アリス イン ザ マルコズ ハウス
「起きてアリス」
朝、母親の呼ぶ声で目が覚める。身体を揺すぶられ、アリスはゆっくりと瞼を開けた。
「おはよう、アリス。体調はどう? 学校へは行けそう?」
「……うー、昨日、晩御飯食べ過ぎて、ちょっとお腹が痛いかも」
「えっ!? じゃあ、胃薬持ってくるからちょっと待ってなさい!」
慌てて居間の方に駆ける母親をアリスは制した。
「母さん、大丈夫だから。それより、今日は朝食いらない」
「……分かったわ。でも何も口にしないのは良くないから、アリスの好きなココアでも淹れるわね」
母親が台所に戻って行く背中を見つめながら、アリスは白いワンピースに着替え始めた。
「昨日のイヌはどう? もう、目覚めた?」
温かいココアにフーッと息を吹きかけながら、アリスが尋ねる。昨日は眠ったままで、少しの反応も示さなかったので気になったのだろう。
「いいえ。まだ目覚めないわ。呼吸はしているから死んではいないと思うんだけど」
とりあえず、昨日の晩に毛布を敷き詰めたバスケットに入れてみたものの、昨日と全く同じ状態だった。イヌが起きた気配は感じられない。
「あたし、学校行く前に診療所に連れて行くわ。母さんも仕事で家を空けるし、ここで独りぼっちになんて出来ないもの!」
アリスは急いでココアを飲み干し、バスケットに近づくと子イヌの頭を優しく撫でる。そして、カバンとバスケットを持ち、ドアノブに手を掛けると、
「アリス!」
母親が引き留めた。
「何? どうしたの、母さん?」
まるで咎めるかのような母親の言い方にアリスは不思議そうな顔を向ける。
「その……学校はもう大丈夫なの?」
母親は普段通りで変わりのないアリスが逆に心配で仕方がなかった。また、無理をして学校に行くのではないか? 無理をして笑っているのではないか?母親は娘のいじめに気付けなかった事をずっと後悔していた。
「大丈夫! クラスのみんなは確かに怖いけど、ティファナという心強い味方が居るし、それに、……いじめから逃げていても何も解決しないもの! 立ち向かっていかなくちゃ!」
母親の不安を晴らすような笑顔でアリスが答える。アリスは逃げずにクラスメイトと闘おうとしていた。もう前の弱いアリスではない。この二日間でいつのまにか強く新しいアリスへと代わっていたのだ。
「アリスー」
外から、ティファナの声が聞こえた。今は森の中は子供一人では歩けないので、ティファナの母親も一緒なのだろう。アリスの母親は仕事で送り迎えが出来ないので、代わりにティファナの母親が送ってくれる事になっていた。
いってきます、と背を向けたアリスに対して母親はいってらっしゃい、とだけ声を掛けた。そして、空になったマグカップを片づける。その顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
「おはよう、ティファナ。おはようございます、ティファナのお母さん」
「おはよう、アリス。あれっ、そのイヌどうしたの?」
「診療所の近くで倒れていたらしいの。ずっと、目を閉じたままで何も反応を示さないから、診療所で診てもらおうと思って」
「そのイヌ……」
イヌに顔を近づけ、ティファナは凝視する。
「どうしたの?」
アリスが尋ねた。
「このイヌ、マルコさんの家のイヌだわ。ほら、いつも学校に給食を配達してくれているお兄さんの! 間違いないわ! ね、母さん」
「そうね、確かに似ているわ。普段は放し飼いにされているから、何かあったのかしら?」
「さあ? ……でも、飼い主が見つかって良かったです。出来たら元気な状態で返したいから、診療所で診てもらいたいんです。あの医者は親切な人だから、きっと看てくれると思うし」
「そうね。じゃあ、診療所まで送るわ。村人があちこちに立って警護してくれてはいるけど人数は少ないし、なにより犯人はまだ捕まっていないものね。うちの家も主人が出稼ぎに行っているから、女二人で不安だし、防犯の為に家の目に付く所に斧を置いているのよ」
確かに先程から、何人かの大人の村人とはすれ違っていた。皆、手に斧やこん棒等の武器を持ち、辺りを注視しながら探索している。どうやらこの村をパトロールしながら、犯人捜しをしているようだ。だが、全てを隠ぺいするかのように深い森に覆われたこの村では何の意味もないように感じられた。
「ありがとうございます。本当に、早く犯人が見つかると良いですね」
すれ違う村人を一瞥して、アリスが微笑んだ。
三人が診療所に到着する頃には学校が始まる時間は当に過ぎていた。
「医者、医者!」
アリスはノッカーを鳴らし、外から大声で叫んだ。
「医者! 医者! ……居ないのかしら?」
