1.学校内の殺人
あらすじ
卒業式が終わり、閑散とする学校。そこで悲劇は起こった。卒業生が何者かに刺し殺されてしまう。疑われるのは被害者と同じ部活仲間だった三人。たまたま現場に入り込んだ同級生の江雷宏一は、現場の状況を見て仕組まれた殺人事件だと見抜く。猜疑の目をくぐり抜け、彼は本格ミステリー人挑む。
一
風に揺れる桜の木。美しく咲き誇る季節の風物詩。四月になって年度も替わり、新鮮な気分にしてくれる。入社式、入学式、入園式、新しい環境へ進む人も多い。それらの人々が記念撮影の背景に桜の木を選ぶのだ。
県内にある市立第一高校。この学校の傍にある公園でも、いくつかのソメイヨシノが鮮やかな白き色合いを道行く人々を楽しませていた。学校説明会、入学式が終わり、興奮冷めやらぬ様子で生徒たちは公園に立ち寄っていく。新しい面子、新しいクラスメイト、これからの学校生活に思いを馳せ、みな笑顔で写真を取り合ったり談笑したりしている。その和気藹々とした同級生を尻目に、ひとりの男子生徒が教科書や資料でいっぱいになったショルダーバッグを肩に食い込ませながら通り過ぎようとしていた。
「おーい。宏一!」
背後から声がかけられる。その声には聞き覚えがあった。中学校の三年間で一番に聞いた声かもしれない。それだけ仲良く、親しんだ声の主ということだった。
肩にポンと手を置かれたので振り向く。
頬に指が突き刺さった。
「痛いなぁ。なんだよ」
指が刺さって唇を尖らせたまま抗議する。
「なんだよ、じゃないんだよ。せっかく楽しい新学期なのに、なんで辛気臭い顔をしてるんだい? しかも、ひとりでさっさと帰ろうとするなんて」
呼びとめたのはさわやかなショートカットの男子生徒だった。
「別に他意はないよ。まだ周りは知らない顔ばっかりだし、余韻に浸らず自分は早く帰って明日に備えようかなぁと」
ずっと肩に手を置かれたままなので、腕をつかんで無理やり下ろさせる。その顔には不満が現れていた。腕を下されたことよりも、今を楽しんでいないことに。
「つまらない人生だなぁ。みんなが同じスタート地点に立っている今が仲良くなるチャンスじゃないか。女子とも仲良くなっておく絶好のチャンスだぞ」
「本音は最後の言葉ということでいいのか……」
「それはよしとして、オレはさっそく隣の席の奴と話したぞ。仲良くなれそうだった」
それを聞いて、自分はどうだったかと席に着いたときの情景を思いだす。
「その場は仲良くなれても、続かないこともあるものじゃないかな。仲良しグループって自然とできていくものだから。そういうのって、案外席がバラバラだったりすることもあるだろうし。まあ、一年間共に過ごすなら勝志の考えも正しいと思う」
「く、クールな判定をどうもありがとう……。というか、一緒になったクラスの中に、同じ中学だった人がひとりもいなかったんだよ。これはいったいどういうことなのか」
吉本勝志はしかつめらしく腕を組んだ。
「あー、それはぼくも一緒だよ。同じ中学だった人、いなかった」
「やっぱり。バラバラにされたのは誰かの陰謀かな?」
「そんなわけないでしょう」
吹きだして唾が飛びそうになるところを手の甲で押さえる。大げさな表現とリアクションはこの人の特徴であり長所でもある。いわゆるムードメーカーなのだ。
「ちょうど氷河期だったからね。公立の中でもここはダントツで倍率が高くて、一般が倍率四倍くらいあったから。残念ながら、クラスメイトだった人も何人か落ちていた」
「それはやばかったな。オレは推薦で通ったからよかったけど。あれ? 宏一は一般入試だったっけ?」
「そうだよ。普通に学力の試験と面接の関門を突破してきた」
「ほえー。でも、宏一なら推薦を受けられたんじゃないか? なんで推薦を受けなかった?」
「ちょっといろいろあって受けられなかったんだよ」
それはタイミングがよくなかった。この市立第一高校はそれなりに名の通った学校だが、実はもっと上の学校を初めは目指していたのだ。
国立である。その入試のタイミングがちょうど公立の推薦入試の時期と被り、受けられなかった。
「てことは、わざわざ国立を蹴ってきたのか?」
まさかの判定に、慌てて手を振る。
「そんなわけない。落ちちゃったんだよ。だからこっちに来た」
「やばかったんだな」
「やばかったんだよ。逆に闘争心が燃えて、絶対に一般入試で受かってやるって気持ちだった。まあ、そういうぼくみたいな高い倍率を乗り越えてきた人たちだから、今回の新入生は優秀でできる子の集まりだなって、担任になった先生が言ってたね」
「な、なるほど。じゃあ楽な道をやってきた推薦組は、足を引っ張らないようにしないといけないわけか」
「そうそう。赤点っていうやつ、クラスの平均点から算出されるみたいじゃん? 推薦だった生徒がさっそく、みんな平均点上げないでくれよーって嘆いていたよ」
「あっはっは。なるほどな。オレも気をつけようっと」
「私も気をつけようっと」
「おう。…………は?」
勢いで返事したのはいいが、喋りかけてきたのは誰だと振り返る。
「やっほー。江雷君、吉本君」
「げ。川野さんか」
「なんで残念そうなの! 歓迎してよ」
ぷんすかと頬を膨らませる。ふわりとしたショートボブが似合う女子生徒。彼女もふたりの男子と同じ中学だった。笑ったときに細められた瞳はきらきらと輝いているように見え、常に元気で前向きな明朗快活な性格だ。
「よかった。全然知ってる子がいなくて、合格したのは私だけかと思っちゃった」
「みんな、考えてることは一緒なんだな」
「江雷君、また一緒の学校に通えて嬉しいな」
「オレは無視かよ」吉本が小声でぼやく。
「同じクラスじゃないのは残念だけど、同じ学校ってだけで十分かな。願っていたことが叶ってよかった」
願っていたこと? 江雷は頭の中からある記憶を取りだした。
「そういえば、また同じクラスになりたいなって言ってたね」
「そうそう! 中二のとき。よく覚えてたね」
中学二年の三学期、江雷と同じクラスだった川野梨沙は、ある自主学習の授業中に唐突に言い放ったことがあった。
「クラス替え、また江雷君と一緒だったらいいなー」
静まり返った教室で高らかに宣言するから、江雷にとって恥ずかしさの極みだった。そんなに仲良くしてきたつもりはなかったから意外だったのだ。せいぜい、牛乳当番だった彼女に、自分がランチボックスを取りに行く際に、ついでに牛乳瓶も持ってきてくれないかとせがまれて、普通に承知して持ってきてあげたことくらいだ。あるクラスメイトは図々しい奴だなと皮肉っていたが、江雷としては二百ミリリットル入った牛乳瓶二十五本入ったケースを持ち運ぶのは大変だろうと、嫌な顔もせず普通の手伝いをしただけだった。気にいられたとしたらそのくらいしか記憶にないが。ただ希望は叶わず、別々のクラスになって疎遠になり、交流もほとんどなくなっていた。二年前のことを思い出し、お互いに嬉しいやら恥ずかしいやら、そんな気分だった。
ちなみにランチボックスとは給食のシステムで、あらかじめ一か月分のメニューが用意されており、そこからその日食べたいメニューを選んで券売機で食券を買っておく。当日、業者が必要分の弁当を学校に届けに来てくれるので、食券と引き換えに弁当を受け取るという仕組みだ。
「この学校も、事前に注文してお金払って弁当を受け取るタイプみたいだね」
思い出から弁当のことが連想される。まだ昼前だがお腹が空いてきた気がした。
「なんだ、宏一はもう明日のお昼が心配か」
「あ。そういえば明日からお昼ご飯いるんだよね。どうしよう。私はお弁当持ってこようかな」
「いいんじゃないかな。まだどんなメニューがあるかわからないし」
「うん。クラスの子の様子を見て、合わせていく」
ここで、一緒に食べよ、とか言いだしたらどんだけ好きやねん、と吉本はツッコミを入れようと思ったが、さすがにそこまではなかったので安心していた。
「オレはそれより、なんの部活に入ろうか悩んでる」
「あー、ぼくもだよ。さっきもらった学校案内に部活動の一覧が載っていたけど、どうしようか決まってないな」
「でも、宏一は運動部だろう? 中学のときは体操部にいたし」
「まあ、ほどよく体を動かすのは好きだからね。ただ、どうしようか迷っている」
「器械体操っていう部活なかったっけ? それでいいんじゃないか?」
「いや。実は、運動部に入るかどうかの段階で迷っているんだ」
「ええー? まさかの帰宅部?」
「そ、それはない、つもりだけどね」
「うーん。私はテニスかな。でも軟式と硬式に分かれているんだよね。どっちにしよう」
「どっちでもいいんじゃね?」
「適当に返事しないで! 私の悩みも聞いてよ!」
「ごめん、ごめん。わざとだから」
「そっか、わざとならしかたない。……よくないから!」
ふたりのやり取りに微笑みながら、江雷は思う。底抜けに明るいふたりの性格は、本当に場を和ませてくれるし、一緒にいて楽しい。よき友達を持ったものだ。この友達はずっと大切にするべきだろう。
特に川野は向上心も持ち合わせている。中二のときには一学期から三学期まで、ずっと室長をやっていた。人の前に立ち、人を引っ張る才能があるのだ。おそらく高校になっても執行部など何かしら学年のため、学校のために活動、そして活躍してくれるだろう。
吉本は……よくわからないが江雷にとって唯一無二の親友だ。馬が合う。
新しい高校生活。期待と不安が入り混じって混乱していたが、頼れるふたりがいれば何も迷うことはない。その場その場で立ち止まることはあれども、目先に置いてある目標が変わることはない。自分には夢がある。
「もたもたしてると次の電車に乗れないよ。早く行こう」
「待って。三人で写メ取っていこ。あの桜の木をバックに!」
「自撮りじゃ絶対、桜はちょこっとしか映らないと思うんだが」
「それでもいいの!」
江雷宏一。高校一年生。このとき十六歳。同級生の吉本勝志、川野梨沙と高校生活を歩み始める。吹き抜けるさわやかな風が、桜の木と一緒に髪をなびかせた。
キーンコーンカーンコーン。
午後三時。放課後を知らせるチャイムが鳴り響いた。クラス担任からの連絡事項が告げられ、帰りのあいさつを済ませると、生徒は一斉に教室から出ていく。
「また明日」
「おう、じゃーな」
教室に残るクラスメイトに軽く手を振る江雷。廊下に出て数歩進んだあと、立ち止まってふところから携帯電話を取り出した。
「……」
さっと内容を確認すると、顔をあげて窓越しに外の景色を眺めた。
半透明になった自分の姿が宙に浮かんでいた。その顔は思いのほか愁いを帯びていることに気づく。
二階。雨模様。入学式のあった昨日は快晴だったが、次の日は一転して雨となってしまった。変わりやすい天気は春らしいといえば春らしいが、これで風も拭いたりすると桜の花びらはすぐに散ってしまう。そう思うだけで切ない気分になってくる。
「あの、君が江雷君ですか?」
不意に声をかけられ、驚いて振り向く。
そこにはベリーショートのさわやかそうな男子生徒が立っていた。
「噂はかねがね……。俺は広瀬というんだ。広瀬和昭。以後お見知りおきを」
堅苦しい言葉遣いをする広瀬に対して、江雷はいろいろな意味で平静を装ってさりげなく携帯をふところへしまい込んだ。
「噂って、どんな噂なのかな?」
窓に映っていた浮かない顔をしていた表情を改め、質問を返す。わからないことがたくさんあり、初対面の相手にいきなり心を開く気にはなれなかった。
「君がミステリアスで有名人だってことだよ」
「えっ?」
にやつく広瀬に、江雷は動揺を隠せなかった。
からかってくるだけなら早いところ立ち去らないと……。むっとした江雷が踵を返そうとしたところで、広瀬が慌てて撤回した。
「悪い、悪い。表現がよくなかったね。君が謎解きを好む探偵さんだってことだよ」
「……」
あまり内容が変わっていないようだが、江雷は追及することはしなかった。呆れたような仕草を見せて、次の言葉を促す。
「ごめん。からかう形になっちゃって。本当は別の用件で話しかけたんだ」
そういうと広瀬は、カバンをごそごそと漁ると、なにやら一枚の紙切れを取り出した。
「実は、君は運動が得意だと聞いてね。俺はサッカー部に入るつもりなんだけど、一緒にサッカーやらないか?」
差し出された紙切れを、江雷は受け取らずに目で流して見る。新入生へ向けた部活への勧誘のチラシのようだ。
「ぼくは……」
と、江雷が返答しようとしたそのとき。
「待って、梨沙ちゃん! このあと街まで遊びに行こうよ?」
江雷と広瀬の真横を、誰かを追いかける長い髪の清楚な女子生徒が通り過ぎていった。
思わず二度見して無言になる。ふたりは顔を見合わせて苦笑した。
「青春というやつだな」
「そうかもしれないね」
しみじみしたようにつぶやくと、広瀬は口角を上げて笑みを浮かべた。
「……で、サッカー部一緒に入ってくれるかな?」
「ああ。悪いけど、ぼくはサッカー部に入る気はないんだ」
「あれえ?」
素っ頓狂な反応を見せる広瀬。
「江雷君は中学の時、サッカー部を一途に三年間続けてきたという話はガセネタだったというのか」
「誰から聞いたんだその話は」
反射的にツッコミを入れる江雷。自分が三年間続けてきた部活は体操部だ。いったい誰がそんな偽情報を吹き込んだのか。
その頭の中にはひとりの男子の顔が浮かんでいた。ミステリー好きのなんとかという印象を持たせたのも、おそらく同一人物だろう。
きっと、あいつだな……。
「じゃ、じゃあさ、これから一緒にサッカー部の見学に行かないか? 見学だけでいいんだ。ひとりじゃ心細くて」
