柿に思ふ
休日のお昼前、サンダルを突っかけて庭に出た。
十月になってもまだ緑は多い。ゆっくりと庭を見渡せば、朝顔はまだ花を咲かせているし、家庭菜園ではまだナスやみょうがが採れる時期が続いている。
一本だけ植えたみかんの木には、今年も多くの実がついていた。最近まで緑だったその実も、少しずつ黄色い部分が広がってきている。
冬、年越しの頃には食べることが出来るだろうか。去年のはかなりすっぱかったので、今年は少しでも甘くなってほしいと思う。
みかんの木から視線を上げて空を見上げる。秋らしい高い空には、薄い雲が見受けられた。まさしく秋晴れそのものだ。
ふと顔を横に向ければ、庭の柿の木が見える。その枝には、鈴なりというにふさわしい数の実をまとっていた。
「こんなに生ったのは、何年ぶりかな」
数が多い分だけ実は小ぶりのようだ。それでも多くの実が生ったのは久しぶりだ。
ここ数年はあまり実が生らない年が続いていた。樹齢も分からず、軽い剪定程度しか世話もしていない。生るも生らぬも自然にまかせっきりだ。自分の記憶している限りでは、ずっとそうだったと思う。
親父もお袋も、柘植の木やサツキの剪定、菜園や花の世話はしていたが、柿の木にはノータッチだったはずだ。婆ちゃんも柿の木を世話していた記憶は無い。
それでも毎年、今年は生ってる、生ってない、なんて話をしていたのは覚えている。そしてどんな年も必ず採って味見をしていた。
今年もそろそろ熟しているだろうか。上の方にはそれっぽいのも見えるが、あの場所は高枝切り挟みでも届かない。
もう少し採りやすい所に熟しているのはないだろうか。そう思い柿の木の下へと移動して、木を見上げる。
多くの実をつけた柿の木。そういえばここに立ったのも久しぶりだ。
家の中から窓越しに見る事はあっても、木の下から見上げることはほとんど無かった。
庭木の手入れは親父やお袋がやっていた。自分が庭に来る機会が無かったのだと、今更ながらに身にしみた。
そして下から見上げる木は、思ったよりも低く感じた。一番下の枝には、手を伸ばせば届いてしまう。
一番下に生っていた実を手に取り、もいでみる。オレンジ色に染まっている実だが、触った限りまだ中は硬いと思える。食べ頃になるまで置いておかねばなるまい。
「柿を採ってるの?」
声に振り向けば、妻がシャベルを片手にこちらへと歩いてきた。どうやら娘は無事お昼寝についたらしい。
「ああ。まだ硬い。食べるには早いかな。と、クロッカスを植えるんだったな」
妻の持つスコップを見て思い出した。クロッカスの球根を植えようと庭に出たのだった。これも例年はお袋がやっていたのだが。
お袋は今病院にいる。といっても調子が悪いわけじゃない。体調が悪いのは親父の方で、現在入院をしている。肺炎だが症状が少しばかり重く、すぐに退院とはいかないようだ。
病気とは無縁だった親父だけに、お袋も不安なのだろう。もちろん心配だが、三歳児を頻繁に病室に連れて行くわけにはいかなかった。
「柿を持っていったら、お義父さん喜ぶんじゃない?」
妻はそう言いながら柿の木を見上げていた。妻は団地育ちで、こういった庭木は新鮮だと言っていた。家庭菜園や花の世話もよくやってくれると、お袋は喜んでいる。
結婚して五年ほどになるが、妻と両親との関係は良好だ。むしろ俺が蚊帳の外にされる事の方が多い気がする。まぁ娘の面倒もあるし、ギスギスするよりかはマシなので、あまり気にしてはいない。
それはさておき。柿か。
「後でお袋に聞いてみるか。とりあえず、いくつか採ってみよう」
手でもぎとった一個を縁側に置き、物置から高枝切りばさみを持ってくる。
自分でこれを使うのは何年ぶりだろうか。十年ぶりくらいかもしれない。