ティファナの提案により、ドアノブをゆっくりと回し、扉を軽く押す。どうやら、鍵はかかっていないようだ。二人には外で待っていてもらい、アリスは一人で中に入っていく。
「医者? 医者?」
声を掛けながら、一部屋一部屋確認していく。といっても、数部屋しかない小さな診療所だ。医者はすぐに見つかった。ドアは元々開いていたので、中に入らずに背中越しに声を掛けた。
「医者? その……何かあったんですか?」
アリスは眉を寄せ、怪訝な表情で医者に問いかけた。いつもなら呼ぶとすぐに出てくるはずの医者が出てこなかった。それに、
「医者、泥棒にでも入られたんですか?」
医者を見つけるまでの一部屋一部屋。全てが何者かに荒らされたかのようにめちゃくちゃだった。棚、机の中の物が全て出され、床には足の踏み場も無い程にカルテやらビンやら洋服、その他にも様々な物が乱雑に溢れかえっていた。この部屋も例外ではない。
医者はゆっくりと振り返る。
「……いや、ちょっと探し物をしていてね。何でもないんだ。所でアリス、どうかしたのかい?」
何でもない訳がないと思ったが、アリスには医者の目がこれ以上何も聞くなと語っているように見えた。従って、何も尋ねる事が出来なかった。
「……このイヌが昨日からぐったりしていて、ちっとも目を覚まさないんです」
「ちょっと待って。すぐそっちに行くから」
医者は床に散らばっている物を踏まないように避けながら、アリスの所に向かう。
アリスの腕の中にあるイヌを見た瞬間、医者は大きく目を見開いた。
「こ、このイヌはどこで見つけたんだい?」
「し、診療所の近くらしいです」
只ならぬ医者の様子に圧倒され、か細い声でアリスは答えた。
医者はさらに顔を近づけて、イヌをじっくり隅々まで精察すると、アリスの腕からイヌを奪い取った。
「あっ!」
「いいかい、アリス? このイヌは責任を持って私が預かる。だから、今日は帰ってくれ」
「え、でも、」
「良いね、アリス」
「……はい」
医者に強く促され、アリスは二人の元に戻るしかなかった。いつも優しい医者の突然の豹変に戸惑いながらも、一度、後ろを振り返った。やはり、医者は厳しい顔付きでイヌを診ていた。
「おかえりなさい、アリス。イヌの容態はどうだった?」
「……医者に預けたから、多分大丈夫。ごめんね、待たせちゃって」
心配そうに尋ねてきたティファナにアリスは笑顔で返した。
「一応マルコさんには報告しておいた方が良いと思うの。もしかしたら、心配していらっしゃるかもしれないし」
「そうね。じゃあ、一緒にマルコさんの家まで行きましょう」
「良いの? 学校もあるし、あたし一人だけで、」
「ダメよ! 絶対ダメ!」
アリスの言葉を遮り、ティファナが大声で言った。
「えっ?」
「あっ、ほら、まだマリーヌを殺した犯人は捕まっていないんだし、私達も一緒に行くわ!ね、母さん!」
「ええ、そうね。一緒に行きましょう。どうせ、もう始業時間は過ぎているもの。学校へはお昼から行けば良いわ」
「……すいません。ありがとうございます」
戸惑いながら、アリスは礼を述べた。
マルコは現在、親元を離れて、一人で山小屋のような小さな家に住んでいる。そしてティファナとマルコは親包みで仲が良く、小さい頃からの知り合いで、所謂幼馴染という間柄らしい。これらの事を道中にアリスは聞いた。
嬉しそうに語るティファナを見てアリスの胸中は複雑だった。
「ここがマルコさんの家?」
「ええ、そうよ。私、呼んでみるわ」
ティファナがドアをノックする。
「……出ない。留守なのかも」
「あたし、ちょっと座って待ってみるわ。だって、まだ給食の配達の帰りかもしれないし」
アリスがマルコの家の扉にもたれ掛かりながら言った。
「じゃあ、私達も待つわ! ね、母さん」
「しょうがないわね。じゃあ、お昼まで待ちましょうか」
三人はマルコの帰りを待ち続けるものの、マルコが帰ってくる気配は一向にない。一時間、二時間と待って、学校のお昼のチャイム音が聞こえてきた。
「マルコさん、帰って来ないね」
アリスが言った。
待ちくたびれて、白いワンピースが汚れるのも気にせずに、ドアの前に座り込んでいる。その隣にティファナも座り、母親は二人の正面で立ち詰めていた。
「もう少し待って来なかったら、また学校帰りにでも来ましょうか」
ティファナ母が二人に提言する。その言葉に二人はこくりと頷いた。
それから、三十分ほど待って重い腰を上げようとした時、数十人の村人がこちらへとやって来た。
「マルコは居るか?!」
村人の先頭に立っていた若者が怒りの形相で強く言った。手には斧を持っている。いや、よく見るとその場にいる全ての村人が鍬や鉈、斧など凶器になるものを持っていた。