懇願してくる広瀬を見て、江雷は困ってしまった。
しかし、事情はきちんと話さなくてはならない。
「うーん。せっかくだけど、今日はちょっと用事があって」
「なんだって……。まさか、デートか?」
「違うってば」
初めの堅苦しそうな印象から一変して、このノリとオーバーなリアクション。この人に自分の変な印象を植え付けたと予想されるあいつとよく似ているな、と江雷は思った。
「実はこのあと、用事が入っているんだ。だからすぐ行かないといけない」
「それなら仕方ないな」
「せっかくなのにほんとごめん。また何かあったら誘ってくれ」
うまく話に区切りをつけた江雷は、振り返って立ち去ろうとする。だが、ちょうど背後に人が立っていてぶつかりそうになってしまった。
「あっ、すみません。……って」
江雷はそのまま硬直した。
ぶつかりそうになった相手は、先ほどから江雷の頭の中にちらちら浮かんでくる当人だった。
「そう、宏一にガールフレンドはいない。サッカー部も実はやっていない」
どや顔で豪語する男子生徒。傍から見れば失礼な発言だが、江雷は気にすることなく切り返す。
「やっぱり勝志か。知らないうちに背後で立ち聞きしていたとはせこいやつだ」
案の定、吉本だった。
「んだよ。せっかく同じ高校に入れたのに、親友を置いてひとりで帰る気か」
「マサシ? あー、それが吉本の名前か」
「そうだぜ、広瀬」
すでに呼び捨てで呼び合っている。昨日、さっそく声をかけたと言っていた相手だろうか。名簿順で考えると一列まわってちょうど隣の辺りに来そうなものだ。
「宏一が、お誘いを断ったお詫びにこれから用事に付き合わせてくれるんだって」
「そんなことは誰もいってない」と反論しそうになった言葉をぐっと呑み込む。
「それはまずいよ……」
「まずいって、なんで? あ、やっぱりやましいことなんだな?」
「いや、ガチで真剣な話なんですけど……」
江雷は立ち位置を変えて、ふたりを見渡せる配置を取った。
蚊帳の外になりかけた広瀬が不安そうに尋ねる。
「俺も聞いていい話なのかな?」
「いいよ」
江雷は、これからの用事のことと、それに纏わるエピソードを語り始めた。
「これから行こうとしているところは、前の学校に在籍していた先生の家だよ」
「恩師とか?」
「そういうわけではない。これから会うべき人物と会う場所が、その先生の家というわけだよ」
「ふむ?」
「広瀬君は、もう勝志から聞いたかな? 一月ほど前に起こった、ある学校での傷害事件のことを」
「聞いてないけど、ニュースで見た気がする。生徒が何者かに刺されて、確か犯人が……。あ、そういうことか」
広瀬が何かを察したように、江雷の顔をまじまじと見つめる。
「そういえば、さっき携帯を見ながら難しい顔をしていたね」
平静を装っていたがやはりばれていた。江雷はわざとらしく咳払いをして話を続ける。
「事件そのものは解決しているんだけど、事態がなかなか複雑でね。まあ、相手も友達か誰か連れていくかも、といっていたから、こっちもふたりを連れても大丈夫だと思うけど」
「なら、決まりだな」
言うや否や、吉本が三角形を崩して先頭を切って歩きだす。
「オレ、宏一とは中学校からの仲だけど、事件のことはよく知らないんだ。いい機会だから、移動しがてらその話を詳しく聞くことにしよう」
「勝手に決めないでくれよ」
追いかけようとする江雷の肩を、広瀬がポンと手を置く。
「俺も興味あるし聞いてみたいな。あの肩書きがつく所以を俺も知りたい」
「……やれやれ」
あの肩書きとはつまり、おそらく吉本が勝手に植え付けた謎解き好きの、といったところだろう。
新学期二日目で、早々に吉本の色に染まらされつつある友人がひとり増えた。幸先の良いスタートといえるかどうか、はいというには言い淀んでしまいそうだ。
「おや?」
「あれ?」
曲がり角を曲がると、見覚えのある顔があった。相手もこちらに気づく。
「また会ったね、江雷君」
なかなか会えない人のように表現したのは川野だった。そういえばさっき通り過ぎていった人が川野の下の名前を呼んでいた。
その通り過ぎていった人が、今度はじっと江雷の顔を見つめつつ、問いかける。
「知り合いなの?」
「そうなの。中学から一緒なんです」
「ふーん」
関心がないような返答をしつつも、江雷だけを観察するように眺め続ける。
射貫かれそうな視線に耐え切れず、江雷は少し視線を外した。すると、胸元につけてある校章に気づく。
色が違う。
自分や吉本、川野がつけている校章と色が違うのだ。
ということは、この女子生徒は同学年じゃない。二年生か三年生かわからないが、先輩ということだ。
「この人はどちらさん?」
吉本が気兼ねなく聞く。
「あ、この人は三年生の山本先輩。テニス部を案内してくれて、仲良くなったの」
「山本玲子です」
紹介されて会釈する。透き通り整った顔立ちに白い肌、そしてきれいなストレートロングの髪。落ち着き大人びた風貌に男子たちは見惚れそうになる。
「江雷宏一です」
「吉本勝志」
「……」
「あっちにいるのが広瀬和昭」
吉本は慌てて代わりに紹介する。広瀬は仲間外れだと悟ってすでに先を歩いていってしまっていた。
「覚えておくわ」
「じゃあ、オレたちはこれで」
広瀬を見失う前にと、吉本は手を振って別れを告げる。江雷も会釈してから吉本の後を追った。
「それで、今日の予定なのだけど」
「ごめんなさい。今日はパパが会議で、帰って留守番してないといけないの」
「あら。お仕事?」
「ううん。仕事からは夜までに帰ってくるよ。そのあと、町内会議ってやつがあるの」
「ふうん。お忙しいのね」
「今月もう二度目なの。やりすぎだよね」
「そうね」
下駄箱で靴に履き替えていると、そのような会話が聞こえてきた。たしか川野は、きれいな高層マンションに住んでいるんだったなと、江雷は思い起こす。といっても一度もお邪魔したことはないが。
校舎の外に出ると、帰宅しようとする生徒であふれかえっていた。まだ部活が始まっていないこの時期は、ほぼ全校生徒がこの時間帯に帰ろうとする。混雑して当然だ。
人混みの中から吉本と広瀬の姿を視界にとらえ、慌てて追いついた。
「案内役が一番遅いじゃないか」
「君たちが先に行っちゃうんじゃないか」
文句を垂れつつ、校門を抜ける。立ち止まって談笑している生徒と、電車以外で帰宅する生徒に分かれるため、一気に周りに人がいなくなる。
江雷は様子を見計らって、ふたりに話し始めた。ひと月ほど前に起こった出来事を。
二
一か月前……。
放課後の静まり返った廊下に、三人の生徒が集まっていた。
「もしかして、部活に来たのは俺ら三人だけか?」
明石武男が嘆く。髪が痛んで見えるのは、何度も染め直した形跡だった。耳にはピアスの痕が残っており、いかにも一歩踏み外しかけている生徒である。
「やっぱり、幽霊部員が急に出てくるなんてあり得ないよね」
「悪かったなぁ。あり得ないことが起こってよお」
「ご、ごめん、今のナシ」
明石にぐいっと袖をつかまれ、慌てて訂正する馬場直樹。おとなしい性格の馬場は、明石に迫られただけで涙目になっていた。
「まあ実際、珍しいのは確かだけどな。面白そうな話だから来てみたけど」
「面白くなんてないよ。廃部の危機なんだよ」
諭すように反論したのは土井沙智子。この中で唯一の女子であり、小柄でおさげ姿をしている。
「在籍している名簿の人たちのほとんどが幽霊部員。帰宅部では格好悪いから、所属している証だけでも、と、名前だけ部活に登録する人が多いんだよね。そのうってつけの部活が、規律が緩くて細々と活動しているだけのこの科学部ってわけなんだ」
説明口調で話す茶本晃。丸いメガネをかけた姿は、いかにも勤勉タイプといったところだった。
「その細々と活動して存在感を維持していた科学部も、活動しているボクら三年生がまもなく卒業してしまうため存続が危うい、ということ」
「いっそ、もう廃部でいいんじゃない?」
明石が身も蓋もないことを言う。
だが、反論できる者は誰もいなかった。だからといって対策があるわけでもない。部活に所属しているフリをしている幽霊部員もいなくなって、ある意味クリーンな状態に戻るのではないだろうか。
「てか、顧問の先生来ないじゃないか。やらないんだったら俺は帰るぞ」
「あ、じゃあ部室の鍵だけとりあえず借りて来ようか」
「俺はトイレに行ってるからお前らに頼むわ」
「え」
明石の協調性のない行動に唖然とする三人。そんな様子を意に介せず、さっさと廊下を歩いていってしまう。
「ごめん、私もちょっとトイレ行きたくて。馬場君か茶本君、どっちか借りてきてくれる?」
「あ、じゃあカバン持っててあげるよ」
気を利かせた馬場が手を伸ばすが、土井は手に持っていたリュックを肩にかけ直した。
「いいよ、悪いし。じゃあ、よろしくね」
土井も明石の後を追うように歩いていく。
残されたふたりは、何となく気まずい雰囲気のまま視線を交わし合った。
「じゃ、じゃあ、今日はボクが借りてくるよ」
茶本が名乗り出る。すると馬場は、先ほどと同じ行動を取った。
「カバン持っててあげるよ」
「いや、いいよ。教科書とか入ってて重たいし。それより、明石がトイレを済ませた後にそのまま逃げださないか、見張っておいたほうがいいかもしれないね」
「それはそれでしょうがないかもしれないけど」
「そうかなあ。まあ、行ってくる」
茶本はそう言い残して、傍にある階段を下りていった。
ひとり残された馬場は、天気のように曇った顔で窓から外を眺めた。上を見れば空は灰色の雲が流れていき、下を向けば水溜まりに絶えず波紋が描かれていた。
「ごめん、お待たせ」
最初に戻ってきたのは土井だった。
「あれ、私が一番?」
「そうみたい」
孤独の時間が終わり、馬場の顔には晴れやかさが少しだけ戻った。馬場は、明石がまだ戻らないこと、茶本が鍵を借りに行ったことを土井に伝える。
「先に帰っちゃったのかも?」
「でも僕、さっきからトイレのほう見てるけど、出ていった様子はないよ」
そう言って廊下の先を眺め見た。視線の先、十五メートルほど先に男子トイレのマークが天井近くの壁側に取り付けられているのが見え、そこにトイレの出入り口のドアがあった。
「そうなんだ。確かに隣のトイレから物音がしてた気がする」
同じように土井も廊下の先を見るが、女子トイレのマークはここからは見えなかった。男子トイレの先はL字型に曲がっていて、構造と向きは同じだが曲がった先に女子トイレはあるのだった。
「茶本君、時間かかってるね。様子見て来ようかな?」
土井が次の行動を提案すると、曲がり角の廊下の先から足音が聞こえてきた。
「ごめん、遅くなっちゃった」
息を切らしながら茶本が駆け足で戻ってきた。手には部室の鍵が握られている。
「あれ、明石は?」
「まだ戻ってきていないよ」
「何をやってるんだ、まったく。先に帰っちゃったんじゃないか?」
「いや、ずっと見てるけどトイレに入った切り出てきた様子がないんだよね」
「そうなの? じゃあ、ボクがトイレのついでに見てくるよ。はい、これ鍵。先に入って準備してて」
「オッケー」
茶本が土井に鍵を託すと、馬場は再びあることに気づく。
「カバン、置いていきなよ」
「あー……。机の上に置いておいて」
手渡されたカバンを持った馬場の顔が一瞬ゆがむ。想像以上に重たかったようだ。
「本当に何が入っているんだよ」
「教科書さ」
茶本は短く答えてからトイレに向かう。
土井が鍵を開けて部室に入ると、まずは照明をつける。
四、五人ほどが囲んで座れるほどの机が九つ並んで設置されており、馬場たちは窓際にある机に荷物を置いた。天井には一部焼け焦げた跡。部屋の一角に置かれた棚にはたくさんのフラスコやビーカー。そう、ここは理科室である。科学部である彼らはその名の通り、部室は理科室を使用していたのだった。
馬場たちが席に着こうとすると、廊下から慌ただしく走る音が聞こえてきた。
「た、大変だー!」
理科室へ駆けこんだ茶本が声を張り上げる。
「ど、どうしたの?」
「明石が……明石が、トイレで刺されて倒れているんだ!」
「ええっ!?」
あまりのことに馬場と土井のふたりはとっさに反応ができなかった。もしかしたら質の悪い冗談かもしれない、とも思ったほどだ。だが、茶本はかねてより人を驚かせるような冗談を言う人だっただろうか。
「何を騒いでおるんじゃ」
茶本の背後に人が現れた。スーツを着こんだ大人だ。
「あ、遠藤先生。ちょっと来てください。早く!」
「ちょ、ちょっと茶本君?」
遠藤と呼ばれた先生は、いきなり茶本に腕をつかまれ引っ張られる。大変な剣幕だったのでとっさに振りほどくことができず、空いた手のほうでメガネのズレを直すのが精一杯だった。馬場と土井も後をついてくる。
「トイレで何かあったのか?」
やっと手を離してもらった遠藤は、襟を正しながら茶本に聞く。だが、茶本は問いかけには答えず、トイレの中のある一角を指で指し示した。
「こ、これは……!」
遠藤は思わず絶句した。
それは無残な光景だった。男子トイレにある個室トイレで、生徒が血を流して倒れていたのである。その生徒はまさに先ほど茶本たちと一緒にいた明石武男であった。
そして、視界にはもうひとりの姿があった。
「なんだね、君は」
明石に歩み寄りつつ、その生徒に声をかける。
その人物は遠藤に顔を合わせることもしないで、開いた窓の隙間から外を眺めている。
合わせたくないのか? まさか、この子が明石とケンカしてこんなことに?
