2-2.灰色の迷宮
発見されない凶器。あからさまな遺留品。差し向けられる不審な視線。立脚地を活かした立体的トリックに捜査は難航する。
七
エレベーターに乗っていると、不意に胸元に振動を感じた。
携帯のバイブレーションである。
江雷は携帯を取り出す。電話の着信ではなく、メールの受信だった。
江雷は長い文章を目で追って読む。
「苦戦してるね。主役がひとり欠けてるんじゃ間が持たないよ。一応警戒しているけど、先生を疑うのはやっぱり気が引ける。でも話の流れから面白いことが聞けた。なぜ家の前の通路で大きな音がしたはずなのに気にしなかったのか。答えは長くなるからあとで言う」
と、一番肝心なところの前で終わっていた。
まあ、肝心なところだからこそ、しっかり耳で聞いた方がいいかもしれない。
「了解」
一言だけの返答しておく。
長い文章を打っている暇はない。エレベーターはすでに二階に到着している。江雷は閉まりかけたドアにぶつかりそうになりながら降りた。
「あ、岡田警部。お待ちしていました」
下りた先には、岡田を待つ警官の姿があった。
「準備はできているか?」
「はい、用意してきました」
警官は掲げて見せる。
何か警棒のようなものを持っているが、この場所が薄暗いせいもあって江雷にはまだ識別できなかった。
恨めしく通路の先を見ると、景色がない。というより、工場の壁が一面に広がっているだけだ。薄暗いのはそのせいか。もう一階か二階ほど上に上れば、工場の屋根より高くなって外からの明かりが遮られることはないだろうが。
とりあえず警察のあとについていく。
ちらり、と一号室の方を見てみるが、さすがに川野は家に閉じこもったままだろう。
しかし、もし会社のふたりのうちのどちらかが犯人だとしたら、川野にとって犯罪者のいた家の隣――エレベーターを挟んでいるが――に住んでいることになる。これはたまったものじゃないだろう。
とにかく今は犯人を炙りだすことが先決だ。
「神野さん、いらっしゃいますか? 失礼しますよ」
岡田は二号室のドアをノックすると、ノブを回してドアを開ける。
すると。
「あ、警察の方だ。待っていました」
神野はなぜか、玄関に立っていた。
「これを見てください」
有無も言わさず何かを見せつける。手に持っていたのはノートパソコンだ。
「これが会社へ出した報告書の送信履歴です。時間を見てください。これで事件があった時、私がここでパソコンを操作していた証拠です」
「……」
突っ込みたくなることは山ほどあったが、状況を整理することが先だ。岡田は落ち着くようなだめて、部屋の中へ入れてもらうよう懇願する。
「いきなり無礼だぞ、神野」
飯田が一喝する。
「あ、飯田さん、来ていたんですか」
「来ていたんですか、じゃないだろう。警察に失礼のないようにしろ」
「すみません」
陰湿な空気が漂いそうになるところを、岡田が咳払いをして吹き飛ばす。
「えー。仕事のこともあるでしょうが、もうしばらく捜査への協力をお願いします」
「具体的に何をすれば?」
「この部屋に不審なものが隠されていないか、調べさせてください。調べている間、話も多少うかがいます」
すると、警棒のようなものを持った警官が動きだした。
この時、江雷にはやっとそれが何か理解した。
金属探知機だ。ハンディタイプの。
その用途は多種多様だが、ここで金属の類を探すものといったら……。
「何を隠してあるというんです?」
「……拳銃、ですよ」
とうとう、はっきりと口にした。
これはふたりを疑っているという宣告にもなる。
「神野。まさか、お前……」
「ち、違いますよ。誤解です。それに、さっき見せたじゃないですか。メールを送信した履歴を」
取り乱す神野。ここで警察は一気に追及するかと思いきや、一転して照準を変えた。
「飯田さん。ここを探し終わった後は、屋上も念入りに調べさせてもらいますよ」
「な、なんだと……」
驚きに歯を食いしばる飯田。
「私は犯人じゃないんですから、じゃあ飯田さんが犯人ということに」
「黙っとけ。それが先輩に対する口の利き方か。私だって違うから、お前が犯人だ」
「なんですって?」
陰湿どころか険悪なムードになりつつあった。警察としてはなだめるしかない。金属探知機を使って別室を探し回っている警官も、ふたりの様子を一瞥しただけで淡々と捜索を進めている。
「だいたい、メールの送信履歴がここにいた証拠とか、舐めているのかな?」
「なんでですか」
「お前が今持っているパソコンの種類はなんだ?」
「ノートですよ」
「そのノートパソコンは今、どういう状態だ?」
「起動してます」
当たり前のことを答えた後、言わんとしたことに気づいたのか、神野はみるみるうちに顔面蒼白になる。
「起動しているな、確かに。だがそれは、コンセントに繋がっていない、バッテリーのみで稼働している状態だ。どう言う意味か、わかるな?」
要するに、起動したまま持ち運べるということだ。これは、神野がここにいたというアリバイは証明できないことになる。
「……飯田さんこそ……」
うつむいた神野は、下から睨みつけるような視線を放った。
「ラインで堀田をおびき出しておいて何を言っていますか。のこのこやってきた人を相手にするなんてわけもないでしょう」
「なんだと……。報告書の作成に忙しいお前を呼ぶわけがないだろうが。その程度の気遣いにも気づかんのか」
「慈悲で人を責め落とそうなんて虫唾が走ります」
「先輩に口答えした旨をあとできっちり上に報告させてもらうからな」
「あとで捕まるような人が報告なんてできますか」
「なにい?」
もはや一触即発だ。
どうしたものかと岡田は困っていると、空気を読まない呑気な言葉がかけられた。
「あのー。このおもちゃ、どかしてもらっていいですか? 金属探知機に反応しちゃうので」
「……」
おもちゃといって示す先は、例のフィギュアや模型だ。
まったく興味がない人が見ればただのガラクタ。憧れを持つ人が見れば夢のこもった貴重な宝物。
この警官は知らなかったとはいえ、ふたりの感情を逆なでするような発言に、江雷は両手で顔を覆いたくなるような気分だった。
「おもちゃで悪かったですね……」
怒りよりも悲しみのほうが大きかったようだ。
「おや?」
模型を移動させている飯田が、ふと手を止め首を傾げる。
「モデルガンがないじゃないか」
「没収されましたよ」
無念そうに神野が答えると、飯田はそれ見たことかと鼻で笑った。
「やはり、お前が疑われているんじゃないか」
「あくまでモデルガン。何をおっしゃいますか、サバゲーオタク」
新たな単語が飛び出すと、すかさず岡田が割って入った。
「何ですかな? その、サバゲーというのは?」
「サバイバルゲームのことです」
飯田は意気揚々と説明した。
サバイバルゲームとは、エアソフトガンやBB弾などを使って戦闘を模する遊びのことであると。簡潔に言ってしまえば戦争ごっこであるが、迷彩服を装備したり予備弾倉を携行したり、本格的な遊戯として大会などもあり広く普及している。飯田はその趣味にはまっているのだ。
「だから、弾の撃ち方なんて手慣れたものなんでしょうよ」神野が皮肉る。
「ただのガンマニアは黙っとけ。私はただ、自衛隊が好きなだけだ」
「ほう。そうなんですか」
岡田が相槌を打つ。趣味の話をして飯田の気分が良好となっていることは明白だった。
「そうなんですよ。この会社じゃなければ自衛隊になってみたかった」
飯田の目は遠くを見ている。
体格はよく体力もありそうだから、センスさえあれば自衛隊になれたかもしれないが、今はメンテナンス会社に甘んじているということ。岡田は、今から挑戦してみるのも悪くないのでは、と励まそうとしてみたが、その前に金属探知機を持った警官がリビングに戻ってきた。
「終わりました、警部。拳銃を隠していそうな場所はありません」
「ご苦労さん。では君は、引き続き屋上に上がって拳銃の在り処を探ってみてくれ。私はもう少しここに留まって話をうかがっていく」
「わかりました」
金属探知機の警官が二号室を後にする。
「……しかし、自分が犯人だと主張するようなところに隠すでしょうか?」
飯田が疑問を呈する。
それは江雷も同感だった。その場に自分ひとりしかいない場所から発見されれば、自分が犯人ですと自白しているも同然。それを避けるため、その場所以外に隠している可能性も否定できない。
「もちろん探しているよ。他の階の通路や階段、雨樋付近、地上の繁みの中などな」
消えた凶器。現段階で最も大きな謎。
見つからないとなると、それはいよいよ、
「第三者の犯行、もしくは外部犯の可能性が出てくる」
ということになる。
この場合の第三者とはこの団地に住む者を指し、外部犯とは団地の外からの人間を指している。
だが、その仮説で合点がいくかといえばそうでもない。犯行場所があまりにも危険で不可思議だ。それとも、拳銃を所持した単なる通り魔だとでもいうのだろうか。
「エレベーターの下は……?」
飯田がぼそりとつぶやく。
「エレベーターの下はどうですか?」
「下?」
岡田はとっさに意味が理解できずにいた。
「エレベーターの一番下です」
「?」
まだ何を言っているのかわからない。
「エレベーターのスペースの一番下のことですか?」
「それそれ」
江雷が意味を汲み取ろうとすると、飯田は嬉しそうに江雷に笑顔を向ける。
「しかし、エレベーターとドアの隙間から拳銃を落とすなんてことができるかね?」