木から離れた位置から熟れてそうな実を探す。目星をつけてから木の下に行き、ハサミを伸ばしていく。
「もう少し右。それの、もう一つ上。そうそれ」
妻の指示に従って刃先を枝に這わせる。目的の柿が実る枝を挟んだのを確かめてグリップを握れば、切断する感触が伝わってきた。
枝を挟んだ刃先をゆっくりと妻の方に差し出して枝ごと実を取ってもらい、再び頭上に狙いを定める。
上を見上げれば、朱色に染まった実が、背景の青空を覆わんとするばかりに映る。
昔もこんな柿の木を見た気がする。それももっと低い位置からだった。
多分、学校に入る前の事だ。あの時隣にいたのは、婆ちゃんだった。
婆ちゃんが柿を採って、むいてくれたんだ。
あの頃は、高枝切りばさみなんて無かったから、婆ちゃんは近所から長い竹を持ってきて柿を採っていたと記憶している。
「どうしたの?」
妻の声に現実に戻される。
「ああ。いや、何でもない」
返事をして再び視線を上に向ける。熟してそうな実を探し、枝へと刃先を伸ばした。
採った柿を台所へと運ぶ。大小五個ほど採ったが、熟しきったものは無かった。
「むいたけど、まだ少し硬いみたい」
妻がむいた柿を皿に載せてもってくる。今年初物ということになるのか。
「ありがと。でもちょっと待ってくれないか」
皿をテーブルに置いた妻を制し、俺は台所の置いた柿を二つほどお盆に載せ、仏間に行き仏壇に供えた。
「初物だからな。婆ちゃんにも味わってもらわんと」
線香を焚いて鈴を鳴らす。清らかな鈴の音が仏間に響く。
「そうね。お義母さんもそうするだろうし」
俺の横で妻も手を合わせてくれる。ありがたいことだ。
リビングに戻り、手を洗ってから柿をいただくことにする。
「いただきます」
ささった爪楊枝を手に取り、口へと運ぶ。
確かな歯触りが感じられ、まだ甘みも足りないように感じられる。
「ま、それも初物らしさかな」
熟しきったやわらかいのも好きだが、この硬さもまた柿らしさなのだろう。
「まだ鳥も食べてないもんな」
「そうだね。熟したのはすぐに食べられちゃうもんね」
野生だけあって、食べ頃のものには反応が早い。来週辺りには鳥が来てるかもしれない。
そんな事を思いながら二つ目を口に運ぶ。婆ちゃんに採ってもらった柿は、甘いのが多かった気がした。
「そんなに渋い?」
「え?」
「いや、眉間にシワがよってたからさ」
妻に言われ、思わず眉根に手をやってしまう。
「渋いんじゃないんだ。ただ、婆ちゃんを思い出してさ」
残りの柿を口に放り込み、窓越しに柿の木を見る。
「俺が婆ちゃん子だった、て話したっけ?」
「少し聞いたかな。お義母さんが言ってた気がする」
「そうか」
嫁姑の仲が良いのはありがたいと思う。俺の知らないところで余計な事まで伝わってそうなのが、自分的には引っかかるが。
「俺が子どもの頃さ。両親共働きで、面倒を見てくれたのは婆ちゃんだったんだ」
「お義姉さん、いるじゃない」
妻の言葉に、今度こそはっきりと眉根を寄せてしまう。
「その頃からなのね」
そんな俺の表情を見た妻は、小さくため息を吐いていた。俺と姉との関係が良くないのは昔からの事だが、妻にまで気を使わせていると思うと、さすがに申し訳なく思う。
「ま、姉貴は置いといて。幼稚園とか小学校低学年の頃はさ、婆ちゃんが散歩連れて行ってくれたりしてさ。毎年秋になると柿をむいてくれたんだよ。それを思い出してさ」
「優しいお婆ちゃんだったんだね」
「孫に甘かっただけかもな」
聞く限り、うちの家系は古い。仏壇の位牌には、天保や安政といった江戸時代の元号が書かれた札が現存しているくらいだ。そんな家に産まれた男子、昔風に言えば跡継ぎに当たるのだから、婆ちゃんが喜んでいたと聞いたことがあった。
