アリス イン ザ ダーク
母親と対峙する彼女はテーブルを挟んで、椅子に腰掛けていた。その手には湯気立つカップを持っている。彼女は真っ赤なワンピースに着ていた。
部屋の状態は悲惨な物だった。至る所へと飛び散った血液。
壁の端に転がっている人――だったモノ。恐らく床に転がっている斧で何度も切り刻まれたそれは、最早原型を留めていない。
「アリスを返しなさい!」
母親が懸命に訴えかけるも、彼女はそれを無視し、カップの中身をゆっくり一飲みで嚥下していく。この赤い空間の中でそれは異様な光景だった。普通の神経を持っているなら、部屋中に漂う異臭で飲食物などとてもじゃないが口にする事はできない。だが、彼女は顔色一つ変えずに、一滴残さず飲み干した。そして、空になったカップを机の上に放り投げた。乱暴に投げた為、カップが転がっていき、床へと落ちていく。
パリーン――破片が飛び散り、高い音が部屋に響き渡る。
それまで、目を合わせなかった彼女はようやく母親を見据えた。
「あーあ、カップ割れちゃった」
この惨状の中、呑気な声で彼女は言う。その瞳は母親を責めていた。
「この中ね、あったか~いココアが入ってたの。あなたのココアより何十倍、何百倍とおいしいココアがね」
「なッ……! い、いえ、そんな事よりも早くアリスを返、」
「さっきから、アリスを返せ返せって、うるさいな~」
彼女は机に頬杖を付き、うんざりしたような口調で言った。
「あんたがアリスを守れないから、こ~んな事になっちゃたんでしょ? あたしのせいじゃないしー」
心底バカにするように嘲笑した彼女に母親はヒステッリクな声を上げる。
「私のせいだって言うの?! それは違うわ! こんな事になったのは全部あなたのせいよ! 勿論、私の可愛いアリスのせいでもないわ!」
そして、目の前にいる彼女の名前を憎々し気に口にした。
「シエラ! 全部あなたのせいよ!」
彼女――シエラはお腹を抱え、声高らかに笑った。
「ふっふふ、あーーはっはっ、あーっはっはっはっはっは、ははっ」
「な、何がおかしいのよ!」
突然のシエラの高笑いに母親の肩が大きく跳ねた。ドアに身体がぶつかる。
「あんた、本気でそう思ってんの? 本気で自分には少しも非がないとでも?」
「なッ……! ど、どういう事?」
シエラが椅子から立ち上がる。その表情は固く、その瞳は氷のようだ。部屋の隅に転がっている血に塗れた斧の方へ歩み寄る。それを手に携えると、母親に冷たく言い捨てた。
「あたしとアリスが何処で入れ替わってたのかも気付かないあんたがそんな事言う資格ない」
「そ、それは」
「ちなみに正解はね……アリスがあのブスに真っ赤なシャワーをぶっかけられ、頬に子ネコのボールをぶつけられ、森で気絶した時。よっぽど、ショックだったんでしょうね。アリスの心は奥の方に引っ込んじゃった。ま、無理もないわ。あんな手の込んだ嫌がらせされるなんて思ってもみなかったでしょうからね」
「……」
「まあ、そのお陰であのブスの首を跳ねた時も身体には素敵な赤い模様が付着していたから、返り血を気にする心配もなかったし……そういう意味ではラッキーだったわね」
「でも、でもその後会った時は確かにアリスだったわ! あの、いじめを告白した時に流した涙が嘘泣きとは信じられない!」
母親が必死に反論するも、シエラはそれを悉く論破していく。
「ええ。あれは確かに本物のアリスよ。その日の朝、飲んだ薬のせいでまた元に戻っちゃたの……あんたが毎朝出してくれるココアに入れた薬のせいでね!」
「あっ……今朝は? 今朝、ココアを飲んでいったじゃない! 確か、あの時にも、ちゃんと薬を入れたわ!」
「ああ、それね……入れ替えたのよ。胃薬とあんたの部屋のタンスの上の箱の中に入っていた薬と」
「なッ……!」
母親は今朝のやり取りを思い返す。あの時、お腹が痛いと言っていたのにも関わらず、アリス、いやシエラは胃薬を飲まなかった。だから、
「……マ、マルコを殺したのもあなた?」
「あの冴えない男ね。まあ、そういう事になるのかしら」
「一体、どうやって……」
シエラは愉快に、まるで、今日学校であった出来事をはしゃぎながら報告する子供のように話す。
「あれは、傑作だったわ。だってあんなに上手くいくとは思ってもいなかったんですもの!」
それからのシエラの言葉は耳を疑う台詞ばかりだった。
マリーヌを殺した翌日、診療所に最初に訪れたのは母親ではない。マルコだった。そこでシエラは、事情を聞き、駆け付けてきたマルコに何とも場違いな告白をされ、逆に、その恋心を利用する事を思いついたのだ。クラスメイトみんなにいじめられていた事を涙ながらに告白。そのお陰で倒れてしまい、おまけに今にも死んでしまいたいと同情を買う台詞を吐く。そして、医者が出かけた時に盗んでおいた薬を渡す。マルコにはその効用は『ちょっと、お腹が痛くなる程度の薬で、軽いイタズラ程度に懲らしめてやりたい』と嘘を吐いて。勿論、この薬に関しては診療所の周りをうろうろしていたイヌ――つまり、マルコのイヌを使って効果は実証済みだ。さらに、もう一瓶マルコに手渡す。此方は『ビタミン剤』だと嘘を吐いき、そして、『明日の昼ご飯の時に絶対に飲んでほしい。この一粒で普段の疲れが取れるから』という言葉を添える。マルコはシエラに何の疑いもなくそれらの事を実行に移した。愛しい少女――アリスの為と思って。そして最後の仕上げに用意した偽の手紙を第一発見者を装って、マルコの遺体の傍に置く。
