第9話 散らばった金貨と契約の更新
掌に残る鉄錆の匂いは、いくら手を洗っても落ちなかった。
朝の光が薄く差し込む店内で、私はカウンターの上に金貨を積み上げていた。
一枚、また一枚。
カツン、カツンという硬質な音が、早朝の静寂に吸い込まれていく。
まるで、私の寿命をカウントダウンしているような音だった。
金庫の中身をほとんど空にした。
これが、私の誠意であり、臆病さの対価だ。
昨夜見た、彼の背中の傷。あれ以上、傷を増やさせるわけにはいかない。
私がここで商売を続ける限り、王家の影は何度でも襲ってくるだろう。そのたびに彼を矢面に立たせることは、私の「損益分岐点」を完全に超えていた。
「……これでいい」
最後の金貨を積む。
震える指先を、もう片方の手で押さえつけた。
この金があれば、彼はどこへでも行ける。隣国へ逃げて、もっと安全で割のいい仕事を見つけられるはずだ。
私という不良債権を切り離すことが、彼にとって最善の利益になる。
そう結論づけなければ、心が折れてしまいそうだった。
階段を降りてくる足音がした。
重く、けれど以前よりわずかに慎重な足運び。
左足を庇っている音だ。
「……早いな」
シリウスが姿を現す。
彼はいつも通り、無愛想な顔でコーヒーを淹れる準備を始めようとした。
その動きが一瞬止まる。
カウンターの上に積み上げられた金貨の塔を見て、彼の眉が怪訝そうに寄った。
「何の真似だ」
「退職金よ」
私は椅子には座らず、立ったまま彼と対峙した。
座ってしまえば、彼を見上げる形になり、威圧感に負けてしまう気がしたからだ。
背筋を伸ばす。
これは商談だ。情を挟んではいけない。
「契約解除を通告するわ。今日付けで、あなたは解雇よ」
シリウスがゆっくりとこちらへ向き直る。
その瞳が、スッと細められた。
獲物を見定める目ではなく、敵対者を排除しようとする時の目だ。
喉が干上がる。
けれど、私は言葉を続けた。
「昨夜の一件で分かったの。王家の追っ手は、今後さらに増員される。一介の傭兵風情に守りきれる規模じゃないわ」
「……俺が、役不足だと言うのか」
「ええ。コストパフォーマンスが悪すぎるのよ。あなたの治療費や、死なれた時の補償金を考えたら、もっと組織立ったギルドと契約した方が安上がりだわ」
嘘だ。
そんなギルドは信用できないし、私の秘密を守れるのは彼だけだ。
けれど、彼を傷つけないためには、彼のプライドを傷つけるしかない。
「だから、これを持って消えて。契約終了よ」
私は金貨の山を、彼の方へと押し出した。
ジャラリと音がして、数枚が崩れ落ちる。
シリウスは動かなかった。
ただ静かに、私と、金貨と、私の背後にある「恐怖」を交互に見ている。
その沈黙が痛い。
何か言って欲しかった。罵倒でも、感謝でもいいから、早くこの関係を終わらせて欲しかった。
「……ふざけるな」
低く、唸るような声。
次の瞬間、視界が弾けた。
シリウスの手が、カウンターの上の金貨を薙ぎ払ったのだ。
金属がぶつかり合う激しい音。
金貨が床に散らばり、転がり、あちこちで回転して光を撒き散らす。
私は悲鳴を上げそうになるのを必死で飲み込み、一歩後ずさった。
「金で解決できると思うなよ、リリアーヌ」
彼がカウンターを回り込んで、私に詰め寄る。
大きい。
見上げると、彼の目は怒りで燃えていた。けれどその奥には、昨夜の怪我の痛みよりも深い、苛立ちのような色が混じっていた。
「お前は、俺が怪我をしたからクビにするのか。俺が足手まといだからか?」
「ちが……っ、あなたが死ぬのが嫌だからよ!」
叫んでしまった。
計算高い商人の仮面が、あっさりと剥がれ落ちる。
私は両手で口を覆ったが、もう遅かった。
「……私のせいよ。私がこんな場所にいるから、あなたが血を流す羽目になった。次は腕かもしれない、命かもしれない。そんな責任、背負えないわ」
息が切れる。
本音を吐き出すことが、こんなにも消耗する行為だとは知らなかった。
床に散らばった金貨が、私の弱さを嘲笑うように光っている。
シリウスの威圧感が、ふっと緩んだ。
彼は大きな溜息をつき、乱暴に髪を掻き上げた。
「……馬鹿か、お前は」
「馬鹿で悪かったわね。賢かったら、もっと上手く逃げてるわよ」
「違いない」
彼は床に膝をつき、散らばった金貨を拾い始めた。
その背中には、まだ新しい包帯が巻かれているはずだ。
痛々しい動作なのに、どこか呆れたような、日常の延長のような空気が漂う。
「俺を買ったのはお前だ。忘れたか?」
シリウスが拾った金貨を一枚、親指で弾く。
ピン、と澄んだ音がして、彼はそれを空中で掴み取った。
「商品は返品不可だ。使い潰すまで責任を持て」
「……死んでも知らないわよ」
「死なない。俺はお前の投資対象だろう? 利益が出るまで守るのが俺の仕事だ」
彼は立ち上がり、掴んだ金貨を私の掌に押し付けた。
熱い。
彼の体温と、金属の冷たさが混じり合った感触。
「それに、俺が逃げたら誰が棚卸しをするんだ。あの量の在庫、一人じゃ無理だろう」
ニヤリと笑う顔は、いつもの不敵なものだった。
そこには、同情も自己犠牲もない。
ただ「俺はここにいると決めた」という、揺るぎないエゴだけがあった。
私は掌の中の金貨を握りしめた。
指の関節が白くなるほど強く。
「……給金、上げないわよ」
「期待してない」
「怪我しても、治療費は給引きだからね」
「鬼だな」
軽口を叩き合いながら、目頭が熱くなるのを必死で誤魔化した。
彼は逃げない。
私が突き放しても、金で頬を叩いても、この場所に留まることを選んだ。
それがどれほど愚かで、そして得難いことか。
「拾うの手伝いなさいよ。散らかしたのはあなたでしょ」
「へいへい、商会長」
私たちは床に這いつくばり、散らばった金貨を一枚ずつ回収した。
チャリ、チャリという音が、先ほどまでのカウントダウンとは違い、どこか優しいリズムに聞こえる。
床に落ちていた最後の一枚を拾い上げ、私はそれをポケットにねじ込んだ。
重い。
けれど、その重さはもう、私を押し潰すプレッシャーではなかった。
これは、彼と共に背負う覚悟の重さだ。
私は立ち上がり、スカートの埃を払った。
まだ手は震えている。王家の影が消えたわけでもない。
それでも、隣に立つこの男がいる限り、私はまだ歩ける気がした。
「店を開けるわよ、シリウス」
「ああ」
彼は短く答え、裏口の鍵を開けに向かった。
その背中は昨日よりも少しだけ大きく、そして頼もしく見えた。




