2-1.灰色の迷宮
あらすじ
学校での無残な事件が収束してひと月。新学期。江雷は新しい高校生活をスタートさせていた。そこで見ず知らずの人物から突然の連絡が入る。それは先日の犯人の弟だった。
会いたいと願う弟の意図は? 江雷は新旧ふたりの友人を引き連れて、仲介役を買って出た教師の家へと向かうが……。そこでまた事件に遭遇してしまう。
凶悪な殺人事件と弟の読めない思惑の板挟みになりながら、江雷は謎に挑んでいく。
一
――そして、現在。
「へえ、そんなことがあったんだ」
話を聞き終えた広瀬が、感慨深そうに息を吐いた。
バスを待つ間も、バスに乗ってからも、広瀬も吉本も真剣に江雷の話を聞いていた。幸い、バスの乗客は少なかったので人目を気にせず話ができた。
今後の動向として、茶本が少年院送致となるのは間違いない。だが、問題は弟の方だと江雷は言うが……。
「ちなみに、犯人の所持品で、もう一つ不自然なものがある。なんだと思う?」
江雷が急にナゾナゾを出すと、吉本と広瀬は頭を悩ます。
「あれ、結構簡単だと思うけど……。あ、次のバス停で降りるよ」
江雷が降車ボタンを押す。
話をいったん中断して、各々カバンを手にして降りる準備をする。
「お、いつの間にか雨止んでるね」
「こっちだよ」
バスを降りると雨は小康状態となっていた。
江雷が先頭に立って行く道を指し示す。
水溜まりを避けながら歩く三人の高校生。
しばらく黙ったまま歩き、一つ曲がり角を曲がったところで江雷が沈黙を破った。
「五分ほどで着くからすぐだよ」
「……それよりさっきの答えは?」
「ああ、ごめん。まだ途中だったね」
「待った。俺はわかったよ」
「オレにはわからん……」
広瀬には謎が解けたようだが、吉本は渋い顔のままだ。ふたりの表情は対照的だった。
「答えはスマホケースだな?」
「正解」
江雷がうなずく。
「三人目のスマートフォンに対し、前のふたりは携帯電話と書かれている。つまりこの携帯電話とは、フィーチャーフォンのことなんだ。それなのにふたり目の所持品にはスマホケースがあった。フィーチャーフォンにスマホケース。おかしいよね?」
「確かに」
「まあ、スマホケースはカモフラージュ。おそらく、ナイフシースの代わりに使っていたとおれは考えているよ。まあ、あくまでも勘だけどね」
「ナイフシースって何?」
「鞘のことだよ。ナイフ用の鞘」
「なるほど。ナイフを持っている時点でアウトだけど、そこまで用意していたってことは、計画殺人だったのかなぁ」
「そうかもしれないね」
「ってか、スマートフォンと書くなら最初からフィーチャーフォンって書いてくれよな」
勝負に負けた吉本は所持品リストの書き方に文句をつけ始めた。
「でも、最初にフィーチャーフォンを見せられて、フィーチャーフォンといきなり書くことはまずないでしょ。携帯電話って書くよ、普通は。だけど後になってスマホが登場したから、区別をつけるためにスマートフォンって書いたんじゃないかな」
「うぐ」
広瀬にまっとうな理屈をつきつけられて、吉本は反駁できなくなった。
「で、結局その弟さんはどうしたんだ? さすがにもうどっか行っちゃったか」
ふてくされつつ、吉本は話を最初に戻す。
真面目な話になったとたん、江雷も口を結んで表情を変えた。
「実は、四月からの新学期に、茶本の弟は普通に学校に通学しているらしいんだ」
「マジ?」
「マジなんだ」
ふたりは驚きを隠せない。弟の意思なのか、それとも親の判断なのか。ふたりにとって、自分だったらさすがに嫌だなと思うほかなかった。
周りの目はどうなのだろうか。同情をされるのも、何も知らないふりをしてわざとらしく接されるのも、いずれにしても当人にとっては辛く悲しいのではなかろうか。
「それで、ある日、あったんだよ。連絡が、彼から」
言葉に含みを持たせると、広瀬はごくりとつばを飲み込んだ。
「事の真相が知りたい。あなたの口からすべてを聞きたいです。……とね」
一台の車とすれ違う。
「なんか怖いよ、それ。恨みを買っているんじゃないか?」
「それはないと思うけどなぁ」
「呑気だな……」
印象の受け方が異なるようだ。その点、江雷はのほほんとしている。広瀬よりも付き合いが長い分、江雷の性格を把握しているのは吉本のほうだ。本当に危ないと思う時は自分が危険を認識させてやらなければ、と吉本は思うのだった。
「もうすぐ着くよ」
足元がタイル状に舗装された道に変わった。手前に高層マンションがそびえ立っている。すでに敷地内に入っているようだ。
建物の外壁は白を基調としているようだが、あいにくの曇り空のために離れた場所からでは灰色にも見える。
花壇と駐車場の間の道を抜け、エントランスに入る。三人はスロープと階段、それぞれ思う方を使ってホールを進み、エレベーターの前まで到着した。
「――来たか」
折しも、地上三十メートル超の高さから地上を見下ろす不審な影があった。その影は手すりから手を離すと、はためくレースのカーテンを手で払いのけながら室内へと消えていった。
だが、その時に動いた人影は一つだけではなかった。
同じく地上を見下ろしながら不気味な笑みを浮かべるもの、さらに地上付近から上空を見上げて歯ぎしりをするものがいたのだった。
「――ところで」
この場所は日の入りが弱く、エレベーターホールは薄暗かった。江雷たちが到着した時、運が悪いことに、エレベーターは二台あるのだが、その二台ともに最上階である十三階に停まっていた。
ただ、エレベーターを呼ぶためのボタンは一つだけ。どうやら自動的に左右どちらかを選択して呼ぶ仕組みになっているようだ。
「先生っていうけど、いったい誰なんだ?」
「森先生だよ」
「げ、あの森先生?」
「その中学では有名なのか?」
吉本の焦る顔を見て、広瀬は森先生とやらに興味がわく。
「有名も何も、めちゃくちゃ怖い先生って噂だよ。なんでも、第一ボタンを外していた生徒に対し、胸倉をつかんで怒鳴りつけていたって話を聞いたことがあるよ」
「こええ」
「いやいや。それはぼくたちが中一だった二年……いや、三年前の話」
江雷がよくない印象を払拭しようと訂正する。
「その時は赴任してきたばかりで、しかも家庭もちょうど子どもが生まれたばかりで、いろいろと精神的に参っていて怒りっぽくなっていたらしいよ。そりゃ、怒らせると怖いけど、授業中に冗談も言うし今は面白い先生だよ」
「そ、そうか……」
「ただ、柔道やら剣道やら格闘技に秀でた人だ。戦って勝てる相手じゃない」
「戦いたいと思うかよ」
「体育会系の先生なら、体育を教える先生なのか?」
ピンポーン。左側のエレベーターが一階まで下りてきた。
「いや、社会科だよ」
答えつつ一番先にエレベーターに乗りこむ。
外した広瀬は残念そうに肩をすくめながら吉本を見ると、吉本が同情するかのように同じ仕草をしてくるのだった。
「――ん? あなたは?」
通路を歩く男の前に、雨合羽を着こんだ人物が立ちふさがった。フードまで深くかぶっており、顔も確認できないほどだ。
「おいおい。もう雨が止んでるっていうのに、どうしてそのような格好を? もう作業は済んだのかい?」
男は親しげに合羽の人物に声をかける。どうやら目の前の人物の正体を察したらしい。
「……」
だが、合羽の人物は無回答で、おもむろに懐から何かを取り出した。
小指から中指までの指で本体を支え、人差し指と親指で重心を支える。伸びた人差し指は引き金にかかっている。銀色に輝くL字型の物体。
そう、拳銃である。
「な、何をする気だ?」
男はひそめていた眉を吊り上げ、言葉をどもらせながら慌てふためく。
合羽の人物がここで初めて口を開いた。
「生憎だったな。その薄汚れた手を、自らの緋色の鮮血で洗い流せ」
語気の強い低音。憎しみのこもった声でそう告げると、腕を伸ばして銃口を男に差し向けた。
「ま、待て……! こんなところでやっても、すぐに足がついてしまうぞ。それでもいいのか」
「そんなことは傍観者になってからゆっくり鑑賞していればいいことだ。あの世という、我々の目には見えない異世界でな」
問答無用を宣告した合羽の人物は、照準を合わせると、そのままゆっくりと引き金を引いていった。
「……!」
「――なに? 今の音……」
激しい音がした。
「何か音がしたね」
何かの瞬発的なはじける音。その音はエレベーターの中にいた江雷たちにも聞こえていた。
乗員の不安をよそに、エレベーターはまもなく十三階へ到達しようとしている。
「雷かな?」
「そんなまさか……」
標高の高いところに来たためか、胸が圧迫されるような感覚を味わう。とはいっても、十三階となればたかが四十メートルほど。急な不安定な感覚は酸素のせいではなく、嫌な予感による胸騒ぎのせいだろう。
「ちょっとここで待っててくれない? 何か事故とか事件とか起きてたら困るし」
十三階のエレベーターホールに降り立つと、江雷はメンバーにそう伝えて、自分ひとりだけ通路へ出て左右の様子をうかがってみた。
右側は……何もないように見える。
左側は……。
「……!」
驚愕のあまり言葉を失う。
「おい、何かあったのか? 先生の派手な出迎えか?」
江雷の硬直した姿と横顔に、吉本がジョーク交じりに言う。
「……」
江雷が黙して答えないので、吉本が通路へ進もうとすると、
「来たらダメだ!」
ものすごい剣幕で静止させられる。
事情は分からないが、とことん不安を煽ってからドッキリの種明かしをするような器用さを、江雷が持ち合わせていないことを吉本は知っていた。
これは演技じゃない。
「じゃあ、なんなんだよ」
苛立ちを隠さずに聞くと、
「人が……血を流して倒れているんだよ」
「……」
想定外すぎる回答に思考が停止する。
そう、江雷が今見ているもの。
人が大量の血を流し、コンクリートの通路に伏しているのだ。
「一体ここで何が……!」
茫然とつぶやいたあと、ふと我に返って脳から体に身動きを取るよう信号を送る。
江雷はとっさに手すりから身を乗り出して周りの状況を確認してみた。左方面から吹きつける風に前髪がなびく。
現在地はマンションの十三階北側、東寄りの位置だ。建物の両端に一階から十三階まで連なる階段が見える。
その階段を使って駆け下りていくような人影は……ない。
「広瀬君! さっきまで十三階に停まっていたエレベーターの現在位置は?」
その場で振り向いて背後に声をかける。
急に名指しされた広瀬は、驚いた様子を見せながらもエレベーターの現在位置がわかる回数表示を見てみた。
「あ、もう十三階にいない。下に下りていて、二階で停まっているよ」
その言葉を聞くと、江雷の頭の中が状況を把握しようと高速回転する。
さっきエレベーターの中で聞こえた音は銃声だったのか。
この人は誰かに撃たれたのか。すでに亡くなっているのか。
犯人はまだ近くに潜んでいるのか。それともエレベーターで逃走しようとしているのか。
逃亡を図っているなら追跡しないと。
いや、その前に通報、そして救護措置をしないといけない。
呼ぶのは警察か、救急車か……。
思考回路が渦を巻いてしまい抜け出せない。
混乱を解消しようと、もう一度吉本か広瀬に声をかけようとすると……。
不意に、ドアが開く音がした。
反射的に振り向くと、すぐ傍の家のドアが開いていた。
「うわっ、なんだこれは!」
腰が抜けそうになる住人。
先ほどの大きな音を聞きつけて、不審に思って確かめようとしたのだろう。
「おい、大丈夫か!」
住人がかがんで倒れた人物に声をかける。
だが反応がない。
「あの、すみません」
江雷が住人に声をかける。
住人は必死のあまり江雷の存在に気づいていなかったようで、びくりと体を震わせた。
「すぐに救急車と警察に通報してください。ぼくら、たまたま用事で来ただけで、この場所を相手に伝えるのが難しくて。あ、携帯を持っているならそれで。急いでください」
「あ、ああ。わかった」
急に電話しろといわれても、といいたいところだが状況が状況だ。住人は手に持っていたスマートフォンで通報を試みた。
「あ、救急車をお願いします。はい、緊急です」
通報が進んでいることがわかると、江雷は落ち着きを取り戻して倒れている人物へゆっくりと歩み寄る。