嫌な予感が脳裏にかすめる。
「あ、ぼくはたった今、用を足しにここに来ただけです。何もしていませんよ」
緩やかな動作で振り向くと、やけに冷静に答える男子生徒。
「君がやったんじゃないだろうな?」
遠藤は語気を強めた。状況を見たらそう疑うのも当然だった。
「違います。ここに来た時点ですでにその状態でした。それより早く救急車と警察を呼んだほうがいいです。ここには他に誰も近づけないように身張っておきますから」
「余計なことは言わんでいい」
男子生徒の話を聞き流して明石の傍でしゃがむ。
「……むう」
遠藤は思わず声を漏らして顔をしかめた。出血の具合を見たり脈を計ったりして容態を確かめる。胸の辺りから大量に出血しているようで、苦しんだ形跡か、両手にもべったりと血が付着している。顔を上げれば、壁にも血が飛び散った跡があった。
馬場と茶本は身動きが取れずに立ちすくみ、トイレの外で待つ土井も胸に手を当てて茫然としていた。
遠藤がすっと立ち上がる。
「先生は今から職員室に行って救急車と警察を呼んでくる。すぐ戻ってくるから、君たちは明石君に近づいたり触ったりしないで、この廊下で待機するように。ただ何かあったらすぐ伝えに来てくれ」
そう言い残すと遠藤は走り去っていく。
「そんな……明石が……」
茶本がふらふらと明石に近づこうとするので、先ほどの男子生徒が「待って」と手を出して制した。
「近づかないようにと言われただろう。トイレから出て大人しく待とう」
「呼びかけるくらいいいだろ!」
震える声で反論するが、その生徒はゆっくりと首を横に振る。
「ダメなんだ。呼びかけてももう、反応はしてくれない」
「気を失っているのか……?」
茶本の問いかけには、ちらっと彼の顔を見るだけで答えなかった。
無言の回答を得た茶本は疑問を重ねる。
「というか、さっきから君は何なんだ。悟ったように冷静にぺらぺらぺらぺら。何かを知っているみたいだけど」
畳かけるような口撃にも動じず、「さっきも言った通り、用を足しに来ただけだよ」と返した。
「嘘だ。きっとこいつが明石を刺したんだ!」
「茶本君、落ち着いて」
茶本が指をさすと、馬場は慌ててその腕を押さえつけて下ろす。うなだれる茶本の背中を押してトイレの外へ向かわせつつ、顔だけ振り向いて男子生徒を一瞥した。
「君も確か、この間の卒業式に出ていた生徒だね。同じクラスになったことがないから名前はよく知らないけど」
男子生徒は再び間を取って、馬場と茶本の後についてトイレを出る。馬場、茶本、土井の三人を見渡してから、名乗り出た。
「そう、君たちと同じ卒業生だよ。用事があって学校に来ていたんだけどね。ぼくの名前は江雷宏一」
言い終えると、江雷は口をきゅっと堅く結んだ。笑顔でよろしくと言っていられる状況ではない。
江雷が初めて事件に立ち会った瞬間だった。
三
三月上旬。
三年生の卒業式を祝う卒業式が盛大に執り行われた。それから二週間ほどは一年生、二年生だけ授業があり、三年生はほとんど学校に来ることはない。来るとすれば部活動や、公立高校の受験結果の報告くらいだろう。報告だけではなく、実際は書面上の手続きや受け渡し等、出校するべき用事は発生するのだが。
一、二年生の学校生活も短縮授業となり、平日でも午後になれば校舎は閑散とする。そんなある日のこと、事件は起こった。部活の用事で出校していた生徒が男子トイレの中で負傷して倒れていたのだ。そこに居合わせたのは同級生で部活仲間の三人と顧問の先生。そして同じく用事で学校に来ていた江雷宏一だった。小雨もぱらつく薄暗い雨模様の日のことである。
校内は騒然としていた。こんにちが授業のある平日の学校であれば全校に騒ぎが生じ、事態の収拾には困難を極めただろう。ただ、三年生のいない短縮授業の午後の学校、ごく一部の生徒が校舎に残っているだけだった。大混乱に陥らなかったことだけは、学校にとっては唯一の救いであった。
そう、唯一の……というより、救いを見出すならば、といったところか。
通報によって駆けつけた救急車と警察。だが、救急隊員は、あることが確認されると負傷した明石を搬送することなく引き上げてしまう。処置を施す意味はもはやなかったのだ。
そう、明石武男は死亡していたのである。
入れ替わりで制服や作業服を着た警察官がやってきた。鑑識と捜査官である。
茶褐色のスーツをまとった、恰幅のいい警察官が挨拶にやってきた。
「どうも。愛知県警の岡田と申します。捜査のご協力、よろしくお願いします」
沈痛な面持ちの一同を見渡す。遠藤、馬場、茶本、土井、そして江雷の五人である。
「今後の学校としての対処や報道機関への対応については、下で別の者に話をさせていただいています。その間、あなた方には我々から少し話を聞かせてください。それから、あなた方の荷物をいったん預からせてもらいます」
場慣れした様子で話を進める。
この警察官のフルネームは岡田達人。愛知県警察本部捜査第一課の警部である。年齢は四十代半ば。キャリアを十分に積んだベテランの刑事だった。
遠藤と馬場たちは手荷物を警察へ差し出した。荷物検査のためだ。馬場たちは学生カバンを、遠藤は手ぶらではあったがポケットに丸め込まれた書類があったので、それを警察に引き渡す。
「では、事件があった当時のことを教えてください」
状況説明を求められた遠藤たちは、各々の名前を名乗った後、事件が発生した頃の状況を話した。馬場たちが卒業であり、被害者である明石と同じ部活であること。遠藤はその顧問の先生であること。一度、バラバラで行動した後で、茶本がトイレで倒れていた明石を発見したことを。
そして、運悪く現場に居合わせてしまった江雷も同じく名乗った。
「なるほど。状況はよくわかりました。ところで、理科室やこのトイレの周辺に、君たちの他に誰かいましたか?」
岡田に聞かれて、馬場たちは顔を見合わせる。
「いいえ、誰も」
「君たち以外に怪しい人や普段見かけないような人はいませんでしたかね? ひとりで待っていた馬場君はどうかね?」
急に名指しされた馬場は一瞬たじろいだ。
「え、えっと……。ずっとトイレのほうを見ていたけど、誰かがトイレに入っていくとかなかったです」
「隣の女子トイレにいた土井さん。何かおかしな様子はなかったかね?」
「さ、さあ……。誰かトイレにいるような気配がありましたけど、物音もないし気のせいでした。雨音のせいだったのかも」
「茶本君は? 廊下で誰かとすれ違ったりとかしてないかね?」
「い、いえ……。ずっと自分ひとりで職員室に行っていました」
「第一発見者は茶本君だという話でしたな。何か見聞きしたりしていないかね?」
畳かけるような聞き取りに、馬場たちは呼吸が苦しくなりそうな状態だ。ただでさえ同級生が亡くなって辛い心境だというのに。
茶本は黙って首を横に振ってから、悲惨な状況を思い出しながら答える。
「何も見てないです。びっくりして、すぐ馬場たちに伝えに行きました」
「そうか……。じゃ、江雷君は、茶本君が去った後でトイレにやってきたというわけか」
「はい。ちょうど走り去っていく後姿が見えたので、たぶんそれが茶本君だったと思います」
「……」
「?」
岡田が急に沈黙する。
他の三人とは打って変わって、毅然とした態度で答えた江雷。だがそれが、余計にうさん臭さを覚えてしまったのだ。
「なんで君は、茶本君みたいにびっくりして誰かに伝えに行ったりしなかったのね?」
「えっとそれは……」
江雷が口ごもる。すると、
「きっと、足がすくんで動けなくなったんですよ」
先ほどから岡田の後ろで手帳にペンを走らせていた若い警官がフォローしてきた。
彼は岡田警部直属の部下で、階級は巡査部長。名は八十島という。まだ二十代半ばと大変若く、身長はあるものの警察官にしては華奢と言わざるを得ない体格だ。
「それなら仕方がないな」
岡田の納得する様子を見て、江雷は胸をなでおろす。
だが、その説明に待ったをかける者がいた。
「違いますよ! だって彼は、そんなおびえた様子もなく堂々としていました!」
茶本だった。若干ムキになるような言い草で江雷のことを指で指す。
「そうなのかね?」
「そうです。先生を連れてもう一回戻ってきた時、平然とした顔であっちこっちキョロキョロと。明らかに挙動不審でした」
「そうなのかね、江雷君?」
岡田に質され、江雷はごまかしたり言い逃れしたりすることを諦めた。
「確かに、ぼくはその場に残っていました。すぐに通報しに行こうとしたんですけど、廊下から先生の声や走ってくる音が聞こえたので、その場に残ることにしたんです」
半分だけ理由を話しておく。
しかし、残りの半分にすかさず茶本が突っ込んできた。
「平気でいられたのは、こいつが犯人だからですよ!」
「こらこら。そういうことは言っちゃいかん」
慌てて岡田がたしなめる。
ただ、表面上はそうであっても、岡田は怪訝そうに江雷に目を向けた。
「君がやったわけでは、ないんだな?」
「もちろん違います」
「いやっ、たぶん掃除道具入れの中とかに隠れていたんだ! ボクが去った後で立ち去ろうとしたけど、すぐ戻ってきちゃったから逃げるに逃げられなくなったんだよ!」
「だから違うって」
茶本の言動に、さすがに江雷も腹が立って語気を強める。この場に警察も教師もいなかったら喧嘩になっていたかもしれない。見かねた遠藤が茶本を後ろから抱きしめて耳元で何か囁くと、その彼はようやくいかった肩を下した。
「茶本君。憶測だけで人を疑ってはいかん。それをいうなら、君こそトイレに来たタイミングで犯行は可能だ。だが、疑わしいから犯人だと決めつけてはいけない。その真相を明らかにするのが我々警察の仕事だ」
あくまで可能性の一つとして述べたわけだが、ブーメランのように返ってきた疑いがかかったとたん、茶本は目を見開いて全力で否定した。
「ボクじゃないです! だって様子を見に来たら本当にあんな状態で、すぐに理科室に戻ったんですよ。そんないろいろしている暇ないですから。でしょ?」
まだ抱きしめられた状態のまま、勢いよく振り向いて馬場や土井に同意を求める。
遠藤は目の前の頭が急に動いたので、思わずのけぞってその腕を離した。
「そうだね。せいぜい一分くらいかな……」
馬場が証言するが、何か納得いかなかったのか、茶本はその顔をまじまじと見つめて、
「一分!? そんなに長くなかったでしょ」
「え、でも、ほんの一瞬だったってわけでもないし……」
「もういいよ。助けてくれると期待した自分がバカだった。馬場、君こそ、ひとりで待っていたと言いつつ、こっそりその場から動いてやりに行ったとも考えられるからね?」
挙句には、馬場を疑い始めてしまった。
「な、何を言ってるの。だいたい、さっきから様子がおかしいよ。自分はいかにも怪しくありません、みたいな」
「なにを。大人しくしていればいい子そうに見えるから得だよな」
「性格だから仕方ないだろう」
「ちょっと、ふたりともやめてよ」
震えた声で土井が仲裁に入る。
「土井さんなんて、一番近くにいたんだから一番怪しいんだぞ」
「めちゃくちゃなこと言わないで!」
「君たち!」
岡田が声を張り上げる。三人がびくりと震えてその場に硬直した。
「いい加減にしなさい。一体全体何がしたいんだ。友達を疑って、相手の心に一生の傷を負わせてしまったら、その責任を負えるのか。明石君が今どういう状態なのか、理解しているのかね。少し落ち着きなさい」
しゅんとする三人。馬場が「ごめん」とつぶやくと、「ボクもごめん」「私も」と続いた。
その様子を見て、岡田は安堵の息を吐いた。
「さて、我々はこれから現場検証を始めます。遠藤さん、悪いのですがもう少しここで待機していてください。君たちもここで待って、頭を冷やしているように」
