プロローグ3 ――俺、参上!――
「ぬおー! ヒマだぬぁー! 今日は商売あがったりだ」
日が傾いてきたってのに、今日は朝から一組しか客が来なかった。
武器屋がヒマ。上等じゃねえか。良い事だよ。傷つける奴も傷つけられる奴も少ないって事だ。それが小鬼だろうが大魔王だろうがね。
しっかし、やる事が無いな。ちょっと運動不足だし、久々にアレやるか。魔導院体操。
「ちゃんちゃっちゃちゃんちゃらちゃんちゃーん、っとこしょっと」
立位体前屈で床に手が届かない。床が思いの外に遠い。遥かなるシャンバラほど遠い。難解な詩的表現は幼馴染の得意技だ。そういやあいつの本屋、新装開店したんだったな。
シャンバラに征くのは諦めてそのまま体位を起こし、腰に手を当てて上体を反らす。思いっきり仰け反っていたときに、店の出入り口の扉が開いた。
「おっとっと。いらっしゃい……ま……せ……えい!?」
出入り口に背を向けて運動をしていた俺は、天地を逆に客の姿を見た。仰け反った俺の顔の前には巨大な狼の顔。生臭い息が顔にかかる。
この世に生を受け二十数余年、噛みつかれる程の至近距離で狼の顔を見たのは初めてです。しかも逆さときたもんだ。
――――これはヤバい。喰われる。
巨狼を極力刺激しないように、そおっと反った背を戻そうとしたが、腰に激烈な痛みが走った。
――――ぐぬおあっ! こんな時にィ!?
危うく悲鳴を上げそうになるのを辛うじて我慢したが、狼は荒い息を吐きながら俺の顔を眺め続けている。いかん、刺激をしちゃいかん。
「オレサマ・オマエ・マルカジリ」
――――しゃっ、喋っただと!?
「オジサン、ナニシテルノ?」
巨狼の頭の後ろから、ひょっこりと少年が顔を出した。狼はハァハァと荒い息を吐いているだけだった。
「ねぇねぇ、それ、学院都市て流行ってる新しい健康法? なんとかダンス? 最後に『びくとりー!』って叫ぶヤツ?」
「違う。とりあえず助けてくれないか」
少年は巨狼の背から飛び降りて、俺の背中を支えて起こしてくれた。
「助かった。礼を言うよ。しかし、デカい生物だな」
「そうかなぁ? ボクの故郷の森では、犬はだいたいこれくらいだよ」
――――犬? いま、犬って言いましたか?
ツッコミどころが満載な巨大な犬だが、危険が及ばないと分かって、ようやく冷静に分析を開始した。
デカい犬の頭を撫でる少年――旅人然とした軽装備。腰に差したショートソードは護身用か。小動物の様な雰囲気と身のこなしに、常連の人猫族の女を思い出したが、少年には、そこまでの鋭さは感じない。
栗鼠のようにキョロキョロと忙しなく店内を見回す少年。くすんだダークブラウンの髪に、好奇心剥き出しの瞳。そして、エルフほどでは無いが少し尖った耳。小柄な体格の割に、やや大きく見える手指。こいつ、ホビレイル族だな。
ホビレイル族は、樹上にツリーハウスを設営して、そこに住む奇特な連中だ。動物と気持ちを通じ合える特技を持つという。
森に集落を作るエルフと近縁の種族と言われているが、自己生産・自己消費的な生活を営むエルフ族と違い、享楽的なホビレイル族は森の資源を消費し尽くすと、新しい森を探して移り住む遊牧的な生活をしている。こんな連中が大勢いたら、それこそ大陸の危機だが、幸い個体数が少ないので、それほど迷惑にはならない種族だ。ただ、森を荒らすような生活スタイルを貫くホビレイル族は、エルフ族からみると看過できない存在だと聞く。
大人になるまでの成長スピードは人間と同じくらいだが、十代中頃の姿で成長が止まるらしい。そして、寿命はエルフ族並みに長寿だ。
異様に器用だが、異常に飽きっぽい性格のため、長時間を要する仕事や作業に向かない。要するに仕事の役に立たない。
