

「それは紫陽花のことなんですよ、警部さん」

 先に種明かしをしたのは勇崎だった。

「これが紫陽花?」

 岡田は二度見して、左右に何度も首を傾げる。

「簡素化して書いてあるだけです。上のもくもくしたやつは装飾花という周りのガクを現していて、真ん中の丸印が真花を現しているんです。部長の好きな花なんですよ。ほら、窓際に置いてある植木鉢、あれも紫陽花です」

「あ、あれは紫陽花だったのか……」

「まだ季節的に色づいていないからわかりづらかったんでしょう」

「で、この紫陽花に何の意味があるというのかね?」

「そこにいる子が、おおよそ察しがついていると思いますが」

 一度、江雷の様子をうかがう。江雷はご自身で話してくださいと言っているように手を差し出し合図を示した。

「花は、私のあだ名です」

「え?」

 全然割に合わない。失礼ながら岡田はそう思った。

「勇崎の“崎”を、花が咲くの“咲”に置き換えて連想したものです」

「ちょっと強引すぎやしませんか?」

「そう思いますか? 実はそうでもないんです。他の三人のあだ名を思い出してください。玉原と有原は原っぱの“原”。葉山は葉っぱの“葉”。どちらも自然を表す言葉。だから花になったんですよ」

 だからあのとき、勇崎は言葉を濁したのだ。呼び名があるかと聞かれたとき、花のようなイラストが自分を連想させることになるから。

「それはさておき、私の呼び名がわかったところで、どうして部長が部下を大切に思っていたことがわかると?」

 再び江雷に向きなおる。

「紫陽花を育てていることを見ても明白じゃないですか」

 江雷は簡潔に述べる。

「それは部長が花が好きだからだ。なんの根拠にもならないね」

「注目すべきは花言葉ですよ。紫陽花の花言葉は、辛抱強い愛情や一家団欒だと聞いたことがあります。日記にもそれらしきことが書いてありました。紫陽花を大切にしていたということは、お小言は言うけれど、辛抱強い愛情で家族のように大切に部下のことを思っていたんじゃないでしょうか」

「バカげている。その解釈は無理がありすぎる」

 一蹴した。

 というより、やはり認めたくないのだ。

 しかし、江雷は冷静のまま机の前に移動した。

「では、これを見ても納得できませんか」

 視線が集まったところで、マウスに触れてパソコンのスクリーンセーバーを解除した。

「何を見せようと……」

 江雷や八十島が先ほど見た画面。きれいな森林の写真だ。

「もし、本当に部下のことを嫌っているなら」

 言葉を区切って反応を確かめる。

「原っぱや葉っぱ、それから花を連想させる、むしろ嫌でも目に入るその画面を、わざわざデスクトップの背景にすると思いますか?」

「……」

「さらにもう一点、今井さんが残していた日記に書いてありました」

 江雷は先ほど開いていたテキストファイルのうち、ひとつを選んで開いた。

 消滅会社となってしまうくらいなら、いっそ破産申請をして無くしてしまったほうがいい。四季折々の自然の四人が移動して私は居まい。その方がよほど本望だ。

「今ならおわかりですね。自然の四人、すなわち自然の意味を名前に持つ四人のこと。四季折々とは、皆さんが特色のある性格を持ち合わせているのを認めているということ。それが移動とはつまり、新しい会社に異動となること。自身は置き去りにされて構わないから、四人は新しい会社へ無事に行って活躍してほしいと願っている文章だったんです」

「これまでの叱責は、遊んだり手を抜いたりしないでもっとがんばれよという隠れたメッセージがあったんでしょうな。自分たちの都合ばかりに気が散って、一番身近な存在に気づいていなかったということでしょう」

 岡田がまとめる。

 もはや反駁する者は誰もいなかった。

 ただただうなだれるのみ。

 誰もが罪深いと感じていた。

 実行に移してしまった勇崎だけではなく、親戚だからこそ実力不足で忌み嫌われていたと思っていた玉原も、サボり癖やタバコのことで目をつけられていたと思っていた有原も、叱責ばかり食らっていた葉山も、恨むことなんて一切なかったのだ。

 犯人が任意同行されていく。

 もはや軽口を叩くものなどいない。思えば軽口を叩き合える四人だったからこそ賑やかだったのかもしれない。

「部長、今までごめんなさい」

 最後に誰かがつぶやいた。



   六


「やれやれ、とんだ寄り道になってしまったな」

 歩行者用信号が赤になったのに気づき、早めにブレーキを踏んで信号に対応した。岡田は八十島を含む現地の部下たちに指示を出したあと、江雷を送り届ける使命の続きをまっとうしていた。