こうべを垂れて横一列に立つさまは、まるで先生に怒られて廊下に立たされている場面そのものだった。
醜いやり取りをただ黙って見ていた江雷には岡田は何も言わず一瞥し、部下の八十島を連れてトイレに入っていった。
沈黙が流れている。
静かすぎる廊下に立ちすくむ五人にはとても居心地が悪かった。頭を掻こうとしたり姿勢を変えようとしたりすれば、制服の擦過音が聴覚を大きく刺激する。
なぜ、自分たちだけ残されているのだろう。
放課後に個別に居残りさせられている時の心境によく似ていた。しかし現実は、その比較にならないほどの絶望と緊張感に包まれていたのだった。
やがて、誰かが口を開く。
「取り調べってことだよね、これって」
「えっ、そうなの?」
「まさか、容疑者扱いされているとか」
馬場たちの間に不安が募る。
自分たちの行動を聞き取るなど、すでにいろいろなことを聞かれた。どうしていきなりそこまで聞かれなければならなかったのか。
再び沈黙する三人。
その生徒たちの様子を、遠藤はいたたまれない気持ちで眺めていた。
ひとりだけ平然としているのは江雷だけだ。
遠藤はといえば、その江雷に少しだけ猜疑の目を向けていた。状況から見て一番怪しいし、動揺していない様子が逆に疑わしい。教師として生徒を疑いたくないが、悪いことをしたなら咎めなければならない。
悪いことと言ったって……。
悪いことという表現で囲えるような物事ではない。どうやって咎めればいいというのだ。そもそも、生徒がひとり死んでしまったのだ。しかも、自分が受け持つ部活の生徒。私の立場は一体どうなってしまうのか。それより学校はどうなってしまうのか。
遠藤は混乱し、思考の糸が絡まりほどけなくなってしまった。
その時、一つだけ明確な疑問が頭の中に浮かんだ。
「本当に取り調べなのか? 明石がなぜああなったのかよくわかってないし」
要するに、誰がこんなことをしたのか、ということだ。生徒の手前、心情を刺激するような表現は避けるようにしたが、まったくの第三者がやったかもしれないし、自分で自分を刺した、つまり自殺という線もあるのではなかろうか。
そう考えられるならば……。
「きっと状況を説明したらすぐ解放してくれるから」
生徒たちを諭すように言う。
その言葉を聞いた馬場たちはホッとしたような顔になるが、ひとりだけそうはいかなかった。
その江雷は真剣な顔のまま、横並びになっていた一同からずれるように一歩前に出た。
「たぶん取り調べですよ」
「えっ?」
あっさりと希望の光をかき消す。
「さっき現場を見た時、あるべき物が見当たらなかった」
「あ、あるべき物?」
せっかく安心させようとしていたところなのに……。遠藤は努めて冷静に聞き返して話を促す。
「凶器ですよ。さっき現場を見ていた時、明石君を負傷させた凶器が落ちていなかった」
言いながら、江雷は一同が見渡せる方に向きなおった。
「それはつまり、明石君を負傷させた人物が、明石君本人ではなく、他の誰かということですよ。自らを傷つけたとしたら、現場にそれが落ちているはずですからね」
「そして……」と続けようとしたところで、首筋にひんやりとした風が吹きつけてきた。
「そこまでにしなさい」
岡田警部だ。
風を感じたのはトイレの扉が開けられたからだった。
「そういうのは警察の仕事だ。いらぬ詮索は無用。別に誰かを疑ったり怪しんだりすることもない。先にも言った通り、真相を明らかにするのが我々の役目だからな」
正論を述べる岡田警部。
これ以上、憶測だけで語られたら雰囲気が悪くなる一方だ。
「君たちを留めたのは事件当時の状況を詳しく聞きたいためだ。普段と違うものを見聞きしていたり、不審な人物を見かけたりしているかもしれんからな」
「それは、部外者の犯行かもしれないということですか?」
遠藤が察する。
「そういうことです。今のところ、周辺の警備に当たっているものから、怪しい人がいるという報告は入ってませんがね」
「でも、さっき彼……江雷君が言ってたように、もし凶器というものが見つかっていないなら、部外者で決まりではないでしょうか。持ち去ったんでしょうから」
遠藤の推理に、馬場たちはなるほどと首を縦に振ったが、岡田は微塵も表情を変えなかった。
「ただし、近辺にいる人物が何食わぬ顔でまだ隠し持っている可能性もあります」
「そんな……」
近辺にいる人物……つまり、学校関係者、教師や生徒たちのことだ。
遠藤は困惑し、馬場や茶本はチラッと相手の顔を見てはすぐ視線をそらした。
「凶器はたぶんあそこです」
「ん?」
唐突に江雷がトイレの中の天井付近を指さした。
扉付近にいた八十島が、いち早く反応を示してその方を見てみる。
「天井……? もしかして、通気口?」
「いえ。そっちではなく、こっちです」
指先と天井付近を、せわしなく何度も交互に見る八十島。その所作が面白いこともあって、江雷はあえて正解を言わずに回答を待ってみた。
「あっ、タンクの中!?」
江雷はニヤリと微笑む。
「確認してくれ」
「わかりました」
上司の指示を受けて、八十島はタンクのある個別トイレに移動した。明石が倒れていた個別トイレの隣に位置する。八十島は、上げてあった便座の便器の隅に片足を乗せた。
「よっ、と」
タンクの側面に手をやって片足のままバランスを取りつつ、天井付近に取り付けられているタンクの上側を確認してみる。八十島の身長でもやっとのぞける高さだ。
「あったかね?」
部下を見上げながら岡田が聞く。
「えーと、あ! ありました! こんなところに刃物が! 鑑識さん、袋を貸してください」
傍にいた鑑識に声をかける。
鑑識は透明のビニール袋を取り出すと、八十島に手渡した。
八十島はそれを受け取ると、慎重に刃物を手に取ってビニール袋に入れる。
もちろん手袋をした状態で。そうでなければタンクにも刃物にも自分の指紋がついてしまう。
便器の上から降りると、ビニール袋に入れられた刃物を掲げてみせた。
「こんなものがタンクの上に」
それは刃渡り十五センチほどのナイフだった。刃の元々の色がわからない。なぜなら、赤いものがべったりと付着しているからだ。色がわかるのは把手の部分は白ということだけだ。
「水には浸かっていなかったようだな」
「うまい具合に天井との隙間に引っかかっていたようです」
「これが凶器と見て間違いなさそうか……。なぜあんなところに……。というか、どうしてあそこにあるのがわかったのかね?」
岡田はつぶやきつつ根本的な疑問に辿り着く。江雷を見返す顔にさすがに驚きは隠せなかった。
「タンクの近くの壁側をよく見てみてください。赤いものが数滴、飛び散ったような跡がありますよね。あれは、凶器を隠そうとした人物が、便器の上に立ってタンクの上に投げ入れようとした痕跡です。その床のほうにもよく見ると、やや高いところから滴り落ちた血の痕もありますしね。投げ入れようとする直前に垂れた跡でしょう」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
江雷の推理を岡田は慌てて止める。
「なぜ、便器の上に立ったとわかる? それに、そこまでするなら置くだけで、投げ入れる必要はないように見えるが」
「たぶん、高すぎるからですよ。さっき八十島刑事がやって見せたように、便器の上に乗ってもかろうじてのぞき込めるくらいだった。腕を振り上げ、勢いをつけて放り込むような要領です。血が滴り落ちるほどのものですから、あまり自分に近づけて取り扱いたくはなかったでしょうしね」
「……あ、わかった!」
江雷が言葉を区切ると、八十島は手をポンと打った。
「何がわかったのかね?」
「ほら、警部。私が便器の上に立つ時、すでに便座が上がっていたじゃないですか。今の彼の説明の状況のまま……」
「……」
岡田の無言の圧力を受けて、八十島は慌てて口をつぐんだ。
上司を出し抜いて嬉しそうに説明するな、と言いたかったのがわかったのだ。
「まあ、便座が上がっていたことを不思議に思うのも無理はない。個別トイレだけしかないならまだしも。おそらく、掃除の時くらいしか普段は上げないだろうからな。その不自然な状況が、残されていたということか」
威厳を保つかのように岡田は補足する。
そしてこう結論付けた。
「これで自殺の可能性はなくなった。隣のトイレまで移動した形跡のない被害者が、その位置から隣のトイレの天井にあるタンクにナイフを投げ入れることなど不可能だからな。何者かが刺した後であそこに隠したのだ」
「ということは……」
一呼吸置く。
「これは、殺人事件ということです」
四
殺人……。
それは人が人を殺めるもの。
その無残な現場に居合わせてしまった人たちがいた。
被害者と同じ部活仲間である馬場、茶本、土井、顧問の遠藤。
そして、たまたま用を足しに来たがために巻き込まれた江雷。
彼らは気を滅入らせつつ、自分たちの中に犯人がいるのではと、一抹の不安を抱いていたのだった。
「ちょっと待ってください」
トイレの外で手を挙げている人がいた。
「ええと、君は茶本君だったね」
岡田警部が反応する。
「はい。殺人とするには早いような気がします」
「それはどういうことかな?」
岡田はトイレから出て、茶本と対面する。
威圧するわけではないが威圧感があった。ただ、否定された怒りの感情は岡田は持っていなかった。意見があるなら誰からもどんなことでも聞いておく。それが岡田のスタイルなのだ。
「明石を刺した人物とナイフを隠した人物が、同じとは限らないのではないでしょうか」
「ふむ?」
「たとえば、明石の傍に転がっていたナイフを、別の何者かが隠したという可能性も」
「なるほどな」
警部は短く答えて後ろを向く。
「その可能性も無きにしも非ず。ただ、その可能性を考慮すると捜査の幅が大変広がってしまうな。……とりあえず、ナイフは署で詳しく調べてみることにしよう。入手ルートなどを調べれば何かわかるかもしれない。……っと」
言い終えると同時に、電子音が辺りに響いた。規則的な呼び鈴。携帯の着信音だ。
「失礼。……もしもし、岡田だ」
岡田は懐から携帯を取り出し、後ろを向いて耳に当てる。
「ふむ。そうか。わかった。引き続き周辺の聞き込みを進めてくれ」
部下からの報告だろうか。岡田は何度か短くうなずく。
通話を切り、携帯を懐へしまう時に見えた神妙な横顔。あまりいい報告ではなかったことは誰の目にも明らかだった。
「あの、警部さん」
背中を見せたままの岡田に、遠藤がおずおずと話しかける。
「私たちはいつまでここにいればいいんでしょうか。もう話すことは話しましたし。特に子どもたちの負担が心配です」
そう言って生徒たちに目を配る。
馬場たちには疲労の色が見えていた。特に土井は顔色も悪い。精神的にも相当にまいっていると思われた。同級生の死を目の当たりにして当然の状態だろう。
「そうですな。わかりました。では、あなた方は理科室で休んでいてください。荷物検査も終わっていることでしょうし、何かあればまたこちらから声をかけます」
「まだ帰らせてはダメなんですか」と言いさして、遠藤はぐっとこらえた。
警察は明らかに生徒を疑っている。荷物検査までして。
先生の身としては生徒を早く帰宅させたい。しかし、真相が明らかになるのなら警察の指示にも従わなくては……。遠藤の心の中は葛藤していた。
「さあ、君たち。向こうで休んでいよう」
「荷物の検査は終わっています。こちらへどうぞ」
重い足取りの馬場たちの背中を遠藤は優しく押し、付き添いの警官が八十島に書類を手渡すと、再び理科室へ戻っていく。
警察らは黙ってそれを見送っていた……。
“ら”?