背後に人気を感じる。
吉本と広瀬が我慢ならなくなって様子を見るためにホールから出てきたのだろう。もう隠し通せない。
今更隠し通せるとも思っていない。江雷はもう一度、黙ったまま手を差し出してそれ以上近づくなとふたりに忠告する。
偉そうに見えるか? 江雷は自問自答する。
だが、興味本意と本当にできることは違うもの。
江雷は腰を落として倒れた人の様子をうかがう。
仰向けに倒れているその人は苦痛に顔をゆがめ、衣服が血によって赤く染まっている。右手は体のある一点を押さえようとしているが、もはや力は感じられない。
手を伸ばして首元へ手をやる。頭をこちらに向けて倒れているので届く範囲だ。
……脈は、感じられない。
江雷は無念のあまり少しの間目を伏せた。
出血の量が尋常じゃない。倒れた体の下から血が流れ始めている。
血は、通路に傾斜があるのか、外側の溝に向かって流れを作っていた。
このまま近くに立っていると血に触れてしまう。
生理的に気持ち悪いとか、靴が汚れるとか、そういった理由はない。現場保存は大事だ。まあ、すでに飛沫血痕を無意識に踏んでしまっているかもしれないが。
それに、この人が何者かによって銃撃されたのだとしたら、銃撃した人物がまだ近くにいるかもしれない。
ここは目立たないところで身を潜めている方が賢明か。
「なあ、どうするんだよ」
江雷が一定の判断基準まで達して立ち上がると、それが合図としたかのように吉本が声をかけてきた。
「救急車や警察が来るまで、そこのホールで待機していよう。下手に動くのは危険だ。住人の方も、家の中で身を潜めていてください。もしかしたら、この人を襲った犯人がまだ近くをうろついているかもしれませんから」
「ええっ」
恐ろしいことを言ってのける子どもに、住人は声を上ずらせる。通報が済んだ矢先のことだった。
「それなら、私の家の中にいるといい。その方が安全だ」
住人は江雷たちを家の中へ招こうとするが、
「結構です。ぼくら三人はホールで身を隠しています。何かあったら大声出しますから、大丈夫ですよ」
何かあってからでは遅いと指摘する余地もなく、江雷は身を翻して吉本と広瀬を一緒にホールへ入れと指し示しながらその姿をホールへと消した。
「いいのかよ、それで」
吉本が異論を唱える。
「家の中に入れてもらったほうが安全だろ」
「ダメだよ」
「なんでだよ」
「犯人が今どこにいるかわかっていない以上、下手に動けない。犯人はまだあの人を撃つために使った拳銃を所持している可能性が高いからね。だって、あの人の近くに拳銃は落ちていなかったから。誰かが銃撃した証拠だよ。そして、その犯人が通報してくれたあの住人だって可能性も捨てきれない。そう、下手をしたらぼくらは人質に取られるよ」
「……」
やってきた警察に対し、住人が自分たちを人質にして立てこもる。そんな光景が頭に浮かんで吉本は血の気が引く思いがした。
「だったら、早くここから離れないと」
今度は広瀬が意見するが、江雷は黙って首を横に振る。
「動けないんだ。犯人が今どこにいるかわからないから。逃走中かもしれないし、さっき言ったみたいにこの辺の住人に紛れ込んでいるかもしれない。ここから離れようと思ってエレベーターを呼んだら、そこに犯人が乗っていたとかあったら怖いだろう」
呼んだエレベーターに乗ろうとしたら、ガラスの向こうに怖い顔をした銃を手に持つ人が乗っていた。恐ろしい光景を浮かべた広瀬は震えあがった。
お前はオレたちを怖がらせようとしていないか、そう怒りたくなる気持ちを抑えながら、吉本は第三の案を出してみた。
「それなら、先生の家に行こう。この階なんだろう?」
「行けると思うか?」
「?」
逆に質問を返され、吉本は首を傾げた。
「もう、撃たれた人の周りは血だまりだ。そんな人の上をまたいでいけないだろう」
「てことは、先生の家は向こう側なのか」
吉本は落胆した。
このマンションの住居の並び方は、エレベーターホールから出て右側に一軒、左側に四軒並ぶ構造だ。つまり五号室とはホールの傍の家か向こう側の端の家のどちらかだ。
「そうだよ。さっき通報してくれた人、ドアの上の表札を見たら二号室って書いてあったからね」
さらに江雷は言う。頭をこちら側に向けて倒れているということは、西側から撃たれたということ。その証拠に、東側の行き止まりの壁に弾痕と思われる穴があった。たとえ階段を使って迂回しようとも、犯人が潜む可能性が高い方向に向かって行こうとは怖くてできないだろう。もちろん、すでにエレベーターで逃走している可能性もあるが。
「なんでこんなことに」
吉本は頭を抱える。
「ん? ちょっと待て……」
すると、広瀬が急に声を震わせて吉本を肘で突く。
「なんだよ、もう逃げ場はないんだ」
絶望したかのような反応をする吉本。だが、そうじゃないと広瀬は否定し、前を見ろと訴える。
「さっき一階まで下りていったエレベーターが上がってくるんだが」
「マジかよ」
顔を上げて、エレベーターの回数表示を見る。すると確かに、右側のエレベーターが上がってくるのがわかった。
途中で止まるのか、十三階を目指してくるのか。
警察がこんなに早く着くとは思えない。
まさか、犯人が戻ってきた?
もしそうだとしたら、捕まえればいいのだろうか。
いや、そうじゃない。
その前に逃げないと。
相手は拳銃を所持しているかもしれないのだ。
もし撃たれたら、一巻の終わり。
死ぬ。
「なんで早く言わないんだ」
「知るかよ。今気づいたんだ」
「犯人はあっち側にいるかもしれないんだろう?」
「仮説の話だ。エレベーターを使っている可能性だってある」
「隠れるか?」
「どこにだよ」
小声で言い争う江雷たち。
焦りが混乱を招き、行動方針が定まらない。
ホールは何もない四角い空間。
通路は見通しのよすぎる一直線の道。
東側にある階段までは……もう間に合いそうにない。
「もうダメだ」
諦めの境地に追いやられた三人は、エレベーターから距離を取り、壁に背をもたれた。他の階で止まらないか固唾を呑んで見守るが、無念にもノンストップで十三階までやってきた。
やはり人が乗っている!
二
確かに人は乗っていた。
透明ガラスの向こう側に、エレベーターの箱に乗った人物の、頭から順にその姿を現していく。
江雷たちは一体誰が乗っているのか、怯えた表情でじっと凝視していた。
……だが。
「?」
エレベーターが停止し、扉が開く。
そこに乗っていたのは。
「?」
お互いに頭にクエスチョンマークを浮かべたように目が合う。
乗っていたのは、江雷と同じくらいの、否、江雷よりも少し低いくらいの少年だった。
少年はエレベーターから下りると、立ち止まる。なんで自分のことをこんなにもじっと見つめてくるのだろう、と。
年齢は中学生くらい。交じりっ気のない純粋な瞳。幼さの残る顔立ち。派手さはなく、整った服の着こなし。そして、総合的に見受けられる賢そうな雰囲気。
ひょっとしたら……?
江雷の脳裏に、ひとりの人物像が横切る。
少年は、目線を外すとそのまま通路へ出ようとする。
この人がただの知らない少年で、今ここで何も起きていなかったのなら、それでよかっただろう。だが、今はそうはいかなかった。
「あ、ちょっと待って」
そう言うと江雷は、大股で歩み寄ってつい腕をつかんでしまう。
「な、なんですか?」
困惑した様子で振り返る少年。
「あ、いや。今、ちょっと警察沙汰になるようなことが起こっていて、下手にうろつかないでここで待機してほしいんだ」
取り繕って説明してみるが、自分でも何を言っているのか江雷はわからなくなった。
腕をつかまれたままの少年は、渋々といった様子で少年は通路へ出る前に立ち止まる。
「江雷」
突っ込みを入れるべきかフォローしてあげるべきか、迷いながら吉本が前に出る。
「ここはきちんと話した方が納得するだろうよ。君、驚かないで聞いてくれ」
少年はきょとんと首を傾げる。
「さっき、爆竹のような音がしたんだが、聞こえていたか? あれ、本物の拳銃だったらしい。んで、撃たれた人がいたんだよ、ここに。この通路の先に、血を流して倒れている人がいる」
「……」
少年は表情一つ変えない。むしろ、嘘くさい、冗談が過ぎている、と感じていた。
だが、それよりも少年には気になることがあった。
視線の先を変える。
「……?」
再び江雷と目が合う。
この瞬間、江雷は悟った。
「やっぱり、君は……」
「江雷宏一さん……ですね? 初めまして。ボクが茶本です」
吉本と広瀬にはとっさに理解できなかったようだが、江雷ははっきりとわかっていた。つかんでいた手を離し、気持ちを整理して改まる。
「初めまして。江雷宏一です」
しばらくすると、辺りが騒がしくなってきた。ここからでは駐車場のある敷地の南側を見下ろせないが、サイレンの音がけたたましく鳴り響いている。
そして、一階に停まっていた左側のエレベーターが上昇を始め、こちらに向かってくる。
乗っていた人たちは想像通りだった。制服をまとった警察官だ。
険しい表情のまま江雷たちを一瞥しつつ、通路へ出る。
すると、これもまた想像通りの光景が展開されていく。
「これは大変だ!」
「もう息はないようだ。すぐに本部に連絡! それからこの一帯を封鎖しろ!」
にわかに慌ただしく、そして物々しくなっていった。
江雷たちのことはずっと無視しているわけもなく、警察はここで待機しているようにと指示してきた。
現場の警察官のやり取りに耳を傾けていると、警察本部の人間がまもなく到着するらしい。今、集まってきているのは地域の警察署の人たちということだ。
それから、救急隊員は下で待機させているらしい。肝心の救急車が来ないと思っていたが、どうやら助かる見込みはないとすでに断定したようだ。
「早いものだな、警察の動きというのは」
江雷がしみじみとつぶやくと、吉本がここぞといわんばかりに問いかけてきた。
「そういえば、さっき携帯電話で通報するように言ってたけど、あれなんか意味でもあるのか? ここに住んでる人なら固定電話もあるだろうに」
あの言葉には意味があった。江雷は改めて説明する。
「110番した時に、かかるところが微妙に違うんだよ。固定電話からだと最寄りの警察署に、携帯電話からだと警察本部にかかる仕組みになっているんだ。まあ、何かの情報で得ただけの知識だから、試したことはないし実際はどちらがいいとかわからないけどね」
「へえ、そうなのか。今度調べてみようっと」
地域の警察署だけで処置できる案件とは思えない。最初に聞いたように、警察本部が動くことが想定される事件だ。どのみち警察本部に伝達されるなら、もう最初からそこに通報できるならそうしてしまったほうがいいと江雷は考えたわけだ。結局は地域の警察官のほうが近いし到着も早かったのだから、一概に本当にそれでよかったか、江雷は自分の判断を少し後悔していた。
すでに何度目か、エレベーターが直通で十三階までやってくる。
今回乗っていた人物には見覚えがあった。
「おや?」
恰幅のいい立ち姿。周りとは若干異なる制服と袖のところの金色のライン。この色のラインは警部補以上である証だが、当人の階級は警部であると江雷にはすぐわかった。
「君は、江雷君じゃないか」
それもそのはず。
「警部さん。ご無沙汰しています」
岡田達人。愛知県警察本部捜査第一課。先般の事件でも居合わせた警部だ。
「まさか、こんなところでまた会うとは」
「それより早く現場を」
いきなり立場を奪うような発言で促されるが、警部は落ち着いた様子で通路へ出てみる。
「むう」
唸りながら歩み寄っていく。江雷たちの今いる位置からでは現場の様子は見えない。岡田の姿が見えなくなると、江雷たちは少しだけ緊張がゆるみ顔を見合わせた。
「江雷の知り合いの警察官か。怖そうな人じゃなくてよかった」
胸をなでおろす吉本。その気持ちはわからないでもなかった。怖そうな人だったら、証言したいこともできなくなるかもしれない。その点、岡田警部は威厳を保ちつつも人柄のよさそうな雰囲気で話しやすいタイプなのだ。
……まてよ。
岡田警部がいるということは?