岡田にもふたりが思っていることを理解したが、到底できることとは思えなかった。
「そっちじゃありません。換気口からです」
「ほう?」
「ここのエレベーターの天井についている換気口は、人が通れるほどの大きさではありませんが、蓋を外せば腕を通すことくらいは可能です。そうやって下に投げ落としたのかもしれませんよ」
さすがにこの団地を管理しているだけあり詳しいようだ。
「なるほど。そういう線もあるな。さっそく見てくるとしよう」
「一階から見るといいですよ。手動にしてあるなら、エレベーターのかごが来ていなくても手で開けることができます。ただ、スペースの下は一メートルくらいあるので足元に気をつけてください」
飯田にアドバイスをもらった岡田は、さっそく確かめに行くことにした。
「大丈夫ですか、ふたりを残して」
「問題ない」
江雷の心配を岡田は一蹴する。
二号室には神野と飯田を残してきた。確認するためにふたりを引き連れていても仕方がない。ただそこに江雷も残すのは危険なので、岡田は引き続き江雷を同伴させる。
階段を使って下りるかと思いきや、岡田はエレベーターホールへ入っていく。
「今日はだいぶ歩いてしまって疲れたのだよ。はっはっは」
笑ってごまかす。二階から一階へ下りるためだけにエレベーターを使うとは、さすがに江雷も呆れそうになった。
金属探知機の警官が屋上に行くために乗っていったのだろう、左側のエレベーターは十三階に行ってしまっている。右側のエレベーターも相変わらず十三階だ。
二つとも十三階……。
最初にこのマンションへやってきた記憶が蘇る。
そう、両方十三階にあったということは、片方が十三階に停まっていた状態で、誰かがもう片方のエレベーターを使って十三階に上ったということだ。エレベーターを呼ぶボタンは一つだけだから、片方が十三階にある状態で、もう片方を十三階に呼ぶことはできないのだ。仮にボタンを押してみたとしても十三階に停まっている方のエレベーターのドアが開くだけ。
つまり、あの時誰かが十三階に上っていたんだ。おそらく、堀田さんが。
十三階のことを思い出そうと、江雷は上を見上げる。
「……あれ?」
気が抜けた声を発する。
「蛍光灯が切れかかっているじゃないですか」
天井に取り付けられた蛍光灯は、端の部分がわずかに明滅しているだけでほとんどその役割をはたしていなかった。
先ほどから薄暗いと感じていたのはそのせいだったのか。外からの明かりが入りにくいだけじゃなかった。
「本当だな。……そういえば、こういう蛍光灯の管理も飯田さんたちのメンテナンス会社が担当しているみたいだぞ」
「そうなんですか?」
新たな情報に江雷は食いつく。
「ああ。さっき二号室でその類の記録簿みたいなファイルがあった」
まったく、自分たちの事務所の目の前の蛍光灯が切れかかっているのに放置とは、ちゃんと仕事しているのかね、と岡田はぼやいた。
それは同意せざるを得ない。笑いをかみ殺していると、エレベーターがやってきた。
といっても乗る時間はごくわずか。すぐ下の階に移動するだけ。
一階に着くと、岡田は携帯を取り出して電話をし始めた。
「私をぺちゃんこにしたくなければ、くれぐれもエレベーターを一階に下ろすんじゃないぞ、いいな?」
そう電話の相手に告げると、左側のエレベーターを適当な階を押した状態で外に出て放置し、ドアが閉まるのを待つ。
やがてドアが閉まると、無人のエレベーターはひとりでに上に上っていく。
「これでよし」
準備完了だ。
岡田は大きく息を吐き出すと、中にエレベーターの箱がないドアに手をかける。
「むん」
腕に力を入れ、開けようとする。
だが。
「あれ?」
開かない。
「おかしいな?」
もう一度力を入れる。
「明かないぞ」
江雷は一部始終を困って見ていた。
指摘するべきか気づくのを待つべきか。
「警部さん。今開けられるのはこっちですよ」
間違いを指摘することにした。
岡田が開けようとしていたのは左側のドアだ。だが、左側のエレベーターは現在、自動で稼働中だ。開いたら不具合だろう。
「あ、そうか。迂闊だった、ははは」
岡田の頬がわずかに火照る。
右側のエレベーターのドアに手をかけると、確かに外ドアが開く感触があった。
「おお、すごいな」
感心する岡田。
ただ、こんなに簡単に開いていいものかと、少し不安になるほどだ。いくら手動にしてあるとはいえ。もしかしたら手で開けるためにはもう一段階、機械室での操作が必要かもしれなかったが、そこは上にいる八十島がフォローしてくれているだろう。
ドアを開け切ると、岡田は片膝をついて中をのぞき込む。
江雷も驚かせてつき落としてしまわないよう、岡田の視界に入りやすい斜めの位置から近づいて中をのぞいてみた。
だが、暗くてよく見えない。
「そんな時のために」
岡田はいつの間に持ち歩いていたのか、懐から懐中電灯を取りだした。
中のあちこちを照らす。
普段はガラス窓越しに眺めることができる程度だが、こうしてみるとなかなか不気味な空間であった。
深さは飯田の助言通り、一メートルくらい。真下には緩衝材と思われるものが設置されている。万が一エレベーターが落下した時のためのものだが、簡単には落っこちないよう二重三重の事故対策の設計になっているのが普通だ。
「何か落ちていそうですか?」
「いや、これといって……。一度下に下りてみよう」
岡田は懐中電灯を足元に置くと、足を投げ出して、そのまま身軽な動作で中に下り立った。
「もし這い上がれなくなったら、手を貸してくれよ、江雷君」
「あ、はい」
返事をしたものの、中学生の自分が大の大人を引っ張り上げられるのか、江雷は真面目に考えそうになった。
岡田は懐中電灯を再び手に取り、辺りを照らしていく。
「特に何もないようだな」
岡田が中に入ったことで、江雷が辺りを見渡せる空間が広がった。上下左右、まんべんなく空間を舐めるように見ていく。
上を見上げた時は足が竦みそうだった。何もない暗闇が遥か上まで続き、十三階にあるはずのエレベーターの箱も見えるかどうかというところだ。そして、ある一定の間隔ごとに灯りで照らされているのだ。そう、各階にある照明が照らしている灯りだ。ただ、真上の階だけは、灯りが入ってきていない。それもそのはず。さっき見た通り、照明は消えかかっていたのだから。
「何もないようだ」
岡田がその空間から脱出しようとした瞬間。
携帯の着信音が暗闇の空間に響き渡った。
「おいおい、ちょっと待ちたまえ」
響く着信音。岡田の携帯が鳴っているようだ。
岡田は懐中電灯を江雷に手渡すと、ドアがスライドする溝に手をかけて、ジャンプして一気に這い上がってきた。
改めて、見た目の体格以上に身軽な動きをするなと、江雷は感心しきりだった。
「あー、もしもし。岡田だ」
ようやく電話に出る。
通話中の状態になってしまった岡田の代わりに、江雷は懐中電灯のスイッチをオフにし、エレベーターの外ドアを閉めておいた。岡田は相手と話しつつ、片手を挙げて感謝の意を示す。
「ほう、そうか。なるほど。ふむ」
相槌を入れているだけでは、さすがに江雷も何の連絡かわからない。手元の懐中電灯をじっと見つめながら、通話が終わるのを待つ。
「それは間違いないな? わかった、ありがとう。また何かわかったら報告してくれ」
ほとんど相手側が喋っていただけのようで、こちらから何かを伝えることはなかった。
岡田は通話を切ると、黙って手を差し出す。
江雷は黙って懐中電灯をその手に乗せる。
何の報告があったのか、期待を寄せつつ。
「……一気にいろいろなことが判明した。頭の中が整理されているなら話そう」
「大丈夫です」
江雷の脳裏に、きちんと整理された本棚のような映像が浮かび上がる。
どの情報から来ても、該当するファイルを開く準備をしていた。
「まず、現場の真下に落ちていたレインコートだ。鑑識に調べてもらった結果、硝煙反応が確認されたそうだ。次にエレベーターの屋根の上だ。八十島君に見てもらっていたが、特に何かが置いてあったり置かれてあったりした形跡はなかったそうだ。右側のエレベーターだけではなく、左側のエレベーターも同様だ。そして、金属探知機による拳銃の捜索も今のところ発見には至っていないとのこと。最後に、会社から神野宛にラインの通知があったかどうかだが……」
言葉を区切り、江雷の顔を見やる。
「なかったそうだ」
力強い岡田の視線に、江雷は気圧されそうになった。
「会社側は今日、そのような通知は一切出していないそうだ」
「では、神野さんは二号室にこもって報告書を仕上げていた、という嘘を……」
「アリバイを作ろうと、そういう嘘をつこうとしていたことも考えられるな。飯田さんは自分からの通知を会社からの通知と錯覚していたのではと言っていたが、いずれにしても報告書を出せという指示は来ていなかっただろうからな。アリバイ作りか、理不尽に疑われたくないとっさの嘘か……」
「任意同行して、さらに詳しく聞き取ることになりますか?」
岡田はそうなる、と即答しなかった。
躊躇している理由は、凶器である拳銃が見つからないためか。そう予想する江雷だったが、岡田は不意を突いて江雷に発言を求めた。
「江雷君。君は今の段階で、神野と飯田、どちらが怪しいと思っている?」
記憶の本棚から、引き出すべきファイルを探して取りだす。
「強いて言えば神野さんですが……」
名指しして怪しいと公言していいのか、倫理的な面から江雷は躊躇いが生じる。