「あの頃は高枝バサミとか無かったからさ。婆ちゃんは近所から竹をもらってきて、それで柿を採ってくれたんだ」
「竹を使って?」
首を傾げる妻。どうやらどうやって柿を採るか、イメージが出来ないらしい。
「竹の先端に切れ目をいれるんだ。こう、二つに割るみたいにさ。その切れ目に枝を挟みこんで捻れば、枝が折れて竹の切れ目に実の生った枝が引っかかる。そうやって柿を採ってたんだ」
「へぇ。原始的というか、何というか」
実際に目の当たりにしないと分かりにくいかもしれない。
田舎ならではの知恵といったところなんだろう。今は高枝切りバサミがあるので、そんな採り方をする人もいないだろうし。
「あの頃の方が大きかった気がするんだけどなぁ」
視線を庭の木に向ける。
数が多けりゃ小粒にもなる。分かってはいるのだが、そう思ってしまうのは印象のせいだろうか。
「お婆ちゃんが亡くなったのって……」
「大学の頃だな。まだ知り合う前だ。あれからもう……一回りするのか」
月日が経つのは早いもの。娘の成長を見て感じていたものの、時間の流れをより強く感じてしまう。
視線を部屋へと戻す。リビングと言っているが、食堂も兼ねた居間という方がしっくりくる。俺が小学校五年生の時に床を板張りにしたが、この部屋にこたつと婆ちゃんというのが、子どもの頃のイメージとして強く残っていた。
そんな居間、記憶が残っているこの家は、来年に取り壊し、新しい家を建てる予定になっている。
築年数もそうだが、地震でガタがきていたのも理由の一つだ。寂しさがあるのは、仕方が無い事だと思っている。
また建て替えと同時に、庭にも手を入れる話になっていた。そんな中、意見がまとまってないのが、柿の木の扱いだった。
季節のものとしてその実を食すことが出来る。世話もいらないのは事実だが、枯葉はもちろん落ちるし、風雨によって実が落ちることもある。その落ちた実を狙って犬や狸が出没するというのが問題点だ。
落ちた実を食べるだけならいいが、周辺を荒らされる可能性があるのだ。花の芽が被害を受けるかもしれないし、みかんをターゲットにされるかもしれない。
実際、落ちた実を袋に集めておいたところ、夜のうちに荒らされていたこともあるのだ。
ここ数年はあまり実が生らなかった。樹齢は分からないが、親父が子どもの頃にはあったらしいので、それなりの年数が経っているのも事実。
だから俺は柿の木を切って庭を整備しようと提案した。もっとも両親とも乗り気では無いのだが。
建て替えに際し、どうしても処分しなければならない植木もある。玄関前にある梅や、建物に隣接する柘植の木も処分の対象だ。
多分それ以上の処分をしたくない思いがあるのだろう。
見慣れ、日頃から手入れをしてきたものを処分する。決していい気分ではないはずだ。
あまり手入れをしていない俺は、そんな感傷も薄いのかもしれない。
それに柿の木があっても、建て替え工事に支障を来たすわけではない。無い方がスペースが空くのは事実だが、気にするほどではないと、業者からは言われている。みかんの木や菜園は建て替えには関係しない位置なので問題は無い。
「まだお昼になってないし、クロッカス植えてくるね」
妻はそう言って立ち上がり、台所に皿を置いて庭へ出ていった。
俺はおもむろに立ち上がり、電話台の引き出しから大判の封筒を取り出し、中身をテーブルの上に引き出した。
それらは建築予定の家や、庭の予想図を印刷したものだ。外観や駐車場などが全てCGで表されイメージしやすくなっている。
仮の間取り図なども入っているが、これらは叩き台だ。ここから注文や改善点を詰めていく作業を、今現在行っているところだ。
