プロローグ1 ……エフェメラ堂書店にようこそ
……いっ、いらっしゃいませ。……お……お久しぶりですね。
……はい。父の跡を継いで、先日、本屋をリニューアルしたばかりです。
……え? お土産ですか? あ、ありがとうございます。
……あ。チーズケーキ……ですね。
……すいません……あの、私……レアチーズケーキが食べられないのです……ベイクドチーズケーキしか駄目なのです。
……はい……焼いてないとお腹を壊すのです。
……だから……ごめんなさい。
……はい、地図をお探しですか?
……これが学院都市、こちらが海王商業都市、それから山王聖堂都市の地図です。
……え……大陸全土の地図ですか?
……残念ながら未だに大陸全土の地図は完成していません。
……測量に技術的な問題は無いのですが……大陸、特に大陸南部には危険な未踏破地域が多々あります。
……それらを踏破しなくても、私たちの生活には全く問題が無いです。だから地図の作製は遅々として進みません。
……地図マニアの方々が結成した冒険者組合のメンバーが、大陸全土の測量に挑んでいるそうです。代表者は、確かイノーさん……です。先日、お弟子のマミヤーさんとご一緒に白地図をお求め下さいました。
……いつかは大陸地図が完成するかも知れませんね完成した暁には……私も見てみたいです。
……お役に立てなくて申し訳ありませんでした。
日が落ちてきた。店に一つしかない「魔陽灯」の蓋を開くと、暖かな橙色の光が漏れだした。
さてと、閉店準備をしなければ。売れた本の伝票の整理から始めよう。
今日はとっても疲れた。やっぱり私に接客は向かないのかな。
店の片付けをしながら、昼に入荷したばかりの恋愛小説を一冊、本棚から抜き取った。
タイトルは「キミに轟け」だ。「に」と「け」しか略して無いけど、熱烈なファンは「キミトドロ」って呼んでいる。魔導学院を舞台にした恋愛物の中では鉄板中の鉄板らしい。
爽やか過ぎる騎士科の男子に好意を寄せる、内向的過ぎる性格の暗黒魔女の純情恋愛小説。キュンキュンを通り越してギュンギュンくる、との書評。
展開が遅いとは聞いたが、私は長編小説が好き。長くて難解なほど好き。どうも最近の作品は、人気が出ると無理やり引き延ばし過ぎて冗長になるきらいがある。
残ったページの厚みに「この世界とも、もう少しでお別れしなくてはならない」と、切なくなるくらいの作品に出会いたい。
――地図を持たずに、深い森に一人迷い込むような不安に怯えたい。
――海図も持たずに、大海原に一人漕ぎ出すような孤独に震えたい。
友だちは、閉じこもりがちな私を心配してくれる。外の世界に連れ出そうとしてくれる。
でも良いの。ここは居心地が良い。私だけの小さな世界。それは私ひとりの閉じた世界。
――テラ・インコグニタ。測量なんてしないほうが、見果てぬ夢を見れて幸せでしょう。
――ファタ・モルガーナ。遥かなるアヴァロンは遠すぎた。それは海に浮かんだ蜃気楼。
シャングリ・ラなんて目指さなければ良いのに。人は欲望を抑えきれない。
学院都市は錬金術の時代に入った。
アイザック博士の提唱する錬金術による都市計画。錬金仕掛けの予言者が導く未来。それは豊かな時代を予感させる。でもアルカディアには遠い。それは、遥かなる理想郷。
私には本があれば良い。本の中でなら、ザナドゥやロマンシア、ティル・ナ・ノーグにだって行ける。
錬金術という甘いレーテーの水に溺れるくらいなら、汚水と知ってもムーネモシュネーの水を飲むわ。
そうだ。「飲む」で思い出した。恋愛小説を読みながら飲むお酒は美味しい。飲んで読む。人生最高の娯楽。
海王都から取り寄せたオイルサーディンの缶詰に、固くて塩辛い乾パン。それに、秘蔵のアレを開けちゃおっかな。
酒豪で知られるドワーフ族秘伝の「ウニィアイラグ」は、酸味の中に仄かな甘味が絶妙に効いた牛乳酒だ。乳製品に弱い私のお腹は、なぜか牛乳酒に限っては見逃してくれるみたい。
良著に美酒の組み合わせを楽しむ。私はなんて贅沢なんだろう。
キッチンの床にしゃがみ込んで、取っ手の付いた床板を持ち上げた。そこには床下収納に偽装した地下に続く短い階段がある。
錬金術によって磨き抜かれた金属を反射板にした『錬金カンテラ』に火を灯すと、直視出来ないほどの光が辺りを照らし出した。
私はカンテラを片手に、足取り軽く階段を下りた。
書店の地下には、希少本を保管する為の倉庫がある。石作りの地下室は、年間を通してひんやりと涼しい。湿度と温度を一定にしてあるので、デリケートな酒類の保管にも最適だ。
小さな図書館とでも形容出来そうな、ずらりと並んだ本棚に、ずらりと並んだ本の列。ここには魔導院の図書館にも所蔵されていない希少本も揃えてある。
焚書処分にされたはずの写本なんて曰くのある本も保管してあって、ついつい手が伸びそうになるけど、私は「キミに轟け」を読むのだ。絶対読むのだ。強い意志で誘惑を撥ね退ける。さてと、「ウニィアイラグ」の酒瓶はどこだっけ?
本を仕舞った場所ならば完全に覚えているのだけれど、それ以外の置き場所は、置いた先からどんどん忘れちゃう。幼馴染からは「書痴」とか「本馬鹿」とか呼ばれるけど、そんなに褒められると照れちゃう。
ウニィアイラグ……ウニィアイラグ……アニィマイラブ……ウニィアイラグ……一瞬、兄に禁断の恋をする女性弁護士の恋愛小説が見えたけど気にしない。読みたいのは「キミトドロ」、飲みたいのは「ウニィアイラグ」。
それほど希少価値の無い本の間に、ブックエンド代わりとして酒瓶を置いてあるので、ついつい本に気を取られそうになって困る。
指で本をなぞりながら酒瓶を探しているうちに、指先に奇妙な手触りを感じた。それは、しっとりと肌に吸い付いてくるような官能的な革の質感。
思わず本棚から、その肌に吸い付くような革装丁の本を抜き出した。タイトルも無い、真っ黒な黒革の装丁本。
一瞬、下手装丁本を思い起こしたが、これはおそらくコードヴァンだと思う。鋭い艶と曲げても皺の寄らない高級革は牛革のそれとは違う。
だが、奇妙な事に、黒革の本は出来上がったばかりのような質感を保っていた。それに、私はこの本を知らない。ここにある本を全て読破はしていないけれども、タイトルや特徴は頭に入っている。こんな本は無かったはず。
ふと、「輪」という題名の本を思い出した。最後まで読むように強要する文章が続き、最後まで読んでしまった者が一週間後に死ぬという呪いの本。
怖い……怖いけど……読みたい!
死んだって良い。本を読んで死ぬなんて本望よ。
誘惑に負けて黒革装丁の表紙を開いてしまった。あれ? 何も書いてない。もしかして日記帳かしら?
突然、眩い光が地下室に拡がり始める。錬金カンテラに異変を感じ、慌てて火力の調節ネジを確認したが、光を放っていたのはカンテラでは無く、黒革装丁本の開かれたページだった。
「お前ら!武器屋に感謝しろ!」「君たち!宿屋に感謝なさい!」の設定集です。諸行無常にゆらゆらしている設定を、しっかりさせる意味も込めて書きます。徐々に更新していくつもりです。