「そう考える理由、理屈があるのだな?」
「あります」
そこは断言できた。
「そうか……」
ため息にも似た言葉を吐く岡田。
「実は、私は飯田のほうが怪しいと踏んでいるんだよ」
少しだけ、動揺が走る。
「怪しんでいる理由はこうだ。飯田さんは今日、ずっと屋上で作業をしていたと言っていたな。だが、飯田さんには雨に濡れたような跡がなかった。雨は確かに昼過ぎに上がったようだが、上着か髪の毛か、はたまた工具箱か、どこか濡れた形跡があっても不思議ではないだろう。すっかり乾き切ってしまうほど乾いた風が吹いていれば別だがな」
確かに、いくら風が吹いていたといっても雨上がりのまだ湿った風だ。
それに、堀田を呼び出したのは飯田であるし、犯行がしやすい点では飯田のほうがはるかに勝っている。
しかし、江雷にはそれを覆すほどのある考えを持っていた。
その鍵となるものは、レインコートだ。
硝煙反応が出たという話を聞いて、犯人が犯行時に来ていたものとして間違いないことが判明した。
だからこそ、飯田には犯行が難しくなる。
飯田が犯人だと仮定した場合、レインコートはその場で投げ落としたということになる。ただ、そうするとレインコートは……。
「まあ、ここで思案に暮れていても仕方がない。まだ外部犯の可能性があるしな」
岡田はエレベーターを呼ぶためボタンを押す。
「明日からこの近辺で不審者を見かけていないか、目撃者を探していくことにする。本格的な捜査網を広げていくのは明日からだ」
明日という言葉を繰り返す。諦めのようにも聞こえるが、踏ん切りは大切だ。それに、日没が近づいており辺りもかなり暗くなっていた。
ここで打ち切り、か。
江雷には悔しさはない。立場をわきまえてこれ以上首を突っ込まないほうがいいだろう。
「君を先生の家に送り届ける。といっても長居しないように。あまり遅くなると親御さんに心配をかけるからな」
「わかりました」
その言葉を聞いて、江雷の心の内にある事件への熱意は冷めていった。
八
江雷にとっては、当初の目的を今になってようやく果たすことになる。
当初の目的、それは、このマンションに住む教師の家を訪ね、江雷と会ってみたいと望む先日の事件の犯人の弟、茶本大と顔を合わせることだった。順番が狂い、先に茶本と出会ってしまった江雷だったが、ついに教師の紹介の下で茶本と対面することになる。
事前に聞いていた茶本の噂、情報は多くないものの、引っ越しはせず淡々と学生生活を送っているとのこと。そんな中、事件を解決に導く立役者となった江雷と会ってみたいと申し出があった。そこで昨年度、茶本のクラスを受け持った教師がお互いを紹介させる仲介役を買って出たのだった。吉本は、兄を犯人扱いしたとかで、茶本に恨みを買っているのではと、江雷を心配しているが……。
「失礼します」
「いらっしゃい」
江雷が十三階の五号室の部屋に入ると、この家の住人である森が出迎えた。
森は江雷や吉本たちが三月まで通っていた中学校の教師だ。クラス担任として受け持ったことはないが、専任の科目を教えていた経緯があり、面識はある。
「お邪魔しますよ」
江雷に続いて、岡田も玄関まで入ってくる。
「あれ、刑事さん。まだ何か用事で?」
「いえ。厳戒態勢が敷かれているこの状況で、子どもたちをいつまでもここに留めておくわけにもいきません。子どもたちとの用件が済みましたら早急に帰宅させます」
だからといって玄関先で待たなくても……。
そう思う森だったが、未だ拳銃を発見できない警察としては神野、飯田の他に、もうひとり疑いを持っておくべき人物がここにいるので、そう簡単に目を離すわけにもいかなくなったのだ。
「お勤めご苦労様です。なんなら中に入ってください。お茶くらい出しますよ」
「結構です。こちらで待たせてもらいますよ」
やんわりと、だが微塵も躊躇せず断りを入れる。
一瞬、森と岡田の間に火花が散ったような気がした江雷は、さっさと奥に入って友人と合流したくなった。
「お、やっと来たぞ」
森と廊下の壁の隙間から、吉本が顔をのぞかせる。
「やっと来れたよ」
吉本が声でスペースを空けてくれたおかげで、江雷はその隙間をこじ開けるようにして中へ入っていく。
体をどかして江雷を通した森は、「では、しばらくお待ちください」と岡田に言い残して自らも部屋の奥へ戻っていく。
玄関の電気はつけられたままなので、暗闇にひとり取り残される形にはならなかったが、リビングの戸が閉められてしまったので、やはり誰の目にもつかない寂しい立ち位置になってしまった。
ただ、岡田にとっては好都合だった。
怪しまれぬ程度に辺りを見渡してみる。
ふと、背後にある新聞受けが目に入った。
まさか、ここにアレが捨てられているなんてことは……。
「どうしましたか、刑事さん?」
びくりと体を震わせる。
振り向けば、リビングの戸を開けてこちらの様子をうかがう森の姿があった。
「なんでもありません。それよりどうしましたか?」
「いやね、立ちっぱなしでは疲れるのではと思い、椅子を用意しようと思ったのですが」
「ああ、かたじけない。ぜひ使わせてもらいます」
背もたれのない小ぢんまりとした丸椅子に、どっこらせ、と声を出しながら岡田は腰をかけた。
目当てのものはなさそうだし、これ以上訴えられかねない行動は慎むとしよう。岡田は目と体を休めるため、腕を組んだ状態で目をつぶった……。
「よし、今度こそちゃんと紹介するぞ」
再び戸を閉めて、生徒一同を見渡す森。
「茶本君。こちら、この春に学校を卒業して、今は高校生となって別の学校に通っている江雷宏一君だ」
「よろしく」
江雷は軽く会釈する。
「で、この子が……」
と、続けようとしたところで、何かの機械音が鳴り響いた。
聞き慣れない急な音に、びくりとする生徒たち。
「誰だ、こんな時間に」
ただそれは、家の固定電話の音だった。誰かから電話がかかってきたらしい。
「もしもし? え? 誰だ? ああ……。なんだ、誰かと思ったら。ええ? それは困るよ。いや、困らないけど、警察が許してくれるかどうか」
知っている相手のようだが、釈然としない応対であった。
森は受話器を電話機に戻すと、ため息をついた。
「誰なんです?」
「それがねえ……」
森は答えず、再度リビングの戸を開けた。
「刑事さん、ちょっといいですか? このマンションに彼らと同じ中学だった生徒がいるのですが、その子がみんな集まっているならここに来たい、と」
「は?」
突拍子もない要求に呆然とする岡田。
同級生? 江雷は二階で出会った人のことを思い出す。
「もしかして、川野さんですか?」
「そうそう、よくわかったね」
「江雷君の知り合いかね?」
「はい。今は同じ高校に通う同級生です。二階の一号室に住んでるみたいです」
「ほう」
よく知っている理由は置いておき、友達であることを強調する江雷。
「その子も来る予定だったのなら、まあ」
岡田は玄関のドアを開けて、外にいる部下に川野を呼び、付き添ってくるよう指示を出す。
親睦会にその予定はなかったはずだが、ここは黙って流れに任せることにした生徒たち。森は生徒たちのその心境を察して、呆れ顔で肩をすくめるのだった。
三分ほど経過して……。
「お邪魔しまーす」
その元気な少女はやってきた。
「川野真梨といいます。あ、まだ私の番じゃなかったらごめん」
てへ、と舌を出す川野。
「私に黙って先生の家で遊ぶとか、ずるいよ。あ、でもひとり知らない人がいる」
「いや、そういうつもりではないんだが……」
いきなり川野のペースに巻き込まれそうなところを、森は懸命に耐える。
「じゃあどういうつもりなの?」
「あ、思い出したぞ」
森の心が折れる寸前で、吉本が助け舟を出してきた。
「そういえば、中学の時にこんな奴いたな」
吉本曰く、同じクラスにはなったことはないが、よく隣のクラスまで声が聞こえてくるほどやかましい女子がいた記憶があるとのこと。
「元気がいいと言ってよ」
「でも、なんで同じ高校なんだ。そんなに学力がいいとは聞いたことがないぞ」
「ふふーん。残念でした。実は推薦で入ったんだよ」
自慢げに胸を張る川野。
「自分のレベルにあったところを選ばないと、授業についていけないって、あとで泣きを見ることになるぞ」
「そこまで頭悪くないってば。ていうかさっきから失礼過ぎない? こんな奴とか、やかましいとか」
「ひょっとして、宏一の追っかけなんじゃないのか?」
「聞いてないし……。確かに二年生の時、また同じクラスになりたいなー、とは言ってたけど」
そこは否定しないんかい。
と、内心でツッコミを入れる江雷。
思い出せば、中学二年生の時は川野と同じクラスだった。三年生になると別々のクラスになって疎遠になったが、そこまで残念がっていたとは聞いたこともなかった。
「で、これはなんの集まりなの?」
「だから親睦会だって」
「だからって、何? 私聞いてなかったよ。仲間外れにするなんてずるい。それなら私も、先生の悪事をバラしちゃおうっと」
「あ、悪事?」
身に覚えはないが、たくさんの人の前で話されても平気なのか、森は気が気じゃなくなった。
「実はね、少し前に町内会議があったんだけど、そこでうちには優秀な生徒がいるって自慢話をしちゃったんだって」
「か、川野。なぜその話を」
やはり公にされてまずい話なのか、森は慌てて制止しようとするが、川野の勢いは止まらない。
