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悪役令嬢ですが、国外追放は願ったりです  作者: 九葉(くずは)


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第8話 血の匂いと背中の古傷

ゴミ箱に捨てた新聞紙の丸まりが、視界の端で黒いシミのように燻り続けている感覚が消えない。


閉店後の静まり返った店内で、私は三度目の戸締まり確認をしていた。

真鍮の鍵をシリンダーに差し込み、回らないことを確かめる。

ガチャリ。硬質な音が指先に伝わる。

大丈夫。物理的には閉ざされている。

けれど、背筋を這い上がる悪寒だけは、どんなに鍵をかけても締め出すことができなかった。


「……落ち着きがないな」


背後から、低く呆れた声が掛かる。

振り返ると、シリウスが木箱に腰掛け、愛用の剣の手入れをしていた。

オイルを含ませた布で刀身を拭う動作は、呼吸をするように自然で、そして恐ろしく静かだ。


「在庫の計算が合わなかっただけよ」

「嘘をつけ。帳簿はまだ開いてもいない」


彼は布を止め、その鋭い視線を私に向けた。

見透かされている。

私の焦燥も、数日前から店の周りをうろつく不審な視線に気づいていることも。


「……今日はもう上がるわ。あなたも休んで」

「ああ」


シリウスは短く答え、剣を鞘に納めた。

カチン、と鍔が鳴る。

その音が、どこか「合図」のように聞こえたのは、私の考えすぎだろうか。


私は逃げるように二階の自室へと上がり、ベッドに潜り込んだ。

けれど、眠気が訪れる気配はない。

窓の外、路地裏を吹き抜ける風の音が、誰かの足音のように聞こえて耳を塞ぐ。

王家の影。

あの断罪の広間で私を見下ろしていた冷たい目たちが、ここまで追いかけてきている。


          *


深夜、ふと目が覚めた。

風の音ではない。もっと微かな、けれど異質な気配。

隣の部屋――シリウスの寝室から、気配が消えていた。


私は跳ね起きた。

平民服の上にショールを羽織り、裸足のまま廊下へ出る。

床板が冷たい。

隣室のドアは少しだけ開いていた。

中は無人だ。ベッドには誰も寝た形跡がない。


「……どこへ」


心臓が早鐘を打つ。

まさか、逃げた?