「君も一緒に休んでくるといい」
違和感があったのは江雷が見送る側にいたことだった。警部は江雷に休息を促す。
だが、江雷は反応せずその場であごに手を当てて考え事をしていた。
「理科室、か……」
そして、独り言をつぶやく。
事件はそこから始まった。明石、馬場、茶本、土井の四人が理科室の前に集まっていた時から。
まず、明石がトイレに立ち、ついで土井もトイレに向かう。そのあと茶本が職員室へ向かい、馬場はひとりでその場に残った。そして、土井、茶本の順に帰ってきて、茶本がトイレに様子を見に行くと明石は何者かに刺されて倒れていた。
トイレの位置は理科室からまっすぐ行った直線上にある。ただし、男子トイレは理科室からも見えるが女子トイレは“く”の字に曲がった先にあり、理科室からは見えない場所にある。廊下が凸凹になっているだけで構造は一緒だ。
馬場、茶本、土井ともに不審な人物は見かけていないと言っていた。
ということは……。
「警部さん」
江雷は岡田のほうに向く。
「さっきの電話、近くで不審な人物は特に目撃されていないってことですよね?」
「いや、まあ、そうだが……」
岡田は一瞬焦った。先ほどの電話の内容はまだ誰にも伝えていないはず。
「引き続き……」からのニュアンスで読み取ったということか。なかなかに隅に置けない子だ。
驚きは次第に、感心へと変わっていく。
「じゃあ、やっぱりこの事件、何かがおかしいですよ」
「おかしいとは?」
「馬場君の証言です。彼は明石君の行動に目を光らせるように、ひとりで待っている時はずっとトイレのほうを見ていたと言っていました。だからその間、誰もトイレに出入りしていないはずなんです。けど、その後に茶本君が様子を見に行ったら明石君が刺されていた、ということ」
「むう」
つまり、馬場君は虚偽の証言……否。
その刹那、岡田は何かに気づいたように身を翻した。
「その証言が信用できるものとすれば……」
大股でトイレの奥へ進む岡田。突き当りの窓に到達すると、そのまま腕を伸ばし勢いよく窓を開けた。
視界が広がる。
窓の外は校舎の裏側にあたる。道幅が五メートルほどの舗装された道の向こうは、高いフェンスを挟んで公園となっていた。フェンスの上には鉄条網が取り付けられている。
「犯人はこちらから出入りしたということか……?」
岡田に続いて、悠然とトイレに入ってきた江雷は黙して答えなかった。彼の言いたいことは、実はまだその先にあったのだ。
「ん?」
岡田は視線を下すと、真っ平らな校舎の壁がそこにあった。少し身を乗り出してみれば一階の窓が見える。
「江雷君、この下の部屋は何の教室かね?」
尋ねた相手の姿は、知らぬ間に真横に来ていて一緒に外を眺めていた。
外というより、目下のサッシをじっと見ている。汚れが目立ち、埃がたまって糸くずも目についた。
「職員室ですね」
「……」
答えをもらった岡田は少しの間、その場で硬直した。だが、首筋に降りかかってきた雨粒に冷たさを覚え、急いで窓から頭を引っ込める。
「君の言う通りだ。確かにおかしい」
ハンカチで首筋をぬぐう岡田の顔を見て、江雷はこくりとうなずく。
「何がおかしいんですか?」
だがここで、未だ把握できていない八十島がやってきた。
「窓から見える景色をよく見てみろ」
「あ、はい」
岡田は自分で説明しようとはせず、自ら理解してもらうためにあえて冷たく言い放って窓の外を指し示した。
八十島は先ほど岡田がやったように、サッシに両手をついて外の景色を確認する。
「どうだね、何かわかったか?」
「えっと、これだけでは何も……」
振り向く八十島に雨粒ではない冷や汗が流れる。
だが、岡田はとがめることなく、咳払いを一つして説明を始めた。
「馬場君の証言では、明石君がトイレに入った後、ずっとトイレの方を見ていたが誰も出入りしていないと言っていた。にもかかわらず、明石君は何者かに刺されていたのだ。自分ではない誰かにな。つまり、犯人は廊下から出入りしていないのだ。となると、残る犯人の侵入経路は……?」
「そ、そうか。この窓から!」
八十島は目を丸くする。しかし、すぐに真顔に戻った。
「え、でもそれのどこがおかしいんですか?」
「やれやれ」
岡田は肩をすくめる。ここから先はきちんと解説しないといけないようだ。
「本当に犯人は窓から侵入したと思うか? 否、脱出したと思うか、と聞いたほうが的を射ているな」
「それは、出入り口からではないのなら窓からしかないのでしょうか。ロープなどを使えば何とか」
「では聞くが、君はこの天気の中、鉄条網を乗り越え、職員室の前を堂々とロープを使って上り下りしたいと思うかね?」
「あ……」八十島は口ごもる。
「そう、考えにくいのだ。たとえあらかじめトイレに潜んでいたとしても。ロープを使った痕跡など見当たらないし、校舎の壁は掴まるところがほとんどない真っ平らな壁だから、道具も使わず上り下りした可能性は低い。……職員室にはもちろん教員がいたんだよな?」
もはや同じ捜査官のひとりであるかのように岡田は江雷を見据える。急に話を振られても、江雷の立ち振る舞いは堂々としていた。
「そうですね。ちょうど先生たちが座る長机があるところで、何人かの先生が当時、そちらにいたと思います」
「うむ。裏付けは後ほど行うものとして、ここがこの事件の大きな謎だ。この謎を解けば自ずと犯人像も見えてくるかもしれんが……。ミステリー色は強い。廊下からの出入り口から出入りしておらず、そして窓からの出入りもあり得ないとすると、つまり……」
もったいぶるように言葉を区切ると、
「密室殺人……」
八十島がつぶやいた。
密室殺人とは、密閉された空間に、犯人が出入りしたような形跡がなく、被害者のみが閉じ込められた状態のことだ。
ただ、この場合はドアにも窓にも鍵はかけられていないため、正確な密室とはいえない。準密室と呼ぶのが正解だろう。
岡田、八十島、江雷の三人は、次の言葉が出なくなってその場に立ち尽くすのだった。
五
「とりあえず、職員室にいる教員から、怪しい人影等を見かけなかったか聞き取りに行ってきてくれ」
「わかりました」
岡田警部が指示すると、八十島は駆け出していく。
まあ、有益な情報、というより目撃証言は得られないだろう。
それよりも、まずは厄介な問題がある。
岡田はちらりと江雷を見る。
好奇心の塊みたいな子。事件を究明するにしても、この子の前ですべてを話すわけにはいかない。警察側にも守秘義務というものが存在するからだ。
だが、もし……。
もしも、事件解決への糸口を見出してくれるというのならば。
「江雷君」
「はい」
物怖じしない態度は怖いもの知らずか、あるいは場をわきまえた度胸があるだけなのか。
「君がこの事件に関わったことによって知り得た内容は、決して口外してはならない。知り合いにも、家族にも話してはダメだ。わかっているな?」
「はい。大丈夫です」
「うむ。だからといって、こちらの持っている情報を闇雲に提示するわけにもいかん。君は単に現場に居合わせた一般の関係者に過ぎないのだからな」
江雷はこくりとうなずく。
警察としてはクギを刺しておいたつもりだったが、そのクギはいとも簡単に抜け落ちてしまった。
「そのことは百も承知でお尋ねします。死因はなんだったのでしょうか?」
「……」
岡田は怒る気にも、言い直す気にもなれなかった。
自身が甘いことはとうにわかっている。しかし、このままでは威厳もへったくれもない。
「今教えたばかりだろう。すべて話すことはできんよ。ただ、刃物で一突きされていた、教えられることはそれだけだ」
「十分です、助かります」
ということは、刺されていた場所などから考慮して、死因はおそらく心臓損傷や失血死あたりか……。江雷は推測する。
いずれにしても、刺された被害者が動きまわった形跡がないことから、やはり被害者自身がナイフを隠したとは考えにくい。
でも、なぜそこまでする必要があった?
そのままにしておけば、自殺に見せかけることもできたかもしれないのに。そのための密室トリックじゃないのか?
それに、犯人にはそこまでする余裕があったのか。それとも、そうしなければならない理由があったのか。
あるいは、密室状態になったのは偶然だったのか。
わからないことは多いが、きっと真実の糸とどこかで繋がっているはずだ。
一丁前に腕を組む姿は、ませた子供のようだ。だが、どこか期待感があるのは、自分が甘いからなのか、彼がそのようなオーラを放っているからなのか。
岡田が江雷の姿を見て、頭を悩ます。
「警部さん、警部さん」
「ん? ああ」
目の前の子供の観察に夢中で、トイレの奥から聞こえる呼び声に反応が遅れる。
「あーと、なんでしたかな?」
ばつが悪そうに呼び声のもとに向かう。
岡田を呼んだのは現場検証にあたっていた鑑識だった。
「今、床に残っていた血痕を調べていたらですね、三か所気になる点が見つかりました」
「ほう、気になる点ですか?」
片膝をついている鑑識に歩み寄った岡田は、腰をかがめて丁寧語で問い返す。
鑑識は岡田より年上の五十歳代のベテランだが、部署が異なることもあり、上下関係にあるわけではなかった。
「見てください、この辺りです。血がかすれた痕が一……二……。それから被害者が倒れていた付近にも一点」
鑑識が現場の足元を指さす。
やり取りが気になった江雷は思考をやめ、足音を立てずにこっそりと近づくが。
「こら。不用意に近づくんじゃないぞ、江雷君?」
「うわ、すみません」
広い背中を見せたままたしなめられる。なぜ気づかれたのかわからなかったが、江雷は潔く謝っておいた。
「で、鑑識さん、何の痕かわかりますか?」
「手前の二つの痕は、おそらく床に流れた血を踏んだ痕でしょう。どちらも靴裏についた血を、立ち去る最初の一歩分だけ床に残しているようですから」
とはいっても、靴裏全体ではなく、つま先付近のほんのわずかな足跡であるようだった。
「犯人の足跡か、もしくは……?」
警部は後ろの人物をじろりと睨みつける。
「えっ、ちが、いますよ?」
といいつつも、焦った江雷は思わず片足を上げてスリッパの足裏を確かめる。
「お、っとっと」
慌てたせいで片足立ちがうまくいかずバランスを崩す。
三歩ほどよろめいて、下ろした足を思い切り床にバンと踏み込んでしまった。
「おいおい、何をやっとるんだね」
思わず岡田も苦笑する。
江雷は頭をぽりぽり掻いてごまかすしかなかった。
「現場に近づいたことがある以上、君のそのスリッパも調べるしかないな」
立ち上がりつつ嬉しそうに言う。
ここまで散々江雷の証言や助言によって進められてきた捜査だが、ついに警察が彼をコントロールし、威厳を保てる時が来たかもしれない。
そう勝手な対抗心を燃やすと、岡田はわくわくして仕方がなかった。
「調べるなら、そこにあるスリッパも調べてみてください」
「ん?」
首を傾げながら見た先には、きれいに並べて置かれた三足のスリッパが。
「なんだね、このスリッパは?」
「トイレ用のスリッパですよ。といっても、普段は誰も使っていません。使うのは、床に水を撒いたりするトイレ掃除の時くらい」
「な、なるほど。こちらのスリッパも調べておこう」
またしても一歩先を行く発言をされてしまった。明らかに抑揚のなくなった声を出す。
「君のスリッパも少し預からせてもらうぞ。代わりに履くものは部下に用意させるから、いったん廊下に出ていよう」
トイレ用スリッパと江雷のスリッパを鑑識に渡して、ふたりは廊下に出た。
「あとは、理科室で待機している四人のスリッパだな」
理科室の方向を凝視する。
岡田としては、江雷をひとり置いてここを離れるわけにはいかなかった。勝手に動きまわられては困るし、何より潔白が証明されているわけでもないからだ。
どうしたものか途方に暮れていると……。
「岡田警部!」
都合よく、八十島が戻ってきた。
「おお、ちょうどよかった。八十島君、ちょっと江雷君と一緒にここで待機していてくれ」
「え? 聞き取りの報告は……」
「そんなの後回しだ」
「あ、はい」
頼まれた仕事の報告を、なぜか後回しにされてしまった。
頭に疑問符を浮かべる八十島に、岡田は近寄って耳打ちした。
「正確には……」
岡田の口元に耳を寄せる。
その後の言葉は、隣にいた江雷には聞こえてこなかった。
「頼んだぞ」
「わかりました」
やや驚きを隠せないといった表情で、八十島は深くうなずいた。
岡田は身を翻し、颯爽と廊下を歩いていく。
何を内緒話していたのだろう。きょとんとしてその背中を見つめる江雷に、八十島は優しげな声で話しかけた。
「さて、今から外で待っている仲間に履くもの持ってこさせるよ。足元が冷たくて寒いだろうけど、少しだけ我慢しててね」
そう言って八十島はポケットから携帯電話を取り出す。
しかし、その心は言葉遣いとは裏腹に、穏やかなものではなかった。
八十島の脳裏に耳打ちされた上司の言葉が蘇る。
「正確には、江雷君の監視だ」
凶器の在り処を導き出すなどして活躍している江雷君を、岡田警部は疑っているのだろうか。
聞き取ってきた情報が上書きされ消えてしまいそうになるほど、八十島の頭は驚きと不安要素で容量オーバーになってしまいそうだった。
六
身震いがした。
春はすぐそこまで迫っている。だが、この天気だ。
朝から続く雨模様。花冷えと呼ぶにふさわしい、気温の上がらない肌寒い日だった。
「へっくし!」
くしゃみをする江雷。足元が冷たい。
履くものを取り上げられた、といっても過言ではない状態で、江雷は靴下のままひんやりする廊下に突っ立っていた。
「ごめんよ、もうすぐ来ると思うから」
申し訳なさそうにする八十島。彼は仲間にスリッパの代わりに履くものを持ってくるよう連絡していた。
「そういえば、刑事さん?」
「ん?」
「荷物検査では、何か怪しいものは見つからなかったんですか?」
「見つかってないね。……あ」
答えておいてから、八十島は自分の頭をごつんと叩く。
「その書類に荷物のリストが載っているなら、見せてほしいです」
その手に持つ書類に目をやる。
八十島は、誤魔化しがすでに利かないと瞬時に判断した。この書類を理科室からやってきた警官が自分に渡すところを見ていたのだろう。そして、自分は荷物検査の結果を口頭で受けてはいない。にもかかわらず、怪しいものは見つかっていないと答えてしまった。書類に目を通した自分だけが知り得ているはずの情報だ。
もし、そこまで察知してからの今の質問だとしたら、優れた洞察力の持ち主だと認めざるを得ない。
「警部には内緒だよ。見せてもらいましたーなんて簡単に言っちゃダメだからね」
「承知しました」
中学生らしからぬ受け答えをしつつ、江雷は嬉しそうに開かれた書類に目を落とす。
リストはシンプルに箇条書きで書かれていた。
馬場……筆記用具、卒業に関する書類、部活動活動記録簿、携帯電話、タオル、傘。
茶本……筆記用具、新学期に関する書類、スマホケース、携帯電話、メモ帳、傘。
土井……筆記用具、入学に関する書類、折り畳み傘、スマートフォン、髪留め、リップクリーム他雑貨。
「ありがとうございます。もういいです」
お礼を言うと、江雷は前を見据えて情報を整理した。
所持品は示し合わせたかのように似たり寄ったりというところか。土井さんの荷物は最後省略されているが、女子の身だしなみを整えるものが色々入っていたのだろう。
「あ、来たかな?」
近くの階段から、駆け足で上ってくる足音が聞こえてくる。
「お待たせしました」
若い警官が、スリッパを携えてやってきた。
よく見ると、一足だけではなく、何人かの分はあるようだ。ビニール袋に入れられたそれらから、一足分を取り出して江雷の足元にセットする。
「はい、これを履いてね」
いかにも来客用といった感じのコットン製のスリッパだ。文字の刺しゅうなどはなく、あらかじめ警察が用意していたものか、学校が貸し出したものかは江雷にはよくわからなかった。
「あ、向こうで警部が呼んでいますよ」
スリッパを履く江雷の動作の一部始終をじっと見ていた八十島が、若い警官に言われはっと我に返って振り返る。
理科室のドアのところから、岡田警部が上半身だけをのぞかせてちょいちょいと手招きしていた。
「ああ、僕も行かなくちゃ。わざわざご苦労さん」
遣わせた若い警官をねぎらいつつ、スリッパの入ったビニール袋を受け取ろうとする。
「ところで……」若い警官がそれを渡しつつ、話を振る。
「下で、男の子がひとり騒いでいましたよ」
「本当か? 僕がさっき下に行った時は見かけなかったけど。どんな子だった?」
八十島が聞きながら眉をひそめる。
「男の子でした。何やら、兄さんは悪くないから解放して、いじめられっ子の自分が悪いんだ、などと辺りの教師や警備員に詰め寄っているようです。暴れ出されても困るので、しっかり取り押さえていますが」
「ああ。落ち着いてくれるまで取り押さえておいてくれ。もしかしたら、明石君か、取り調べ中の誰かの弟かもしれない」
「了解しました」
若い警官は敬礼してから、再び階段を駆け下りていった。
「さて……」
八十島は理科室に向かおうとして、すぐ立ち止まって江雷を見る。
「君も僕についてきなさい。さっきからずっと立ちっぱなしで疲れているだろう。理科室で、他の子と一緒に捜査がひと段落するまで待っているといいよ」
そういうわけには……。
だが、ここはさすがに拒否することはできなかった。
おとなしくついていくことにした江雷。
その間、十五メートルほどのうちに、江雷はもう一度頭をフル回転させた。
兄さんを解放して、か……。警察の言う通り、誰かの弟と見て間違いないだろう。ただ、被害者の明石ではなく、馬場、茶本、土井のうちの誰かだと思う。あの中で、弟がいる人なんていたかな?
