2.列車内
白煙を上げながら、ロッドを回す7両編成の蒸気機関車。収穫時期まっただ中の小麦畑に敷かれた軌道を辿り、列車はサヴァン平野を南へ下る。
経済大国ウィドリーの鉄道網は、南はサヴァン平野の果てユニオン市から、北はアレルト山脈を抜けたオコンネル市まで、国内に隈なく張り巡らされている。
この網を辿って人が、物が、金が血液のように流れる。かつて、領土の拡大によって世界の覇者となったウィンドリーは、第一次世界大戦、そして理性革命を経て、首都セントソクラテス市を中心とした都市国家に生まれ変わり、国の発展へと導く車輪を軍事から経済へと切り替えた。
大きな荷物を抱えた客で溢れる二等席の車内。列車のドラフト音と子供の足音で溢れかえる中、軍服姿の二人が鹿爪らしい顔持ちで席に広げた地図を眺めている。
黒目が大きくえらが張った黒髪の男は南方連隊第一大隊所属のヨセフ・ユキムラ少尉、猫を思わせるような目つきで金色の短髪の女は南方連隊第一大隊隊長のハンナ・フォン・ウィンドリー少佐である。
「ユキムラ少尉…」
「ええ」
「地図はこれ…ですか」
「はい」
「この親指の指先ほどの土地がトラキア」
「そうなりますね」
「…虫めがね」
「ありません」
「…」
ハンナは目を細めてヨセフを睨んだ。
「い、いきなりトラキア周辺の詳細な地図がほしいと云われても、すぐに調達できませんよ。何件か本屋を巡りましたが、あったのは国内の地図とこの世界地図だけです」
「中央連隊の駐屯地へ行けば地図の一つや二つあるでしょう」
「え、あ、それは…時間が…」
狼狽するヨセフの前で、ハンナは額を指で押さえ、首を左右に振った。
「仕方無い。覚えている範囲で地図を描きます」
ハンナは足元の煤けた皮の鞄から鉛筆と手帳を取り出し、紙を一枚破りとった。膝をきれいに揃え、その上に紙を置き、耳に覆いかぶさった金髪をかき上げて、鉛筆を走らせる。全ての動作が丁寧で、淀みない。貴族の家庭、それも国一番の名家で培われた気品は見るものを魅了する。紙にトラキアの地図が描かれるのを、ヨセフは黙って眺めていた。
「…少尉。何か?」
「あ、えっと、なんでもないです」
「手元を見られると、うまく描けません」
「ですよねー。ははは。外、見ときます。外」
二人が列車を共にしているのは偶然だった。休暇の取得時期が同じで、実家があるセントソクラテス市に帰ってきていたためである。軍上層部からの指令が下り、二人は休暇を打ち切って、ユニオン市の南方連隊駐屯地へと向かっている。
「はぁー…」
っと思わず出たため息は休暇が中断されたことに対するものか、それとも、目の前にいる上官に対するものか。小麦の穂を眺めるヨセフの心持は重い。"血の女王"ハンナ・フォン・ウィンドリーの黄海戦争での活躍を間近で見てきたヨセフには、目の前にいる女の美しさの奥に、苛烈で残酷な彼女の本性が透けて見える。
ふと通路側に首を振ると、小さな男の子がハンナの膝に手を置き、手元を覗き込んでいる。
「お姉ちゃん、お絵描き?」
膝を拳骨で叩きながら、男の子は言う。
「そうね。地図を描いているの」
「ふーん」
ハンナは、鉛筆を紙の上に置き、男の子の頬を手の甲で撫でた。
「お姉ちゃん、とっても綺麗だね」
「ふふ。ありがとう」
『無邪気とは、げにおそろしく、げにうらやましい』と、ヨセフは思う。
すると、通路の向こうから母親がやって来て、男の子の手をひいた。
「コラ、お姉さんの邪魔でしょ。こっちに来なさい」
どうもすみませんでしたと言った後、ハンナの顔を見て、胸元の記章を見ると、母親の目が真ん丸に見開いた。
「あ、あ、あの、まさか、ハ、ハンナ様」
僅かに首を縦に振るハンナ。
「た、た、大変ご無礼を致しました。も、も、申し訳ございません」
ハンナ・フォン・ウィンドリー。ウィンドリー家当主ジェームズ・フォン・
ウィンドリーと女王マリア一世の次女アンナの娘。立憲君主制のウィンドリー国にあって、国権を失ったとはいえ、国の象徴たる王家の人間である。
「とってもかわいい男の子ですね」
といってハンナは笑い、男の子の髪を撫でた。そのあと、母親は仰々しく
床に跪き、男の子の手を引いて、自席へと戻っていった。
「少尉」
と、その様子を眺めていたヨセフにハンナは声をかける。
「少尉も昔はあんな風だったのですか」
「…あんな風というと」
「無邪気でかわいくてさらさらの髪で」
ハンナの透き通るような青い目はヨセフを捕えて離さない。ヨセフが
「…どうでしょう。小生意気で可愛げがなくて。あと、坊主頭だった…かな」
と答えると、ハンナは、ふーん、と言って地図を描く作業に戻った。