第7話 丸めた新聞紙とインクの染み
店の入り口に掲げた看板の文字が、朝陽を浴びて白く浮き上がっている残像が、瞼の裏に焼き付いている。
私はカウンターの中に座り、慣れた手つきでインク壺の蓋を開けた。
鉄と油の匂いが鼻腔を満たす。
それは、かつて王宮で嗅いだ香水の甘ったるい香りよりも、ずっと私の神経を鎮めてくれる匂いだ。
「商会長、北の行商人が到着したぞ。荷下ろしはどうする」
シリウスが裏口から顔を出す。
一ヶ月前よりも少しだけ髪が伸び、けれど目つきの鋭さは変わらない私の護衛兼従業員。
彼の腕には、すでに麻袋が二つ抱えられている。
「倉庫の右棚へ。検品は私が後でやるから、伝票だけ先に回して」
「了解」
彼は短く答え、足音もなく奥へと消えていく。
私は手元の帳簿に視線を落とした。
数字の羅列。
『羊毛の買い付け:完了』『香辛料の卸し:利益確定』
順調だ。怖くなるほどに。
リーゼの街の物流は、私の指先一つで少しずつ、けれど確実に整い始めていた。
私の計算通りに金が動き、物が動き、人が喜ぶ。
その事実は、私という人間が「王太子の飾り」ではなく、機能する歯車であることを証明してくれていた。
ペンを走らせる。
カリカリという音が、店内の静寂を心地よく埋めていく。
この平和が、ずっと続くと思っていた。
少なくとも、あと数年は。
カラン、とドアベルが鳴った。
客ではない。
重い足取りで入ってきたのは、顔馴染みの情報屋の男だった。
「よう、商会長。景気はどうだい」
「お世辞はいいわ。用件は?」
私はペンを止めずに答える。
男はニヤリと笑い、懐からクシャクシャになった紙束を取り出してカウンターに置いた。
古紙の独特な酸っぱい匂いが漂う。
「王都から流れてきた新聞だ。……あんた、元貴族サマなら興味あるかと思ってな」
ペンの動きが止まる。
インクがペン先から垂れ、帳簿の端に黒い染みを作った。
私はゆっくりと顔を上げる。
男の目は、好奇心と下世話な興味で濁っている。私が素性を隠していることは知っているはずだが、どこまで勘づいているのか。
「……古新聞に金を払う趣味はないわ」
「まあそう言うなよ。面白い記事が一面だぜ。『聖女様、祈りの儀式で大失態』だとよ」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
私は無意識のうちに息を止めていた。
男は私の反応を楽しむように、新聞を広げて見せる。
粗悪な紙に刷られた文字と、荒い挿絵。
そこには、見覚えのある聖堂と、崩れ落ちるように座り込む女性――かつて私を断罪の場へと追いやった「聖女」の姿が描かれていた。
そしてその横には、焦燥感を隠せない王太子の顔。
『祈りの力、発動せず? 国土の結界に揺らぎか』
『王太子殿下、聖女を擁護するも国民の不安高まる』
文字を目で追うだけで、胃の腑に冷たい鉛を流し込まれたような感覚に襲われる。
ざまぁみろ、とは思わなかった。
ただ、ひたすらに不快だった。
かつて私が夜を徹して管理していた儀式の手順、資材の調達、神官たちへの根回し。
それら全てを「地味で不要な仕事」と切り捨て、聖女の「純粋な祈り」だけがあればいいと言い放ったのは彼らだ。
その結果がこれだ。
当然の帰結。予測できた破綻。
けれど、その尻拭いをさせられる現場の人間たちの顔が浮かび、吐き気がした。
「国境の警備も手薄になってるらしいぜ。こりゃ、近いうちに難民が流れてくるかもな」
「……そう」
私は努めて冷淡な声を出す。
指先が震えそうになるのを、カウンターの下で拳を握りしめて耐える。
これは、もう私の仕事ではない。
私は捨てられたのだ。
彼らが選んだ「真実の愛」とやらの結果がどうなろうと、私には関係ないはずだ。
「で、どうする? 買い取るか?」
「要らないわ。ゴミになるだけよ」
私は手を振って男を追い払おうとした。
その時、男の手の下から、もう一つの見出しが見えた。
『行方不明の元公爵令嬢、捜索隊を増員か』
呼吸が止まる。
視界が狭まる。
文字が、黒い蛇のようにのたうって見えた。
探している? 私を?