ホビレイル族全体に言える特徴は一つ「困った連中」だ。だが、妙に好奇心が旺盛で、明るく屈託のない性格の種族なので憎めないヤツが多い。
「ボクはセハト。この子はパブロフ。宜しく、おじさん」
パブロフと呼ばれた巨大な犬は、条件反射的に「ウオォン!」と吠えた。
こいつは本当に犬か? 立ち上がったら、人間族では平均的な体格の俺よりも二回りはデカいだろう。さながら伝説に聞く白銀の魔狼、魔銀狼だ。
「セハトか、覚えておくよ。で、お兄さんの武器屋に何の用だい? 何か入り用かな」
「街の白地図が欲しいんだ。さっき学院都市に来たばっかりなんだ」
「せっかくだけどな、セハト君。学院都市の案内所に行けば、詳細な地図が無料で貰えるぞ」
「おじさん、分かってないな。誰かが作った地図を見ても面白くないよ。自分で書き込みたいんだ」
パブロフが条件反射的に「ウワオン!」と吠えた。そうか。お前も同意見か。
「そうか、お兄さんもマッピングは結構好きだ。だが、武器屋に白地図は置いてない」
「えーっ! そうなんだ……」
肩を落とし、見るからに落胆した客を見て、何だか申し訳ない気持ちになる。これは客の期待に応えられなかった罪悪感なのか? それとも、このホビレイル族の少年の憎めない雰囲気に呑まれちまったのか?
「仕方ねえなぁ。ちっと早いが、夕飯のついでに本屋に連れていってやるよ」
「本当に? ありがとう! おじさん!」
「あぁ、例には及ばないよ。お兄さんに着いてきな。美味いモン食わしてやるよ」
俺はどうやらこの少年を少し気に入ってしまったようだ。それとも単にお人好しが過ぎるだけか。
***
週に一度は珈琲の焙煎の世話になっている喫茶店は、俺が幼いころから変わらぬ姿で建っていた。築百余年を数える木造建築は、煉瓦作りを推奨されている学院都市には珍しい。
夕飯時には早すぎたのか、店内はさして混んではいなかった。
家族の思い出の染み込んだテーブル席に座った。四人掛けのテーブル席に一人で座る勇気が無いから、ここに座るのは久しぶりだ。幼い頃、このテーブルで婆ちゃんと父さんと母さんと一緒にハムサンドを食べたんだ。
「おじさん! このサンドウイッチ美味しい。こんな美味しい物、初めて食べたよ!」
「そうか。お兄さんは、小さい頃から食べてんだぞ。羨ましいだろう?」
喫茶店のマスターが、孫を見るような眼差しで俺たちのテーブルを眺めている。
カップを磨く手つきが渋い。コーヒーに湯を注ぐ仕草はなお渋い。俺は武器屋を廃業したら喫茶店も良いな、とさえ思っている。
「お前ら! サ店に感謝しろ!」
なんてな。
俺は、マスター特製の骨付ハムがふんだんに使われたハムサンドを一週間に一度は食べないと体調を崩す。ハムサンドに一緒に挟まれたレタスで一週間分の野菜不足も解消だ。良く煮込まれたビーフシチューも絶品だ。牛肉の塊が舌の上でとろける。
巨犬パブロフは、さすがに喫茶店に入店させる訳にはいかず、今頃は喫茶店の裏でサービスで貰った骨付きハムの残り、豚の大腿骨を齧っているはずだ。
「マスター。エフェメラんトコに行くから、持ち帰り用にベイクドチーズケーキを三人前包んで下さい」
「そうか。本屋を新装開店したのだったな。では、御祝いにハムを持っていって貰えないか?」
「お安い御用だよ。マスター」
安請け合いしたものの、骨付きハムの骨込み総重量は未就学児童一人分の重さに匹敵する。これは腰にきた。
「ねえ、おじさん。パブロフの背に乗せても良いよ」
御祝いとはいえ、背負わされた重荷に閉口する俺の姿を見かねたのか、セハトが心配気に声を掛けてきた。
