大陸について2
眩い光が収まると、そこは本棚の樹海だった。それは無限に連なる本棚の森。
本という単語は、木の皮が語源なのだと辞典で読んで知った。本棚を森に例えるのは、あながち間違いでは無いかも知れない。
全ての本棚が倒れかかってくるような気がした。それは背の高い本棚を見上げる視覚的な錯覚? それとも罪悪感からくる心理的な錯覚?
「フレイさん! フレイさん! どこにいるのですか?」
心細くなって、つい大きな声を出してしまう。私以外には生きている者がいないような恐怖には打ち勝てない。
「こら! エフェメラ。図書館で大声を出すなんてマナー違反よ」
いつの間にか私の背後に立っていた華のある笑顔に、思わず涙が出そうになるほど安心した。
今日のフレイは真っ黒なワンピースに身を包んでいた。何の変哲も無い地味なワンピースだけど、同性でも見惚れるほどの均整の取れたプロポーションが、かえって彼女の美しさを際立たせていた。
「……お久しぶりです。また来てしましました」
「久しぶり? あぁ、そうね。あなたが去ってから百冊くらいは読んだかしら」
「ひゃ、百冊! そんなに読んだのですか?」
図書館を退館してから今日で半月ほどのはず。彼女は一日に何冊の本を読了したのだろう? 驚いたような呆れたような……二の句が継げない。
「ユークロニア図書館は、時間が止まっていると言わなかったかしら?」
「……そんな事、頭では理解しても実感出来ません。食事とかはどうしていたのですか?」
「しょくじ? ――――食事という事象を忘れていたわ」
食事を事象と表現する人を初めてみた。ユークロニアにいると空腹を覚えないのかしら?
フレイは、豊かな胸部に反比例した薄い腹部を摩りながら微笑んだ。
「エフェメラ、あなたはやっぱり司書に向いているわ。いまの私にぴったりの本を教えてくれた」
彼女は、「グルメガイド? いや、料理本?」と呟きながら、ずらりと並んだ本を指でなぞり始めた。
一冊抜だして、さっそく読書を始めるフレイ。無視された訳では無いけれど、なんだかやるせない気持ちになる。
読書の邪魔は失礼だけど、思い切って声を掛けた。
「……フレイさん、ここには食べ物に関する本も置いてあるのですか?」
「変な言い方だけど、ユークロニア図書館には無い本が無いわ。あなたは何の本を読みにきたの?」
彼女は目を細めながら私の顔を見つめた。まだ眼鏡は見つかっていないみたい。目元の黒子が目立つけれども、それは彼女の切れ長の目元を際立たせるアクセサリー。
「……私は大陸について知りたくて……」
「大陸ね。では図鑑が良いかしら」
美しい司書が右手をゆっくりと振り上げる。透けているかのような白い腕。その優雅な一連の所作に目を奪われた。
「さあ、好きな図鑑を選びなさい。あなたの能力ならば、最も適した図鑑が見つかるわ」
フレイが指差した本棚に目をやると、幾分薄めの本が並んでいた。
私の能力って何だろう? こんな魔術のような事が出来るフレイの方が、よっぽど凄い能力だと思うのだけれども。
適当に背表紙の列に指を滑らせてみる。ほんの一瞬の違和感を指先に感じる。それは心地の良い違和感。何だろう。この優しい手触りはどこかで。
思い切って本を抜き出してみた。表紙を見てみたが、他の本と全く同じ装丁。タイトルすら無い。
「さあ、一緒に読みましょうか」
黒革の表紙から、声の主に目を移してビックリした。座り心地の良さそうな猫足の椅子に座ったフレイ
の前にはテーブル。その上には湯気を立てるティーカップと、菓子の持ち帰り用と思しき化粧箱。そして瀟洒な細工の施された書見台。
「……いつの間に? それにこれは――」
お持ち帰りの化粧箱は「ウエスタンブレイブ百貨店」の物だ。
驚きのあまり立ち尽くす私の目の前で、フレイがいそいそと箱を開ける。中味は――――
「だって美味しそうだったんだもん」
チーズスフレを手にしたフレイが悪戯っぽい顔で微笑む。でも、その目は笑っていない。
私は、フレイの冷たい瞳を見逃さなかった。見透かすような、試すような、そのくせ悲しい色をした瞳。
「……読んだのですか? 私の事を……私の本を」
恥ずかしさと怒りが湧いた。でも、その感情は潮が引くように去って行く。私だって読んだのだ。あの人の本を。
「私の本だって読むが良いわ。ユークロニアの本は禁帯出だけど禁書は一冊だって無い」
突き放すような棘のある言い方に、私は胸を衝かれたような気分になる。
「……そんな意地悪な言い方……しないで下さい」
こらえ切れずに涙が零れる。それは悔しいからではない。フレイに嫌われたくないから。彼女に見捨てられたくないから。
「そっそ、そそ、そんなつもりで言ったんじゃないわ! ごっごご、ごめんね。いや、ごめんなさい」
チーズスフレを片手にフレイが駆け寄ってくる。
「ねっ、ねえ、チーズスフレ食べる? おっ、お茶も美味しいよ!」
「さっき食べたからイイです」
「え。じゃっ、じゃあ、どうしたら許してくれる?」
「……もうイイです。怒ってないです」
フレイの慌て様が面白くて、つい笑い泣きしてしまった。この知恵の女神のような女性は、何故だかとっても子供っぽいときがある。
***
「さっ、まずは広げて見ましょう。懐かしいわ。私も見るのは久しぶりなの」
書見台に置かれた黒革の本を開く。読みやすいが癖のある字が並んでいる。
「……フレイさん、質問があります」
「何かしら? エフェメラくん」
「……ユークロニアの本は手書きなのですか?」
「手書きとは、少し違うわ。言うなれば自動筆記ね」
フレイは右手の指を空中に走らせる。文字を書いている様な動き。
「オートマティスムですか?」
「あなた、オカルト好きなの? 私も大スキだけど、ちょっと違うわ。ユークロニアの本は司書が見聞きした事実だけが記される、と説明したわね」
そういえば、そんな事を教わった気がする。一応、頷いておいた。
「司書、ライブラリアンの見た物、聞いた事が、ここの本に自動的に綴られるの。いわばオートライティングね。本には主観も載せられるから、司書には高い知性と公平な価値観が求められるわ」
分かったような分からないような気がする。一応、頷いておいた。
「そして、殆どの本は共著になるわ。あなたの本も複数の司書が書いたの」
これには驚いたが、そう簡単には頷けない話だ。
「……私の身の回りにも司書がいるって事ですか?」
「そうよ。もしかしたら自分以外の生物の全てが司書かも知れないと思ったら、ちょっとしたホラー小説みたいね」
もし昆虫ですら司書たる資質があったとしたら、私の「牛乳を飲むとお腹を壊す体質」とか、「寝る前に布団の中で数字を数える癖」とか、全てが曝け出されてしまうだろう。でも大丈夫。虫に知性は無い。うん、無いと思いたい。
「……では、司書の誰もが見聞きしていない事実があったとしたら、それは本にはならないのでしょうか?」
「大正解よエフェメラ。だから図書館には『未来に起こる事』について記された本は無いの」
とても良く分かった。私は深く頷いた。
設定集というか、普通に小説を書いている気分です。