「それは、その会議に私のパパも出席していたからでした。でね、今度自分の家に遊びに来るんですよ、ぐふふふふ、って笑っていたらしい」
「……」
沈黙が流れる。森は冷や汗を流す。
江雷が一番初めに教えた、怖かったというイメージすら考えられないほどだ。
「その会議に、二階の烏丸組の人は参加していませんでしたか?」
「していたよ。よく知ってるね」
「ちょっと。話題を変えないでよ。だから親睦会って何?」
頬を膨らませる川野。やはり江雷でも会話に入ったところですぐ追い出されるような感覚だ。声が大きいかどうかはさておき、快活な性格なのは確かであった。
「実は……」
森が声のトーンを落としたので、川野は空気を読んで黙って聞くことにした。
不意打ちでいきなり精神的に負かされた森は仕方なく説明した。親睦会の本当の目的を。
「要は、茶本君が江雷君と仲良くなりたいってことでしょ?」
いとも簡単に言ってのける川野。
「そうですよ」
そして、あっさりと肯定する茶本。
「そうだよな。……って、ええ?」
納得する吉本。……には、ならなかった。
吉本は、茶本が江雷と会ってみたい動機は、どんな人か見極めるためだと思っていた。そのためには江雷に警戒を怠るなと警告したほどだ。
だけど、茶本はただ江雷と親しくなりたいだけだった?
「警戒されているようでしたら謝ります。確かに僕が会いたいといったら、恨まれてると思われても仕方がないですよね。でも、そうじゃないんです。僕はもう、気持ちの切り替えができています。兄は本当に罪を犯したのだと。そりゃ、最初は信じられなかったですよ。でも、噂を聞いているうちにわかってきたんです。兄の隠そうとしていた罪を、きちんと暴いてくれた人がいるんだってことを」
噂、か……。
「だから、恨むというより、むしろ感謝しているんですよ。それを今日は伝えたかったんです」
笑顔を見せる茶本。
その笑顔の奥には隠された悲しみも隠れているだろう。その辛さは察するに余りあるが、茶本の決意は受け止めなければならない。
「茶本君の気持ちはよくわかったよ。ぼくもいつか話さなければと思っていたんだ。けど理解してくれているようで嬉しい。いや、理解を求めるような立場でもないけど。君が友達になってほしいと願うなら、ぼくは喜んでその気持ちを受け止めるよ」
「……ありがとうございます」
丁寧にお辞儀をする茶本。堅苦しくも見えるが、年齢以上にしっかりした人だと、周りから見えていた。
「よろしく、茶本君」
「よろしくお願いします。江雷先輩」
お互いに一歩踏み出し、がっちりと握手を交わす。しっかりと顔、目を見るその様は、ふたりの決意の現れだった。
「おっしゃ」
急に吉本がぽんと手を打つ。
「これで万事解決、だな。せっかくだからオレたちとも仲良くしてくれよな」
勢いよく茶本と肩を組む吉本。
「もちろんですよ、吉本先輩」
急なスキンシップにも嫌がるそぶりを見せず、健気な対応をする茶本。
「一番警戒しろって言っていた奴が、一番べたべたしてるじゃないか……」
広瀬の冷静なツッコミに笑いが起こる。
「警戒は……確かに、僕もありましたよ」
補導された兄の弟が、急に会いたがっていたら警戒されるのも無理はなかった。そう構えていたからこそ、初めて会った時は感情を殺して冷たい態度になってしまったのだと、茶本はそう弁解した。
「あ、今日はもうゆっくりしている時間はありません。母が迎えに来る時間なので」
部屋にあった掛け時計を見上げながら茶本が言う。
「オレたちも長居できないみたいだし、親睦会はこれにてお開きにするか」
「だな」
短い時間であったが、十分仲を深めることができた。
「気をつけて帰るんだぞ」
森としても肩の荷が下りた気分だった。話には置き去りにされて、ただ親睦会の場を設けただけになってしまったが、生徒たちが自ら道を開いたならば役目として申し分なかった。
ぞろぞろと生徒たちが玄関に集まる。
玄関で待っていた岡田は、邪魔になってしまうので椅子を片づけた後、一足先に外へ出た。
「なんだか偉い人になったみたい。刑事さんが親衛隊で、私はお姫様。守られながらおうちに帰るの」
川野はロマンチックな想像を膨らませて目を輝かせた。
だが、現実は未解決の事件の厳戒態勢が敷かれている状態だ。さすがにそこまで言って高ぶる気持ちを突き落とすことは悪いだろうと、誰も否定も肯定もしなかった。
外へ出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。
「おー、さすが、十三階からの眺めは素敵だわ」
「なるほど。二階じゃこうはいかないもんな」
「そうそう」
「あ、そうだ。二階の通路……」
「え、なに?」
話そうとしたところで間髪入れず問い返してくる。江雷は息を吸い直してもう一度言葉にする。
「二階の通路、というかエレベーターホールだね。蛍光灯が切れていたから真っ暗だと思うよ」
森に見送られながら、岡田を先頭にして通路を歩いていく。
通路は横にふたり並べるかどうかの幅のため、ほとんど一列になっていた。一番後ろを歩く江雷に向かって、その手前を歩く川野がふわりとした動作で振り返る。
「そうそう。電気が切れていたの。あそこの蛍光灯って、最近取り替えてもらったばかりだったんだけど」
「え、そうなの?」
「うん。交換を管理会社にお願いしたの。そうしたら次の日には交換してくれてあって、仕事が早いって思っていたのに。もう切れてるなんて、不良品だったのかな……」
それはまさか、と江雷は思った。不良品ならその場ですぐに気づくはず。
「もう一度連絡するしかないね」
「だよね。でもいたずらじゃないかって、疑われそう」
それもそうかもしれない。
この際、顔見知りになった自分が、神野か飯田にお願いしてみようか、と江雷は考えるのだった。
「あっ。いたずらで思い出した」
エレベーターホールに着くと、今度は吉本が江雷に話しかけてきた。
「モテるね、江雷君」
川野の謎のツッコミは無視して、吉本は江雷に近づく。
「先生が音に気づかなかったって話、まだしてなかったよな」
「ああ」携帯メールの件を思い出す。
「それは、気づかなかったっていうより、気づきにくい場所にいたからだったんだ」
すると、トイレか風呂場にいたのかと江雷は考えたが、むしろ換気扇を通して音が響いてくるものだろうと思い、開きかけた口をつぐんだ。
「実は先生、ベランダにいたんだってさ」
「通路とは反対の、南側のベランダか」
「そう。別に、音が全然聞こえないって位置ではないよな。だけど、音を発した場所がまさか自分の家の前の通路からだとは、わからなかったんだって」
「なるほどね。でもベランダで何をしていたのかな?」
「それがさ」
吉本は一呼吸置いて、回答を出し惜しむ。
「……オレたちが来るのを上から監視していたんだって」
「なんだそりゃ」
「本当は出迎えようと考えていたらしい。でも茶本の姿がまだ見えなかったから、そのまましばらくベランダにいたんだってさ」
自分たちが玄関前で呼び鈴を鳴らしても気づけなかったらどうするつもりだったのだろう、と、江雷には素朴な感想しか思い浮かばなかった。
一同はエレベーターに乗りこむ。右側のエレベーターもいつの間にか自動に切り替わっており使えるようになっていた。教師の家でくつろいでいる間に捜索が終わって解放したのだろう。
岡田、江雷、吉本、広瀬、茶本、川野が乗りこむ。ふと、重量オーバーにならないか心配する者もいたが、そのようなことはなくエレベーターは全員を一度に運ぶ。
「二階で降ろしてね」
川野が二階のボタンを押す。
「二階で一度止まるなら、そこで下りて階段を使ったら、乗ったままと大して変わりないかもしれませんね」
茶本の面白発言に、そうかもねーと誰かが反応をする。
「むしろ、私はほとんどエレベーターを使ったことがないよ。だって二階だもん」
「一階と二階を行き来するなら、階段を使ったほうがよっぽど早そうだ」
「……」
江雷の頭の中で何かが引っかかる。
「あのさ、川野さん。二階の住人って、他にどういう人が住んでるかわかる?」
「え? どういうって?」
川野は江雷が何を聞きたいかわからず目線を彷徨わせた。
エレベーターが二階で停止する。
「たとえば……」
川野が降りると、なぜか江雷もついて下りた。
「あれ? まだここ二階だぞ」と、吉本。
「たとえば、お年寄りが住んでいるとか、足をケガした人が住んでいるとか」
江雷の話が続くので、中の人間たちは仕方なくエレベーターのドアを開けたまま、しばし待つことにした。
「ないない。二階は私たちみたいな若い家族ばかりだよ。エレベーターを使うところなんて見たことない」
「そうか……」
「おーい、宏一。早くしろよ」
吉本に急かされるが、江雷は忠告をスルーして質問を投げかけた。
「吉本は、二階から一階に下りる時、わざわざエレベーターを使いたいと思うか?」
「……よっぽどの理由がない限り、使おうとは思わないと思うよ、普通は」
吉本はあり得る状況を思い起こしながら慎重に答えた。江雷は「そうか」と一言だけ返す。
「ていうか、そんなのどうでもいいから早く乗れよ。それともオレたちに早く行ってほしいのか? ふたりきりになりたくて」
「そういうわけじゃないよ」
冷やかしにも冷静に返す江雷だが、吉本はさらに突っかかる。
「やめておいたほうがいいぞ。おてんば娘には江雷と釣り合わない」
「それ失礼だから!」
「……」
釣り合わない?