続いて到着したエレベーターから足をもつれさせながら出てきたのは、予想に反しないそのままの人物だった。
「あっ、君は」
二度目はもう真新しさも面白さもない。
江雷は無言のまま通路のほうを指さす。
「また後で」といった体で片手を上げて答えた警察官は、岡田の後を追うように通路へ出ていった。
「あの人も知り合いか」
八十島刑事。岡田警部直属の部下で、階級は巡査部長だ。警察官にしては痩せ型に見えるが、身長が高く人柄の良さは上司に引けを取らない。
その後もしばらく警察官の行き交いが続き、十三階の通路は完全に封鎖された。在宅の住人には事情を説明し、指示があるまで出てきたりどこか出かけたりしないよう呼びかけた。
「お祓いだな」
「ん?」
急に吉本が謎の発言をする。
「立て続けに事件に巻き込まれるなんて変だ。宏一、お前は絶対にお祓いした方がいい。これが落ち着いたらすぐ行こうぜ」
「変なのは否定できないけど、急な話だな。それより先生に早く顔を見せて安心させた方がよさそうだ。約束の時間はもう過ぎてるから、きっと事件に巻き込まれてるんじゃないかと心配していると思うよ。ぼくらのことも、この子のことも」
そう言って江雷は茶本を見やる。
江雷たちは先ほどからの状況の変化に一喜一憂しているが、茶本はずっと無表情のまま佇んでいる。
「そういえば、君の名前をまだ聞いていないんだ。教えてくれる?」
当人は無表情のまま、すっと質問者に顔を向ける。
「茶本大、です。大きいと書いて、だいと読みます」
「そうか。大君だね。ありがとう」
「……」
表情が死んでいるといっても過言ではない。江雷はそう思った。
感情が読み取れないから、何を考えているかもわからない。だが、わからないがゆえに読み取れる部分がある。江雷はそれに思い当たる節があり、不安になった。
他にも話しかけて気分を紛らわせてやりたいが、何をどう話せばいいのか、非常に気まずい状態だ。そもそも、出会いの段階で当初の予定が崩れてしまっている。先に自分たちが先生の家にお邪魔し、その後で茶本がやってくる。そして先生の紹介によってお互いに顔を合わせる算段だったのだ。
一月ほど前に起きた学校での殺人事件。その事件の犯人である茶本晃の弟が、この少年なのだ。彼は今、何を思ってこの場に立っているのか。彼はなぜ、江雷と会って話をしてみたいと言ってきたのか。今の段階では、彼の心理を図ることなど不可能だった。
「おーい、君たち」
呼ばれる声がした。
通路から姿を見せたのは岡田警部だった。
「通報してくれた人から話を聞いたら、どうやら最初に発見したのは君たちだったそうじゃないか。本当かね?」
江雷たちは顔を見合わせた。というより、視線が江雷に集中していた。知り合いなんだしお前が代表になって喋れ、という無言の合図である。
「本当です。ぼくたちは用事があってここに来たんですけど、エレベーターを降りて通路へ出てみたら、人が血を流して倒れていました」
「気の毒に……。それで住人に助けを求めて通報してもらったというわけか」
「はい」
助けを求める前に住人から出てきたのが本来の形だが、そこは割愛しても問題ない部分だろう。それよりも、話しておきたいことがたくさんあった。
「用事というのは? まさか、また事件に遭遇するためにやってきたわけではあるまいし」
岡田の皮肉には、さすがに心が痛んだ。
「招かれざる客、であるわけですが」
自虐的な表現を前置きしてから、江雷は今日ここに来るまでに至る経緯を話した。といっても、本当のことはまだ話せない。先生の家で親睦会を行う予定だったと簡潔に答えた。
「その先生の家が、運悪くこの階の住人だということか」
岡田は同情の意を込めてため息をつく。
「さっと解決して、先生に会わせてください。この後に用事もできたし」
「別に会わせるのは構わんが……。えーと、君は?」
吉本が割り込んできたので、江雷は慌てて紹介する。
「ぼくの同級生の友人、吉本です。こちらは広瀬。それから……」
茶本を紹介しようとして、言葉に詰まった。
彼が茶本晃の弟だとわかれば、すべての疑問が氷解するだろう。江雷たちと茶本の弟が先生の家に集まる理由のすべてが。それをここで明かしてしまっていいのだろうか。それ以前に、すでに彼が茶本の弟だと知っているならば、何も隠す必要はないかもしれないのだが。
心の中で葛藤していると、当の茶本が一歩前に出た。
「ボクは茶本大といいます。中学生です」
「ふむ、よろしく。……え? 茶本だと?」
気づいてしまった。
岡田はやはり知らなかったのだ。
何かを言う前に、茶本が付け加えた。
「先輩と面識があるということは、先月の学校での事件を担当された刑事さんということですね? それなら、ボクの存在をご存知ですよね」
「そうか。君が……」
茶本の表情は変わらない。だが、一瞬だけ、まるで状況を楽しむかのような、薄ら笑いを浮かべたようにも見えた。
「そうです。先月、学校で事件を起こし、補導された茶本晃の弟です」
江雷には、事件以外にも面倒なことが起こり始めているような気がしてきた。
「……初めまして、だな。君のお兄さんとは送致されたあとも何度か会っていて、弟である君のこともよく話をしてくれたよ」
岡田警部の地雷を踏みそうな発言に、江雷はびくびくしていた。ただ、驚愕の事実がわかっても動揺しない辺りはさすがだと思った。
「岡田警部! 現場検証の準備は整っています」
通路から八十島刑事の声が飛んでくる。
「ああ、今行く」
岡田は「また後で」と言い残して、通路へ消えていく。
簡単な現場検証なら、発見時に江雷がすでにしてしまっていた。しかし、今ここで自慢げに話しても仕方がない。江雷は自分なりに、自分の得ている情報を整理してみた。
被害者はすでに死亡していた。頭を東側に向けて、仰向けに倒れていた。胸の辺りから大量に出血していることと、直前に聞こえた爆竹のような音が拳銃の発砲音だとすれば、おそらく銃で撃たれたのだろう。
そう、射殺だ。
そもそも日本では銃刀法という法律があり、拳銃は入手するにも所持するにも厳しい規制がかかっている。それなのに実際にこんなことが起こるなんて……。
まあ、そこから先は警察の仕事か。
とりあえず、被害者が倒れている向きと、東側の壁に弾痕と思われる跡があったことから、被害者が西向きに立っているところを前から銃撃されたと考えるのが普通だ。
ただ、問題は……。
犯人はどこへ雲隠れしたかということ。
銃声がしてから、自分が発見するまでの時間はものの二、三十秒。すぐに周りを確認したけど、誰かが立ち去っていく気配はなかった。
とすれば気になるのはエレベーターだ。二台あるうちのもう一台のエレベーターは、最初から十三階に停まっていて、自分たちが上ってきた後、一階に向かって下りていた。そこに犯人が乗っていた可能性が高いということか。
江雷は、ちらりと目線だけ変えて茶本の方を見た。
「なんですか?」
全然顔の向きを変えていないのに感づかれてしまった。なんという感度の良さだ。つまらぬことに感心しながらも、江雷は努めて平然を装って疑問を呈してみた。
「君がこのマンションに着いた時、エレベーターは一階に停まっていた?」
「停まっていました」
「その時、誰かとすれ違ったりしなかったかな?」
「いいえ。誰とも」
「そっか」
とはいうものの、エレベーターが一階に下りていったのを見てから、次に上ってくるまでに多少の空いた時間がある。茶本が着いた時にはもう、犯人が行方を晦ました後かもしれない。
「ところで、大君は何でここに来たの? オレたちはバスで来たんだよ」
「母親の車です。帰りも迎えに来てくれます」
「いいなあ、楽チンで」
急に世間話をするなよと突っ込みたくなるが、こういうところは吉本の特徴であり特技でもある。ムードを壊すわけでもなく、唐突に無関係な話に変えたわけでもない。むしろ江雷がした質問が世間話の一環であったかのように、カモフラージュする効果すらあるわけだ。
彼の性格からして無意識だろうが、もしも意識的だとしたらすごすぎるとしか言いようがない。
「結構早くに着いていたのに、親が心配症で、なかなかひとりにしてもらえませんでした。一階のホールまでついてこられて、ここから先はひとりでいいと言っているのに、ああだこうだ言われて聞き入ってもらうまで少し時間がかかりました」
「はは、それは有難迷惑ってやつかもしれないな」
物静かな子かと思っていたけど、意外と饒舌なのだろうか。そう思わせる話しぶりだ。
「過保護だと思っています。ですから、先輩方の後姿も見えてましたよ。追いかけようとしたらエレベーターに乗っていってしまった後で、逆に親に追いつかれてあれこれと」
「……!」
江雷は目を見開いた。
世間話のつもりだったが、彼は重要な情報を握っている。
「じゃあ、もしかして、君が一階に呼んだエレベーターには誰も乗っていなかった?」
「さあ? そこはわかりません。ただ、エントランスでは誰ともすれ違わなかったですね」
ひとりでに下りてきた無人のエレベーター。エレベーターの種類によっては、利用者がいない時、自動的に一階に戻して待機させる仕組みのものもあるようだが、ここはそうではないようだ。一階から呼んだわけではないのなら、誰かが意図的に一階を指示して下ろしたんだ。
とすれば、これはエレベーターを使って逃亡したと思わせるフェイク。やったのは犯人である可能性が高い。
これは早いところ警察に知らせなくては……。
黙って立つ四人の中で、不意に動きだす江雷。ただし、いち早く反応したのはホールと通路の中間に立つ警察官だった。
「あ、ダメだよ、そこでじっとしていないと」
立ちふさがれ、咎められてしまう。
隙間からのぞくと、岡田警部と八十島刑事、それから検視官と思われる人物が、被害者を囲んで話し合っていた。
ここは辛抱してチャンスを待つのが賢明か。
「宏一、どうしたんだ?」
吉本が尋ねる。
「いや、ちょっと気づいたことがあっただけ。なんでもないよ」
元の位置に戻りつつ、江雷は手を振ってその場をやり過ごす。
だが、胸の内は焦りが生じ始めていた。
犯人がどこに雲隠れしたのかわからないが、エレベーターがフェイクだとすればまだ近くに潜んでいる可能性が高くなる。本当に逃亡してしまったり、犯人自身が所持していると考えられる証拠などを隠蔽したりする前に炙りださないと……。
そのためには、どうにかして警部と話ができる空間を作るか、近くで行動がとれる工夫を凝らしてみるしかない。
警察官でもなんでもない一般人。しかも子ども。唯一ある繋がりは、第一発見者であるということ。でも、犯人を目撃していないのならそれまでになってしまう。
どうする……?
捜査に参加させてもらう方法に苦慮する江雷。吉本たちから見れば、何か思い悩んでいる様子であることが難しい顔を見れば一目瞭然だった。
「……先輩」
誰かが誰かを呼ぶ声がする。
「先輩ってば」
先輩と呼びかけることができるのはただひとり。でも誰を?