三人とは部活も異なり、同じクラスにもなったことがない江雷にとって、そこまでの情報は持ち合わせていなかった。
そこまで考えたところで理科室に到着する。
開け放たれたままのドアから中に入ると、遠藤、馬場、茶本、土井の四人は、出入り口から遠い窓側の席に座っているのが見えた。実験台を囲んで、窓側の左からふたりずつ時計回りに茶本と馬場、遠藤と土井といった風に着席している。
四人は何やら会話を交わしていた。
「馬場君、ハンカチありがとう。ティッシュも使い切りそう」
「気にしないで。茶本、お前ティッシュ持ってない?」
「今日は忘れたんだ、ごめん」
「そういえば、昼に牛乳こぼされた時も拭くものがなくて困っていたよね」
「嫌なこと思い出させるなよ」
「しょうがない。先生が、あとで職員室から予備を持ってくるよ」
「助かります」
などといった会話をしていた。
目が充血している土井を見ると、どうやらショックが大きくて泣いていたようだ。
「警部、スリッパを持ってきました」
ドア付近に立っていた岡田に声をかけると、ふたりが来ていたことに気づいていなかった様子で慌てて振り向く。
「おっと。ご苦労。全部取り出してから、四人のスリッパを入れ直して鑑識へ持って行ってくれ」
「わかりました」
八十島は手際よくスリッパを取り使い、遠藤、馬場、茶本、土井の四人のスリッパをビニール袋に詰め込んだ。
「あ、どれが誰のスリッパかわからなくなりそう……」
「おいおい」
岡田が今更かといった目で部下の不手際を恨む。
確かに生徒のスリッパは男女ともに色は同じで、名前の記載がなければわからなくなる。
「大丈夫ですよ」
すると茶本が気軽な声でフォローしてきた。
「ボクらみんな一センチずつサイズが違いますから。な、馬場?」
「そういえば、僕が土井さんと一緒、女子かよ、ってバカにされたことがあったね」
「あれ、そうだっけ?」
「とぼけないでよ」
「へえ。ていうか、君たち私のスリッパのサイズも知ってるってこと? 自分のスリッパは後輩に譲っちゃったから、今日はお兄ちゃんのお下がりを履いてきたのに……。気持ち悪いなあ」
土井に指摘されるが、茶本は悪びれる様子もなく。
「そういうマニアとかじゃないから。でも、そういうことが言えるなら土井さん、もう気分も回復してきてるみたいだね」
「まあ、ね。ったく調子いいんだから。もうこれいらない」
土井が先ほどから手に持っていたハンカチを馬場に投げ渡した。
「あー、コホン」
岡田がわざとらしく咳払いをすると、ふざけ合う生徒らは黙って姿勢を正した。
「これはしばらく警察にて預からせてもらいます。調査が終わればすぐお返ししますので」
遠藤を含め四人は黙ってうなずく。
岡田は振り返ると、八十島に近寄って小声で話しかけた。
「ところで先ほどの件、抜かりはなかったな?」
「ええ……」
内容の見えないやり取りをする。八十島には質問の意味がわかっていた。先ほど耳打ちされた内容を、きちんと対応したな? ということだった。
逆に、このやり取りがむしろ、江雷に疑問を持たせてしまった。
さっき耳打ちしていた内容は、スリッパを人数分用意してこい、ということだったと江雷は解釈していた。だが、スリッパの件が済んだ後で、まるで別のことを示すかのような質問と回答は、江雷には伝わってきていない内容がまだ含まれていたと推測できるのだ。
それは一体……?
江雷の心の内に陰りが生じる。
そして、一つの可能性に辿りつく。
思えば、自分は警察に協力しているように振る舞っているけれど、警察から見れば現場に居合わせた不審な人物の中のひとりに過ぎないのかもしれない。
……ということは。
ぼくはまだ、疑われている。
……無理もないか。
疑われて当然かもしれない。
気丈に自分に言い聞かせる。
そうでもしないと、今までの行動がバカバカしくなってくるからだ。
自分は血の海を踏まないようにしていたし、そこまで近づいていないからスリッパに血は付着していないはず。
それが判明すれば猜疑の目を向けられることもなくなるだろう。たぶん……。
「あ、そういえば」
「何かね?」
今度は八十島が、岡田に耳打ちするように手でガードを作る。
「兄さんは悪くない、解放してくれ、って下で騒いでいる男子がいるらしいんですよ」
「本当かね」
このやり取りは、傍にいる江雷の耳には届いてきた。
「ええ。一応暴れないように取り押さえているようなんですが」
「名前は?」
「すみません、そこまでは」
「まあいい。あの中の誰かの弟かもしれないということだな。あとで確認しておこう。それから、このことは彼らには内緒にしておこう。よくない刺激を与えてしまうかもしれないからな」
「わかりました。では、これは鑑識へ」
「よろしく」
八十島が再び現場のトイレへ駆けていくのを見届けると、岡田は大きく息を吐いた。
その様子を見ていた江雷に気づくと、落ち着かない様子で襟元を正す。
「江雷君、君も座って休んでいるといい」
「はい」
今度は素直に受け答えして、江雷は座る場所を探す。
「あ、すみません」
と、ここで茶本が手を挙げた。
「ボク、さっきからずっとトイレを我慢しているんです。行ってきちゃダメですか?」
「ああ、トイレですか。それなら……」
振り返ってみれば、茶本が最初に明石を発見した時、本来ならばトイレを済ませに来たはずだった。それがそうはいかず、いつの間にかかなり時間が経過している。もしかしたらずっと我慢していたのかもしれない。
「わかりました。では、念のため近くにいる警備に同行させます。使うのは、現場以外のトイレでお願いしますよ」
そこは言わずもがなといったところか。
許可をもらえた茶本だったが、不機嫌そうにため息をつきながら立ち上がった。
「はあ。まだボクたちを疑っているんですか。何も悪くないのだから早く解放してくださればいいのに。あ、トイレといっても実は大きいほうですからね。そこまで監視していないようにお願いしますよ。ああ、このスリッパ脱げやすくって歩きにくい」
「……」
愚痴に応じる者は誰もいない。むしろ場の雰囲気を悪くしてしまったようだ。
岡田は理科室の近くで警備に当たっていた警官を呼びとめ、茶本のトイレに同行するよう指示を出した。
茶本はむすっとした顔のまま、履き心地の悪そうなスリッパをぱたぱたと音を立てながら、柄が悪そうにポケットに手を突っ込んだ状態で、教壇の前を横切り、出入り口付近に立つ江雷の前を横切っていく。
すれ違いざまに……。
江雷の頭の中で。
何かが引っかかった。
江雷の頭の中に。
今日の様々な出来事がフラッシュバックする。
そして次の瞬間。
脳裏に一筋の閃光が走った!
