アリス イン ザ スモール クリニック
(お願い、もう私の事いじめないで)
――アリス、アリス
暗闇の中で声が聞こえた。
――アリスは、あたしが守るから。アリスは何も心配しないで
(誰? 誰かいるの?)
――あたしはアリスの味方だよ
(もしかして、あなたは……)
「シエラ!」
アリスは跳ねるように起き上がった。浅い呼吸を何度も繰り返し、両手で握りしめていたシーツをさらに強く握りしめる。
「アリス!」
誰かが横から、アリスに抱きつく。
「良かった。本当に良かった。」
「……ティファナ?」
苦しいくらいに抱きしめられ、その身体の温もりから、どれだけアリスを心配してくれたのかが痛いくらいに伝わってきた。
ぼんやりとしていたアリスの思考が戻ってくる。
一体、どこまでが虚構で、どこからが現実だったのだろうか?
ふと、自分の手のひらに包帯が巻いてある事に気が付き、次いで全身を痛みが襲った。
「うッ……! こ、ここは? 私、一体?」
「ここは、診療所よ。森で倒れていた所を医者が見つけてくれたらしいわ」
「倒れてた?」
「ええ」
ティファナはそれ以上は語らずにアリスから離れ、ベッド横の椅子に腰かけた。
「そういえば、さっきアリスが起きた瞬間に『シエラ』って、」
「え?」
「シエラってそう言ってたわ。誰?」
そういえば、起きる直前に夢を見ていた気がする。そこで、懐かしい彼女の声を聴いた。
「……シエラは前の所に住んでた時の友達なの。いつも近くに居て、彼女にはどんな事でも話せた。私の大事な友達……でも、」
アリスは目を伏せた。
「父さんが死んだ日から、いなくなって……それっきり会ってないわ」
「そうだったの。その子が居なくなって寂しい?」
「……ううん。今はティファナがいるから」
アリスは、安心させるようにティファナに微笑んだ。
「アリス……そのシエラってどんな子だったの?」
「ああ、シエラは、……シエラは、……シ、エラは、……」
シエラは――そこまでしか言えずに閉口した。いや、正しくは閉口せざるをえなかった。黙り込んでしまったアリスにティファナは慌てて謝った。
「ごめんなさいアリス。嫌なこと思い出させちゃったのね」
「う、ううん。そうじゃ、そうじゃないの!」
激しく頭を振るアリスにティファナは優しく微笑んだ。
「これからは、シエラの代わりに私がアリスの傍に居るからね」
「……ありがとう、ティファナ」
アリスは目に涙を浮かべ、真っ直ぐティファナを見つめた。
ティファナが友達で本当に良かった。彼女が居るから、まだ大丈夫だ。苦しい学校生活にも耐えられる。
胸を打つ言葉をもらったアリスは先程の疑問をすっかり忘れていた。
――シエラの容姿が少しも思い出せなかった事を
病室のドアが勢いよく開いた。
「アリス!」
「母さん……」
よっぽど急いできたのか、母親の服、髪は乱れ、息が荒い。
「どうしたの、アリス? 一体、何があったの? どうして診療所なんかに居るの? 全身に赤い液体が付いていたって聞いたけど、どうして?」
矢継ぎ早に質問を浴びせる母親にアリスは怯んだ。
今まで見た事もない程に取り乱した様子の母親にアリスは驚きを隠せなかった。ティファナの存在にも気が付いていないのか、母親は周りを気にする事なくアリスに詰め寄る。肩を掴まれ大きく揺さぶられた。
「アリス、何があったの? 答えて! アリス? アリス!?」
段々と声を荒げていく母親。心配してくれているにしても、ここまでの言動を取られると、嬉しいを通りこして恐怖を感じた。
「おばさん、落ち着いて下さい! 私が説明しますから!」
何も言えずに固まったままのアリスを見かねて、ティファナが大声で制止した。
「アリスは学校でいじめられていたんです!」
「……え?」
母親の口から、呆けた声が出た。
ティファナはアリスに代わって説明した。余所者というだけで今までクラスメイトにいじめられていた事。そして、今日、マリーヌに残虐過ぎる嫌がらせを受けた事。
それを黙って聞いていた母親はアリスに視線を移した。その瞳からは何筋もの涙が零れ落ちている。
「……どうして何も言ってくれなかったの?」
「……」
アリスは俯いたまま何も答えない。
「アリス?」
母親は優しい穏やかな声音でもう一度尋ねた。
「……」
アリスは怖かった。もし、いじめられていると母親に告げれば、幻滅されるんじゃないかと、嫌われるんじゃないかと。クラスメイトに見られているような蔑んだ瞳で見られるんじゃないかと。
尚も沈黙を貫くアリスを母親がそっと抱きしめた。
「分かった。言いたくないなら、何も言わなくていいわ。気付けなかった母さんが悪いもの」
その言葉を聞いた瞬間、アリスの瞳から涙が溢れ出た。
「ごめんなさい。母さん、ごめんなさい……」
隣にティファナが居るのも忘れて、赤ん坊の様に大泣きする。
母親は「大丈夫。アリスは母さんが守るから」と頭を撫でながら、子守唄のような安寧の声音で何度も何度も囁いた。
それから、しばらくしてアリスが落ち着いた頃に母親とティファナは病室を後にした。今日一晩だけ様子を見るという事で、アリスは診療所に泊まる事になった。
ぐっすりと安眠するアリスは知らない。
――これが全ての始まりだという事を。