思考中のままの意識が現実に戻ってくる。ふと辺りを見まわすと、六つの目が江雷を向いていた。
呼びかける茶本と、呼ばれてるぞと意思表示する吉本と広瀬だ。江雷は一言謝ってから用件を聞き返した。
「どうして銃で撃たれたとわかったんですか? ボンという衝撃音は一階にいたボクにも聞こえましたが、爆竹のような音は聞こえてきませんでした」
初めに吉本に問いただされたことを茶本は思い出し、逆に問い返した。
「たぶん、一階のホールにいたからこもって聞こえなかったのかな。あそこは日も当たらないような密閉されたところだから」
「そうなんですね。てっきり嘘っぱちでボクを怖がらせたかったのかと」
「なわけないでしょ」
慌てて両手を振る江雷。
こういう言い回しが、まだ冗談なのか本気なのかつかめないのが厄介だ。
「では、もう一度聞きます」
茶本の顔つきが少しだけ変わった。挑戦的な笑みだ。
「なぜ、銃で撃たれたと思ったんですか?」
一瞬、江雷には質問の真意が読み取れなかった。
江雷は数秒前のことを思い出してみる。確かにまったく同じ質問だ。ニュアンスが多少違うだけ。
「……」
何を聞きだそうとしている? 江雷は深読みしようと試みた。
「だから、拳銃の音が聞こえたからだと言ったじゃないか」
吉本が割り込んで時間稼ぎをしてくれる。
やはり吉本は役に立つ友だ。故意か偶然かは定かじゃないが。
「実際に見たんですか? 拳銃で撃たれるところを。それとも、倒れていた人の近くに拳銃が落ちていたのでしょうか」
「……」
これには吉本も反応に窮して黙ってしまう。
だが、対照的に江雷は嬉しそうに笑みを浮かべた。
なるほど。そういう意味か……。
「確かに、ぼくたちは拳銃で撃たれるところも、拳銃そのものも見ていないよ」
江雷は両手を挙げて肩をすくめて見せる。
「君の言う通り、その時点ではただの推測に過ぎない、机上の空論というやつだ。でも、あったんだよ、その推測を裏付ける証拠が」
今度は江雷が茶本に向けて不敵な笑みを仕返しして見せる。
「……壁だ」
茶本は真剣な表情のまま、江雷の話を聞き入る。
「被害者が撃たれた一直線上のその先に、弾痕と思われる痕が見つかっているんだ。それが推測を確信に変える証拠ってわけだ」
「なるほど。それなら納得します」
楽しそうに話す江雷に対し、茶本はあくまで冷静に一言だけ添えた。
「いや、賢いね、君は」
最後に相手をたたえる江雷。敬うその言葉とは裏腹に、少しだけ警戒心が生まれた。
兄である茶本晃は、見た目も伴った頭のいい勤勉タイプだ。それに比べて弟の大は、メガネはしていないし、清潔感のあるおとなしい少年といった感じだ。
ただし、表現を少し変えればクールになる。
涼しくてさわやかなのか。
冷たくて鋭いのか。
彼がまとうクールの色合い。今はまだ判別できる段階ではない。
しかし、警戒を強めるに越したことはない。自分と会いたいと希望した真意も含めて。
彼は兄とは少し異なり、賢いタイプ、切れ者ということだ。
三
江雷は茶本が示したヒントを使って、警察と話す機会を作ることにした。
「すみません。犯人が残していったものがあっちに残っているので見てもらえませんか?」
江雷は、どう前置きを置いていいのかわからなかったので、唐突に本題をぶっこんでみた。
「犯行の形跡?」
先ほどの警察官は、訝しげな顔で江雷の指さす方向へ視線を向ける。
「壁の真ん中あたり……。穴が開いていますよね。その下には削れて落ちたような破片が下に落ちています」
「どれどれ?」
警察官は眉をひそめながら東の壁の方へ歩いていく。
すると。
「どうかしましたか?」
八十島刑事が気づいて駆け寄ってきた。
「いやね。この子があちらの壁に穴が開いていると……」
「……待ってください。僕が確認に行きます」
八十島は警察官の肩をつかんで止め、自ら壁の方へ進んでいく。
東の壁は、ホールから一軒だけ家があってその先にある。せいぜい三メートルくらいだろうか。そこから破片が落ちているなんて、パッと見ではよくわからない。
壁の前に辿りつく。
腰を少し屈めて見ると、確かに真新しい穴が開いていた。貫通はしていないようだ。それに、中に何かが挟まっている。
「岡田警部! これを見てください!」
振り返って、被害者の近くで検証している岡田警部を呼ぶ。
「どうかしたかね?」
岡田はその位置を動かずに部下に問うた。
「銃が発砲された痕跡、弾痕と思われる痕がここに残っています!」
「本当か!」
岡田は近くにいた鑑識を呼び、壁の形跡を調べるよう指示した。
「江雷君が教えてくれました」
「さすがだな。被害者付近の検証で手を焼いて、まだこっちまで手が回らなかったよ」
八十島と岡田が褒める。
ただこのくらいで照れることはなく、江雷はしめしめといった様子だ。
「あれが弾痕で間違いなさそうですか?」
「僕が今見た限りでは間違いないと思います。弾もめり込んだまま挟まっていましたし」
江雷の質問は、岡田に向けて回答された。
「ふむ。詳しく調べてみるとしよう。どんな拳銃が使われたかおおかた絞り込めるはずだ」
「じゃあ、やっぱりこれは拳銃による銃撃事件、ということですか」
「そうだ。子どもに見せるには残酷すぎるものだが……。君には理解があるようだから、もう少し詳しい状況を聞いてみるかね? こちらとしても参考になる情報がないか聞き出してみたいし」
これは不躾ながらも調子に乗らせてもらうしかない。
「聞きたいです」
その返答に岡田は大きくうなずく。
「では話をしよう。被害者は、何者かに射殺されたと思われる。死因は心臓損傷か失血死。ここの急所を一撃で打ち抜かれたようだ」
岡田は自分の胸の辺りをとんとんと叩いた。
「相手がただの練習用の的ならまだしも、人間を相手に狙ってできたものなら相当の腕前と思われる。その一撃の形跡が、あの壁の弾痕というわけだな」
ちなみに、拳銃で撃たれたからといって、余程の箇所でない限り、必ずしも即死に至るわけではない。心臓を撃ち抜かれたのなら明らかな致命傷ではあるが、被害者はその場でふらついた様子もなくそのまま背後に倒れた格好となっている。その理由は、拳銃で撃たれた、もう助からない、といった精神的ショックから来ているものと考えられる。
「それから、拳銃が近くに落ちていなかった。下に投げ落とした可能性もあるので、今はこの下付近の地上での捜索に力を入れてもらっている」
この集合団地の南側は駐車場だが、北側は駐輪場となっていた。数メートル置いて、さらに向こう側はフェンスを挟んで広大な工場の屋根が一面に広がっている。
もし拳銃をこの場から投げ落としたとしたら、すぐに見つかるだろう。
「それから被害者の情報だ。所持品の免許証などから、このマンションの二階に住む、堀田敦という名前の人らしい。年齢は三十八。玄関の鍵も所持していたので捜査官を向かわせてみたが、どうやら同居人が部屋にいるようだ」
その人物が家族なのか知り合いなのかまだ不明だが、のちに詳細を知るため改めて聞き込みに向かう予定だと岡田は補足する。
「所持品リスト、また可能ならあとで見せてください」
それより江雷は、被害者の持ち物に興味があった。二階の住人が十三階に上ってくるなんて、何か用事があったか呼び出されたに違いないと思うからだ。
「リストといっても免許証の入った財布しか持ってなかったぞ。そういえば前にも、八十島君から無理やりリストを見せてもらったんだったな」
「あ、いや、無理やりでは……。まあ、はい……」
先日の事件の話か。江雷は否定できず乾いた笑いを吐き出した。
「岡田警部」
ここで、ひとりの警察官が駆け寄ってきた。
「一階の駐輪場から、一点気になるものが見つかったと報告がありました」
「わかった。すぐに向かう。江雷君も来るか?」
「大丈夫ですか?」
「構わんよ。ただし、階段を使って行くがな」
そう言って岡田は階段を指さした。
どうやらエレベーターは鑑識が検証中で現在使用不可らしい。それでも江雷はついていくことにした。吉本、広瀬、茶本の三人は、もちろん待機していなければならないが、「オレたちの代表が宏一なんだから、最初からそうするつもりだった」と、一歩身を引いて見守っている姿勢でいることに決めたようだった。
この場の指揮をいったん八十島に預けて、岡田と江雷は一階の駐輪場へ下り立った。
「岡田警部。見つかったものはこちらです」
駐輪場へ着くと、現場要員のひとりが黒いシートのようなものを掲げて見せてきた。
「これは……レインコートか?」
ビニール製の黒いシート。よく見ればフード付きのレインコートだった。見かけは新しめだがあちこち皺の跡が残っている。
「これが、駐輪場の屋根の上に落ちていました」
「場所は?」
「そちらの屋根です」
警察官が示す屋根は、自転車の雨除けのために備えつけられた横に長い鉄製の屋根。その位置はというと……。
「ちょうど狙撃があった位置の真下だな」
岡田は真上、建物の頂上を見上げる。
偶然にしてはできすぎた話だ。それに、いとも簡単に遺留品と思わしき物が見つかることに拍子抜けしさえする。
「他に何か、気になるものは落ちていなかったか?」
「いいえ。あとは空き缶やら飲みかけのペットボトルやら、ゴミが落ちていただけでした」
「そうか。それで、これはこの状態で見つかったのか?」
岡田が改めてレインコートについて確認すると、警察官は「そうです」とうなずく。
「目立った汚れもなく、色あせもしていない。それに、濡れた様子もない。つまり……」
そこで言葉を区切ってしまったが、その先は言わずもがな。
そこに放置されて日が浅いどころか、先刻まで降っていた雨に濡れてもいないため、ついさっき捨てられたということだ。したがって、犯行に使用されたコートと考えてもおかしくはない。
「このように大胆に捨てるとは、いささか単純すぎる気もするが」
岡田が疑いを持つことに江雷も同じ気持ちだった。
犯人が犯行時にこのコートを着ていたということは、殺す相手もしくは周りの人間に、その姿を目撃されても中身の人物が誰かわからないようにするためのはず。
それなのにすぐに脱ぎ捨ててしまったのは、何か別の理由があったからなのだろうか。
江雷はいくつか仮説を立ててみた。
殺す相手に姿を見られないようにするため。
目撃されても正体がわからないようにするため。
では脱ぎ捨てていった理由は?
万が一、誰かと遭遇しても何も知らない一般人を装うため。
所持していると所有者が判明した際、足がつきやすくなって不都合があるため。
でもやはり、犯人にとってはその姿を誰にも見られたくないはず。逃亡している道中で川とかゴミ捨て場とか、そういうところに捨てるのがありがちな話だ。
では、あえてその場で捨ててしまった理由は?
それとも、その場で捨てるしかなかったとしたら……。
「!」ひらめきが走る。
そうか、もしそうだとしたら……。
犯人がわざわざコートを着た理由も、その場ですぐ捨てた理由も辻褄が合う。
「警部さん」
江雷の頭の中で、複数の仮説の糸が一本の線に結ばれる。
「犯人はコートを着たかったんです。そして持ち去ることはできずに捨てるしかなったんですよ」
「どういうことかね?」岡田は江雷のほうを向く。
「それは凶器に使われたのが拳銃だったからですよ。拳銃は発砲すると、銃口から火薬の煙が出て、そのカスが袖口などにつくと聞いたことがあります。その発射残渣が検出されるのをおそれてコートを着たんだと思います」
「硝煙反応のことだな」
相槌を打つ。
「それを防ぎたかった理由は、犯人がここから遠くに立ち去ることができない、あるいは立ち去っていないからと考えられます。それはその場で脱ぎ捨てるしかなかった理由と合致します。持ちっぱなしでは足がつく可能性が高いですからね」
「だからこそ、すぐ調べられても問題がないようコートを着た、という初めの理由にも繋がるわけか」
犯人が取った行動それぞれに理由がある。江雷はそれを証明したかった。
「やや強引な推理ではあるが、一応理には適っているな」
岡田も一定の評価を置く。
「警部さん。犯人がまだ近くに留まっているかもしれない可能性、実はもう一つあります」
江雷はここで、あの情報を組み合わせることにした。
「ぼくたちが被害者を発見した時、もともと十三階に停まっていた方のエレベーターが一階に向かって下りていたんです。でも、たまたまそのタイミングで一階にいた茶本君が、エレベーターホールでは誰ともすれ違わなかったと証言していました」
「ほう?」
「エレベーターで一階に下りて逃亡したと思わせるフェイクではないか、と」
江雷は結論を急ぐが、岡田はその彼の顔をじっと見て少し考えた。
できすぎた話ではないか、と……。
「茶本君が君たちと一緒ではなく、一階にいたというのは本当なのかね?」
少しだけ疑念を抱く。
都合のいいように解釈しているだけではないか。
「初めは茶本君と別行動だったんですよ。彼だけ、後から親の車で来ました。一階までは親の同伴があったようですから、親からも証言が取れるかもしれません」
「その茶本君の親はまだここに?」
「いえ……。また迎えに来ると言ってましたから、もうここから離れているのでは……」
「まあ、その辺の証言はおいおい突き合わせていくことにしよう。要するに君は、犯人がまだ近くに身を潜めているかもしれないと、そう言いたいのだな?」
「はい……」
江雷がうなずくと、岡田は身を翻して改めて建物を見上げた。
「この団地のいずこかに、犯人が潜んでいる可能性があるということか。それも、未だ拳銃を所持したままで」
岡田に倣って見上げる江雷。等間隔に並ぶ無数の扉が、すべて容疑のかかっている住宅であると、大げさに言ってしまえばそういうものだ。
だが、警察の包囲網にかかれば、容疑者は限りなく絞り込めるはず。隠し持っている拳銃だってすぐに……。
「?」
ふと、第三者の視線が注がれている感覚を覚え、思考が遮られる。
誰だ? まさか、身を隠している犯人か?
ぞくりと全身に鳥肌が立つ。
いったいどこから見ている?