「あ、警部さん」
「ん?」
「ぼくもトイレに行きたくなったので、ついでに一緒に行ってきます」
「なんだそりゃ。まあ、構わんが」
「あ、それから、ちょっと耳を貸してください」
手をぶらんと垂らしたまま、手首をくいくいっと曲げて寄ってくるよう促す。
さすがに、警察のふたりのように手招きだけでは失礼極まりないだろうと思って、江雷は言葉も付け足したのだった。
警部は何の疑いもなく寄る。というのも、子供のいたずらだとか、そういうことには慣れていた。何を言われても平然とやり過ごせる心の準備はできている。
「ごにょごにょ」
「?」
伝えられた内容の真意がつかめず、岡田は顔をしかめた。
「お願いしますよ。絶対です」
念を押され、岡田は「ああ、わかったよ」と渋々了解する。
すでに茶本と見張りの警官が離れていってしまったので、江雷は急いで後を追った。
その場に残った岡田は、江雷の背中を見届けつつ思う。彼の自信満々といった様子がとても印象的だったと。
七
思いのほか距離を開けられていた。
というより、ずっとトイレを我慢していたせいか、足早に進んでいるといったほうが妥当か。
見張りの警官も、追いかけるのがやっとというほどの早歩きだ。
校舎にはいくつもトイレがあるが、どこに向かうつもりなのだろうか。江雷は見失わないように急いで後を追った。
やがて、校舎の二階西の隅にあるトイレに辿りつく。茶本は脇目も振らずにトイレに突入した。
警官がトイレの外側で立ち止まるが、人と壁の細い空間であるその傍らを、江雷は器用に身を翻してすり抜ける。
「あ……」警官が制止しようと伸ばした手は空振りした。
茶本が大便用の個室トイレに入ろうとした、まさにその時。
「ちょっと待ってくれ」
追跡していた江雷が初めて声をかける。
茶本はドアノブに左手を伸ばしかけたところで静止した。
「ちょっと待ってくれ、茶本君。少し話があるんだ」
歩み寄る江雷に対して、茶本は明らかに怪訝そうな顔つきになる。
「これからトイレってところで、失礼な人だな、君は」
「ごめんよ、その前にどうしてもお願いしたいことがあってね」
「わかったから早く用件を言って」
無遠慮で近づく江雷に、茶本は舌打ちするほどさも嫌そうに振る舞う。
「ハンカチを忘れちゃったんだ。だから貸してくれないかな」
「は?」
「いやだからハンカチをね……」
「なんで?」
「ぼくもトイレに来たんだ。小だけどね。ぼくのほうが先に済むでしょ」
「そんなの、警察の人に言えばいいじゃん。すぐそこにもいるし」
そう言って、トイレの外に向けて顎をくいっと動かす。
「頼みづらくってさ。頼むよ」
「……ボクは持ってないよ。生憎今日は忘れちゃったんだ」
「知ってるよ」
「え?」
それならなんで聞いた? 矛盾していることに茶本はまったく合点がいかなかった。
「さっき、理科室で話していたのを聞いたんだ。ハンカチもティッシュも忘れたってね」
「そうだけど。それが何か?」
それは大して不思議なことではない。たとえば、制服を洗濯した次の日に、ハンカチやティッシュを入れ忘れることは誰でも一回はあるのではないだろうか。
「でも君は今、ハンカチを持っているよね?」
茶本の眉がぴくりと動き、
「その右のポケットに……」
手を突っ込んだままの右のポケットを眼球だけ動かして見る。
「濡れちゃっているハンカチが……」
「……」
茶本は右手をポケットから抜こうとはせず、問い返した。
「なんでそんな変なことを聞く?」
「だって、右のポケットの生地が濡れているのがわかったから。それに、手を入れているだけの状態にしては膨らみが大きかったからね。要するに、ポケットの中の手の形がパーではなくグー……ずっと何かをつかんでいる状態だったってことだよ」
確かに、茶本の右ポケットの部分だけ少し色が濃くなっていた。茶本自身、今見て初めて知った事実だ。
「わかった。ハンカチを隠し持っていたことは認める。でも貸さないよ。人が手を拭いたものを使いたくない。土井さんの時もそう。ボクは割りと潔癖症なところがあるんだ。さあ、わかったならもういいだろう? ハンカチは諦めて」
「わかった、諦めるよ。ぼくも、嘘をつくことに」
「?」
すると江雷は突然上半身だけ振り向かせて声を張り上げた。
「すいませーん、警察の人。ちょっと来てくださーい」
見張りのためにトイレの外で待機していた警官が、慌てて中に入ってくる。
「茶本君が持っているハンカチを、至急鑑識に届けてください。調べれば何かわかるかもしれません」
「おいおい、何を勝手なことを。そんなのトイレの後でいいじゃないか」
そう言うと茶本は、無視して個室トイレに入ろうとする。
そこへ江雷が手を伸ばして茶本の腕をつかむ。
「今じゃないとダメなんだ」
「離せよ!」
その腕を茶本は引っぺがそうとするが、江雷も食いついて離さない。
「なんでさっきからボクに突っかかってくるんだ、気持ち悪い」
「それなら、どうして嘘をついてまでハンカチを隠そうとした?」
「人に使わせなくないからって言っただろう」
「じゃあなぜ、しばらく使っていないはずのハンカチがそんなにも濡れているんだ」
「昼に使って、まだ乾いていないだけだよ」
「やめないか、ふたりとも!」
警官が割って入ってふたりを引き離す。
「ハンカチ一つで何を揉めているんだ」
たしなめられたふたりはようやく落ち着くが、相手を睨みあったままだ。
ただ単にハンカチを貸してもらいたいだけなのに、なんだか険悪なムードになってしまった。江雷としてはもう少しうまくやりたかったが、スムーズにいかずに自分の不器用さに嫌気がさす。
「君は、どうして彼のハンカチにそこまでこだわるのかな?」
問い質された江雷は、一息ついて一歩引いた。
「茶本君が、現場に近づいたと思うからです。もし、血に触ったりしちゃったとしたら、ハンカチで拭いているかもしれません」
「現場に近づいた、だって!?」
茶本の目が血走る。
「いつ誰がそんなことを言った? 聞き捨てならないな」
江雷に詰め寄ろうとするが、警官にじろりと睨まれて前屈みになった上体を立て直す。
「と、とにかくいい加減にしないと訴えるよ」
「じゃあ、近づいてはいないんだね」
「そうだよ」
「……おかしいなあ」
「な、何がだよ」
「君が最初に明石君を発見した時、こう言ってたそうだね。明石君が刺されて大変だって。
でも、本来ならばその時、凶器のナイフはトイレのタンクに隠されていて、刺されているかどうかわからなかったはずだよね」
「!?」
「近づいてもいないならなおさら……」
「待て」
茶本は江雷の話を無理やり止めた。
「君の言い方は回りくどい。先に結論を言ってほしい」
江雷は黙ってうなずいて、大きく息を吐く。
「この事件の犯人は茶本君……君だと思う」
何秒かの沈黙が流れた。
最初に沈黙を破ったのは身張りのためについてきていた警官だった。
「えっと、何もここで話さなくても。場所を変えよう」
まずは当然の意見を言ってみるが、江雷に首を振られて拒否されてしまった。
「いや。ここで話す方が都合がいいです。ちょうどここのトイレは現場のトイレと構造がよく似ている。説明するにはうってつけの場所ですよ」
「は、はあ……」警官は曖昧な返事をするしかなかった。
「君は確か、江雷君だったね」
江雷が話を始める前に、茶本が切りだしてきた。
「失礼だよ、本当に君は。なぜボクひとりを疑う? 確かにナイフで刺されていたと勘違いしていたかもしれないけど、胸の辺りから血を流していたからそう思うのも当然でしょう?」
茶本は余裕を持った表情で肩をすくめる。
「そうだね。じゃあ、どうして凶器はそこになかったと思う?」
「どうしてって……。誰かが隠したって、さっき君や警察が話していたじゃないか」
「そう。それができたのは第一発見者である茶本君、君だよね?」
「なっ!?」
突然の名指しに、茶本は瞳孔を開かせた。
「ひ、酷い言いがかりだね。ボクが見つけた時は本当に刺さっていなかったよ。たぶん犯人が刺してから隠したんだよ」
「確かにそう考えるのが普通だね。でも、実はその可能性はないんだよ」
「な、なんで言い切れるの?」
「まず、外部犯の可能性がないからだ。窓の外は壁一面。せいぜいサッシに手足をかけられるくらい。それに、あのトイレの下は職員室だから、すぐ姿を見られてしまう。誰かが窓の外を上り下りして侵入したとは考えられないんだよ」
「ボクが発見者を装って、刺して隠したと? そんなわけあるか。ボクはすぐ理科室に戻ったぞ。馬場の奴は一分くらいといっていたが……。そうだ!」
茶本は何かを思いついたようにポンと手を打つ。
「馬場の方が一層怪しいじゃないか。ずっと理科室の前にいたというのは嘘で、本当は明石を刺しに行ったかもしれないだろう?」
「それもないな」
「なんでだよ」即座に否定された茶本はふてくされたように言い放った。
「そもそも明石が刺されたのと、凶器が隠されたのは、同じタイミングで行われなかったんだ。鑑識の調べで、現場の床には凶器が落ちていたと思われる痕が残っていたことがわかった。血の海となっていた現場にしっかりとその痕が残っていたということは、ある程度の時間、凶器がその位置にあったということになる。そして、被害者自身の手が血だらけだったことを踏まえると、おそらく突き刺さっていた凶器を自分の手で抜いたのだろう。だけど、被害者はそこで力尽きてしまった……」
茶本は押し黙る。
「再び現場に戻ってきた犯人は、抜け落ちていた凶器を見つけ、とっさにタンクの上に隠した。さっき、警察との話で説明したようにね。そう、つまり犯行は二回に渡って行われたんだ。……ひとりで二度、現場に立ち寄ることができたのは、茶本君、君だけだ」
江雷は左手を前に挙げて、人差し指、中指と順に立てていく。
その手をじっと見つめていた茶本だったが、唇を苦しげにゆがめて目をそらした。
「二度、現場に寄ったって、おかしなことを。ボクは職員室まで鍵を借りに行っただけだ。その時に犯行に及んだと言いたいんだろうけど、トイレには行っていない」
「その割には時間がかかったね」
「久しぶりだったから、職員室のどこに鍵が保管してあるか忘れていたんだ。第一、馬場が男子トイレをずっと離れたところから見ていたという話だろう。馬場が犯人ではなく、あの証言が本当だとしたら、誰もトイレに入っていってないことになるよ。その辺はどう説明するつもり?」
「……」
江雷はここで目を閉じ、沈黙を作った。
説明できない、というわけではなく、意図して作られた空白の時間だ。
頭の整理をするため、時間を作るため、そして……。
「説明できないなら、ボクを犯人だと証明することは無理だね」
視覚を休ませていることによって、茶本の言葉が集中された耳から体の奥まで浸透してくる。それを心で吟味した江雷は、閉じていた目をそっと開いた。
「……窓だよ」
「窓……?」
「人の目があって廊下からの出入りが無理なら、残るは窓しかない」
すると、茶本はぱっと表情を変える。
「ははっ。何を言って……。君はさっき、窓からの侵入はないって言ったじゃないか。矛盾してるよ、変なの」
小馬鹿にするような言い草。だが、その声は若干震えていた。
「いや、犯人は地上から上り下りしたわけじゃない。二階のトイレの窓に直接飛び移ったんだ」
「ええっ?」
突然のトイレの外からの声。
「あっ。誰か盗み聞きしている!?」
ずっと黙って聞いていた付き添いの警官が、慌ててトイレの外に飛び出る。
「誰だ!」
どうやら話をトイレの外で立ち聞きしている者がいたようだが。
「待って、待って。僕だよ、僕」
姿を現したのは。
「あれ、八十島さんじゃないですか」
警官が拍子抜けする。
八十島刑事は困り顔で姿を見せる。その後ろには岡田警部もいた。
「いや、驚かせて申し訳ない。悪気はなかったのだが、江雷君の話を途中から聞かせてもらっていた」
真顔で事情を話す岡田。だが、一番に恥ずかしいはずの江雷に驚いている様子はなかった。むしろ楽しそうに笑みを浮かべている。
そう、江雷は待っていたのだ。彼らが到着するのを。
先ほど少しだけ時間を作ったのもそのためだ。
犯人像を見出し、犯行を解き明かさんとする江雷。学校で起きた事件は、解決へ向けて佳境を迎えていた。
八
「……さて」
静まり返った空間に、岡田警部は音を震わせる。
「話の腰を折ってすまなかった。さあ、江雷君。続きを話してくれ」
誰かに助け舟を出すわけでもない。岡田は先を促す。
「警部さん、あの件は?」
「予想通りだ。あれに付着していた」
江雷は嬉しそうにうなずいた。
ふたりの刑事の到着は、江雷の計算の内だった。あらかじめ、後で追いかけてくるよう伝えてあったのだ。それがあの耳打ちである。
途中で参加させることにも意味があった。警察側にも調べ物があったのも事実だが、すべて話してしまってから、もう一度警察に話をするのは二度手間だ。
それに……。
江雷は茶本の顔色をうかがった。
それに、もしこの人が犯人なら、自分から警察に告白してほしかった。江雷が警察にすべてを話す前に。素直に自白してほしかったのだ。
ただの同級生としての好かもしれない。甘いだけの余計な同情かもしれない。
江雷にとってここまでの時間は、茶本に与えた最後のチャンスだった。
だが……。
うかがった顔色はというと。
「納得がいくまで、ボクは引き下がらないぞ」
あくまで挑戦的な姿勢を崩さないようだ。
その瞬間に。
江雷の心が決まり。
相手を見据える眼光の鋭さが増した。
「犯人は、飛び移って窓から侵入したのさ」
端的に述べる江雷。だが、その詳細が知りたいのは他の誰もが思うことだった。
「ジャンプしてよじ登ったとでも? そんな超人的な真似ができるか」
「まさか、上の階の窓から下りてきたのか? いや、掴まるところがない以上、やはりそれも難しいか」
それぞれ想像を膨らませてみるが、理に適ったような経路を思いつかない。
「壁伝いに移動するのは上下だけだとは限らないんですよ。窓の外、もう一度よく見てみればわかります。すぐ近くに手足が届くものが一つありますよね」
「ま、まさか」
真っ先に察した岡田が目を見開く。
「隣の女子トイレの窓か!」
「なんだって? じゃあもしかして、土井さんが犯人?」
八十島がまったくもって早まった見解をする。
「違いますよ。女子の中でも特に小柄な彼女にこの犯行は難しい。それに、土井さんは一回トイレに行っただけで、二度も現場に近づいていない。ただし、土井さんが被害者を刺し、あとで別の誰かが凶器を隠したという可能性もありますが、いろんな面で不可解な点が生まれるだけなのでまずないと見ていいでしょう。自殺に見せかけるよう仕組むならまだしも、逆に怪しまれる結果を招くわけですからね」