「いや、お兄さんとしては、お前の相棒を信用しない訳では無いんだが、そいつの溢れんばかりの野生がもう一つ信用できん」
溢れんばかりの涎を垂らして俺の背中を見つめる巨犬の視線が痛い。気を抜いたら骨付きハムどころか、俺ごとマルカジリされるの気がしてならない。
そして、さっきっから道行く人々の視線も痛い。青年が背負う巨大な骨付きハムに、ヨダレダラダラで惹き付けられる巨獣。ちょっとした物語性すら感じる景色だろう。
「チーズケーキを持ってくれているだけで十分だよ。本屋についたら一緒に食おうぜ。美味いんだぞ。マスターのベイクドチーズは」
「チーズケーキ? おいしいの? それ?」
「お前、チーズケーキ食ったこと無いのか? そりゃ不憫な生い立ちだな」
糖分を控えろ、と医者に言われていた事を思い出したが、お祝い事だし、たまには良いだろう。食べきれなければ、エフェメラかセハトに残りを食べて貰えば良いだけだ。
学院都市は四季がはっきりしている。もうすぐ初夏だ。学院都市は灰色煉瓦の無味乾燥な街並みだが、青々とした街路樹や色鮮やかな花壇を引き立てるには、かえって好都合かも知れない。
清掃局の顧問でもある錬金術科の権威、アイザック博士の提唱する錬金術による都市計画は着々と進行中だ。
夕日が灰色の石畳を橙色に染める。魔陽灯が一斉に点灯を始める。
街角を照らす「魔陽灯」は、設置する位置や街灯としてのデザインも変更された。夜になると魔導院の周りがライトアップされ、祝日にはイルミネーションまで始まった。
アイザック博士は、意外にデザインセンスが良い。機能美の中に遊び心を感じる錬金アイテムのデザインはアイザック博士が考えているらしい。鑑定士としての審美眼でみても驚嘆すべき事だ。恐るべしアイザック博士の才能。
それにしても巨犬は目立つ。下手すりゃ風紀委員会の巡回員の職務質問を受けかねない。大通りを避けて路地裏を歩いた。
重たいハムは背負うように肩に担げば、何とか腰に負担をかけずに歩ける事に気が付いた。何だか大剣を背負う凄腕の剣士みたいだ。得物は骨付きハムだけど。
あまり手入れのされていない花壇にピンク色の小さな花が密集するように咲いていた。パブロフが頻りに花壇の臭いを嗅いでいる。
「おいおい。粗相させるなよ。その、なんだ。俺が経験したの無い、目を覆う大惨事がおきそうな気がする」
「大丈夫だよ。パブロフは賢いんだから」
セハトの反論にパブロフが頭を上下させる。確かに巨犬パブロフには、その辺の駄犬とは比べ物にならない威厳と貫禄を感じる。単にデカいからそう感じるだけかも知れないが。
花壇の花はピンクと白のコントラストが美しい。素朴だが、かえって心が癒されるような花だ。あまり水が与えられていないようだが健気に咲いている。
「放っておいても花ってのは咲くもんだな」
「スターチスだよ。花というより萼だよね」
独り言を呟いたつもりだったが、ホビレイル族は耳が良い。
「花言葉は『永久不変』だよ。ドライフラワーにすると、ずうっと色褪せないんだ」
「お前、良くそんな事を知ってるなぁ。ホビレイル族には常識なのか?」
永久不変か。それはそれで悲しい響きだな。
「*エフェメラ堂書店*」
触れば塗料が手に付きそうなくらいに新しい看板に、パブロフが鼻をひくつかせている。溶剤の臭いでも気になっているのだろう。しかし、この大型犬を見たらエフェメラはひっくり返るんじゃないかと心配になる。
「なあ、先に説明してくるから、お前ら、そこで待っててくれよ」
「説明って何の?」
「その大巨獣に決まってんだろうが」
返事を待たずに真新しい扉を開いた。削りたての木の香りとインクの匂いが鼻を付く。