「マルコ君がどうかしたんですか? 何かあったんですか?」
ティファナ母が不安げな表情で若者に尋ねた。
若者は眉間によせていた皺をより深くすると、忌々しげにこう言い捨てた。
「……あいつは、マルコは学校の給食に何か薬を混入したかもしれない。クラス全員が今、意識がなく昏睡状態だ」
三人は息を呑んだ。
何も言う事が出来ない三人を置いて、若者は構わず話を進めていく。
「まだ、あいつが犯人だと決まったわけじゃないが、何でも昨日、マルコが学校を親の仇でも見るような目で睨み付けていたらしい。もしかすると、マリーヌを殺したのも奴が、」
「マルコさんじゃない!」
ティファナが立ち上がった。
「マルコさんはそんな事、絶対にしません! 彼はいつも穏やかで優しくて、人を傷付けるような真似はしないわ。ましてや、人殺しなんて……絶対に違います!」
ティファナは若者を強く睨み付けて主張する。
「ここに彼はいません。帰ってください!」
若者の前に立ちはだかり、見上げ、強く言い放った。
「……もし、共犯だったらお前もただじゃすまないからな」
若者はそう言い残し、村人を引き連れて、森の奥へと消えて行った。
「ティファナ、あなた……」
ティファナ母は駆け寄り、未だ村人達の背中を睨み付けているティファナの肩を優しく抱く。
「大丈夫。マルコ君がそんな事をするはずがないわ。さあ、その眉間の皺をどうにかして」
ティファナの眉間を軽く突いて、安心させるように笑った。
「母さん、母さん」
ティファナはぎゅっと縋りつくように抱きついた。顔を母の胸に埋めるが、嗚咽する声が漏れている。ティファナ母は苦笑し、小さく震えている娘の背中を優しくさする。そんな二人に掛ける言葉もなく、アリスはその様子を一人、ぼんやりと眺めていた。そして、ティファナに声を掛けようと思い、ドアノブを使って立ち上がろうとする。
――ガチャリ
ドアには鍵が掛かっていなかった。アリスは二人の様子を確認すると、カバンを掴み静かに中へと入っていった。
「きゃああああああああああ」
二人の耳にアリスの悲鳴が聞こえてくる。その発信源がマルコの家の中である事に驚きながらも、ティファナは勢いよくドアを開けた。
まず、二人の目には大きなテーブルが目に入った。部屋の真ん中に置かれているその上には大きな転がった鍋が一つ。そして床にはくしゃくしゃになったテーブルクロス、割れた皿にコップ、スプーン、おそらく、その鍋の中身であるカレーがこぼれ落ちていた。
次に、二人にはアリスの背中が目に入る。床に座り込み、小さく背中を丸め、何かを指している。その、指先を辿っていくと、
「マ、マルコさん!?」
そこには仰向けで床に倒れているマルコが居た。
マルコは血走った目を大きく見開き、吐血したのか口周りは赤く、喉元を掻き毟るようにして倒れている。よく見ると、テーブルや床にはその血液が飛び散っていた。
ティファナは急いでマルコに駆け寄る。その際、床に座り込んだままのアリスに大きくぶつかるが、気にも留めずに倒れているマルコの上半身を抱き上げた。
「マルコさん! マルコさん!」
ティファナが懸命に呼びかけるものの、マルコは目を見開いたまま何も反応を示さない。
「村の人を呼んでくるわ!」
ティファナ母はそう叫んで、ドアの外へと駆けて行く。
「マルコさん、しっかりして! マルコさん!」
ティファナから零れ落ちる涙がマルコの顔へと降り注ぐ。マルコの目尻にその涙が落ち、頬を伝った。何だか、彼も一緒に泣いているように見えた。
「ティファナ……マルコさん、のズボンのポケットに何か入っているわ」
ポケットから、はみ出ている物を指さし、アリスはティファナにそれを見るように促す。
「……手紙?」
マルコのズボンのポケットから取り出し、慌ててティファナが中身を確認する。
「……学校の奴らは、全て僕が殺しました。僕は今まで学校にも行けずにずっと働き続けていました。毎日、楽しそうに勉強するあいつらが憎かったのです。マリーヌを待ち伏せして斧で殺し、他の奴らは診療所から盗んで来た毒を給食に混入しました。しかし、後になって自分の犯した事の重大さに気が付きました。僕の罪は余りにも重すぎる。自分の罪は自分で償います……」
ティファナは読み終えると、手紙をグシャグシャに丸め、放り投げた。それがアリスの頬に当たり、床に転がった。アリスはティファナの背中を黙って見つめる。
「嘘、こんなの嘘! マルコさん、いや、いやあああああああああああああああ」
ティファナはマルコの胸に縋りつき、泣き叫んだ。マルコがこんな事をするはずがない。こ
れは何かの間違いだと。
いくら涙を流してもティファナの涙が枯れる事はなかった。