 助手席の江雷は反応に困り、前方を見据えたまま黙っていた。

 横断歩道を制服姿の学生が渡っていく。ふと運転席の時計を見ると、ちょうど下校時間だということがわかった。そういえば、この近くに通っていた中学校がある。

 懐かしみながら、ついじっと生徒たちの様子を見ていると、視線に気づいたのか、ひとりの女子生徒がこちらを振り向いてきた。

 ……しまった、見すぎた。慌てて焦点をずらしてごまかす。

 ふわりとしたショートボブの女子生徒。前を通り過ぎざまに、澄ました顔で明らかに助手席のほうを見ていた。

 ああ、これは悪いことをして連行されていると勘違いされるだろうな。江雷は弁明すらできない状態にもどかしさと気恥ずかしさを覚えた。

 女子生徒はちらりと見ただけで、そのまま談笑していた他の子たちと歩いていく。

「あれ?」

 女子グループが通り過ぎると、今度は別の男子グループが歩いていく。そのうちのひとりに見覚えがあって、つい声に出してしまった。

「茶本君だ」

 茶本大。中学二年生。数か月前に学校で起きた事件の関係者だ。

 江雷から見れば自分が卒業した学校のふたつ年下の後輩にあたる。出会い方は最悪だったが大事な後輩には違いない。関わりのある者として、先輩として、彼の置かれている境地や環境から守るのは責務だと江雷は感じていた。

「すみません。ここで降ろしてください」

「いいのか? 君のお家はもう少し先では?」

「大丈夫です。用事ができましたから」

「わかった。ちょっと待ってくれ。交差点を通過したら路肩に停めてあげるから」

 信号が変わってしまったので車はそのまま発進する。交差点を超えたところで、岡田は車を停車させた。

「今日はご苦労さん」

「ありがとうございました。失礼します」

 江雷は車から降りると、お辞儀してドアを閉めた。すぐさま、通り過ぎてしまった交差点の横断歩道を渡って先ほどの道まで戻る。

 茶本は、どっちの道を行ったのか。

 キョロキョロと辺りを見渡す。

 見つけた。

 駆け足すればすぐに追いつく距離。江雷は後輩の背中を追った。

「茶本君?」

 一定の距離まで詰め寄ったところで、後ろから声をかける。

 学生服の男の子は立ち止まって、「はい」と振り返った。

「やあ」

「あ、あなたは……」

 気さくな挨拶をする人物に対して、茶本は目を丸くした。

「江雷先輩」

「久しぶりだね」

「あ、はい。お久しぶりです」

 茶本はかしこまって、丁寧にお辞儀をする。

「さっきまで一緒に歩いていた生徒は?」

「さっきの道で別れました」

「ちょうどよかったかな?」

「ちょうどよかったと思います」

 接し方が固いなと、江雷は内心で苦笑した。

「立ち話もなんだし、歩こうか。このまままっすぐで大丈夫かい?」

「はい。まっすぐで問題ありません」

 江雷が歩きだすと、茶本は慎重に歩測する。江雷も茶本の歩幅に合わせるつもりだったので、すごくゆっくりのペースになってしまう。

「なんだか緊張してないか?」

「いえ、そんなことは。……はい、緊張しています」

「どうして? 年上の人だから?」

「それもあります」

「他にもあるってことだね」

 簡単に誘導されたと茶本は思った。だが、隠していても仕方がない。茶本は素直に白状することにした。

「失礼な態度を取ったので」

 茶本の思うことを、江雷はすぐに察することができなかった。丁寧な挨拶、言葉遣い、粛然とした態度。とてもそうは思えない。

 とすれば、今ではなく過去の話ということか。

「ぼくはそんなことされたとは思っていないけど。どういうことか教えてくれる?」

 角が立たないように、先を促す。

「慇懃無礼でした」

 これはまた、中学生らしからぬ四字熟語を使うなと江雷は感心せざるを得ない。ただ、そのような態度を取られたとは一切思っていない。それに、先生の家で歓迎会を開き、仲良くなれたはずだ。そのことを茶本に伝えると、茶本は感謝しつつそう思う理由を話した。

「ありがとうございます。でも、江雷先輩がどう思ったかではなく、悪いことをしたのは事実なんです。僕は、あなたを試そうとしていました」

 茶本は足元の地面を見つめてしまう。それは一体どういうことか。

 江雷は茶本が前方不注意になっていることに気を配りつつ、次の言葉が出てくるのを少しの間待った。

「初めて会った時のことは覚えていますね?」

「先生と一緒に挨拶を交わした時だね」と、答えると、茶本は頭を振った。

「いえ、もっと前です」

 江雷はその言葉に簡潔に肯定する。確かに初めて顔を合わせたのはもっと前。ただ、事件が起きて騒動の真っただ中だったので、あえて避けた表現だったのだが……。

「僕があの時、どういうことを言ったか覚えていますか?」

「なんとなく」

「江雷先輩の発言に対して、よくそんなことがわかりましたね? みたいな。最初は上から目線でものを言っていたんです」

 そういえばそんな場面もあったなと記憶の手綱を手繰り寄せる。単純に、疑問に思ったことを聞いてきただけだと思っていたが。

「今だから謝罪します。当初は疑問視していたんです。兄は、同級生に真相を暴かれたと言っていました。前にも言ったかもしれませんが、兄は犯罪者であっても尊敬する兄であるという気持ちが残っています。少し、どう表現していいのかわかりませんが、そんなに色々な意味ですごい人なのかと、確かめたかったっていうのがありました」