いや、彼は契約を破るような男ではない。

だとすれば。


私は階段を駆け下りた。

一階の店舗、裏口の扉。

鍵が開いている。

冷たい夜風が吹き込み、私の頬を叩いた。


外へ出る。

路地裏は闇に沈んでいる。

目を凝らすと、通りの突き当たり、月明かりがわずかに届く場所に、人影があった。

大柄なシルエット。シリウスだ。

彼は壁に手をつき、何かを吐き出すように深く息を吐いていた。


「シリウス!」


私の声に、彼がビクリと肩を震わせ、素早く振り返った。

その動きには、明確な殺気が混じっていた。

私だと認識した瞬間、その殺気は霧散したが、彼の纏う空気は張り詰めたままだ。


駆け寄る。

鼻をつく匂い。

鉄錆と、生臭さが混じった、鮮烈な匂い。


「血……」


彼の服ではない。彼の手と、頬に、黒い液体が飛沫のように付着していた。

そして足元には、引きずったような跡が闇の奥へと続いている。


「……見るな」


シリウスが低い声で言い、私から顔を背けた。

その拒絶が、何より雄弁に事実を物語っていた。

やったのだ。

この数日、店を監視していた「視線」の主たちを。


「何人いたの」

「……三人だ。プロじゃなかった。ただの雇われ密偵だ」


彼は手の甲で頬の血を拭った。

その動作が、あまりに手慣れていて、私は息を呑む。

私が帳簿をつけるように、彼は人を排除する。

私のために。


「怪我は」

「ない。返り血だ」

「嘘よ。左足、庇ってる」


私は彼の手を振りほどき、強引にその身体を支えようとした。

重い。岩のような質量。

シリウスは一瞬抵抗しようとしたが、小さく舌打ちをして体重を預けてきた。


          *


店の奥、明かりを極限まで落とした倉庫の中で、私は彼の上着を脱がせた。

革鎧の下、リネンのシャツは汗と血で汚れている。

背中を向けさせる。

息が止まりそうになった。


そこには、新しい傷など目に入らないほど、無数の古傷が刻まれていた。

剣傷、火傷、鞭の跡。

この男がどんな人生を歩んできたのか、その背中が全てを語っている。

貴族の令嬢として温室で育った私には、想像もつかない地獄の地図。


「……酷い」


思わず漏れた言葉に、シリウスが背中越しに笑った気配がした。


「見苦しいだろう。だから見るなと言った」

「違うわ。……新しい傷、ここね」


左の脇腹。浅いが、刃物で切り裂かれた傷があった。

私は救急箱から消毒用の酒精と包帯を取り出す。

手が震えそうになるのを、奥歯を噛み締めて止める。

これは私のせいだ。

私が彼を雇ったから。私が王家から逃げ出したから。


酒精を傷口にかける。

シリウスは呻き声一つ上げず、ただ筋肉を強張らせて耐えた。


「王家の手の者だったわね?」

「ああ。リーゼの領主に掛け合って、お前の身柄を引き渡させる手筈を整えていたようだ」


淡々とした報告。

包帯を巻く手が止まる。

そこまで迫っていたのか。

私が呑気に商売ごっこをしている間に、包囲網は完成しかけていた。

それを、この男が物理的に引き裂いたのだ。


「……あと何人来ると思う?」

「さあな。だが、今回の連中が戻らなければ、次はもっとマシな奴らが来る」


シリウスが振り返り、私の手首を掴んだ。

その手は熱く、力強い。

けれど、その強さが今の私には怖かった。


「俺がいる限り、指一本触れさせない。契約通りにな」


彼の瞳が、暗い倉庫の中で燃えるように光っている。

揺るぎない自信。守護者の矜持。

普通の令嬢なら、その言葉に安堵し、涙して感謝するだろう。

「あなたがいれば安心ね」と。


けれど私は、喉の奥からせり上がってくる吐き気を必死で飲み込んでいた。

怖い。

追っ手が怖いのではない。

この男が傷つくことが、どうしようもなく怖い。


私の自由のために、彼が血を流す。

その「コスト」は、私が支払える範疇を超えている。

もし次、もっと強い敵が現れて、彼が死んだら?

私のせいで、私の大切な――唯一の理解者が、肉塊に変わったら?


「……離して」


私は彼の手を振り払った。

シリウスが驚いたように目を見開く。


「手当ては終わったわ。シャツを着て」


私は道具を箱に押し込み、立ち上がった。

背中を向ける。顔を見られたくなかった。

今、私がどんな顔をしているか、自分でも分からなかったから。


「リリアーヌ」

「寝るわ。明日の仕入れに響くもの」


私は逃げた。

倉庫を出て、階段を駆け上がる。

自室に飛び込み、扉を閉めて、背中で重さを預ける。

ずり落ちるように座り込む。


膝が震えていた。

手のひらに残る、彼の体温と、血の感触。

それをスカートで必死に拭う。

落ちない。

私が彼を引きずり込んでいる泥沼の深さを、その赤色が告発しているようだった。


「……契約違反よ」


暗闇に向かって、誰にも聞こえない声で呟く。

安全を確保しろとは言った。

けれど、命を懸けろとは言っていない。

こんなに重い借りを背負わされて、どうやって対等な関係を維持できるというの。


私は膝を抱え、窓の外を見上げた。

月は雲に隠れて、何も見えない。

ただ、下階から聞こえる、彼が独りで後片付けをする微かな音だけが、私の罪悪感を撫でるように響いていた。


守られるということは、自分の弱さを突きつけられるということだ。

そして、守ってくれる者を失うリスクを背負うということだ。

私は、その恐怖に耐えられるほど、まだ強くはなかった。

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