あの十五の春に
「愛を奏でるマリア」シリーズ「PART4」に当たる作品です。
シリーズでご覧下さい。
遙希が倫絵と初めて出逢ったのは、十二歳の夏。
遙希は名門「松朋音楽学院」中等部一年生、場所は或る財界のパーティー会場だった。
その時、倫絵は十八歳。やはり名門である「園田芸術美術大学」一年生だった彼女は、会場の片隅にて、葉書大の小さなスケッチブックの上で、一心に右手を動かしていた。
その容貌、佇まいの美しさと、それに似合わない一風変わったその行動に遙希は思わず、彼女に見とれていた。
何を描いているんだろう……。
そんな顔を遙希はしていたのかもしれない。
二人は、不意に一瞬、目が遇った。
遙希が目を逸らす前に倫絵は遙希に、華のような笑みを浮かべて言った。
「私が何を描いているか、知りたくて?」
「……人物画、ですか?」
「よくわかったわね!」
「貴女の視線の動きで、静物ではないなと」
「あなたは、観察力があるのね」
そんな会話を二人は交わした。
「僕は、『日向ホールディングス』日向本家の三男で、遙希です。失礼ですが、貴女は……?」
「私は、城倫絵。『ジェイ・ネス』って知ってるかしら? フィットネスクラブの。そこの経営者『J.CORPORATION』の城家の娘よ」
また、倫絵は微笑んだ。
それから。
二人は何度か、偶然にパーティーで顔を合わせることがあった。
「今日は描いていらっしゃらないんですね」
オレンジジュースを手渡しながら、遙希は言った。
有難うと礼を言いつつ、倫絵は、
「淑女には色々あってよ」
と、妖しく笑んでみせた。
彼女の手にしているクラッチバッグには、やはり今夜も、ごく小さなスケッチブックが入っているようであった。
遙希には、彼女は描いている時の方が、より艶やかであるような感じがした。
そして、遙希が中等部三年のとある午後。
学校から帰宅し、自分の離れへと向かう途中
「……倫絵さん!」
遙希は驚いて、声を上げた。
倫絵が、淡いオレンジと金色の地に、純古典柄の御所車が印象的な大振り袖姿で、日向家の広い庭に降りたっていたからだ。
「何故、貴女が?」
「あなたのお父様からお聞きしていなくて? あなたの下のお兄様、紘樹さんと、私、先日、お見合いをしたのよ」
嬉しそうに、彼女は言った。
次兄・紘樹の見合い話は知っていたが、相手がまさか城家令嬢のあの倫絵であることまでは、遙希は知らなかったのだ。
うっすらと頬を染めたその表情で、倫絵は紘樹に恋しているということを、遙希は直感した。
はっきり自覚していたわけではないが、遙希の淡い慕情とも言える初恋は、この時に一度、確かに破れたのである。
***
パタパタと、誰かが、母屋の長い長い縁側の一角を走っていくような音がした。
普段聞くことのないその足音に、遙希が幾つも連なる和室の一室からその方角へと出てみて捉えた影は
「まさか……」
それは、倫絵が走り去ってゆく後ろ姿であった。
「遙希くん……?」
その時、膝に伏せていた顔を上げ、彼女は問うた。
「何故、こんな所へ?」
「それは、僕の台詞ですよ。こんな、家の者もよく知らないような場所に、貴女がどうして……?」
遙希が倫絵の跡を追ったところ、二階の上の、そこは明治・大正の昔には女中部屋だったらしい、今は埃被っているやけに屋根の低い裏部屋だった。
部屋の北の壁際に座り込んでいる彼女の隣に座りながら、そう遙希は問うた。
「紘樹さんに教えて頂いたの。独りになりたい時によく、ここにいらっしゃるんですって。そう、この前伺ったばかりよ」
そう言うと、彼女はふっつりと言葉を閉ざした。
「兄と、何かあったんですか……?」
倫絵は暫し虚ろに視線を漂わせたが、それもひととき。
彼女はゆっくりと、口を開いた。
「さっき。紘樹さんに告げられたわ」
