プロローグ2 ――時の止まった図書館――
閃光と形容する他が無いほどの光に全身を包まれた。目を閉じても光の洪水を身体中に感じる。それは温度を伴う光。光が強くなるに従い、温度も上昇した。私は身を焼かれる恐怖に思わず叫びを上げた。
無意識に見開きを閉じと、少し光が弱まった。無我夢中で本の表紙と裏表紙を力いっぱい手で挟み込むと、何とも言えない抵抗を感じたが、どうにかこうにか本を閉じきった。
光に眩んだ目が、ようやく慣れてきた。手に持った黒革装丁本は、何の変哲も無い本に戻ったみたい。
大きく深呼吸をして気持ちを落ち着ける。
最初に感じた違和感は空間を占めるインクと紙の臭い。そして温度。ひんやりとした冷気とも言える地下室の室温とは明らかに違う、居心地の良い穏やかな体感温度。
身体を極力動かさずに視線だけを泳がせて、見えるだけの視界を探った。
そこに見えたのは、地平の彼方まで続くのではないかと思われるほどに続く、ぎっしりと本が詰まった本棚の列。
「ここは……」
思わずグルグル回りながら辺りを見渡す。私が立つ位置から前後左右に続く通路、その全てに規則正しく並ぶ本棚。
「どこなの……」
冷たい輝きを放つ美しいマーブルの浮かぶ白い床。地下倉庫の床は灰色の石畳だったはず。こんな大理石のような材質では無い。
天井を見上げてみた。首を巡らせて天井を探す。そこに在るべきはずの天井は無く、広がっていたのは無限を感じさせる虚空の白。見知らぬ場所に立ち、呆然とするしかなかった。
私は途方に暮れた。不思議と取り乱さなかったのは、全方位を取り囲む本の海のせいかも知れない。私は死んでしまったのかしら? ここが彼岸ならば、これこそ私の理想郷。
目の前の本棚に目をやった。本棚に収まっている本は、私が手に掴んだままの黒革の本と同じ大きさで、厚さに多少の違いがあるくらいで全て同じ本に見える。思わず本棚に手を伸ばした時に背後に人の気配を感じて振り返った。
「こんにちは。エフェメラ。こんばんは、かしら?」
そこに佇んでいたのは、怜悧さを感じる美貌の女性だった。通った鼻梁と切れ長の瞳。透き通るような白い肌に映える、長くて真っ直ぐな髪。真紅のドレスを身に纏い、私が持ったままの黒革の本と同じ本を持ち佇むその姿は、私には知恵の女神にしか見えなかった。
「……何で……私の名前を……知っているのですか? 貴女は誰ですか? ここは何処なんですか?」
「此処は、神が創った世界に起きた、全ての事象を記録してある場所。ユークロニア図書館。そして私は図書館の司書」
「……図書館? 私は……地下の書庫にいたはずですが……」
再び私は辺りを見渡して、無限に等しいと感じる程の量の本がここあると実感した。自分まで本の一冊になってしまったような錯覚に陥る。
「ここは何処にでもあって、何処にも無い場所。あなたの考えるユートピアに似ている場所」
「……ユートピア……理想郷では無いのですね」
「ユークロニアは理想郷では無いわ。ここはアルカディアみたいに優しい場所では無いの。ここに納めてある物は絶対の真実。でも、人は全ての真実を受け入れられるほど強くもないし、賢くもないわ」
人は皆、心の奥底に理想郷を持つ。私の理想郷は……
「……私には……なんだか良く分かりません……私は……どうしてここにいるのですか?」
「図書館があなたを呼んだのよ。もしくは、あなたが図書館を求めたのかも」
司書は手に持っていた黒革装丁の本を開いて、紙面を目で追った。親指と人差し指で、長い睫毛が綺麗に生え揃った瞼を揉む。
「それとも私があなたの名前を気に入ったからかも知れない」
「……私の……名前を……ですか?」
「エフェメラ。素敵な名前よ。『時の止まった図書館』には相応しい名前」
「……両親は……単に栞から連想しただけだと思います」
「名前にはね、必ず意味があるの。本人が意識していようが、意識していまいが。必ずね」
司書は立ったまま調べものを始めたようだ。本を遠くしたり近くしたりしながら紙面を指でなぞっている。
「うむむ。実は眼鏡を失くしてしまったの。見つけたら教えてね」
「……はぁ……見つけたら……そうします……私は……司書さんの眼鏡を探すために図書館に呼ばれたのでしょうか?」