シエラの作戦は一見、完璧のように見えた。しかし、ここで一つの誤算が生じる。
「まさか……あの男がティファナ、いえ、この裏切り者に手紙を残してたなんてね」
チッとシエラが一つ、舌打ちをした。
「手紙には『彼女がいじめられていた事を教えてくれて有難う。そのお陰で僕の想いは報われた。彼女をいじめるクラスメイトが憎いよ。どうか僕と一緒にアリスを守ってあげてくれ』……こう書いてあったわ」
シエラは自分の首元を軽く触った。よく見ると、赤い手形のような物がくっきりと残っている。
「なーにが守ってくれよ! こいつがこんな余計なもん、残してくれたお陰であたしは殺されかけたのよ! ……友達だと、アリスの味方だと思ってたティファナに!」
シエラは握りしめていた斧を勢いよくテーブルへと振り下ろした。赤く染まった斧が突き刺さり、付着していた鮮血が飛び散った。それと同時に、テーブルの木片もシエラに向かって飛んでいく。顔、首元、腕――露出している所が傷付いていく。それでも、少しもその手を緩めず、子供が物に八つ当たりするかのように シエラは何度も何度もテーブルへと叩き下ろす。
「全く、どいつも、こいつも、アリスを、傷つけ、やがって!」
ティファナの返り血ではない、シエラ自身の血液の面積が徐々に増していく。
母親はその光景を焦点の合わぬ目で眺めていた。言葉が何も出てこない。
何故こんな事になってしまったのか、自分がシエラの存在にもっと早くに気付けていたらこんな事にはならなかったのか。
考えても答えの出ない問いをそれでも、必死に考えていた。
「ふー、ちょっと腕が怠くなってきたかな……さてと、」
シエラはテーブルへ向けていた視線を母親の方へと移す。そして、ゆっくりと近づいていく。がががが、と斧が擦れる音が聞こえる。母親は恐怖から腰が抜けてしまい一歩もその場を動く事が出来ない。立っていられなくなり、その場に崩れ落ちた。
文字通り、全身が赤いシエラが近づいてくる。
「あっ、こ、来ないで!」
母親はやっとの事で、掠れた弱弱しい声を喉から絞り出す。シエラは目の前まで近づくと、斧を振り上げた。
「ひッ……!」
母親は反射的に目を瞑り、頭を抱え込む。
「………………?」
しかし、いつまで経っても切り裂くそうな痛みは襲ってこない。母親は恐る恐る閉じていた目を開く。
「……な、何?」
シエラの口角が吊り上っていた。腕は振り下ろす直前のままで。そして、先程とは違い、穏やかな口調で話し始めた。
「……そういえば、マリーヌもティファナも、最期には、みんなおんなじ言葉を言ってたなって思って……」
その時に命乞いした面々を思い出して、シエラは笑っていた。今まで自分をいじめていた奴、殺そうとしていた奴。結局は最期は二人共、同じ言葉を口にした。そして、もう一人シエラに向かって同じ台詞を吐いた人物の名を口にする。
「……父さんも、最期は同じ様に無様に命乞いしたっけ」
「ッ……!」
「殺さないで。助けてくれってさ……アリスと母さんにはどんなに止めてって訴えても自分は暴力を振るってたくせに、ね……なのに、せっかくあたしが殺してやったのに、母さんはあの薬を使ってアリスの心底へとあたしを追いやった。どうしてそんな事したの? 父さんの暴力から解放されて喜んだはずでしょッ!?」
シエラの顔付きが段々と強張っていく。それに伴って口調も段々ときつくなっていく。
「アリスが〝あたし〟っていう人格を作り出したのは、全部あんたら夫婦のせいでしょ!?学校でもいじめられて、家に帰れば父親の暴力! 自分の気持ち押し殺して母親のあんたにも何も言わなかった! ホントは『助けて』っていつも訴えてたはずなのに!」
「そ、それは」
「言い訳すんな! 大体、あたしとアリスが代わった事にも気付けないなんて、あんたホントにアリスの母親!? 『私』と『あたし』にも気付かないなんて、ホント信じらんない!……もういい、あんたなんかね!」
シエラは掲げていた斧を振り下ろした。
――ザンッ
「や、あッ、」
振り下ろした斧は母親の顔すれすれにドアに突き刺さる。
「なーんて……大丈夫、母さんは殺さないよ」
突き刺さっている斧を引き抜いて、シエラは母親に笑いかけた。
「いくら、母さんが最低な母親だっていっても一応はアリスの味方だし……それに……」
(今殺したらアリスが生きていけないし、ね)
「さあ、母さん、立ち上がって!」
シエラは母親の手を引っ張り、ティファナの遺体の傍まで誘導する。そして、その上に倒れ込むように思いっきり突き飛ばした。
「な、何!?」
母親の身体にティファナだったモノの破片、血液、が付着する。その余りの異臭とおぞましい感触に嘔吐した。
「良いシナリオを思いついたの!」
それを少しも気にせずに、シエラが楽しそうに話す。
「マルコとティファナは仲が良いでしょ? そのせいで共犯だと疑われているかもしれないの。そ・こ・で、マルコが殺し損ねたあたしをティファナが殺そうとする。首には絞めつけられた跡もちょうど残ってるしね! でも、それを見つけた母さんがこの斧で撃退! 突き飛ばしたのは返り血を浴びてないと不自然じゃない! ……ほら、かーんぺき☆」
まるで天使のようにシエラは微笑んだ。しかし、母親には確かに見えた。その背中の羽根が黒く染まっているのを。