江雷は頭と眼球を左右に動かしてその場所を探る。
「どうした?」
岡田が聞いてくるが、黙って場所の特定を続行する。
「何か見つけたのかね?」
改めて岡田に問いかけられ、諦めて頭を振るのをやめる。
「いえ、どこからか強い視線を感じて」
「ふむ?」
「すみません、気のせいだったみたいです」
悄然とする江雷。
それに対し、岡田は何もリアクションを示さなかった。自分には何も見えなかったので、むしろリアクションの取りようがない。
犯人が拳銃を所持したまま身を隠しているとしたら、焦りや恐怖心が生まれるのも仕方のない話だろう。ただ、それが影響して冷静な思考ができなかったり、幻覚が見えてしまったりするようであれば大きな問題だ。
彼はそれを遮断し、克服する力を持っているかどうか。いや、むしろ彼の安全を最優先しなければならない。
岡田は、江雷に対して不安と期待を同時に募らせていった。
四
岡田警部は、捜査官に発見されたコートについて、詳しく調べるよう指示した。特に指紋や硝煙反応については、判明次第報告を入れるよう念を入れておいた。
「一度、十三階に戻ろうか、江雷君」
「もしかして、階段で……」
「さすがにきついだろう。鑑識にお願いしてエレベーターを使わせてもらおう」
一瞬、げんなりしかけた江雷だったが、それを聞いてホッと胸をなでおろした。
ふたりが使用するエレベーターは左側。右側は、先ほど江雷の証言もあったように犯人が逃走に使った可能性がないわけではないので、重点的に調べるようになっていた。現在は事件現場でもある十三階で停まっており、そこで検証されているようだ。
確かに、茶本の誰も乗っていなかった、という証言も確実とは言えない。
母親と話をしていたのならなおさら不確かな情報だ。エントランスではなく、北側の階段へ向かった可能性だってある。
ふたりはエレベーターに乗りこみ、直通で十三階を目指す予定だったが、一階分上がっただけでエレベーターはすぐに停止してしまった。
ドアが開くと、目の前に薄暗い人影が立っていた。
「あ、すみません。乗ってもよろしいですか?」
警察官だった。
「構わんぞ」
許可を得た警察官はおずおずと乗りこむ。
おそらく二階で聞き込みをしていた警察官だろうと、江雷にはすぐ察しがついた。
「聞き込みは済んだか?」
「はい。言われた通り、二号室の住人は家の前で待機してもらっています。名前は神野さんというそうです」
二号室の住人。つまり、被害者と同居して居る人物ということ。
「あとでまとめて聞く。十三階を任せている八十島君と合わせて情報を共有化しよう」
現場付近の聞き込みを一任するとは、さぞかし頼れる部下なのだろう。
先日の事件でも岡田と八十島は共に行動していたし、年齢差は多少感じるもののお互いに信頼関係にあるようだ。
よい上下関係だと思うと同時に、江雷の脳裏にふとひとりの人物が浮かび上がる。
さて、その人物は……。
「お、帰ってきたぞ。じっとしていると寒いから、早く解決してほしいんだけどなぁ」
吉本は相変わらずである。
「まあ、もう少し辛抱してくれ。一通り聞き込みが終わったら、君たちは先生のところに預けよう。積もる話もあるだろうからゆっくりしているといい。その間に我々が事件を解決させれば万事オーケーじゃないか」
愉快そうに話す岡田。
吉本がそう言わせる雰囲気を作るのだ。
人が死んでいるのに呑気なことを、と思うところもあるが、ムードメーカーである吉本のこういう点は、江雷にとって感心せざるを得なかった。
しかし、今回は違った。
「残念ですが……」
茶本が自分を注目させる。
「その先生が犯人ではないとは、現場の状況からあながち言い切れませんよね」
場の空気を凍らせることを言う。
それは確かにそうなのだ。だが江雷たちはそこまで考えたくなかった。
「言いすぎました。ごめんなさい」
一転して素直に撤回する茶本。
岡田に咎めようとする気はさらさらなかったが、ここは何も言わず流すとしよう。茶本にもいろいろあった身なので、むしろ何事に対しても疑心暗鬼になるのも仕方ない。そこは心配するほどだった。
「とりあえず、八十島君から進捗を聞いてくる。少しここで待っていてくれ」
二階を担当した部下とともに、岡田は通路へ出ていった。
「……で、こっちの進捗はどうなのかな?」
ムードメーカーは、声のトーンを変えて江雷を見る。
「話したところで興味を持ってくれるのかな?」
江雷は吉本の質問に質問で返した。
「もっちろんだ。オレたちの親睦会の邪魔をした犯人を許せるわけがないだろう」
それは犯人から見れば不可抗力かもしれないが、犯人を許せないのは一緒だ。それがみんなの意見であるなら、江雷は話すことにした。
「一階の駐輪場の屋根から、犯人が犯行時に着ていて、なおかつ逃走時に投げ捨てたと思われるレインコートが見つかったよ。所有者は今のところ不明だし、明らかにするには時間を要しそうだ。ちなみに拳銃は見つかっていないから、この付近に潜む犯人がまだ所持している可能性が高い」
「そいつは怖いな」
「ていうか、上から様子を見ていなかったのか? 下にいたらなんだかいろいろと視線を感じたんだけど」
「見てねえよ。このホールから通路に出ようとするだけで警察に注意されるんだもん」
それは大変窮屈な思いに違いない。それに、曇り空ということもあってここは薄暗く、気分も晴れないだろう。一応、天井の蛍光灯は点いているが、少しばかり心もとない。
早く先生の家に行って落ち着きたいというのが一同の思いだろう。
「じゃあ、こっちの捜査に進展はあった?」
この際だからついでに聞いておこうと考えた江雷。
だが、吉本も広瀬も黙って肩をすくめるだけだった。
「吉本が、茶本に対して無駄話ばかり吹っかけてただけだな」
「悪かったな」と、むくれる吉本。
それを聞いた江雷は、少し頬がゆるむ思いがした。
「ありがとな、広瀬。吉本も」
「あん?」
吉本は白を切っているようだが、江雷にはわかっていた。茶本にとってふたりは年上の高校生だし、周りは厳つい警察官ばかり。委縮して蚊帳の外になりがちな状況だ。その負担を鑑みた吉本が、話し相手になって場に溶け込ませたのだろう。
もっとも、茶本のこれまでの表面的な言動を見れば杞憂であるかもしれないが……。
「おーい、みんな」
あれこれと話をしていると岡田が戻ってきた。
「つい今しがた、この階の聞き込みが終わったところだ。大半が留守だったようでな、思ったよりも早く済んだよ」
「居留守じゃないの?」
間髪入れず指摘したのは吉本だ。
「その可能性は無きにしも非ず。ただ今日いっぱいは近辺を監視させてもらうし、また日を改めて訪問するから、そういう家の人ともそのうち会えるだろう」
ずいぶんと大目に見たやり方だが、やはり犯人の目星がつかない以上、任意でしか聞き取れないのだ。
「先生は聞き込みの時はなんて答えたのかな」
広瀬がつぶやく。
「読書をしてくつろいでいたそうだよ。あと、君たちのことを心配していた」
聞き込みを担当した八十島が答えた。
さらに八十島は内容を伝えてくる。
「通報してくれた二号室の人は後藤さんといって、事件当時はひとりでテレビを見ていたらしい。奥さんや子どももいるそうだけど、今日は遊びに出かけていて、ひとりで留守中だったそうだ」
携帯を片手に、ごろ寝しながらテレビを鑑賞する。そんな光景が江雷の頭には浮かんできた。あの時、携帯を持ったまま玄関から出てきた様子を見ればそう想像できるのだ。
「三号室、四号室は留守。一号室は老夫婦が住んでいて、事件のことにまったく気づいていなかったらしい。聞いても、何も知らんと一点張り。せめて人の気配がしたとか、音を聞いたとか聞き出せたらいいのですが」
「そこに固執していても仕方がない。十三階は以上だな?」
「あ、はい」
「よし、じゃあ次だ。二階へ行って、二号室の前で待たせている神野さんという人から聞き込みをしてこい。被害者である堀田さんの同居人だ。事件当時、どこで何をしていたか、堀田さんと最後に会ったのはいつか、細大漏らさず聞いてくるように」
「了解しました」
八十島は敬礼のポーズを取る。
「江雷君。君もついていくんだ」
「えっ、いいんですか?」
当たり前のように見送るつもりでいた江雷は、嬉しさよりも戸惑いのほうが大きかった。
「君は第一発見者だ。いろいろ話を聞いて回るうちに、何か思い出すことがあるかもしれんからな」
「そういうことでしたら……」
「うむ。その間に、君の友達を先生の家に送っておこう。送るといってもすぐそこだが……。吉本君、広瀬君、茶本君。君たちは捜査が落ち着くまで先生の家で待機してもらう。いいかね?」
「わかりました」
異議はない。むしろ江雷としても、吉本たち自身としてもそれが一番助かる。
「じゃあな、宏一。あとはがんばれよ」
「おう。……あ、ちょっと待って」
岡田についてこの場を去ろうとする吉本を、江雷は呼びとめる。
「なんだ?」
「気を悪くしたら悪いんだが、先生が犯人である可能性はゼロじゃない。何かあったらすぐ警察に相談するんだぞ」
「……わかったよ。何かわかったら、すぐお前に報告するよ」
人の心を読むのを、こやつは早すぎる。
それは自分の性格を一番に理解しているからだろうが、江雷が本当は言いたかったことを、吉本は言葉の裏に隠れているそれを透視して答えたのだった。
「さてと、じゃあ僕らも行こうか」
東側の階段へ向かった吉本たちを見送ってから、空気を読んで黙っていた八十島が江雷に声をかける。
東側の階段へ向かったのは迂回するためだ。この階の通路が通れないため、東側の階段で一度十二階に下り、西側に移動して、西側の階段から再び十三階に上るわけだ。そうすれば、五号室はすぐ目の前になる。
一方の江雷と八十島は、そのままエレベーターを使わせてもらう。もちろん右側は未だに使用不可なので、先ほどと同じように左側エレベーターを利用する。
「聞き込みを部下に任せ、子どもの誘導を上司がする。普通、逆じゃないですか」
率直に、江雷は思ったことを口にする。
「それは、僕が岡田警部から信頼されているからだと思うかい?」
クイズにされる。
特段おかしいとは思わない。その通りのような気がした。
「君は、さっき言っていたじゃないか。先生が犯人の可能性はゼロじゃないと。もしもの話だけど、子どもを人質に取られたらいけないだろう? 先生をきちんと見定めてから預ける。そちらの責任のほうが重大だよ」
「……」
いろいろな思いが交錯する。
別行動で本当によかったのだろうか。
でも、先生を疑うなんてことをしたくない。
「ああ、ごめん。先生を疑うつもりじゃないんだ。もし怒っているようなら、僕の顔を一回はたいてもいいよ」
物騒なことを言う。
「大丈夫です。怒っていません」
それよりも、自分で先に答えを出していた。にもかかわらず、このありさまだ。
江雷にとっては、自身の未熟さのほうに苦笑いするしかなかった。
エレベーターが二階に到着する。
ホールから通路に出ると、左右どちらからも人影が視界に入った。確か、二号室の住人を玄関先で待たせているはずだが……?
左右をよく見ると、通路先にいるのは制服を着た警察官だった。左右の通路の先にひとりずつ、警備のためか警官を配置している。
そして二号室の前には、一般の人がひとり立っていた。
さっそくその人から聴取を……と思いきや、八十島はまず通路東側に立っていた警備の人を手招きで呼び寄せた。
「どうしましたか、八十島さん」
「ちょっと頼みたいことがあるんだけど……」背後を気にしつつ、声を潜める。
「少し人手がほしいんだ。手を空けられる者を、二号室に二、三人集めてくれないか。緊急ではないけど、なるべく早めに」
「りょ、了解しました」
警備の人は敬礼をして、辺りの警官に声をかけ始める。
「よし、じゃあ僕らは……」
今度こそ、二号室の前で待っている人物に歩み寄る。
被害者と同居する人物。いったいどんな人なのか。事件とどう関わっているのか。
まだ何もわからないが、ここで何かしら進展が期待できると江雷は踏んでいた。
五
「すみません、神野さんですか?」
「あ、はい」
男の人は緊張した面持ちで振り返る。
男の人、だった。江雷はまずそこに驚いた。マンションに男ふたりが同居? しかも、苗字が異なる。親戚か何かだろうか。
「この度はお察しします。辛いところ恐縮なのですが、いくつか話を聞かせてください」
神野は黙ってうなずく。眉が八の字になっている。不安げな様子だ。
「まず、神野さんと堀田さんは、この家の住人ということで間違いないですか?」
やはり、まずはそこが気になる。
江雷はこの謎がどう解明するのか期待しながら神野の顔を仰ぎ見る。
すると、その先にある表札が目に入った。
「烏丸組」
手書きでそう書かれている。
変わった苗字だな……。
いや、違う。
烏丸、組だ。
と、いうことはひょっとして。
「私と堀田は、建設会社に勤める者です。この住居は、作業場から直接行き来するために事務所として一時的に借りている部屋です」
謎はあっさりと氷解した。
なんの面白みもない。いや、面白いからいいというわけでもないが。
男の名は神野光太郎。年齢は三十六。会社から支給されたものか、作業服のような格好をしている。背は高くないものの、警察官と並んでも引けを取らないほどのがたいのいい体格だ。
「ここで立ち話も何ですから、部屋の中に案内してもらってもいいですか? 調べたいこともありますし」
「……いいですよ」
八十島の要求に、やや躊躇してから玄関のドアを開ける。
ひらり、と何かが落ちる。
「何か落ちましたよ」
八十島が拾うが、神野はたいして関心を示さない。