釣り合う?
……。
ムキになって怒る川野をよそに、江雷は焦点があっていない目をしたまま思考を巡らせる。
頭の中で仮説が組み立てられていく。
まさか、すべてが犯人の仕組んだトリックだとしたら……。
ぼくはとんでもない思い違いを……。
「こーうーいーちー?」
クレームを出し続ける吉本。
「悪い。みんなは先に下りていてくれ。すぐに追いつくからさ」
「……。わかった。あとで結果を聞かせてくれよ」
「そんなんじゃないってば」
あくまでも否定する江雷とその横でむすっと頬を膨らませる川野を尻目に、吉本はニコニコしながら「先に行きましょう」と岡田に告げる。岡田自身は、子どもたちのやり取りに別段気にすることもなく、言われた通り川野と江雷を残したままドアを閉めた。
エレベーターが去ると、蛍光灯のついていないホールは暗闇に包まれる。
「でも、本当にどうしたの、江雷君?」
変な考えを起こしているならやっぱりやめてほしいと願う川野。心の準備ができていないの、と乙女心が先走る。
「大丈夫。よこしまな考えを起こしたり非行に及んだりするつもりはない。ちょっと確かめたいことがあるだけさ」
そう言って振り返り不敵に笑う江雷の顔は、暗闇でよく見えなかったが川野にとっては光り輝いているように見えたのだった。
夜が更けてきた。
周辺の道路をほとんど陣取っていたパトカーもすべて立ち去り、いつもと変わらぬ静寂の夜を迎えていた。
夜になってから帰宅してきた住人は、入り口で立っていた警備員に事情を聞かされ、恐怖にすくみあがる。さすがに今夜は警備員が何名か残って警戒する模様だ。
捜査の続きは明日に持ち越しだ。引き続き拳銃の捜索と、周辺の聞き込みを強化する予定となっていた。
今宵の月は満月ではないが目を引くほどの十分な輝きを放っていた。すっかり雲もなくなって無限の夜空が空一面に広がる。
そのまま一時間ほどが経過して……。
月明りをまんべんなく浴びるその地に、何者かが足を踏み入れた。
風もすっかり穏やかになっていた。
風でなびくものは何もない。
街灯も蛍光灯もない暗闇で、月明りだけを頼りに歩を進める。
その人物は何かの建物の前に辿りつくと、ドアを開けて中へと入っていった。
さらに三分ほど経過して……。
再び暗闇の人影が建物から姿を現した。
何かが一瞬光って見えたのは、こぼれた笑みから見えた歯が月明りに照らされたためかもしれない。
「待っていましたよ」
声がかけられる。
人影は目を見開いた。
ここに自分以外の人がいるなんてあり得ない。
落ち着きなく辺りを見渡す。
明るい建物の中に少しいたがために、暗闇に目が慣れていなかった。
次第に夜目が利くようになってくると、探さずともその相手は自分のまっすぐ前に立っていた。
「……」
「……」
お互いに顔がはっきりとわかり、沈黙する。
「江雷宏一……」
人影は、相手の名前を呼んだ。
ひとりだった。江雷の周りは誰もいない。
だが、その自信に満ち溢れた顔つきは、先の展開を暗示しているかのようだった。
九
月明りの下で対峙したふたり。
江雷が初めに声をかけてきただけで、何もしゃべらないので相手は不安になってもう一度辺りを見渡してみる。
「大丈夫です。ぼくひとりですから」
人影は見渡すのをやめた。
「それを聞いて安心した」
ふたりの間に距離があったので、歩きだして距離を縮めていく。
「だが、ここは子どもの遊び場じゃない。すぐ下りるんだ。無断で立ち入ったことは内緒にしておくから、早く帰るといい」
「あなたこそ、こんな時間にどうしたんですか?」
「なぜ、その質問に答えなきゃならんのだ? ここの責任者は私だ。だから私の指示には否応なしに従ってもらう。さもないと通報するぞ」
それを聞いた江雷は嫌味を込めて鼻で笑った。
「いいんですか? 今、ここに、警察を呼んでも。通報されて厄介なのはぼくではなく、あなたのはず。そうですよね。飯田康司さん?」
江雷は仕返しとばかりに相手をフルネームで呼んだ。
月に照らされる飯田の顔がわずかにゆがむ。
「なんでそうなるのかわからんな。私にやましいところがあるというのか?」
「やましいことがあるからこそ、ここに来たのでしょうね。あなたがここに来たことで、ようやく確信が持てました。今日ここで起きた拳銃による射殺事件。その犯人が飯田さん、あなただとね」
「……」
飯田は言い返さずに沈黙する。
返事の代わりに飯田は再び歩きだし、階段の方へ向かっていく。
「君の戯言に付き合っている暇はない」
突っぱねた返事をしつつ、江雷の横を通り過ぎていく。
江雷は身動きしなかった。
ただ、横目で飯田の姿をじっと観察しているだけ。
やがて、体の向きを変えないと目で追えなくなると、江雷が声をかけた。
「……その後ろのポケットに入っているものは何ですか?」
後姿の飯田の動きが止まった。
「そう、この事件の犯人による犯行は、まだ完成していなかったんだ。それをどう処理しようとしていたか理解はしかねますが、二号室に持ち戻るつもりでしょうか」
飯田は振り返って江雷と向き合った。
「何を言っているんだ。私は事件の物証となる物を見つけただけだ。これは警察に提出するだけさ」
「そう、それは犯人が隠した遺留品。そして犯人しか隠し場所を知らないはず。どうしてわかったんでしょうか?」
「思い付きだよ。まさか本当にあるとは思ってなかったがね」
「では、それを隠した真犯人は誰だと思います?」
「さあ?」
「持っているもの、全部見せてくれませんか。何か思い当たることがあるかも」
「それはできん。これは大事な遺留品だろう。このまま警察に提出する。それで何も問題ないだろう?」
問題ないようにも見える。遺留品が警察に渡れば解決にぐっと近づく。持ち主を割り出せば犯人逮捕に繋がるはずであった。
「……持っているものはおそらく、拳銃、軍手、そして携帯電話だ」
隠したものを言い当てる江雷。
正解かどうかは、飯田の表情の変化で一目瞭然だった。
「それは犯人に取ってもはや三種の神器。犯行の完遂のためになくてはならないものだ。そして、事件解決のシナリオを描き切るための」
日中の飄々とした態度とはわけが違う。この自信に満ち溢れたしゃべり方は何なのだ。飯田は警戒心を強めた。
「だけど、そのシナリオは犯人が他人に罪をなすりつけ、自らが逮捕を免れるための卑劣な手口でしかないんだ」
「君が何を言っているか、私にはさっぱりなんだが」
ぎこちなく肩をすくめる飯田。
「その拳銃や軍手がそのまま警察の手に渡ったら、誤認逮捕になってしまうということですよ」
「誰が逮捕されるというんだ?」
「神野さんですよ」
屋上の空気に戦慄が走る。
「神野が逮捕。つまり神野が犯人。それが事件の真相というわけでは?」
「違いますよ」
即答した。
「それは神野さんが被ることになる偽証の罪。軍手のもともとの所有者が神野さんだったり、神野さんの所有物だったりすることにすれば、なおさらその筋書きができてしまうということです」
「だったら、その罪を被せようとしている本当の犯人は誰だというんだ」
なかなか結論に辿りつかなくて飯田は苛立ち始める。
「ここまで言ってまだわかりませんか。真犯人は飯田康司さん、あなたですよね」
沈黙が流れる。
それを破ったのは飯田の高笑いだった。
「はっはっはっは。何を言いだすかと思えば。私が犯人だと? なぜ、そんなことがわかる? 神野が犯人かと思えば、実はそれが嘘で私が犯人だって? 笑わせるな、子どもの戯言が」
飯田の言葉遣いが荒くなり、笑いをこらえつつ話を続ける。
「私は何も隠す気はないし、探偵気取りになるつもりもない。だが、そこまで言うなら黙っているわけにはいかない。語らせてもらうぞ。神野が犯人だという私の推理を!」
飯田は笑いを止めたかと思うと、食い入るような目つきで江雷を見据えた。
「聞きます」
静かに江雷は話を聞く態勢を取った。
「といっても長話しているつもりはない。簡潔にまとめさせてもらう。神野の犯行は単純明快だ。神野と堀田、ふたりで事務所にいるころから虎視眈々と犯行の機をうかがっていた神野は、堀田が出かけるのを待っていた。そこで屋上へ作業しに行く用事ができたんだ。神野は一緒に行くが報告書をまとめなければならない、とでも理由をつけてノートパソコンを持ち出し、堀田とともにエレベーターに乗りこみ、十三階へとやってきた。そこで隠し持っていた拳銃で堀田を射殺した。それと同時に、まとめておいた報告書の送信をノートパソコンで行ったんだ。神野はそのまま二階へ戻り、何食わぬ顔で仕事の続きをしていたんだろう」