なぜ。追放したはずの女を、今さら。
答えは明白だ。
金がないのだ。実務が回らないのだ。
私が築き上げてきたシステムを使いこなせず、壊してしまったから、修理工として私を呼び戻そうとしているのだ。
「……やっぱり、貰うわ」
私は引き出しから銅貨を数枚取り出し、カウンターに叩きつけた。
男は口笛を吹き、金を受け取ると、ニヤニヤしながら出て行った。
店内に静寂が戻る。
けれど、先ほどまでの心地よい静けさではない。
足元から冷たい水がせり上がってくるような、不気味な沈黙。
私は新聞を掴んだ。
指先にインクがつくのも構わず、力任せに丸める。
クシャリ、という音が、神経を逆撫でする。
「……ふざけないで」
絞り出した声は、自分でも驚くほど低かった。
戻る? 許してやる?
どの口が言うの。
私はここで、ようやく呼吸ができるようになったのに。
泥にまみれて、自分の足で立って、ようやく手に入れたこの城を、また奪おうとするの?
「リリアーヌ」
低い声に、肩が跳ねた。
いつの間にか、シリウスがカウンターの横に立っていた。
彼は私の手の中にある、丸められた紙屑を見下ろしている。
その表情からは感情が読めない。
「……何でもないわ。ただのゴミよ」
「顔色が悪いぞ」
「寝不足なだけ。気にしないで」
私は紙屑をゴミ箱に放り投げた。
軽い音がして、それは他のゴミの中に埋もれた。
けれど、網膜に焼き付いた「捜索隊」の文字は消えない。
シリウスはゴミ箱と、私の震える手を交互に見て、静かに息を吐いた。
「……扉の鍵は、俺が毎晩確認してる」
唐突な言葉だった。
私は顔を上げる。
彼は私を見ずに、棚の在庫を整えるふりをしながら続けた。
「裏口にも罠を仕掛けた。ネズミ一匹入り込めない」
彼は知っているのだ。
私が何に怯えているのか、詳しく聞こうとはしない。
ただ、私が「脅威」を感じていることだけを察知し、その排除を約束している。
「……そう。なら、安心ね」
強がりを言うと、シリウスは「ああ」と短く答えた。
その太い腕が、棚の木材を軽く叩く。
確かな音。物理的な強さ。
それにすがりつきたくなる自分がいて、私は慌てて視線を逸らした。
頼ってはいけない。
彼は契約で雇っただけの他人だ。
もし王家の追っ手が、私の首に莫大な賞金を懸けていたら?
彼が私を守る「利益」と、私を売る「利益」。
天秤が傾く瞬間が来ないとは限らない。
私は椅子に座り直し、再びペンを握った。
指先が冷たい。
インクの染みがついた帳簿のページを、乱暴に破り捨てる。
新しいページを開く。
真っ白な紙。
書かなければ。
もっと稼がなければ。
誰にも、何にも、脅かされないほどの力を。
金と、コネと、実績を。
私を守れるのは、私自身の価値だけだ。
「シリウス、午後から倉庫街へ行くわよ」
「休憩はなしか」
「そんな暇はないわ」
私は立ち上がる。
椅子の脚が床を擦る音が、悲鳴のように鋭く響いた。
ゴミ箱の中の丸まった新聞紙が、まるで腐った果実のように、部屋の空気を淀ませている気がした。
まだ、逃げ切れていない。
その事実が、背筋に冷たい影を落としていた。