「なるほどね」江雷は手短に真意を受け止め、

「それで、答えは出たのかな?」

「はい。これも繰り返しになりますが、ただの思い過ごしで、この人は大丈夫だと思いました」

「それなら、もう思い悩むことはないと思うよ」

 ぽんと委縮した肩に手を置く。

「それは経過の話であって結果ではない。ぼくはそのことはちっとも気にしていないよ。今になって蒸し返さなくていいよ。一緒に前を向いていこうって決意したんじゃないか」

「そ、そうですね。ごめんなさい、江雷先輩」

「堅苦しいなあ」

「徐々に慣らしていきます」

 お互いにやや不自然な笑顔を見せて、しばらく黙ったまま歩く。次の交差点に差し掛かると、赤信号になって信号待ちになる。そこには、同じく下校中の女子グループがいた。建物の敷地と歩道を隔てる背の低いコンクリートに腰を下ろし、トークに花を咲かせている。この様子だとしばらくこの場で話し込んでいるのでは。

 案の定、女子生徒たちは信号が変わっても座ったまま話をしていた。江雷と茶本だけ、横断歩道を渡り始めた。

「まだまっすぐ?」

「そうです。もう少し行ったら右に曲がります」

 進路を確認していると、後ろの方で「ばいばーい」といった声が聞こえてくる。

「先輩の家は、こっちで合っているんですか?」

「……いや、実はだいぶ遠回りしてる」

「ええ? 大丈夫なんですか?」

「なんか流れで来ちゃった感じ」

「僕のことは気遣わなくていいんですよ。もうあと十分もかからずに家に着きますから」

 茶本は立ち止まって、正面から江雷を向く。江雷も立ち止まることを余儀なくされ、同じように正面を向く。

「なら、正しい道に戻るとするかな」

 別れる挨拶をして、来た道を戻ろうとする。

 すると、ふと視界に人影が映った。次第にこちらに近づいてきているような気配がする。体の向きを変えるよりも前に、顔の向きを変えて人影の正体を確かめた。

「先輩、さようなら」

 茶本は近づく人影に気づいていなかったようで、江雷に挨拶をする。江雷は「ああ、さようなら」と言いつつも、茶本を見ていなかった。江雷が振り向いた先には制服を着た女子がいた。先ほど女子グループの中にいたうちのひとりだった。

 ただふたりの横を通過していくだけ。と、そのような感じがない。江雷は、その女子の視線が紛れもなく自分を向いていることに感づき、ものの数秒間、動作を停止させた。

 茶本もようやく江雷の様子に気づき、視線の先を追う。

「すみません」

 声がかけられた。

 見ず知らずの相手。

 江雷はとっさに、歩いている間に落とし物をしたのだろうかと不安になってポケットなどを服の上から確かめる。

 自分は先ほど、顔見知りの相手に同じように声をかけた。だが、今度は違う。それとも相手が自分を知っているだけなのか、用があるのは茶本の方か。

 適切な判断ができなくなって、江雷は反応に困って眉をひそめる。

「あ、ごめんなさい。驚かせてしまって。ええと、私……近くの第一中学の生徒なんですけど」

 それは見ればわかる。と、即座に反応しようとしたが、ぐっとこらえる。わざわざ学校の生徒だと名乗るということは、用事があるのは茶本ではなく自分だと確信した。

「お兄さんの顔、見たことがあります」

 ドキリとした。様々な意味で。

 江雷は思い出した。目の前の黒髪の生徒を。つい先ほどパトカーに乗っていた時、目が合ってしまった相手だ。つまり、この子は自分のことをさっきパトカーに乗っていた怪しい人だと思って追いかけてきたのかもしれない。

 江雷は困惑する。茶本は何事かとぽかんとしていた。

「確か、同じ中学の先輩です」

 再び鼓動が跳ねる。

「名前は、そう……。江雷宏一さんで合っていますか?」

「合って、います……」

 ここは他人のふりをしていても仕方がない。しかし、なぜわかったのだろう。なぜ知っていたのだろう。頭に疑問符が乱立する。

「よかったです」

 すると、女の子はホッとしたように顔をほころばせた。

「噂を聞いていて。……実は、会えないものかと探していたんです」

 体の前で両手を組む。

 なんだ、ただの興味本意か。

 と、胸を撫で下ろしたのももつかの間。

「お願いしたいことがあります。人探しを手伝ってください」

 吹き抜ける風が三人の髪をなびかせた。



(めぐる殺意の終着点 終)


覚書

登場人物

 江雷宏一

 岡田達人

 葉山、玉原、有原、勇崎、今井

 茶本晃、清水


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