アリス イン ザ フォレスト
深い深い森の中、深緑の木々がその家を覆っていた。空は快晴であるにも関わらず、針に穴を通すかのような僅かな日差ししか当たらない。その為、折り重なるように出来た濃い影が鮮やかな赤い屋根を黒く変えていた。また、周辺に隣家は見当たらず、ポツンとまるで隔離するかのようにその家はあった。そんな暗くおどろおどろしい雰囲気とは対照的に、中からは二人の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
「アリス、早くしないとティファナが来るわよ。急いで朝食食べなさい」
「分かってる。後一口だから」
アリスはイチゴジャムがたっぷり塗られた食パンを慌てて口の中へと押し込んだ。その顔を見て母親は小さく笑う。
「アリス、口の端にジャムが付いてるわよ」
「えっ、やだ。母さん取って」
アリスは照れくさそうに頼んだ。母親は左手で頬を包み込み、右手で優しく拭い取る。母親の温かい体温を感じ、アリスは心の中で強く願った。
〝このまま、時が止まれば良いのに〟
「アリスー。一緒に学校行きましょう」
その願いをぶち壊すかのように、外からアリスを呼ぶ声が聞こえた。先程話していたアリスの友人だ。
「ほら、ティファナが来たわ」
母親はアリスを椅子から立たせ、そっと背中を押す。
「うん……」
ドアノブに手を掛けるが、アリスは中々外に出て行こうとしない。そんなアリスを見て母親は不思議そうに尋ねた。
「アリス、どうかしたの?」
外からはもう一度アリスを呼ぶティファナの声が聞こえる。
アリスは後ろを振り返ると、母親に強く抱きついた。そして、母親の顔を見つめ、目一杯の笑顔で微笑んだ。
「いってきます、母さん」
母親から離れると、今度は躊躇わずにドアノブを回し、待ちくたびれているであろうティファナの所へと駆けて行った。
胸の中に少しの蟠り(わだかま)を残したまま、母親はしばらくの間、アリスが出て行ったドアをじっと見つめていた。
アリスは今年15歳になる少女だ。父親が亡くなり、母親と二人暮らしになったのを境にこの村に越してきた。人家以外には、おばあさんが営んでいる雑貨店が一軒に小さな診療所が一軒。隣村に行くには歩いて一時間。おまけに自分達が住んでいる家は、唯でさえ日差しが当たらない村よりも、さらに森の奥にある。どうしてこんな不便な所――その中でも特に過疎化が進んでいる村に越してきたのか、アリスには不思議でたまらなかった。以前に住んでいた所も自然豊かな場所だったが、こんなに不便な所ではなかった。そのギャップに苦労し、不快な思いをした事もある。しかし、他に頼れる身寄りもなく、母親が一人でアリスを扶養してくれている事を考えると、負担のかかるような事は何も言えなかった。
だから、学校での事も母親に告白する事が出来ずにいた。
友人ティファナといつもの様に登校し、アリスより3つ年上のマルコにいつも通り挨拶する。マルコはこの学校に給食を配達している細見の青年で、家族の為に小さい頃から学校にも行かずに働いている親孝行者だ。
マルコの横を笑顔で通り抜けると、途端に二人の表情が曇り始める。アリスは震える手で一クラスしかないプレハブ造りの教室のドアを開ける。そして俯きながら、震える足で机に向かって足を進める。目前まで行くと、アリスは深い溜息を吐いた。またか、と。
アリスの机には黒いペンで「余所者は出て行け!」と大きく書かれていた。
(先生が来る前にキレイに拭かないと……)
アリスは持ってきてあった布巾を使って、手慣れた手つきで擦っていく。ティファナも一緒に拭くのを手伝ってくれた。
「アリス、こんなの気にしちゃダメよ」
「……ありがとう、ティファナ」
彼女だけが学校で唯一のアリスの味方だった。
周辺から隔離されるように木々に覆われているこの村は排他的で、余所者を嫌う傾向にあるようだった。顔には出さないものの、母親も仕事を見つけるのに随分苦労したのをアリスは知っている。
二人で力強く机を擦っていると、他の生徒から口ぐちに野次が飛んできた。
「もう、学校に来るな」「村から出て行け」「ブス」「余所者は消えろ」
その他にも口では言えないくらいの数々の酷い暴言。
それでも、アリスは無視を決め込んで、一心不乱に机を擦る。そうしないと、今にも心が挫けてしまいそうだった。ふと気配を感じ、真横を見ると、ある女生徒が立っていることに気が付いた。
「アリス、あんたのその醜い顔をあたしがもっと綺麗にしてあげる」
アリスの手がピタリと止まる。顔が強張り、全身から汗がドッと吹き出た。
女生徒はマリーヌだった。彼女はこのクラスでいわゆるリーダー、いやボスのような役割で、率先してアリスをいじめていた。アリスにとって恐怖という言葉を具現化したような相手だ。
「アリス、大丈夫?」
ティファナは汗ばんだアリスの掌に、そっと自分の手を被せる。手先が冷たくなっているアリスの手とは対照的なとても暖かい手。
(早く、早く何か言わないと、ティファナに心配掛けちゃう……)
そう思うもののアリスの体は全く言う事を聞かず、人形のように固まったままだ。無反応なアリスに腹を立てたマリーヌは手に持っていたバケツをアリスの頭上から思いっきりぶちまけた。
「無視、してんじゃないわよ!」
赤い液体がアリスの全身に降り注ぐ。視界一面が真っ赤に染まって行く。
「きゃああああああああああ」
ティファナが悲鳴をあげた。クラスメイトはくすくすと笑っている。アリスは呆然としていた。マリーヌは未だ無反応なアリスに追い打ちをかけるように、丸い手のひらサイズの物をぶつけた。それはアリスの頬に鈍い痛みを与え、コロンと机の上に転がった。
「きゃああああああああああああ」
先程よりも劈くティファナは悲鳴をあげた。今度はクラスメイトも息を呑み、アリスも大きく目を見張った。ようやく、マリーヌの顔がニンマリと笑う。そして、アリスの耳元でこう囁いた。
「アンタもこうしてやろうか」
アリスの身体が大きく跳ねた。机に体が当たり、『それ』が向きを変えた。ゴロンと転がった『それ』はアリスの方を向いていた。『それ』と目が合ったのを合図にアリスは教室を飛び出した。
――怖い、恐ろしい、殺される、死にたくない。
様々な感情がアリスの中で蠢いていた。どこに行く訳でもなく、ただひたすら暗い森の中を疾走し続ける。走って、走って数十分は走ったのだろうか、疲れから足が縺れ、アリスは地面に転げた。受け身も取らずに勢いよく転んだので、頬、手のひら、膝、肘―露出してある所から血が滲み出す。普通は痛みを催すはず だが、今のアリスはそれが考えられないくらいに動揺していた。
顔を上げると、自分の生傷が目に入った。
先程の出来事が頭の中で何度も何度もリフレインされる。
(赤い、マリーヌ、赤い、首、子ネコの首、目、合って、赤い………)
「いや、いや、いやあああああああああああああああああ」
アリスの悲痛な叫び声が森の中で木霊した。そこで、アリスの意識はプツリと途絶えた。