よく見ると郵便のようだ。赤字のスタンプで速達と書かれている。新聞受けに入っていたものがドアを開けた弾みで落ちたらしい。
「郵便が届いていたみたいですが……」
「ああ、そういえば昼くらいに郵便屋さんが来た気がする。電話してて出られなかったけど。冷蔵庫のところに貼り付けておいてください」
速達の郵便は原則手渡しであるが、不在時はポスト投函となる。呼び鈴を鳴らしても出てこなかったのでドアポストに配られたのだろう。
八十島は言われた通り、部屋の隅に設置された冷蔵庫に余った磁石を使って貼り付ける。よく見ると、スケジュールなどの用紙が磁石を使ってたくさん貼り付けられていた。
改めて室内を見渡す。余計なものは一切ないようだ。家電製品は冷蔵庫、テレビ、洗濯機のいわゆる三種の神器と、ノートパソコンのみ。
書類の束と思われるファイルは、本棚の中に整然と並べられていた。
集合住宅の中の一室といえども、やはり中身は事務所か。そう感想を持った八十島と江雷だったが、ふとその本棚の上に明らかに場違いと思わせるようなものが置かれていることに気づいた。
「おや、これプラモデルですか?」
八十島はその置かれているものに興味を惹かれる。
「そうです。私たち三人の趣味なんですよ。多少、好みのジャンルは違うけど、こういうものをコレクションするのにはまっているんです」
いろいろなジャンルのプラモデルやミニチュアがある。人が猟銃を構えるもの、人型のロボットもの。模型は一世代前の高級車や、潜水艦、戦艦、戦車といったものだ。
江雷もつい興味津々で眺めていく。一つずつ目で追っていくが、あるものを見た瞬間、体が凍り付いてしまう。
「……」
その様子に気づいた神野が、「それは違うよ」と諭してきた。
「それは本物の銃じゃないよ。モデルガンだから」
銀色に輝くそれ。玩具だと聞いてホッと胸をなでおろす。
横にはカートリッジまである。いわゆる弾薬だ。
「見事なものですね。本物そっくりです」
「さすが刑事さん、よくわかってらっしゃる。モデルガンといっても、割と精巧につくられているんですよ。なんといっても金属製で重量まで本物そっくり」
「ということは、発火式ではないんですね」
「そうです。音も火花も出ません。あくまでも観賞用なんです」
「……」
会話の途中で、急に真顔になる八十島。一瞬の沈黙の後、再び恍惚とした様子で陳列されたミニチュアの評価を始めた。
「あ、こっちは戦艦ですね。空母や駆逐艦、潜水艦まである。いい趣味してますねぇ」
「艦隊の見分けがつくとは、あなたもいい目をしていますよ」
趣味の話になったとたん、饒舌になりだした神野。逆に江雷にはついていけない話だった。
いきなりこんな世間話をしていていいのだろうか。それとも、先ほど頼んだ頭数をそろえるための時間稼ぎか。
その場で棒立ちになる江雷。ただ、その何もしない少年がいることに、神野が不審を抱きだす。
「ところで、君はなんなんです?」
「……」
ここはあえて、不用意に言葉を発しないようにして、八十島からのフォローを待つ。
「この子は事件の第一発見者です。捜査の参考についてきてもらっています」
八十島が簡潔に説明するが、神野は得心がいかない様子だ。
「……つまり、私を疑っているということですか」
「いえ。決してそういうわけでは……」言葉を濁す。
「……わかりました。といっても、私はずっとこの部屋にいましたので何も知りませんよ」
肩をすくめる神野。
「それを証明できる人はいますか?」
「堀田、かな。昼過ぎまで一緒にいましたからね」
これはアリバイ確認である。
犯人の捜索をする時、関係者や一番身近な人物にまず的を絞るのが定石だ。
神野のこの証言は、あいにくアリバイの成立とはならない。事件のある直前に、被害者と行動していた、被害者の足跡をたどる手がかりでしかないのだ。
「ずっと堀田さんとふたりでいたんですか?」
「はい。ふたりで仕事をしていましたよ。堀田は書類の整理を、私はパソコンで報告書を仕上げていました」
「では、堀田さんが何の用事でここを出ていったかわかりますか?」
「……堀田はその後に殺されたんだったな。ああ、仕事の応援を頼まれたんですよ。雨も上がって仕事が捗るようになったから手伝ってくれって」
「神野さんは一緒に行かなかったんですか?」
「堀田をご指名だったからね。それに、例の件で相談したいって書いてあったから、私も手伝おうかと聞いたら堀田は、ダメだ、自分ひとりで行く、ってね。私も報告書を仕上げる仕事があったし、仕方なくひとり残って作業の続きをしていましたよ」
「例の件? それに、指名してきたのは誰なんでしょうか」
「例の件のことは知らないですよ。会計監査役からうちらのチームに疑いがあるって噂は聞いたことがあるけど。ていうか、あれ? まだあの人に会っていないんですか?」
話を聞いているうちに、気になることがどんどん増えてくる。江雷は聞きながら頭の中で情報を整理することに必死だった。
「あの人、とは堀田さんを呼んだ人のことですか? 誰なんでしょうか」
「あれ、まだ言ってませんでしたっけ。この事務所で生活しているのは三人。私と堀田、あと飯田の三人だよ」
「あれ、そうだったんですか」
八十島が驚く。
江雷はさして驚かない。
なぜなら、最初に神野は三人の趣味と言っていた。この部屋の住人は堀田と神野の他にあとひとりいることは読めていた。
ただ、その人物はどこで何をしていたのだろう。呼び出したのが本当なら、十三階付近にいたはずだが?
「その飯田という人が今どこにいるか、わかりますか?」
「わかるも何も、とっくに警察と話をしていると思っていたよ。あ、まさか、犯人にされるのが怖くなって隠れているのかな?」
はぐらかされてなかなか答えが聞けない。
苛立つのを抑えながら、八十島は繰り返し質問する。
「えっと、飯田さんはどちらにいらっしゃるんでしょう?」
「屋上だと思いますよ」
「屋上? なんでまた?」
「なんで、って、仕事だからですよ。あ、そうか。まだそこまで辿りついてないんですね。私たちの会社は、このマンションの管理会社と取引関係にあって、保守や管理を任されているんですよ。だからこの部屋を買ったわけでもなく借りるといった特殊な条件が成立しているわけです」
「なるほど。賃貸契約と保守管理が交換条件になっているんですね」
なんだか論点がずらされつつあるが、とにかく飯田という同じ会社の人物が屋上にいるということ、この部屋は会社が事務所として借りているということがわかった。
だが、江雷にはもう一つ確かめておきたいことがあった。
タイミングを先ほどから見計らっているが、なかなかその機は訪れてこない。
「神野さん、もう少し捜査に協力してもらってもいいですか?」
「な、なんですか?」
八十島が近寄ろうとすると、神野は思わずあとずさる。
「大丈夫ですよ。ちょっと所持品の検査を行うだけですから」
八十島は、まずポケットなどに入っているものを出すよう指示する。すべて出したら、その場で両腕を横に開いて立つよう指示した。
「ちょっと失礼しますよ」
すると八十島は神野にくっつくほど近づいて、袖口や背中、腰回りなどを両手で触りだした。もちろん直接触れるわけではなく、手には白い軍手をしている。
身体検査だ。
衣服の中などに凶器などを隠し持っていないか確認しているわけだ。
足元まで確認が終わると、八十島は姿勢を直してもらって構わないと伝える。
続いて、出してもらった所持品を確認する。
タバコ、ライター、携帯電話、財布といったところだ。
「カバンはお持ちですか?」
神野は部屋の片隅に置いてあったナップザックを手に取り、無言のまま八十島に手渡す。
「面白いものなど入っていませんよ。上着とタオルと軍手が入っているだけです」
ふてくされたように中身を説明する神野。だが、その表情が一変したのは八十島の次の発言によってだった。
「上着と、タオルだけのようですね」
「ええ? 軍手は?」
「入ってませんが……」
「おかしいな。忘れてきちゃったのかな」
首をひねる神野。八十島が何度漁ってもカバンの中はタオルとブルゾンが一着入っているだけだった。
八十島は漁るのをやめて、室内の奥に置かれているもうひとつのカバンに目を向ける。
「ちなみに、そちらのカバンはどなたのですか?」
「それは飯田のものです。けど、勝手に漁ったら怒られますよ」
「それもそうですね」
八十島は神野の忠告に苦笑いしつつ、その手を引っ込める。
「堀田さんのカバンはないんですか?」
「あの人は身軽なのが好きでいつも持ち歩いてないです。あっても、会社に置いてきてからこちらに出向してくるんです」
「なるほど」うなずく。
そこまで聞けば、三人がここで生活しているわけではないことは明白だった。あくまでも事務所としての利用のようだ。
「よし、あとは……」
室内を見渡しながらそうつぶやいた矢先。
コンコン。
玄関のドアがノックされる。
その直後にドアが開かれた。
「八十島さん! 遅くなりました。人手を用意しました」
先ほどの警備の人に続いて、警察官が二名玄関まで入ってくる。
「ナイスタイミングだ。ひとりは見張りに戻って、あとのふたりはちょっとこっちを手伝って」
「わかりました」
使命を終えた警備の人は、再び身張りへと戻る。
新たにやってきた警官ふたりは、そのまま靴を脱いで「失礼します」と部屋に入ってきた。
若干、強引な展開に神野は憮然としている。
「いったい数をそろえて何をしようというんです?」
たまらず早口になって問いかける。
「申し訳ないのですが、もう少し捜査に協力してください。手荷物などをいったん我々に預けさせてください。あ、今着ている上着もお願いします」
「ええ?」
ますます失望したように表情を曇らせる神野。
「押収、ってやつですか、これ」
「まあまあ。確認が終わりましたらすぐ返しますから」
軽く受け流す八十島。人手としてやってきた二名の警官に、所持品とナップザックを回収させ、しかるべき場所で預かっておくよう指示した。
神野は渋々上着も脱ぎ、ナップザックに入れていた着替えを変わりに羽織った。
「あ、それからもう一つ」
八十島は室内を移動する。
「こちらも参考として預からせてもらいますよ」
少しだけ声のトーンを落として、その物体を手に取る。
そう、モデルガンだ。
「ちなみに、これは誰のコレクションですか?」
三人の趣味といえども、それぞれ所有者がいるはずである。八十島はそれを確認したかった。
「わ、私です」
「こういうのに興味があるんですね?」
「あ、ありますよ。だけどあくまでも精巧につくられたそれを眺めるのが好きであって他の人とは違って決して射撃なんてしたことなんて一度も……」
息を吐ききってしまった神野は呼吸を荒くし、明らかな焦燥の色を見せる。八十島が発するオーラにも押されているようだ。
普段は温厚な八十島も、警察としての威厳を発揮するとこうなってしまうのかと、江雷は少し怯えてしまいそうになった。
「まあ、私もガンマニアですから、調べつつもう少しゆっくり見たいなと思ったり……。冗談ですけどね」
「はあ?」
強引に軽い話に持って行こうとしたが、さすがに無理があったようだった。
「じゃあ、一度引き上げよう。江雷君も、行くよ」
「あ。ちょっと待ってください」
唐突に引き上げようとするところを、江雷が呼びとめる。
どうしても確かめておきたいことが、まだ確認できていない。
「一つだけ、神野さんに質問させてください」
「質問? 今更なんだい?」
八十島は少しだけいつもの声のトーンに戻して聞き返す。
「神野さん。さっき、堀田さんが呼び出される時に、書いてあった、とおっしゃいましたよね。電話で言われたとかじゃなくて、書いてあったとは、どういうことですか?」
「ああ……」
神野が質問の意味を察してポケットに手を突っ込むが、
「あ……」
と、思い出したかのように動きが固まる。ポケットは空っぽだ。上着も変えたし、携帯は現在、警察の手の内にある。
「け、携帯だよ。携帯でトークしている時にそう言われたんだ」
「?」
江雷も八十島も、意味がわからず頭に疑問符を浮かべた。
書いてあったという話なのに、トークで言われたとはどういうことだろう。
……携帯で、トーク……。
ひょっとして。
「LINEのことですか」
「そうそう。それだよ」
「江雷君。ラインって、あれかい。音声ではなく、文字を打ち込んでリアルタイムで会話ができるやつ?」
「そういうやつです」
「会社の人みんな、登録して使えるようにしてあるんです。ちょうどその頃、会社から報告書を早く仕上げて提出するように、って通達が来て。まだ猶予があったはずなのに急に今日提出してくれと。そこへ飯田がトークに割り込んできて、屋上の仕事手伝いに来て、って」
「なるほど」
そこで例の話を臭わせて堀田だけを呼び出したわけか。
そうなると、例の話とは何なのか、気になるところだ。
「なんなら、その携帯の通話履歴を確認してみるといいです」
善は急げ。八十島は預けた携帯を再び取り戻し、ラインの画面を開いてみることにした。
「あ、待ってください。私が操作をします。壊したら弁償ですから」
「それは当たり前……」と言いかけたところで、神野はさらに言葉をかぶせてくる。
「私が弁償する羽目になるんですから」
「……?」
理解に苦しむ発言に漠然としているうちに、神野は八十島から携帯を奪い取る。
「あなたの携帯じゃないんですか?」
「これ、会社から支給された携帯です。みんなひとり一台持っています」
「そうなんですか。ラインの画面は開きましたか?」
「今から開きます。……あ、あれ?」