司書は、きょとんとした顔をしてから笑顔になった。笑うと存外に可愛らしい女性。
「あははっ、違うわエフェメラ。あなた真面目そうにみえて結構面白いわね。天然かしら?」
「……そうですか……? 自分では普通にしているつもりですが……幼馴染にも良く言われます」
知恵の女神が、瞬きもせずに私の顔を見つめた。その瞳に過ったのは深い悲しみの色。
司書は開いていた本を閉じて本棚に向きあう。整然と並ぶ本の隙間に不自然に空いた隙間に本を仕舞う。次に彼女は新たに本を引き出した。不思議な事に本の収まっていた隙間に小さな杯が二つ並んでいた。
真紅のドレスの女神は、本を傍らの本棚に置き、それぞれの杯を両手に持った。クリスタルグラスだろうか。辺りの光を跳ね返す虹色の反射が美しい。
「エフェメラ、あなたには二つの選択肢が用意されている。ここに来た事を、全てを忘れる事となるレーテーの甘い水を飲む?」
目の前に突き付けられた杯の中には、清浄な透き通った液体。
「それとも、全てを識る事となるムーネモシュネーの苦い水を飲み、司書の一員となる?」
目の前に突き付けられた杯の中には、穢れて淀み濁った液体。
「安心して。あなたが全てを忘れて図書館から立ち去っても、私はあなたの事を忘れないわ」
私は一瞬の逡巡も無く選択した。小さな杯を受け取る。
司書は、私が受け取らなかった杯の中身を床に零し、肩越しに杯を投げ捨てた。司書の背後でクリスタルの砕ける音が響いた。
空間すら砕いたかのように聞こえた鮮烈な破砕音は、もう後には戻れないと直感させる響きだった。
「私は識った事を忘れるなんて嫌です」
「知らなくても良い事を識るのは、永遠に続く呪いを受ける事と似ているわ」
私は一片の躊躇も無く杯の中身を一息に飲み干した。まろやかな口当たり。酸味の中に仄かな甘味を感じた。
知恵の女神は瞼を閉じた。その頬に流れる涙。
私は、口に残る美酒の余韻に浸りながら、司書の涙を不思議な物を見たような気持ちで見つめた。
「図書館はあなたの理想郷になるかしら?」
「……分かりません……私の理想郷は本の中にありますから」
「図書館にいる限り、あなたの時間は動かない。好きなだけ本を読むと良いわ。まずはこれを読みなさい」
司書は、傍らに置いた一冊の本を私に差し出した。黒い装丁は他の本と同じだが、一目見ただけで厚みに物足りなさを感じる。
「これは、ある男が歩んできた戦いの記録。男の敵は『呪物』。果てしない後悔と苦悩に苛まれる、あなたの良く知る男の半生が記されているわ」
私は司書から本を受け取った。
――私の良く知る男? 誰の事だろう?
――呪物? 心当たりも無い。
でも、この程度の厚さならば読了までに半日もかからないだろう。
「それを読んで何を思うのかはエフェメラ、あなたの勝手よ。でも、本には『これから起こる事』は書いていない」
早速、本を開こうとしていた手を止めた。
「神ですらも、これから起こる事は分からない。でも、私やあなたにも予想や予測は出来るわ。だから、あなたがそれを読んで何をするのも勝手」
「……この本を執筆したのは誰ですか? 神様なんですか?」
「時の止まった図書館にある本は、司書が見聞きした事実だけが記される。あなたの他にも司書はいるわ。私も含めてね」
「……では、私がすべきことは、ただ傍観して、ひたすら本を読むだけですか?」
願っても無い。これこそ私の理想郷。嬉しくて小躍りしたくなるような気分になった。
「エフェメラ、新しき司書。あなたは図書館と学院都市を行き来して、これから大陸に起こる物語を見て識りなさい。それが栞たる、あなたの役目」
「……本当に……それだけで良いのですか? ……私にとっては夢みたいな話です」
「ただ傍観するの。でも、あなたの傍観は、この悲しい物語の止揚になるかも知れない」
なぜ、この女神のような女性は静かに涙を流し続けるのだろう? 全てを識るなんて、もはや神の領域に踏み込む様なこと。こんなに素晴らしい事は他には無いと思うのだけれど。
「……司書さん……貴女の名前を教えて下さい」
「そうね。あなたも司書の一員になったのだものね。私はフレイ。フレイミングページ」
「……燃え上がる最後の一葉……」
「そうよ。一日限りの儚いもの。私とあなたは似た者同士だから」