かなり端折られた説明だが、筋は通っている。
むしろ何も知らないのであれば逆にこの説明が限界だろう。
「その推理だと、自分の作業服から発射残渣が認められるはずですよね。でも、警察からはそのような報告はなかったように思えます」
「それは知らん。コートか何か羽織っていて、脱ぎ捨てたんじゃないかと私は思う」
レインコート、とは言わないところが憎いところだ。
警察はレインコートの存在を他に漏らしていない。飯田が犯人でなければ、レインコートの存在は知らなくて当然であろう。
「確かに、犯人が着ていたと思われるコートが見つかっています。警察の調べで硝煙反応が確認され、しかもそれが落ちていた場所は現場の真下である自転車置き場の屋根の上でした」
「やはり……。私の推理通りだ」
飯田はほくそ笑む。
「あとは拳銃の隠し場所……」
「待て」
もう一つ追及しようというところで、飯田が待ったをかける。
「その前に、今度は君の推理を聞いてみたい。私が犯人であると考えるならば、その犯行手順を教えてもらいたい」
飯田の推理に対して、自分の推理をぶつける。
推理対決をしようというのか。
江雷はだんだんと今の状況が楽しくなってくるのを感じた。
「わかりました」
江雷は深く呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
「まず、堀田さんを屋上へ来るよう呼び出した犯人は、十三階にやってきたところを拳銃で射殺した。犯人はそのまま屋上へ戻り、息をひそめていた」
「……」
「……」
「それだけか?」
「それだけです」
「マジでそれだけ?」
「それだけです」
数秒の沈黙の後、飯田は声を出して笑った。先ほどよりももっと大きな声で、馬鹿馬鹿しそうに。
「そんなちんけな推理で警察が納得すると思っているのか。片腹痛いわ、はっはっは」
「そりゃそうですよ」
「はっは……は?」
「それこそが犯人の本当の狙い、だったんですからね」
飯田は笑いを収める。
「そう。最初は現場から近い飯田さんが疑われる。だが捜査が進むにつれ、神野さんによる犯行ではないか、という線が出てくるよう仕組んであったんだ。いたるところにそういう仕掛けをしてね」
飯田は瞬きも忘れるほどの形相で江雷を凝視する。
「神野さんの証言によると、飯田さんが堀田さんを屋上へ呼びましたよね?」
「いや、呼んでいない。第一、ラインにそういった経緯は残っていなかっただろう? あれは堀田の勘違いか、おそらく罪を免れようとする嘘だ」
「会社から、報告書を早く出すよう言われてたそうなんですが、それも知りませんか?」
「知らないね。それもアリバイを作ろうとする嘘なんじゃないのか」
「本当に知らなかったですか? 早く出せなんて話」
「だから、報告書のことなんて知らないといっているだろう。しつこいな、君は」
苛立つ飯田に気にも咎めず、江雷はわざとらしく考えるふりをした。
「変ですね……。なら、あなたはなぜ知っていたんですか? 神野さんが報告書の仕上げで忙しいということに」
「……!」
何のことか、と惚けることはしないで、飯田は発言したあの時の記憶を探り当てた。
『報告書の作成に忙しいお前を呼ぶわけがないだろうが』
事務所で口論になった時だ。飯田は確かにそう言っていた。
それを知っているということは、会社からラインが来たという神野の証言は嘘ではなく本当にあって、飯田もそのやり取りを見ていたということになる。
「ふん」
飯田は鼻で笑い飛ばす。
「そんな証言の食い違いはどうでもいい。なら、私が射殺したという証拠でもあるのか。上着は預けた、軍手も預けた、身体検査もした、工具箱も調べてもらった。何も出なかったじゃないか」
「それはさっき飯田さん自身も推理したように、コートを着た状態で発砲したからですよ。実際はコートだけではなく、たぶん軍手もしていたと思います」
「軍手なら警察に預けたが、何も出たという話は聞いてないぞ」
「いや、工具箱に入れていた軍手は警察を油断させるためのカモフラージュ。実際に使用した軍手は、今あなたが持っている軍手のほう。拳銃とかと一緒に隠しておいたんでしょうね。その軍手を、神野さんの所有物ということにしたり、神野さんのカバンから出たということにしたりすれば、神野さんに罪をなすりつけることが可能になるというわけですよ。実際、神野さんは今日、軍手を忘れてきたと言っていましたので、こっそり盗んだのかも」
「コートについてはどうなんだ? 私が犯人だというなら、発砲した後にその場から投げ捨てたということになるが」
「そうですね。一緒に隠さなかったのは、サイズ的に困難だったからでしょうか?」
「私に聞かれても……。だが、できるのか?」
「ん?」
「捨てることができるのか、と聞いている」
「どういう意味ですか?」
急に話がかみ合わなくなり、飯田は地団太を踏んで怒りをあらわにする。
「ならば実験してみるがいい。上からコートを落として真下にある屋根の上に落ちるかどうかを。あの時と同じ条件で、な」
「条件? ああ、風ですか」
「その通り」
やっとかみ合うようになり、飯田は嬉しそうにうなずいた。
「屋上にいた私ならよくわかるんだが、あの時はひっきりなしに強い風が吹いていた。そんな条件下でコートを落としたら、どうなるかわかるな?」
「風に乗って遠くまで飛んでいってしまうでしょうね」
「そうだ!」
飯田は急に声を荒げた。
「刑事が私の上着を調べようとした時にも、飛ばされかけただろう。私がコートを落とした時だけ無風だった? そんな奇跡みたいなことが起こるわけがないだろう。つまり、私にあのコートを捨てることは不可能なんだよ。だが、神野が犯人であれば説明がつく。二階に戻った際に捨てたのだ。そうだ、私を疑わせるためにも!」
怒りのこもった口調でまくしたてる。
しかし、江雷は一切表情を変えずに飯田が言葉を区切るのを待っていた。
「できますよ、あなたにも」
「なにい?」
淡々とした様子で江雷はその理由を話す。
「重りですよ。風に飛ばされないくらいのちょっとした重りを一緒にして落とせば、真下に落とすくらい造作ない」
「ふ……」
飯田は再び鼻で笑う。
「そのようなものが一緒に落ちていたか? そんなあからさまな重りが落ちていたらすぐに気づくと思うが」
「ペットボトルですよ」
「……」
飯田は反駁できず口をつぐむ。
「屋根の上には空き缶の他に飲みかけのペットボトルが落ちていたそうです。まあ、警察は単なるゴミと思ってもう処分しちゃってるかもしれませんが。ただ、物が落下した衝撃音を聞いていた人がいたんです。それに、残っていましたよ、コートが落ちていたところに。固いものか重いものが落ちたような真新しいへこみがね」
江雷は川野とともに二階に留まった時のことを思い出す。あの後、手すりによじ登って乗り越え、自転車置き場の屋根の上に飛び乗って確認していたのだ。岡田や吉本たちを先に行かせたのは、大人の人がいると注意されて実行できなくなる恐れがあったから。
「……そこまで看破しておいて、なぜずっと黙っていた?」
「確信も確証もなかったからですね。まあ、飯田さんがここに現れてくれたおかげで、推測が確信に変わりましたけどね」
挑発するような発言を、飯田が聞き逃すはずがなかった。
飯田は眉に皺が寄るほどの形相になって江雷に近づいていく。
「所詮、子どもの世迷言。お前の推理を警察が信用してくれるか。とにかく、私はまだ仕事の続きがあるんだ。どいてもらおう。子どもは早く帰って寝ろ」
江雷は飯田から目をそらさず、飯田の行く手を阻むように横に移動する。
「そう、この一連の犯行はまだ完成していない。隠し通した拳銃や軍手を使って、神野さんが犯人になるよう仕掛けをした時、この完全犯罪は完成する」
完全犯罪。
そう聞いて恍惚としかけた飯田だったが、進行の邪魔をする江雷に対して次第に憎しみの気持ちが高まってきた。
「ならば、聞かせてもらおう。警察が見つけられなかった最後の謎だ。私はこの拳銃を一体どこに隠したと思う?」