「何をです?」
「好きな女性がいらっしゃるんですって……。家に押しつけられた私より、その方の方が良いみたい」
「そんな……」
倫絵は、また膝に顔を伏せた。
家と家とが決めた婚約者同士ではあったが、倫絵は紘樹を愛していた。
彼女は、声を殺し、しかし、明らかに泣いている。
そして、遙希はいつの間にか。
自分でも気付かぬうちに、倫絵を抱き締めていた。
「遙希くん……?」
倫絵は不思議そうな顔をしたが、次の瞬間、これ以上の辛さはないという表情をして、遙希の胸に、その小さな美しい顔を伏した。
***
「高校入学おめでとう。遙希さん」
甘酸っぱい香りたつクランベリーのハーブティーを差し出しながら、倫絵は遙希にそう声をかけた。
「松朋の実技も学科も首席進級だったらしいわね。社交の場でも、話題の種の一つになっていてよ」
ここは、倫絵が独り暮らしをしているマンションのアトリエである。
遙希が通されたその部屋は一見、十五畳ほどだろうか。
奥隅のソファと音響映像機器の他には、イーゼルを背に何百枚というキャンバスが所狭しと並べられ、或いは、それ以上におびただしい数のスケッチブックなどが一緒に、平積みで無造作に積まれていた。
絵の具や具材なども遙希の想像以上の種類と数で、絵の具が辺りに飛び散った様など、それだけでも充分、絵画的、芸術的だ。
「そんなことより」
落ち着いた声で遙希は切り出した。
「倫絵さんと兄は今でも、婚約関係が続いているわけですが。何しろ日向にせよ、城家にせよ、この婚約は。当人達の愛だの恋だのより、よほど重要ですからね」
『日向ホールディングス』の持つ『クラウン・アソシアプラザホテル』を初めとする日向の系列ホテルに、『城不動産』をバックに持つ『J.CORPORATION』が全国展開するフィットネス・クラブ『ジェイ・ネス』を参入させる為、両家には婚姻関係という強い結びつきが必要だったのだ。
いわゆる『閨閥』というものである。
「それで僕をここに呼び出したわけは? 伺いたい」
クランベリーの紅の映える優美な硝子のティーカップをテーブルに置くと、遙希はそう問うた。
「それなら、単刀直入に言うわ」
倫絵が口を開いた。
「あなたに。私の描く絵のモデルになって頂きたいの」
「モデルに?」
「そう。私は今春『園美』の三年生で、専門は『人物』ということは知っているでしょう?」
「絵のモデルなら、他にもいるはずです。僕でなくても」
遙希の答えは、実に素っ気ないものだった。
「そんなことなら、僕は失礼させて頂きます」
そう言って、席を立ちかけた遙希に、
「あなたじゃなくちゃダメなの!」
と、倫絵が叫んだ。
「あの時……あなたが私を抱き締めてくれたあの時、初めて真剣にあなたを描きたいって思ったの。気分屋の私が、そんな人に出逢えるなんて、私には滅多にないことだわ」
黒い切れ長のアーモンドシェイプの瞳で倫絵は、まだ170㎝と少しにしか成長していない遙希を見上げた。
ふわふわとウエーブのかかる腰のない、薄茶色の髪を揺らしながら、倫絵は言った。
「ダメ……?」
その瞳は、微かに潤んでいる。
遙希は不覚にも。
期せずして、彼女を抱き締めてしまった。
何をしているんだ、俺は……。
自分の心の動揺と、行動の意外さに遙希は戸惑いを隠せない。
しかし、彼女の肩はやはり細く、震えている。
「俺は……」
遙希は再び、強く、倫絵を抱き締めた。
それが、遙希の十五の春だった────── ……。
***
遙希は、倫絵の絵画のモデルを引き受ける為に、時折、倫絵のアトリエを訪れるようになった。
手、顔、脚、そして躰……ありとあらゆる何百、何千のデッサンを続けながら、その幾つかをピックアップし、本格的な油彩画を倫絵は描いた。
その間、二人の間にどんな会話ややりとりがあったのかはわからない。
