大陸について1
軽い昼食を済ませて食後の紅茶を淹れていると店の扉が開いた。冬特有のツンとした寒気と共に、大きな犬が、ぬっ、と顔を覗かせる。
「……あら、パブロフ。こんにちは」
「オマエ・マルカジリ」
「……うふふ、怖い」
「こんにちは! エフェメラさん」
「……こんにちは。セハト。今日は良い天気ね」
巨犬パブロフと、その飼い主セハトには、あまり緊張しないで喋れる自分が不思議。
老賢者のような威厳のあるパブロフと、元気いっぱいな小動物のようなセハトの組み合わせは見ていて面白い。どっちが偉いのかしら?
「今日はお土産に『ウエスタンブレイブ百貨店』のチーズスフレを買って来たよ。ちょっと並んだんだ」
セハトは、学院都市ウォーカーで特集されていた菓子店の、お持ち帰り用の箱を掲げてみせる。得意満面のセハト。心なしかパブロフも誇らしげな顔をしている。
「……嬉しい。いま紅茶を淹れていたの。一緒にいただきましょう」
セハトと一緒に食後のデザートを楽しんだ。チーズスフレと紅茶はとても合う。口の中でホロホロと崩れるようなスフレの濃厚な風味に、ついつい笑顔になる。
パブロフはサラダボールに張った水を器用に舌で掬って飲んでいた。とっても賢い子。可愛い。
「……学院都市の地図の作成は進んだかしら?」
「うん。良い感じに進んでいるよ。大陸測量組合にも入会したんだ」
「……イノーさんの組合?」
「そうだよ。イノーさんの一番弟子、マイヤーさんから測量を教わっているんだ」
「……マイヤー? あぁ、マミヤーさんの事ね」
イノーさんとマミヤーさんは、東の果て「ヤマトの国」から測量二人旅を続け、辿り着いた学院都市にそのまま居ついてしまったらしい。
魔導院学院都市は大陸のほぼ中央に位置している。どこに行くにも便利な街だから、地図作成の拠点に最適なのだと思う。
「でもふぁ、ふぉの街、地下に何ふぁあむよね」
セハトはスフレを口いっぱいに頬張りながら言った。ちょっと聞き取りにくい。
「……学院の地下訓練施設のことかしら」
ティーカップにおかわりを注いであげると、セハトは紅茶を一気に呷った。だめ! 火傷しちゃう!
「熱っ! あちち」
「……もう、子供みたいね」
パブロフが「オン!」と一声吠えた。ふふ、あなたもそう思う?
「ふぅ、熱かった。そうそう、地下訓練施設。でも、中には入れて貰えないんだ」
「……学院の関係者以外は立ち入り禁止と聞いたわ。そうだ、武器屋さんで聞いてみたらどうかしら」
「え? どうして? あのおじさん、魔導院の関係者なの?」
「……彼、『おじさん』というほどの歳かしら? 今から十年くらい前は学院の生徒だったのよ」
「へぇ、あのおじさんが」
可愛らしいセハトから見れば、彼も私も、おじさんおばさんかな? いや、ホビレイル族は寿命が長いうえに成長が遅いと本で読んだことがある。意外に生きてきた年月はセハトの方が長いかも知れない。
「紅茶ご馳走さまー。あとで武器屋さんに寄って、詳しい事を聞いてみるよ」
セハトは学院都市の白地図を三枚買って行った。帰りしなにパブロフをギュッとさせて貰う。パブロフは目を細めて、私の好きにさせてくれた。優しい子。白いような銀色のような体毛は、あの人を思い起こさせる。
セハトとパブロフが帰ったあと、ティーカップを片付けながら、測量の旅に向かうイノーさんとマミヤーさんの姿を思い浮かべた。
――大陸の広さか……知りたいな。
幼馴染の過去を「読んで」後悔したばかりなのに、私はなんて罪深いのだろう。あれ以来、ユークロニア図書館には行っていない。黒革の本には触ってもいない。後ろめたい気持ちが地下の書庫に向かう足を止めた。私は裏切ったような気持ちで一杯だった。優しい幼馴染の彼を。
彼は旅から戻ると、私では想像もし得ない大陸の果ての話をしてくれた。大草原。暗い森。高い山々。巨大な瀑布。荒涼たる岩場。そして灼熱の砂漠。
「エフェメラ。砂漠にはさぁ、どんな印象を持ってるかい?」
全身砂だらけのまま、真っ先に会いに来てくれる彼の優しさを忘れていない。
「……えぇと、暑くて乾いてて砂しかない……怖いとこ」
「うん、だいたい合ってる。でもな、砂漠の空は突き抜けるように青いんだぜ。学院都市で見る空よりも、もっともっと青いんだ」
彼は両手を天井に大きく広げて、私に教えてくれた。
私は想像した。見渡す限りの砂漠と、学院都市には見られない清廉な空を。
「それにな、夜空が凄い。なんつーか、俺の語彙では表現出来ないくらい凄い。星が落ちてきそうなんだ」
彼は夜空に見立てた天井に向けて手を伸ばしたが、何かを思い出したかのように手を下ろした。私には、彼が星を掴むのを諦めたようにも見えた。
表現出来ないくらいの夜空。落ちてくるほどの星々。どんな夜空なのだろう。知りたい。
――――私は翼を得た。それは知恵の両翼。好奇心という風を受けて羽ばたく太陽の翼。
辿り着く先は……天空の島ラピュータ。学院都市は、ラピュータ王に叛乱を起こすリンダリーノ市に似ている。天空を支配するラピュータ島を墜落せしめる磁石の巨塔と、都市を取り囲む大きな川。
急に冷えてきた室温のお陰で夢想の森から帰って来れた。入り口の扉が閉まり切っていなかった。パブロフを抱きしめるのに夢中だったからかしら。
ひゅうひゅうと扉の隙間から風が吹き込む。「*休憩中*」と書いた看板を、扉の外に吊り下げてから扉に鍵を掛けた。
ユークロニア図書館にいる間は時間が動かない。それは先日の「出来事」で証明済み。ランタンのオイルが少しも減っていなかったから。鍵を掛けたのは念の為。私は地下の書庫へ向かおうとしている。
私は愚者。邪悪な巨人と思い違って風車に突撃する哀れな老いた騎士と同じ。ドゥルシネーアの本当の姿なんて知らないほうが良かったのよ。
私は愚者。でも、私は自分が愚か者だと知っている。