そう言って江雷の目前に立ったかと思うと、鋭い眼光で見下ろし、なんとその拳銃を手にして銃口を江雷の腹に突きつけたのだった。
「脅かす気はない。ただ正直に話してもらいたいだけだ。それから、君がどう動くかによってこの引き金を引くかどうかが決まる」
銃口を突きつけられては、江雷は身動きが取れない。
「お腹を押さえられていると、腹に力が入らなくてしゃべりにくいのですが」
「おっと、それは失礼なことをした」
飯田は薄ら笑いを浮かべたまま、一歩下がった。ただし、銃口は江雷に向かって差し向けたままで。
「エレベーターの中に隠してあったんですね」
エレベーターなら、とうに警察が躍起になって探していた。だが、そのくらいはわかっているだろう。飯田は黙って続きを待った。
「鍵となるのは右側のエレベーター。そしてその動向だ」
江雷も目つきを鋭くして睨み返した。
「ぼくたちが最初、このマンションに着いた時、つまり犯行が行われる少し前、右側のエレベーターは十三階に停まっていた。ただ、その時は左側のエレベーターも十三階に停まっていました。これはおそらく、堀田さんが十三階に向かったため。で、ぼくたちは左側のエレベーターを呼び、十三階に向かった。そこで発砲があり、事件は起きた。十三階に着くと、さっきまで十三階に停まっていた右側のエレベーターが下に下りていってました。これは犯人がエレベーターを使って逃走したと考えるのが普通。しかも二階で一度止まったため、神野さんが犯人だと考える手がかりでもあった。だが、結局それも犯人が仕組んだ罠。実際は二階と一階に止まるようボタンを押しておいただけの無人のエレベーターだったんだ。まあ、調整のために他の階にも止まるようにしてあったかもしれませんが。そうさせたのは犯人である可能性が一番ですが、もしかしたら被害者自身が殺される前にそうした可能性もありますね。エレベーターの点検のためとか言えば、疑いもせずやってくれるでしょう。さて、重要なのはこのエレベーターの動きだ。もちろん、神野さんに疑いをかけるため。だけど、一階に下ろしたのはそれだけじゃなく、凶器などを隠すためでもあったんだ。ある場所に置いておくためにね」
飯田の銃を持つ手が震える。
「エレベーターの天井の上? 違う。もっと探られにくい場所があった。それは、釣合い重りの上ですよ」
この時辺りが暗くなったのは、月が雲に隠れたからだった。
「エレベーターの種類は何種類かあったかと思いますが、ここのエレベーターはトラクション式で、上に巻き上げ機があって、かごと釣合い重りでバランスを取って稼働する仕組みだ。今、飯田さんの後ろに見えている建物が機械室で、巻き上げ機があるところですね」
江雷は飯田の背後を指さすが、つられることなく前を向いたまま標準を外さない。
「そう、エレベーターが一階に下りていったということは、逆に釣合い重りが一番上まで来ているということ。射殺後にレインコートを捨てた後、屋上に戻った犯人は、機械室に入って使用した拳銃と軍手を釣合い重りの上に置いたんだ。それからもう一つ。蛍光灯だ」
途切れぬ推理に、飯田は顔をひきつらせる。
「いくら外から見えにくいといっても、ホールからガラス越しにじっと見ればわかるもの。特に暗くなってからが要注意だった。ホールに電気がつきますからね。エレベーターがスライドする中の空間が照らされてしまう。そして一番警戒しなければならない場所が二階だ。なぜなら自分や神野さんの滞在する事務所があるんですからね。警察が二階のホールを使うことは事前に予測できたはず。それに、エレベーターが十三階にある時こそ、釣合い重りが一階にあるということになりますからね。二階からは一番見えやすい場所。だから、蛍光灯を切れたものに差し替えたんだ。数日前に住人の連絡によって新しいものに変えたにもかかわらず、また切れかけの蛍光灯になっていたのがその証拠。でも、一つだけわからないことがあるんですよね。あなたはエレベーターの中の空間も調べるよう警察に助言していた。あれでは隠した拳銃が見つかってしまうおそれが一段と高まる気がするのですが」
「ふん」
飯田は三度鼻で笑う。
「世の中には知らなくてもいいことだってあるんだよ。お前は知りすぎている。だが、あえて教えよう。見つけられてもよかったんだよ」
「なんだって?」
「その時はその時で、きちんと神野を犯人に仕立てあげる計画もしてあったからな。そう、すべて計画通りに進んでいたのだ。エレベーターの目撃者も作り、ラインも偽装し、神野のアリバイをつぶした。すべて、シナリオ通りだったのだ。何もかも……。そう、何もかもだ……」
悔しさのためか、飯田の声が震えている。
「あと一歩で完成していた。お前の言う完全犯罪が。だが、完成する直前でお前はそれを妨害した。あと一歩のところでな」
逆上しかけている飯田だが、江雷は冷静に相手の証言の隙をついていく。
「ということは、やはりぼくたちが今日ここに来ることを知っていて、ぼくたちを目撃者として利用した……」
「そうだ。なんかの会議でたまたま聞いた。警察とどういう仲なのか知らないが、関係者であるならば信憑性も高まって使えると思ってな。だが、お前はこの積み上げられた犯行の土台を担うどころか取り払い、すべてを崩壊させてしまった。いや……」
飯田が前に出る。
「まだ崩壊したわけじゃない。この積み木は立て直せる」
そして、江雷に再び銃口を押し付けた。雲の陰から顔を出した月が飯田の不敵な笑みを不気味に照らす。
「確信があっても、確証があるわけではないのだろう? ならばまだ間に合う。今、お前がここを見逃してくれれば、何も問題はないのだ。痛い目に遭いたくなかったら、邪魔をしないでもらいたい」
江雷は怖がるそぶりも見せず、懐から何かを取り出した。
「証拠なら今ここでいただきましたよ。警察から借りたこのICレコーダーにね」
「なに?」
録音していたのだ。今のやり取りを。
そこまで用意周到だったとは。
「だが」
そうやって見せたのが運の尽き。
飯田は江雷が掲げたICレコーダーを強引に奪い取ると、
「こうだ!」
野球でいうピッチャーのクイックモーションのような投球で投げ捨ててしまった。
ICレコーダーは重力に従って落ちていく。だが、放り投げられた先は屋上の外。着地する場所は遥か下の地上ということになる。
「はっは。ざまあみろ。この高さから落ちて壊れぬはずがない。残念だったな、唯一の証拠を残すことができずに」
「まだ終わっていませんよ」
絶望の色は一切見せずに、江雷は次の策に打って出る。右手を挙げて振ったかと思うと……。
「録音ではなくても、聞いた者がいる」
なんと、後ろの貯水槽の影から人影が出てきたのだ。
それも一つではない。複数だった。
「お前ら……隠れていたのか」
吉本や広瀬たち。そして教師の森もいた。
「諦めて投降するんだ」
血相を変えた森が飯田に詰め寄ろうとする。
だが。
「バカめ」
飯田は、未だ離れずにいた江雷を羽交い絞めにした。
そして、銃口を頭につきつける。
「残念だったな。これで形勢は変わらない」
江雷を人質に取られてしまった。
これでは包囲した森や吉本たちも手が出せない。
江雷も死ぬかどうかの境目に……。
……笑っていた。
「な、何がおかしい?」
「撃ってみろよ」
「な、なに?」
「撃ってみろよ。本当に弾が出るというなら」
「バカか。銃にはあらかじめ複数弾を装填してあるのだよ」
「だから、引き金を引いてみろって言ってるんだよ」
江雷の挑発に、飯田の怒りが頂点に達する。
「ふざけるなあああ!」
激高した。
躊躇なく引き金が引かれる。
……。
……。
しかし、何も起こらなかった。
「な、なぜだ。なぜ弾が出ない」
飯田は焦って手元の拳銃を見つめる。
「それだけ見てもまだわからないの? それは事務所に飾ってあった神野さんのコレクション、モデルガンだよ」
「……」
衝撃の事実に、飯田は思わず手を離してモデルガンをその場に落とす。
モデルガンに似た拳銃を使ったのはわざとだった。神野に疑いを向けさせることもできるし、あわよくば隙を見てすり替えるという手も用意していた。
だが、それが裏目に出たのだ。
「策士策に溺れる」
まさにその一言に尽きるだろう。