まじまじと携帯の画面を見つめる神野。
「り、履歴が残ってない……」
焦りのせいか、顔が紅潮してくる。
八十島は隣に並んでのぞき込んでみた。
「本当だ。履歴がなしになってますね」
「おかしいな。履歴は一定期間消さずに残すルールのはずなのに」
「誰が消したかわかりませんか?」
「さあ……。でも、トークを立ちあげた人しか消せない機能にしてあったはずなので、たぶん私たちじゃなくて会社が消してしまったのかも」
いずれにしても、これでは証言に対する証明ができない。神野の証言の信憑性が不確かなものとなってしまう。
神野自身がすでにそれに気づいており、顔を赤らめたまま視線を彷徨わせている。
「あ、そうだ!」
神野は急に大きな声を出して、ノートパソコンを操作し始める。
「堀田が出ていって少ししてから、このパソコンから会社にメールを送信したんですよ。報告書が完成したので……。送信履歴が残っているから、堀田が出ていってからも私がずっとここにいたっていう証明になりませんか?」
パソコンに体を向けたまま、嬉々とした顔だけを八十島らに向ける神野。
「しかし、送信時間を指定しておく機能がついたメールソフトもあるでしょうし。参考にはなるかもしれませんが。ラインのやり取りの件も含めて、その辺も会社の状況と突き合わせて確認していきますから」
「とにかくパソコンだけでも押収してもらって……」
「いや、今は持って行きませんよ」
がっくりと肩を落とす神野に、八十島は話を続ける。
「とりあえず神野さんは、この部屋で待機していてください。捜査が落ち着くまで外出は禁止です。何か用がある時は近くの警官に声をかけてください。それから、メールの送信履歴についてはまたあとで確認に来ます。下手に手を加えたり削除したりすれば、逆に怪しまれることになりますからそのままにしておいてくださいね」
最後は毒のこもった言い回しだが、くぎを刺しておくには申し分ない。神野は、嘘はついていません、と言いたげな表情だ。
八十島が江雷に先行って、と背中を押してくるので、江雷は慌てて靴を履いて玄関から外へ出た。
「いいんですか、ひとりにさせて」
玄関のドアが閉まったのを見てから、ナップザックを押収した警官が気にかけてくる。
「構わないよ。疑わしいところはあるけど、にらみを利かせる段階じゃない。それに犯人だった場合、ひとりにして油断させた方がボロを出すかもしれないしね。キッチンに調理器具はなかったし、手荷物は回収したから大丈夫だよ」
「はあ……」
そこまで言われたら警官も納得せざるを得ない。
調理器具がないということは、つまりナイフや包丁がないということだ。これで最低限、下手な気を起こす心配もないと八十島は考えていた。
「じゃあ押収した物品の管理は頼んだよ。上着については鑑識に回して発射残渣の確認を。僕らはまた上に戻るから、結果報告は僕か岡田警部まで」
「了解しました」
「あ、それから、さっきの話。ラインの件。彼らの会社に問い合わせてみてくれ。神野に通知を出したのが本当かどうか、履歴を削除したのも確かなのか、裏を取るように」
「はい、わかりました」
手伝いに来たふたりの警官は敬礼し、駆け足で階段を下りていった。
「さてと。江雷君はどう感じたのかな?」
「え? 何がです?」
不意に問いかけられて戸惑う江雷。
「神野さんだよ。率直に聞くと、犯人に見えるかどうかってところ」
江雷は思わず苦笑する。
「そ、それはどうでしょうか。八十島刑事も言ってたように、まだ疑う段階ではないので何とも言えません」
「それもそうか。ごめんよ。ははは」
笑ってごまかす。もしかしたら彼ならすでに見抜いていることがあるかも、と期待したがさすがに早とちりしすぎたようだった。
いずれにしても、話を聞くべき人物がもうひとりいることが発覚している。今度はそちらへ出向かなくては。
「ところで、八十島刑事はどうして……」
質問しようとしたところで、江雷の動きが急に止まる。
「どうした?」
「いえ。また、何か視線が……」
先ほど自転車置き場まで下りた時と一緒だ。どこからともなく視線を感じる。
人が動く気配を感じて、江雷は一号室の方面へ視線を移した。
「あっ。ダメですよ、今は外出禁止です」
見張りの警官がいる。
一号室のドアが少し開いている。
そこに警官よりもだいぶ背丈の低い人影がある。
その人影は、顔だけをのぞかせてこちらの方をじっと見つめているのだった。
六
目と目が合う。
先ほどから感じる視線の正体。
玄関から出ようとしたところで、見張りの警官に見つかり、立ちふさがれて何やら揉めている。
江雷は助け舟を出すため、一号室の方へ歩を進める。
「やっぱり、江雷君だ」
先に声をかけてきたのは相手のほうだった。
「知り合いなのかい?」
江雷のあとを追ってきた八十島が不思議がる。
「ええ。同級生です。同じ学校に通う、川野さんです」
「はじめまして」
仰々しく挨拶する川野。デニムパンツにブラウス姿の彼女は、昼に学校を出る際にすれ違った。その時は帰宅前で制服姿だったが今は私服だ。江雷も学校を後にしたあと、直通でこのマンションに来たはずだが、いつの間にか追い越されていたらしい。トレードマークとされる真紅のヘアバンドは普段着でもつけているようだ。
それにしても、たまたま中学の同級生が同じ高校に上がっていたと知った矢先のこと、偶然立ち寄ったマンションでまたまた会い、そしてここに川野の住む家があったとは。
世間は狭いものだと、江雷に笑みがこぼれてくるのだった。
「江雷君、大丈夫? なんかすごいことになってるけど」
警察はまだ住人に詳細を伝えていないかもしれない。とすれば、どう答えるべきか。江雷は三秒ほど悩んだ。
「……ちょっと事件に巻き込まれてね。まあ、ケガとかしてないから大丈夫だよ」
「そっか。大変だね……。でも江雷君ならちゃちゃっと解決するよね。気をつけて」
「うん、ありがとう」
川野は目を細めて微笑んだかと思うと、潔く玄関のドアを閉めて家の中に引っ込む。
戸惑いつつ様子を見ていた見張りの警官は、ため息みたいな息を吐き出した。その吐息を耳に受けた江雷はたまらず恐縮する。
「すみません」
「いやいや。悪気はないのはわかった。ただ、出歩かれたら困るから」
「変な時間を費やしてしまって、すみません。さあ、上に戻りましょうか」
「あ、ああ」状況に流されつつあった八十島は返事をすると、引き返してエレベーターホールに入る。
右側のエレベーターは依然として停止中のため、呼び出せるのは左側のエレベーターだけだ。自分たちが下りてきたあと、誰かが使ったようで別の階に移動していたので、しばし到着を待つ。
日は傾きだし、空――といっても雲に覆われているが、徐々に深い色へ変わろうとしていた。
「江雷君って、有名人なんだねえ」
「いえいえ」
謙遜するが、先日の事件の噂が少なからず広まっているのは確かなようだ。
「でも、ぼくの噂は流していませんよね?」
「もちろん。事件は生徒同士のトラブルだったわけで、第三者が謎を解き明かしたなんて警察は一言も公に話していない」
それに、わざわざ付加する情報でもない。だからこそ、岡田警部も感謝状は個人的に手渡すとあの時は言っていた。
江雷自身としてもその方が助かる。変な噂が広まって注目の的になったり妬みの対象になったりしたら嫌だ。これまで通り平穏な生活がしたい。
だから、あの事件の後に馬場と土井に一つのお願いをしていた。
自分が深く関わったことは極力秘密にしてほしい、と。
しかしながら、どこからか情報は漏れるものだ。
現に、さっきの川野は活躍を知っているような口ぶりだった。
どこからか情報を入手して、あのようなことを言ったのだろう。
あまり噂が広まりすぎないうちに、彼女にはクギを刺しておかないといけない。
それにしても……。
どこから情報が漏れたのだろうか。
まさか、吉本か?
よく考えたら、やつはすでに広瀬にバラしているじゃないか。
一番初めに気づくべきことに気づき、いろんな意味で無性に腹が立ってきた。
ひどいじゃないか。親友かと思っていたのに、いきなり裏切っていたとは……。あとできつく言っておこう。
「そういえば」
物思いにふける江雷を、八十島が現実に引き戻す。
「さっき、何か聞こうとしていなかった?」
「あ、そうだった」
思い出した。二号室を後にしてから聞こうと思っていたことがあったのだ。
「八十島刑事は、どうして……」
エレベーターが着いたので乗りこむ。
「どうして、モデルガンを回収したんですか? モデルガンはあくまでモデルガン、弾の出る銃ではないと思いますけど」
まさか、本当にモデルガンに興味があったわけではあるまい。あれは後付けされた理由のはずだ。
冗談でうやむやにしてくるか、真意を教えてくれるか、江雷は期待のまなざしを向ける。
「タイプが似ているんだよ、実際に使われたと想定される拳銃とね」
八十島はいつになく真剣な顔つきで語りだす。
「君が見つけてくれた弾痕、あのあと鑑識に調べてもらったんだけど、弾が貫通しないで残っていたんだ。残っていた弾丸のタイプから、おおよそ使われた拳銃のタイプが絞り込めたっていうわけさ」
「それが回収した拳銃と似ていると」
「そうだよ。だから一応、調べさせてもらう。本当に弾が出ないタイプなのか」
すると八十島はふところからそれを取りだす。どうやらふたりの警官には預けないで持っていたようだ。
「精巧につくられているから、パッと見じゃよくわからない。引き金を引いてみるわけにもいかないしね。だから、鑑識に一度見てもらうことにするよ」
「やっぱり、そういうことでしたか……」
密閉された空間だ、八十島はつぶやきを聞き逃さなかった。
「やっぱりって、え……?」
まさか、今の話をさせるために聞いてきたのだろうか。使われた拳銃の種類のことを。予想を確信に変えるための誘導尋問だったというのか。
相手は子ども。さすがにそこまでは考えすぎか?
八十島は深く考えないようにして、エレベーターを下りる。十三階に到着した。
「ずいぶん時間をかけてきたな、八十島君」
強面の岡田が迎える。
「は、すみません。調べたいことがたくさん出てきまして。まず、これを見てください」
八十島は先ほど話していたモデルガンを見せる。
「凶器か……? いや、偽物か」
「はい。モデルガンだそうです。被害者や神野さんのいる部屋に飾ってありました。本当に弾が出ないものか、念のため鑑識に見てもらおうと思い回収してきました。ちなみに、あの部屋は事務所として使っているだけで、そこで生活はしていないようです」
「そうか。……鑑識さん、ちょっとこちらへ!」
岡田は通路で作業中の鑑識を呼びよせる。
「見たところモデルガンのようですが、一応見てもらっていいですか」
「いいですよ、貸してください」
白髪交じりで熟練といった風体の鑑識が、モデルガンを受け取って眺め見る。
「ああ、これは完全に玩具ですね。それっぽく作ってありますが、弾の装填すらできるものじゃありません」
鑑定は早かった。まるで興味がないように、岡田の手元にモデルガンを返す。
「ありがとう。そちらのほうで、何か進捗はありませんか?」
「これといって特には……。エレベーター内も入念に調べていますが、無数の指紋を個別に管理するのは難しいですし、特に血痕が残っているわけでもないので」
「“あれ”もまだ見つかっていませんか」
「ないですね。この辺にも、地上にも落ちてないようです。ないっていうのは、おかしな話なんですけどね」
「そうですか。引き続き周辺の確認をお願いします。もしかしたら、雨樋の中に落ちている可能性もあります」
「わかりました」
“あれ”とはなんだろうか。
警察の間では意思が通じ合っているようだ。
拳銃とはまた違ったニュアンスのように聞こえた。
現場に残されているべき物が、まだあるというのだろうか。
江雷には今一つピンと来ず、もやもやしていた。
「それで、警部。実は、被害者と同じ会社に勤める者がもうひとりいるらしく……」
「わかっている。飯田という人物だろう。さっき、屋上へ通じる階段の扉の鍵が開いていたから確認に行ったら、男の人がひとりいたんだよ。名乗ってもらったら、被害者と知り合い、というか同僚か……ということがわかった。八十島君が戻ってから、詳しく話を聞きに行くつもりだった」
「そうでしたか。それはお待たせして申し訳ありません」
恐縮する八十島。
戻ってきたら強面だったのは、待ちくたびれたせいだったのかもしれない。
「行くぞ、八十島君。君の聞いてきた神野の情報は後回しだ。半端な先入観を持ったまま聞き込みをするわけにもいかんからな」
要するに、神野の情報を頭に入れてしまうと、神野が怪しいか怪しくないかが、無意識に判定を下してしまうと岡田は考えていた。もちろん待たせたまま放置したくないというのも要点であるが。
屋上へ上れる階段は西側にのみの設計だった。鉄柵の扉を開け、岡田と八十島、江雷の三人が屋上へ上った。
屋上に着くと強い風が吹きつけてきた。春一番はとうに過ぎているが、この時期は強い風が吹きやすい。今までは建物に遮られてあまり感じられなかったが、ここでは遮るものがなくまともに吹きつける。今日は南西もしくは西よりの風だった。
「あの人だ。名前は飯田康司だ」
制服を風でなびかせながら進んでいく。だだっ広い屋上に、ぽつんと男の人がひとり立っていた。正確には警察官が監視のため傍にいたが、警部たちがやってくるとお役御免という形で下がっていく。
「やっと来ましたか、待ちくたびれましたよ」
開口一番にぼやく飯田という男性。作業服のような格好で、高身長の八十島に匹敵するくらいの背の高さだ。左手には工具箱と思われる荷物を持ち、右腕には上着と思われるジャケットをかけていた。