ただ……。
一心不乱に遙希を描きながらふと、その手を止め、倫絵は涙を零すことがあった。
その涙の意味を、遙希は知っていた。
温かいぬくもりが目の前にありながら、どこかで二人は、お互い『真実』を見ていたのだろう。
そして──────
遙希は、高等部三年の春から、松朋の二年後輩であるピアノの天才少女・小野真璃亜を愛し始めていた。
生来、『表裏』を使い分け、世界を斜めに見る動じない遙希の瞳が、真璃亜の名を口に出す時だけ、苛立ち、怒り、時には笑う。
真璃亜という倫絵にとっては八歳下の見知らぬ少女に、徐々に、だが確実にその心を奪われていく遙希の恋を、キャンバス越しに見ていた倫絵。
もしかしたら最後まで本当の自分を、彼女は掴みきることができなかったのかもしれない。
そんな倫絵は、遙希との完全な別れの時を、密かに予感していたのだろうか。
それは、その年の梅雨が明けるかどうかの夏だった。
日向・本家の源流である『宗庵流』茶道は、長男・一貴が継承するが、『志木会』を中核とし、病院、ホテル、百貨店、生活サービス、交通事業など約180社、医療、財団、学校の5法人で構成される『日向ホールディングス』。いずれゆくゆくはその頂点に立つ次期総帥の立場である次男・紘樹が、再生不良性貧血に倒れるという、それは下手にスクープされれば、経済界にも衝撃が走りかねない重大事が起ったのだ。
結果として、秘密裏に療養に専念させたい日向家と、健康面に難ありと見た城家との合意で、紘樹と倫絵の婚約は破談となったのである。
ところが暫し日が経ち、いつの間にか今度は、遙希と倫絵の縁談が、両家の間に持ち上がり始めた。
秋のまさしくその最中から、倫絵は遙希をモデルに新たな油彩画の大作にとりかかっていた。
その年の倫絵二十四歳・遙希十八歳の冬。
暖かい雨が降るクリスマスの夜に。
二人は、遂に訣別することとなる。
別れにあたって、倫絵はほぼ完成寸前のその絵を彼女が描き上げることと引き換えに、遙希の自由を呟いた。
遙希には、それを黙って受け入れることしかできなかった。
そのクリスマスの一夜を最後として。
遙希は倫絵との接触を断つ。
そして、翌年完成したその絵とは。
倫絵に初めて触れた十五の時の遙希にも似た。
ギリシャ神話の太陽神。音楽・医術の神である『アポロン』のように輝くばかりに美しい……。
凛々しくも知性溢れる少年の一枚だった。
***
浅い春。
遅咲きの白妙桜の白い蕾がふくらむ頃。
倫絵は自分のアトリエで遙希を描いたあの抽象画をじっと見つめていた。
その絵のまなざしはあの人に似て。
その指は初めて自分の肌に触れ。
その口唇は……。
倫絵は右手に握ったペンチングナイフをおもむろにかざすと、ザクッ……!とその絵に突き立てた。
その瞬間。
倫絵の体に迸るような電流が走った。
それは自分の魂を、心を切り裂くに等しい行為だった。
この刹那の一瞬の為だけに、あの絵を描く膨大な時間と絵の具は使われたのだ。
「さようなら……。遙希くん」
切り裂かれたキャンパスの油彩画を見つめながら、倫絵は呟く。
「……さようなら……紘樹さん」
倫絵の右手からナイフが音を立てて、床へと落ちた。
その手を清めるかのように倫絵の涙が溢れて右腕を伝う。
何もかも捨ててしまおう。
その時、倫絵は決意する。
天才の名を欲しいままにしていたこの若く美しき女性画家は、その日を境にふっつりと表舞台から姿を消す。
逝ってしまったわけではない。
しかし、ごく僅かの身内の者だけしか彼女の居場所はわからない。
きっと、どこかの街角で今日もまた気ままにスケッチブックを手にしているだろう。
本作は、家紋武載さまの「隕石阻止企画」に参加させて頂きました。
家紋さま、お読み頂いた方、どうもありがとうございました。