「これが、真の証拠だよ、飯田さん。事務所に飾ってあったモデルガンが、本物の銃ではないことくらい知っていたでしょう。だが、あなたは本当に撃とうとした。隠されていたのが本物の銃だと、なぜ知っていたのか」
怒りか、失望か、飯田は全身をわななかせる。
「ま、まだ終わっちゃいないぜ。武器がなくてもこの体がある。お前たちを全員締め上げて……」
「誰を締め上げるって?」
「だからお前ら……だ……?」
目の前に体格で勝るとも劣らない人物が立っている。
「締め上げるなら、私を倒してからにするんだな」
森であった。
言い終えるよりも先に、飯田の襟元をつかんだかと思うと一気に引き倒し、腕を固めて身動きが取れないようにしたのだった。
「ぎ、ギブだ、ギブ……」
苦し気なうめき声を聞き、森は関節技を緩めた。
ただし、重たいその体は飯田の上に乗せたままで。
十
やがて、江雷の伝達によってまもなく警察が到着した。
帰ったと思わせて、実はまだ近くに潜んでいたのである。
あまり近くに潜んでいては警戒される恐れがあったため、適度な距離を保ちつつ。
だが、警察としては内心ひやひやだった。いくら立ち去ったように見せかけて江雷が犯人を引きつけるといっても。いざという時は、屋上に突入する準備も整えていたほどだ。
だからこそ、森の存在がすべてだった。武道に心得のある者がいなければ、この作戦に賛成することはなかっただろう。
賛成したからには警察の動きは素早かった。
事務所にいる飯田が活動を再開するまでに、江雷が導きだした場所で凶器を見つけ、押収したモデルガンと差し替える。制服を脱ぎ、帰宅してきた一般人を装ってまで。事務所の窓から、引き返してくる警察を見られては意味がないから。
帰る寸前で完成した江雷の推理と警察の協力があっての作戦勝ちであった。
なお、凶器等の在り処は、実際は釣合い重りの上ではなく、裏側に養生テープを使って貼られている状態だった。江雷が飯田の前であえて知らないふりをしていたのは、まだ凶器を見つけていないと錯覚させ、作戦を見破られないようにするためだった。
もちろん、飯田に捨てられたICレコーダーはダミーである。反対のポケットに本物のICレコーダーを忍ばせていたのだった。
また、警察はそれ以外にもきちんと物証を確保していた。飯田が屋上に誘い込まれている間、別の班が事務所に赴き、飯田が所持していた工具箱をもう一度確認したのだ。
そこには、警察が拳銃以外にもう一つ、血眼になって探していたもの。空薬莢が発見された。実は、工具箱に入っていた鉄棒は磁石の役目を果たしており、工具箱の二段目の裏に隠れてひっついていたのだった。
拳銃と一緒に隠さなかったのは、神野を犯人に仕立て上げるためのアイテムとして所持していたためだが、回収していた理由はもう一つあった。
それは、飯田が自衛隊に興味があるからだ。
自衛隊は訓練時、発射した弾の数をきちんと管理するため、空薬莢を拾い集めている。自衛隊に憧れる飯田の無意識的に真似した行動だったのだ。
「さてと、後の処理は我々警察に任せて、今度こそちゃんと家に帰るんだ。パトカーで家まで送らせるから」
飯田を連行していき、状況が落ち着いてきた頃、岡田が江雷たちのもとへやってきた。
さすがに疲労の色を見せる江雷の傍らで、パトカーに乗れると聞いて吉本や広瀬ははしゃいでしまっている。
「さすがに疲れました。あ、神野さんは大丈夫ですか?」
ふと心配になる江雷。神野は事務所にただひとり取り残され、今日現実に起こったことに理解が追いついていないに違いない。
「このマンションからの撤退を余儀なくされるだろうな。会社としても、社会的責任が発生する。このマンションと関わることは今後、一切ないだろう」
「そのほうがいいよ」
うんうんとうなずきながら、川野が会話に割って入ってくる。
「蛍光灯をろくに変えてもくれない会社のことなんて知らないもん」
辛辣な感想に岡田は思わず声に出して笑う。
「まあ、今後は拳銃の入手経路などを洗っていく予定だ。今日はご苦労だった。茶本君にもよろしく伝えておいてくれ」
「わかりました」
茶本は江雷の勇姿を見ることなく、門限が厳しいから、といって、母の迎えによって先に帰ってしまっていた。
「ある意味、一番見せたかった人物でもあるだけどな」
吉本が残念がる。
この江雷の勇姿を見れば、兄の事件も解決に導いたことに納得してくれただろう。
「大丈夫さ。茶本君なら。また今度誘って遊ぼう」
「だな。で、またそこで事件が起こると……」
「勘弁してくれ……」
「冗談だ。でも大丈夫なのは本当だ。宏一が謎を解き明かしたっていうのは、噂で流れてきたって話だし」
噂、か……。
何度か耳にするその言葉、なぜか江雷にはしっくりと来ないのであった。
「けど、一体誰が噂を広めたんだろう。やっぱり、勝志かな」
「お、オレじゃねーよ」
「何を言ってる。すでに思いっきり広瀬にバラしてるじゃないか」
「あ……。ごめん」
「素直でよろしい」
「あはは。先輩風を吹かせようとする吉本も、江雷の前じゃ形無しだね」
「ダサいー」
広瀬と川野が会話に入ってくる。
「ダサいっていうなよ」
「やかましいとか言われたお返しだもん」
「そういう君こそ、噂を聞いた口だろう?」
「そうだよ。私はね、誰から聞いたんだったかなぁ」
指を口に当てて首を傾げる川野。
「父親でしょう? 町内会議に出席していたっていう……」
と、言いかけたところで、江雷は再び事件のことを思い起こす。
今回の事件、すぐに発見してくれる人やエレベーターの目撃者がいなければ、完全犯罪とは程遠い欠落したトリックになってしまう。
つまり、飯田は目撃者を待っていたんだ。それも、十三階に来ることをあらかじめ知っていて。
そして、その情報源は町内会議で手に入れていた。つまり、最初から利用されていたというわけか。誰かさんのせいで。
「おい、宏一。難しい顔してどうしたんだ?」
「あ、なんでもないよ」
声をかけられて現実に引き戻される。この際、先生が元凶だったとか言っても冗談としては品質が劣るし、後味が悪くなる。それに、自分たちじゃなくても誰かしら利用していたことだろう。ここは黙っておくことにしよう。
「それより、どうだったんだ?」
「なにが?」
「結果だよ」
「結果?」
「あれ? 告白したんじゃなかったのか」
「違うって言ってるだろ」
川野とふたりきりになった件。まだ吉本は気にしていたようだ。勘違いしたまま。
「そうなの。あんなドキドキするような場面を作っておいて、何もなかったの。ひどいよねー」
川野がノリに乗ってくる。
「上げておいて落とすとは」
「そんなつもりはないって」
あくまでも否定し続ける江雷。
だが、本当に突き落としたのは締めの言葉だった。
「ぼくだって恋愛に興味がないわけじゃない。でも、せっかくの高校生だ。恋愛にうつつを抜かしているだけではもったいないよ」
全員、黙ってしまう。
「江雷君。もしかして君が、サッカー部に前向きじゃない理由って」
広瀬はなんとなく察した。今日、初めて会話した際の結論を。
「そう。ぼくの将来の夢はプライベートアイ、私立探偵になることさ。その下準備を始めていきたいんだ。もちろん、部活とか運動とか、大事だと思うよ。でも、時間が取られすぎてしまいそうだし、中途半端な気持ちでは他の部活仲間に失礼だと思う。だから悪いけど、サッカー部は断るよ」
「わかったよ。君にそういう意思があるなら、もう無理に勧誘したりしない。でも、ひとつだけお願いを聞いてもらってもいいかな?」
「うん?」
急に改まった態度になった広瀬に対して、江雷は身構える。
「部活もクラスも違っていても、今日廊下ですれ違っただけの仲じゃなく、これからも友達でいてくれるかな?」
強張った肩の力が抜け、江雷は目じりを下げた。
「おう。広瀬君は、もうとっくに友達だよ。これからの高校生活を彩る、大切な友達さ。もちろん、川野さんもね」
「やさしいー」
安堵する面々のうち、ひとりだけ猜疑の目を向けるものがいた。
「その大人びた態度……。お前さ、年齢偽ってないよな?」
吉本に疑われる江雷。
彼はわざとらしく素知らぬふりをして、先頭を切って歩き出した。
「年齢も名前も偽ってないよ。ぼくの名前は江雷宏一。十六歳の高校生さ」
(灰色の迷宮 後編 終)