「飯田さん、この度は大変察するに余りありますが、少しお話を聞かせてください」
飯田康司。年齢は四十。被害者の堀田、二号室にいた神野と同じ会社に所属する同僚だ。
初めに簡単に状況を説明してもらったところ、飯田は事件当時、屋上で作業を行っていたという。事件にはまったく気づかず、先ほど警察がやってきてようやく事態を知ったということらしい。
「まさか堀田が事件に遭っていたとは。呼んでいたのになかなか来ないなと思っていましたが」
「堀田さんをこちらへ呼んでいたのですか」
ここの岡田の疑問は、八十島が埋める。神野が会社からラインでの通知を受信し、その際に飯田が堀田に手伝いに来いと応援要請を出していたのだ。
「呼んだのは本当ですが……」
何かを思慮するかのように飯田はあごに手を当てる。
「会社からのラインなんて来ていたでしょうか。私は個人的に堀田に通知しましたが。三人でグループ登録してあるところに出しましたから、神野にも通知を受信していたでしょうけどね」
「なんと……」
それでは情報がかみ合わない。
「どういうことだね、八十島君?」
「さ、さあ。僕にはまだ何も」
「神野の携帯を確認してやればいいんじゃないですか? 本当に会社から来ていたのなら履歴が残っていると思います」
「確認してないのかね、八十島君?」
詰め寄るように問い質してくる岡田。
「いえ、もちろん確認しました。しかし、実は……」
履歴が残っていない、削除されたようだと八十島は説明する。現在は会社へ問い合わせをしてもらっていると付け加えて。
「私から送ったやつもすぐ消しちゃいましたよ。私から送ったやつを、ただ単に会社からの通知だと勘違いしただけなんじゃないですかね。神野は報告書の仕上げで忙しいみたいだから、錯覚するのも無理はない」
ただ、それだと報告書の提出を催促されたという証言がかみ合わなくなる。
「とすると、別々のトークだったんじゃないですかね。会社からは会社からで。また別のトークで飯田さんから通知された、と。それがごっちゃになっているのではないでしょうか」
八十島の推論は理に適っている。岡田も江雷も、それで納得できる気がした。
あとは、会社がラインで通知を送ったかどうかだけだ。
「では、話を戻しまして……」
岡田は咳払いをして切り替えを図る。
「飯田さんは、今日いつからここで作業をしていましたか?」
「昼過ぎからいました」
「ちなみに、どのような作業を?」
すると、飯田は足元をちょいちょいと指さす。
「この屋上に張られている防水層、それの診断をしていました」
防水層。このマンションのような集合住宅の屋上に、雨漏り防止のために施される設備のこと。ここは表面にコンクリートが張ってある保護工法となっていた。
話によると、経年劣化によってひび割れや風化が顕著になってきているため、その具合を確かめていたのだそうだ。近く補修作業をしたいので、細かな状態を会社に報告して、会社に作業許可の申請をするところなのだった。
「作業はもうしばらく中断して、一度下の階に下りてもらえますか? 捜査の協力をお願いします」
飯田は「作業どころではないよ」とぼやきつつ了解する。
江雷は、もう一度屋上を見渡してみた。
巨大な貯水タンクが二つ。それから東側にはドアのついた小さな建物がある。あれはエレベーターの頭の部分だろうと考えられた。
岡田、八十島に続いて階段を下り始める。
ふと、背中に意識が飛ぶ。
また視線を感じたのだ。今度は後ろから。
何かと思って振り返ると、後ろからついてくる飯田と目が合った。
「……」
ぞくりとした。
長身の飯田が、上から見下ろすような視線を投げかけてくるのだ。
先ほどからの高飛車な感じが否めない口調とこの目つき。おどおどした神野とは対照的で、飯田はこういうタイプなのかもしれない。
四人が十三階に下りきると、岡田がさっそく質問を投げかけた。
「改めて、単刀直入にうかがいます。あなたは銃声のような音を聞きましたか?」
「聞こえましたね」飯田は断言する。
「ただそれが銃声とは思っていませんでした。風も強いので何かが倒れたり落ちたりした音かと思っていましたよ」
風で音も飛ばされるとはいえ、十三階と屋上は目と鼻の先。さすがに聞こえていたようだ。何事かと様子を見に行っていれば、犯人と遭遇していたかもしれない。気にしなかったのは、ある意味幸運というべきことか。
「では飯田さん。持ち物検査をします。手荷物とポケットなどに入っているものを下に置いて、両腕を横にまっすぐ伸ばしてください」
「持ち物検査?」
飯田は明らかに怪訝そうに顔をしかめる。神野と似たような反応だ。
「なに、たいしたことじゃありません。ちょっと身体検査を行うだけですよ」
「やれやれ」
渋々といった様子で飯田は手に持っていた工具箱と上着を足元に置き、ポケットを探る。
すると……。
からからからん。
「あっぶね」
携帯電話が無防備な状態で通路を転がる。
その手にはリングと札のついた何かの鍵が握られていた。どうやら鍵を持って引き抜いた際に携帯も押し打されて飛び出してしまったようだ。
「ここから落としたら間違いなくお陀仏だった」
ずいぶんと肝を冷やしたようで、飯田は大きく安堵の息を吐き出した。画面を開いて壊れていないことを確認する。
「よし、問題ない」
「飯田さん、この携帯も会社からの支給品ですか?」
「そうですよ。よくわかりましたね。あ、神野から聞いたのか」
岡田にとっては初耳の情報だが、すでに所持品の検査を始めていた。屋上ほどではないが、ここでも時々強い風が吹くので物が飛ばされないよう気をつけなければならなかった。
と、考えていた矢先。
突風が吹いた。
「おっと」
間一髪で飛ばされかけた上着をつかむ。
「勘弁してくださいよ。ここから落としたらどこまで飛ばされてしまうか……」
飯田のぼやきはもっともだ。携帯と違って、軽い衣類を落としたら風に乗ってどこまでも飛んでいってしまうだろう。
……あれ?
江雷の頭の中で何かが引っかかる。
しかし、再び吹いた強い風でよろめいてしまい、集中力が途切れて何を思案しようとしたか、頭の中から飛んでいってしまった。
「じゃあ飯田さん、さっき言ったように両腕を横にまっすぐ伸ばしてください。立ったままで結構です」
飯田は言われた通り大の字になる。
「そういえば、個人の携帯はお持ちでないのですか?」
「持っていない。今日は家に忘れてきてしまったよ」
神野が身体検査を受けた時と同じで、岡田は衣服の中などに物を隠し持っていないか念入りにチェックしていく。
「くすぐったいですね」
「それは失礼しました」
平たんなやり取りをしつつ進めていった。
「ありがとうございます。では、最後に工具箱の中身を見せてください」
身体検査が終わっても続く検査、飯田はややうんざりしていた。
「こっちも見るのかい」
頭を二、三度掻きながらも、飯田は観念した様子で足元の工具箱の左右の留め具を外し、蓋を開けた。
「どうですか?」
岡田は片膝をつき、八十島や江雷は中腰になって眺める。
中身はごちゃごちゃといろいろなものが入っていた。ドライバーやペンチ、軍手、巻き尺、養生テープ、鉄棒、ハンマーなどが入っている。
「ん? これは何ですか?」
岡田が四角い物体を手に取る。
「デジカメですよ」
「なんでそんなものが工具箱に?」
「もちろん撮影のためですよ。破損や劣化の状態を撮影して報告書と一緒に送る。仕事に欠かせない大事なものです」
「なるほど。じゃあ、上着やこちらの工具箱はいったん預からせてください」
「な、なぜですか?」
飯田は急に焦ったように目を白黒させる。
反応としては当然かもしれない。神野も同じだった。自分が潔白だと信じているなら、疑わしいと思われるのは不愉快な気分になるものだろう。
「それは少し暴挙というものです。なんの根拠もなしに全部取り上げられるのは我慢なりませんね。中身のデジカメや軍手を調べます、くらいならわかりますが」
警察としてもそこまで強く出られない段階であるのは確かだ。岡田は潔く一歩引くことにした。
「では、携帯と上着と軍手を拝借しますよ」
「それなら」と、指定されたものを差し出すと、飯田はさっさと工具箱の蓋を閉じようとする。
「その前に……」
蓋を閉じ切る前に、江雷が工具箱に手を差し出す。
「まだ中身を全部見ていないじゃないですか」
「え?」
中身を手で漁れということなのだろうか。そこまでする必要はないと思っていた岡田だったが、実はそうではなかった。
「この工具箱、二段になっていますよね?」
「ああ、そういうことか」やっと意味に気づく。
工具箱ではよくある作りだ。今見えているものは上からはめ込んであるだけで、把手を持って持ち上げるとその下が空洞になっていて、二段階にものが入れられるのだ。
「よく気づいたな、少年よ」
隠そうとする気はなかったようだが、気づかれないものをあえて見せようとする気はなかったようだ。
飯田は江雷を褒めつつ、中段の把手をつかんで持ち上げて横へずらず。
じゃらじゃらと釘が横に雪崩れる。結局は、下の段にも同じようにごちゃごちゃと釘などの細かい工具が入っているだけだった。
「これで満足かな?」
「オーケーです」
気になる物はなかった。飯田が蓋を閉めると、岡田は立ち上がり、江雷は中腰から上体を起こす。
「飯田さんは……」
言いさして言葉に詰まる江雷。すると、飯田は「何か?」と促してきた。
「飯田さんは、今日はずっと屋上で作業を?」
「そうだよ。屋上でいろいろと点検をしていた」
「そうですか」
「……同じことを何度聞くつもりだ? 何かおかしなことでも?」
「いえ、なんでもないです。すみません」
飯田の気に障るようなことを聞いてしまったかもしれない。江雷は失言を撤回して取り繕う。
それでも飯田の腹の虫は収まる気配がなかった。
「そもそも君は誰だね? どう見ても警察じゃないような気がするんだが」
江雷が答えあぐねていると、八十島が事情を代弁する。
「この子は事件の第一発見者なんですよ」
「それだけじゃないな」
飯田は間髪入れず指摘する。
「君の立ち位置がどう見ても警察側だ。聴取を受ける側には見えない。それとも何か。君は警察官の知り合いで特別扱いしてもらっているというのか」
目が血走り語気が強まる。
八十島は返答しかねた。
下手に肯定すれば、殺人現場に子どもを引き入れて捜査を搔き乱している、警察もそれを容認するあるまじき行為だと申告されかねない。
かといって先日の事件で知り合った仲だと秘密を明かすわけにもいかない。江雷が事件を解決に導いたことは、事を大袈裟にしないためにもマスコミには伏せているのだ。
前回の神野は深く追及してこなかったが、今回の飯田は生半可な答えでは納得してくれそうにない。
どう答えるべきか困り果てていると……。
「彼は我々の監視下に置くべき人物なのだよ」
押収した品を鑑識へ送り届けるため一瞬この場を離れていた岡田が、鋭い眼差しで歩み寄りながらフォローする。
「彼は第一発見者であると同時に、逃亡する犯人の手がかりを持っている可能性がある。安全が確保されるまで、我々がこの子をかくまう必要があるのだ。共に行動させている理由は、そういうことです」
飯田を納得させるための岡田の詭弁、というわけではなく、ある意味本当のことでもある。吉本たちのことまであげたらきりがないが、この際はこれで納得してもらうしかないだろう。
「……わかったよ」
「納得していただけましたかな?」
「ええ。ただ、特別扱いしているのは、火を見るよりも明らかだと私は思っていますがね」
飯田は唇をゆがめて毒言を吐く。
否定しようもないが、これ以上競い合っても時間の浪費。
岡田は内心でため息をついてから、頭を切り替えた。
「では、これより屋上への捜索を展開する。八十島君、人手を調整して屋上を調べてくれ。周辺の聞き込みにあたっている捜査官たちの手がそろそろ空くころだ。情報を取りまとめ次第、人員を屋上へ回して進めていくように。いいな?」
「わかりました」
「飯田さんは、お手数ですが我々と一緒に来てください」
「どちらへ?」
「あなた方の事務所へ」
手短に伝えると、岡田は先頭を切って歩き出す。
「ちょっと待ってください」
飯田が呼びとめる。振り返ると飯田は怪しげな笑みを浮かべていた。
「屋上を調べるなら、エレベーターの天井も調べた方がいいですよ。ほら、よくあるでしょ。エレベーターの天井に物を隠し、総重量が変わって発覚するアレです」
天井に遺体を隠すが、総重量が変わってしまい、余裕があるはずの乗員でブザーが鳴る。そのヒントによって遺体の隠し場所が発覚する、ミステリーでは時々見られるパターンだ。「それから、エレベーターは手動に切り替えていますか? 手動にしておけば、無理やりドアを開延長しておく必要もないし、ドアを手で自由に開け閉めすることが可能。捜査が捗るはずですけどね」
「その切り替え可能な装置はどちらに?」
「あ、言い忘れていました。屋上の機械室です。この真上ですよ」
飯田の指が示す先は、エレベーターの十四階部分。つまり、江雷が先ほど見た、エレベーターの頭の部分の建物のことである。
「八十島君、ついでに頼む」
「了解しました」
屋上の捜索は八十島に任せる。岡田は江雷と飯田を引き連れて左側のエレベーターに乗りこんだ。
再び別行動だ。ただし、江雷の随伴先は八十島から岡田へ変わっていた。
(灰色の迷宮 前編 終)
最終更新日25/05/31
・前書き
登場人物
江雷宏一、吉本勝志、川野梨沙、広瀬和昭、茶本弟
岡田達人、八十島
飯田康司、神野光太郎