「なるほどな」
岡田はしかつめらしく腕を組む。
「窓に飛び移るって、羽が生えて宙を浮かんだとでもいうのか?」
だが、茶本はまだ納得していないようだった。
「いや、飛ばなくても窓と窓の距離は手足を伸ばせば十分に届く範囲。犯人はこっそりと女子トイレに侵入し、窓から身を乗り出し、隣の男子トイレの窓に移動して明石君のいる男子トイレに忍び込んだんですよ。明石君と待ち合わせをしていたのかどうかは、わかりませんけどね。窓が少し開いたままになっていたのは、去る際に閉め切れなかった痕跡かな」
「いやいや、その説明はおかしいよ。女子トイレに侵入する時点で、土井さんに見つかってしまうじゃないか」
「見つからないよ。なぜなら土井さんは、個別に仕切られた個室トイレの中にいたはずだからね」
男子トイレとは異なり、壁に立ち並ぶ小便用の便器は存在しない。そのため個別トイレの中にいてお互いに姿が見えない状態だったというわけだ。
「警察からの聞き取りの時に、土井さんが誰かいる気配があった、と証言したのは、気のせいではなく本当のことだったんだ。雨音が聞こえたとも言っていたから、窓が開けられた時にそう感じたんだろうと思う。それと、もしかしたら、いるはずの存在がやはりいない、とも感じたかもしれない。なぜなら、スリッパだけが入り口に脱いで置かれていたでしょうからね」
「スリッパだけが、入り口に? どういうことだ?」
岡田は眉間にしわを寄せる。
「犯人が脱いでいったスリッパですよ。スリッパのままでは足音が立ってしまう。そこで犯人は、トイレの利用者を装って入り口で脱いでおき、靴下の状態で先ほど説明した、窓から窓へ移る手段を取ったのです。土井さんが感じた疑問がすべてを物語っている。雨音のことも、スリッパの存在だけで実際にトイレにいる人はいなかったこともね。でも、疑問に思っても不審には思わなかったでしょう。男子は面倒くさがる人がほとんどですが、女子は衛生面を気にして、トイレ用のスリッパに履き替える人は多いみたいですから」
「ふむ。そういうことか」
岡田の眉間のしわが浅くなる。
だが、しわ寄せが感染している人がいた。
「君は女子がトイレに入るところをそこまで見ていたことがあるのかい? それこそ気持ち悪いし怪しいと思うぞ」
茶本が細かいところを指摘する。
「残念ながら、落ち度があるのは君の方だよ。うまく誤魔化してやり過ごしたつもりだっただろうけど、ぼくはあの会話のことをちゃんと覚えているよ。なぜ、土井さんが今日履いてきたいつもと違うスリッパのサイズを知っているかということを」
「!」
「しまった」という顔つきになるが、茶本は喉から言葉が出てこなかった。口を半開きにしたまま、視線を彷徨わせている。
「女子トイレに侵入し、スリッパを脱いだ時に見てしまったんだろうね。隣に置かれていた土井さんのスリッパを。そして、普段足裏に隠れて見えないところに書かれているサイズが目に入って暗記してしまった。ありがちな失態だと思うよ」
「ふ……」
茶本は歯を食いしばる。
「ふざけるな! 何が暗記だ、失態だ! なぜ、ボクを、そこまで、犯人に、仕立て上げようとするんだ!」
勢いに任せた叫びは、呼吸を乱して途切れ途切れになってしまう。
逆上した茶本が何かよからぬ行動を起こさぬかと、岡田は八十島に目配せしていつでも動けるよう合図した。
江雷は冷静さを保ったまま、さらに茶本を追い詰めていく。
「君が靴下の状態で窓を移動した証拠が、実は残っていたんだよ」
「な、なんだって?」
「窓のサッシに、糸くずが挟まっていたんだ。汚れ切ったサッシとは違う、まだ真新しい色のついた糸くずがね。あれ、たぶん茶本君の靴下の糸くずだと思うよ。何かに引っかかって糸が切れて残ったんだろう。警察が調べれば、その糸が茶本君の靴下のものであることがわかるはず」
江雷が顔だけ動かして警察の反応をうかがうと、岡田は肯定の意思を示すようにうなずいた。
「犯人の行動を整理するとこういうことです。まず、職員室に行くといってその場を離れた犯人は、職員室には行かずトイレ付近の階段から二階に戻ってきて、女子トイレに侵入した。窓から窓へ移って男子トイレに忍び込み、明石を刺した後、再び窓から女子トイレに戻った。土井さんが犯人のスリッパを見たならば、その時はすでに土井さんはトイレを済ませて理科室へ戻った後だったということ。犯人はそのまま近くの階段から一階へ下り、職員室から鍵を借りてきて理科室へ戻ったというわけです」
「そして、第一発見者を装って再度現場に赴き、凶器を隠したというわけだな」
岡田が補足する。
「ええ。ただ、凶器を隠すことが計画のうちだったかはわからないです。凶器を床に落としたのは被害者自身だったわけですからね。焦ったのか、捜査を攪乱したかったのか、犯人は凶器をタンクの上に隠してから馬場たちに報告しに行った」
「……証拠は?」
茶本は途中からうつむいていた。その状態のまま、最後の抵抗を見せる。
「証拠はあるのか? ボクが窓から窓へ移ったことは認める。証拠があるからね。でも、ボクが明石を刺した証拠にはなってないよね? 凶器を隠した証拠だってないよね?」
威勢はすでになくなっていて、すがるような問いかけだった。
「ルミノール……」
江雷は少しだけ視線を落として、ある一か所を見つめながら答えた。
「凶器のナイフのことを思い出してください。刃の部分にはべったりと血が付着していたのに、柄の部分はなぜかきれいな状態になっていた。被害者の手も血まみれだったのに、そこだけ拭い取られているのはおかしいですよね。犯人がナイフを隠す時、何かしらの物を使って柄の部分を持った証拠です。自分の手に血がつかないようにね。身近にあって使えるものといえば、トイレットペーパーだ。でも、水に溶けやすいトイレットペーパーでは心もとないし、巻き取って、トイレに流して、なんて悠長なことはしていられない。水に流すのも音が響くから避けたいところ。だから犯人は、とっさに自分の所持しているものを使った。……そう、ハンカチだよ。運悪く、ティッシュペーパーを持ち合わせていなかった犯人は、ハンカチを使うほかなかった。だから、ついているはずですよ。茶本君が今、ポケットに隠しているハンカチに、赤石君の血がね。たとえ水で洗ったといってもすぐに落ちるものじゃない。警察が調べれば、すぐルミノール反応が出るはず」
茶本はまだ、右手をポケットに入れたまま、それを出そうとしない。
「それから、今さっき警察に調べてもらったことがある。現場には血を踏んだ痕が二か所あった。一つは遠藤先生のスリッパだ。たぶん、発見して容態を確かめる時に血を踏んでついてしまったものでしょう。もう一つは、君の……といいたいところだけど、実はトイレ用のスリッパだった。そうですよね?」
振り返って刑事たちに質問を投げかける。
「ああ、君の予想通り、もうひとつはトイレ用スリッパで踏んだ痕だ。鑑識の照合はまだ済んでいないが、目で見てもそうだとわかるものだったから間違いないだろう」
岡田の回答に、江雷はお礼の意味も込めて軽くうなずいた。
再び茶本を見据える。
「どうしてトイレ用のスリッパに血がついていたか。それは、犯人が履き替えたためだ。凶器を隠す際に、自分のスリッパに血がつかないようにするために。こんなことができたのは、たったひとりだけ。凶器が落ちている現場に、唯一立ち入ってわざわざ履き替えて足跡をつけてしまうことができるのは、茶本君、他ならぬ君だけなんですよ」
江雷は語気を強め、茶本を真正面から見つめた。
「まだ間に合う。下手な隠し立てはせずに、自白することを勧めるよ」
「……」
茶本は黙して答えない。
数秒の沈黙があった後で動きだしたのは警察だった。
「江雷君、もうよすんだ」
岡田が江雷の肩をつかむ。
「茶本君、君が犯人だとまだ決めつける段階ではない。だが、詳しく話を聞く必要がありそうだ。署まで任意同行願いたい。それから、ハンカチを持っているなら私に貸してくれ」
口調に棘はない。しかし事実上、容疑者であることを示すには十分だった。
茶本は観念した様子で、右手をポケットから出した。その手にはハンカチが握られている。大きく染みのついている、湿ったハンカチが。
「八十島君、この子を車まで案内してくれ。ワシは後で行く。それからハンカチは、君が鑑識まで持って行ってくれ」
「はっ」
「かしこまりました」
岡田は八十島と付き添いだった警官に指示を出すが……。
「ちょっと待ってください」
茶本の最後の抵抗か? だがそうではなかった。
「最後にひとつだけ話をさせてください」
ため息の混ざった声でそう告げられると、岡田は動きだそうとした八十島を制止して、茶本に向かって一回首を縦に振った。
「……助かります。ボクがなぜ、こんなことをしでかしたか。単なる恨みだと思いますか? そう思われてもいいでしょう。でも、ちゃんと理由はあるんですよ。正当化はできないでしょうけどね」
茶本の口調はまだ荒っぽさが残っていた。それでも岡田も江雷も黙って聞いている。
「弟、ですよ。明石は弟をいじめていたんですよ」
岡田も江雷も努めて表情は崩さなかったが、八十島だけは目を丸くして反応をあらわにした。
「もともとヤンキーな奴だった。だけど、まさか弟に手をあげるなんて。いや、むしろボクの弟だと知ったからこそ、いじめたくなったかもしれませんね。頭の固いボクとちゃらい明石は犬猿の仲。弟が被害にあって、ボクが困る様を見たかったんでしょう。許せるわけがないでしょう。弟に手を出すなんて。新入生だった弟に、嘘の情報を教えて困らせていたことなんてしょっちゅうあった。嘘の集合場所を教えて、新入生のオリエンテーション合宿にひとりだけ欠席になりそうになった時は、はらわたが煮えくり返る思いでした。注意したら、目に見えるいじめはなくなりましたよ。でも、自分が犯人だと気づかれないような陰湿ないじめは続いていた。証拠もないから、訴えることもできない。はあ……。それでボクは、お返しすることにしたのさ。この学校を立ち去る直前に。今までのすべてをお返しします、永遠に……。そうボクは、断末魔を聞く前に伝えたよ」
江雷は鳥肌が立つ思いだった。言葉のひとつひとつが重く、深い。大切な兄弟を思い、やりきれない思いが殺意へと変わってしまった。
「言いたいことは言えたかね?」
岡田の質問に、茶本は黙ってうなずく。
「また言いたいことを思い出したら遠慮なく言ってくれるといい。さて、私はここで江雷君と話がしたい。君たちは茶本君を頼む」
「了解しました」
八十島と付き添いの警官が、茶本をしょっ引いていく。
静寂を取り戻したトイレに、岡田と江雷のふたりが残された。
「君にはまず、お礼を言わねばならんな。調べればいずれわかっただろうが、あそこまで話をつけてくれて、早急に事件が解決したのは君のおかげだ。助かったよ」
岡田はかぶっていた帽子を取って軽く会釈した。
江雷は軽く首を振って謙虚さを示す。
「いいえ。証拠を隠滅される前にわかってよかったですよ」
「ん?」
「だって、茶本君がトイレだといってここに来たのは真っ赤な嘘。本当は、ハンカチをトイレに流して証拠隠滅しようとしていたんでしょうからね」
「な、なるほどな。見事なものだ」
嬉しそうにする江雷だったが、ふっと表情に陰りが生じる。
「ところで、馬場君たちにはなんて説明を?」
本当のことを知ってしまったら、どれだけショックを受けることか。きっと他の知らない誰かが犯人だと思っているだろうから。
「まあ、本当のことを話すしかあるまい。メンタル面の今後のケアも、専門家を呼んで対応してもらうことにする。君自身は、平気なのか?」
今更、といった感じだが、配慮を欠いてはいけない。
「大丈夫です。それより遠藤先生のケアも必要かもしれませんね」
「ああ、そうだな。あの人も割とナイーブなところがありそうだったからな」
「やっぱりわかりますか」
「もちろんだ」
控えめながらもふたりの間に笑いが起こる。
「あ、もうひとり。ケアする相手として重要な人物がいますね」
「弟、だな」
「はい」
ふたりはすでに気づいていた。兄は悪くないと騒ぎを起こしていたのが茶本の弟であると。
「どうして、彼の弟だと気づきました?」
「所持品だ」
「やはりそこですか」
「卒業したての生徒が持つには違和感を覚えるものがあった。新学期に関する書類だ。あれはあとでよく見たら二年生に進級する時に必要な書類だった。四月から二年生になる弟のために所持していたものだろう」
「二つ年下なんですね」
「そのようだ。二年になった弟君をこのままこの学校に通わせるのか、別の場所へ引っ越すのかは家庭の問題になってくる。その先はいらぬ詮索をせぬ方がいい。そこはわきまえておかないといけないぞ」
「はい。気をつけます」
素直に岡田の言うことを受け入れる。
出しゃばりで慇懃無礼で名前みたいに偉そうな子かと思っていたが、話してみればそうでもないらしい。
「江雷君」
「はい?」
「今度、警察署に足を運んでくれないか?」
「それはまた、どうして?」
「こたびのお礼がしたい。子どもが事件を解いたなどと公にはできないから、本格的な感謝状などは出せないが、個人的にワシから感謝を伝えられればと考えている」
「そうですか……」
「どうかね?」
「立ち寄らせてもらいます。行くことによって、また勉強になると思いますから」
「見聞を広める、というやつだな。いい返事だ。日時はまた改めてこちらから連絡する。今日はこれにて引き取らせてもらうよ」
岡田は身を翻して颯爽と歩きだす。
「はい、さようなら」
その広い背中に挨拶をする。
岡田警部のように、捜査に関わらせてもらっていろいろ言える立場を作ってもらわなければ、自分で見て、考えて、発言することはなかっただろう。その点に関しては存分に感謝しなければ。
お礼が言いたいのは自分だって同じだ。そのためにOKの返事もした。
江雷宏一。この時十五歳。
中学を卒業したばかりの身にしては悲惨すぎる出来事であったが、新たな道が切り開かれる起点でもあった。
その道はまったく予想だにしていない、迷宮のような複雑怪奇な道の始まりだった。
(学校内の殺人 終)
最終更新日25/05/31
・前書き
登場人物
江雷宏一、吉本勝志、川野梨沙、広瀬和昭
明石武男、馬場直樹、茶本晃、土井沙智子
岡田達人、八十島