今日も午後から打ち合わせが入っている。そろそろ決断をくださねばならない部分も多い。
予想図を見ても何かが変わるわけじゃない。そう分かっていてもつい見てしまう。新しいものに心躍るのは自然なことだが、どこかで感傷的になるのも、また自然なことなのだろうか。
顔を上げ庭を見れば、妻は柘植の木の脇、ブロックに囲まれた地面にしゃがみこんでいた。
秋口に植えたクロッカスは、春になれば花を咲かせるだろう。その頃には、色々なことが決定事項となっているはずだ。
おそらく玄関前の梅も、来春が見納めになるのだろう。あまり気にしていなかったが、来年はよく見てみようか。
ふと思い立ち、スマホを手に取り検索を始める。梅の花言葉は気品、高潔、忍耐らしい。
ではクロッカスはどうか。信頼、青春の喜び、切望。ふむ、妻に言ったらどんなリアクションが返ってくるだろうか。
では柿はどうか。ほとんど見た記憶がないのだが、柿も実をつける以上、花を咲かせている。
柿の花言葉。恵み、自然美、優美、広大な自然の中で私を永遠に眠らせて。
思わず指を止める。
最後のような花言葉が、他にあっただろうか。前三つのような熟語は記憶にあるが、文章であるものは覚えが無い。
いや、自分が知らないだけなのかもしれない。花言葉なんて縁起の良し悪し程度しか気にしたことが無かった。
妻は知っていただろうか。この家に来て庭木や花の世話をするようになり、時折俺にも花言葉や薀蓄を語ってくれていた。思い立ったのもその影響だろう。
ブラウザを閉じ、テーブルの上の資料を封筒に戻す。何となく意外なものを見た気分になり、台所に行ってコップ一杯の水を飲んだ。
「ぱぱー。ままは?」
居間に戻ると娘が起きてきたところだった。
「ママは、お庭だよ。行く?」
「いくー」
元気な声に押されるように、娘を連れて庭に下りる。
「ままー」
娘はぱたぱたと妻に駆け寄っていく。
「あらら。起きたのね」
妻はシャベルを置いて娘を迎える。そう駆けていかれるのも少し寂しいものだが。
妻は俺を見てやんわりと笑う。どうやらお見通しのようだ。
「植え終わったんだな」
均されていた地面を見てそう声をかける。
「ええ。春が楽しみね。ここにね、お花がさくのよ」
「おはな?」
「そうよ」
妻が娘に語りかける。俺もそのそばにしゃがみこんで、そっと娘の髪をなでた。
視線を横に向ければ、柿の木が視界に入ってくる。
そう、こんな目線から見ていたんだ。
さっき自分が娘を連れて下りたように、俺は婆ちゃんに連れられて庭に下りた。
そうやって俺の面倒を見ながら、柿を採ってむいてくれた。
「まだ柿は早いよなぁ」
「そうね。熟したらこの子も食べられるでしょ」
視線を木に向けたままの俺の言葉に、妻は返事をくれる。
「さて、そろそろお昼にしましょう?」
「おひるー」
「手を洗ってからね」
妻は娘を連れて家へと戻っていく。俺も立ち上がり一歩踏み出してから、もう一度柿の木を見た。
「……やはり残そうか」
揺らぐ気持ちを吐き出して、再び視線を家に上がる妻と娘に向ける。
「ぱぱー」
娘が俺を呼ぶ。
「今行くよー」
娘に、優美に返事をして、また足を踏み出す。
偶然だろう。優美という名前は、婆ちゃんの名前、優江から一文字もらって付けたものだ。
それが音は違えども花言葉になっているなんて、単なる偶然に過ぎない。
それでも縁起として、理由付けとしては十分なのかもしれない。
「婆ちゃんに感謝かな」
そうつぶやいて家に上がり、居間に座ると優美が膝に乗ってきた。
将来、娘はこの家の事を覚えているだろうか。
そんな事を考えながら、俺は優美の笑顔を見て、そっと頬を緩ませた。