魔陽灯の頼りない灯りだけが店内を照らす。整然と本棚が立ち並ぶ、こじんまりとした店内はエフェメラらしい。だが、あいつは表向きだけ几帳面だ。エフェメラの自室はベッドの周りに本が積み重なった壁を作り、ドアまで細い一本道が続いているという、およそ年頃の女性らしからぬ乱雑書庫とも呼ぶべき部屋だった覚えがある。
「おい、エフェメラ。俺だ。お祝い持って来たぞ」
返事がない。おかしいな。心配性なエフェメラが鍵も掛けないで出かけるなんて考え難い。
「エフェメラー。ベイクドチーズあるぞ」
これでいつもは、本の山から姿を現すはずなのに、今日に限って現れない。ふと昔に起きたあの事故が脳裏を過る。
当時、小学生だったエフェメラが行方不明になったと大騒ぎになったのだ。
本屋の地下には希少本を保管するための倉庫がある。彼女はそこにランタンを持ち込んで読書を楽しんでいたのだが、換気設備が不十分な地下でランタンを使うと空気が悪くなる事を知らずに倒れしまったのだ。
嫌な予感に慌ててカウンターの裏にある扉を開けて中に入った。そこはキッチン兼のリビングのようになっている。改装はしたものの、間取りまでは変わっていない。子供の頃から、ここに入り浸っていたから建物の構造は自宅と同じくらい頭に入っている。
床板が外されて、そこに空いた穴を見て確信した。エフェメラは地下だ。
「おーい。エフェメラ! 大丈夫か? いま、下に行くからな」
灯りを持たないで地下の階段を下るのは、大人になっても緊張する。踏み外さないように一歩一歩、足元を確認しながら階段を下りていると、途中で地下から人の声が聞こえるのに気が付いた。女の泣き声? もしかして足でも挫いて上に戻れなくなっていたのかも知れない。
「エフェメラ、俺だ! 安心しろ。すぐに行くからな」
暗闇から人が現れたら驚くだろう。俺は大声で呼びかけながら地下に下りた。
エフェメラはすぐに見つかった。眩いほどのカンテラに照らされていたからだ。
本棚という森の中で迷子になった幼い女の子のように、座り込んで泣き続けるエフェメラに駆け寄った。
「おい、大丈夫か? 怪我でもしたのか? 足でも挫いたか?」
黒い本を抱きしめて泣き続ける彼女が心配になり、エフェメラの前に片膝をついた。
エフェメラは顔を伏せながら、首を激しく左右に振った。
「なんだ、悲しい小説でも読んでたのか? お前らしいな。なあ、上にさあ、でっかい犬がいるんだぜ。びっくりすんぞ!」
昔、悲しい結末の絵本を読んで泣き止まないエフェメラを思い出して、その柔らかい髪を撫でた。
エフェメラが顔を上げて俺の顔を凝視する。その顔に浮かぶ絶望と懺悔の籠った表情に思わず怯んだ。
悪夢におびえた子供のように俺の首にしがみ付いてくるエフェメラを、どうしていいか分からなかった。
「ごめんなさい。ごめんなさい。識らなければ良かった……あんな本なんて読まなければ良かった……ごめんなさい。ごめんさない……」
「うんうん。分かった分かった。さあ、上に戻ろう。チーズケーキ買ってあるんだぜ。それでさぁ、デカい犬がパブロフって名前で、その飼い主がまた変なヤツでさ……」
年頃の女の子は良く分からん。俺はひたすらエフェメラを慰め、頭を撫でる事しか出来なかった。
プロローグは以上で終了です。ここから魔導院の「設定」をエフェメラさんが図書館で学ぶ運びとなります。
不定期更新になりますので、たまに覗いていただいたら新事実が明らかになっているかもしれません。ですが、読まなくとも「お前ら! 武器屋に感謝しろ!」の筋に影響はありません。ただ、武器屋の登場人物が本を買いにきたりもします。サブストーリーとして楽しんでいただけたら嬉しいです。