第6話 真鍮の鍵と私の椅子
あの夜食べたスープの塩辛い味が、記憶の中で少しずつ角の取れた温かさに変わっていくのを感じながら、私は二ヶ月という時間を駆け抜けた。
季節は秋から冬へと移り変わろうとしている。
リーゼの街を吹く風は冷たさを増していたが、今の私には寒さを嘆いている暇などない。
安宿の一室で積み上げていた羊皮紙の山は、ついに机の上には収まりきらなくなっていた。
「……ここか」
私は立ち止まり、目の前の建物を見上げた。
大通りから一本入った路地裏。かつては香辛料倉庫として使われていたという、石造りの二階建て。
壁の漆喰は所々剥がれ落ち、窓ガラスも曇っているけれど、骨組みはしっかりしている。
何より、王都の煌びやかな屋敷とは違う、質実剛健な佇まいが気に入った。
ポケットに手を入れる。
指先に触れたのは、今朝、ギルドで受け取ってきたばかりの重たい真鍮の鍵だ。
冷たい金属の感触。
けれどそれは、かつて私の部屋を外から閉ざしていた鍵とは違う。
私が内側から開け、私が内側から閉めるための鍵だ。
「おい、いつまで突っ立ってる」
背後から、呆れたような声が降ってくる。
振り返ると、木箱を三つも軽々と抱えたシリウスが立っていた。
箱の中身は、私の商売道具――帳簿と文具、そして少量の在庫品だ。
「感慨に浸る時間くらい、経費に含めてもいいでしょう?」
「時給が発生してるなら、さっさと開けろ。重い」
「はいはい」
私は鍵を取り出し、古い木製の扉に向き合った。
鍵穴に差し込む。
カチャリ、と小気味よい音がして、シリンダーが回る。
その振動が指を伝って腕に走り、心臓を一度だけ強く叩いた気がした。
ノブを回し、扉を押し開ける。
鉸が軋む音と共に、黴臭さと埃の匂いが吐き出された。
私はその空気を、胸いっぱいに吸い込む。
誰の許可もいらない、私の城の匂いだ。
*
中は空っぽだった。
広い土間と、奥に続くカウンター。壁には何も置かれていない棚が並んでいる。
シリウスがドサリと木箱を床に置くと、埃が舞い上がった。
「掃除が必要だな」
「ええ。あと、棚の補修と、カウンターのニス塗りも」
「……俺は護衛だぞ。便利屋じゃない」
「追加報酬は出すわよ。夕食の肉、倍量でどう?」
シリウスはわざとらしく溜息をついたが、すでに袖をまくり上げている。
この二ヶ月で、私たちの間には奇妙な阿吽の呼吸が生まれていた。
言葉にしなくても、彼は私が何を求めているかを察し、私は彼がどこまでなら許容するかを把握している。
それは恋愛感情と呼ぶにはあまりにドライで、けれど単なる主従と呼ぶには信頼が重すぎる関係だった。
私たちは無言で作業を始めた。
私は箒を手に取り、床を掃く。
シリウスは壊れかけた棚の板を、どこからか調達してきた工具で打ち直していく。
トン、トン、トン。
金槌のリズムが、静かな室内に響く。
王宮では決して聞くことのなかった、労働の音。
かつての私が聞けば「騒がしい」と眉をひそめたかもしれない音が、今はどんなオーケストラよりも心地よいBGMに聞こえる。
一通り掃除を終えると、私はカウンターの内側に入ってみた。
使い込まれて黒光りする木の天板。
そこには無数の傷があった。前の持ち主が、ここで何十年も商売をしてきた証だ。
私はその傷の一つを指先でなぞる。
椅子を一脚、運び込む。
ギルドの中古品売り場で値切った、背もたれの低い事務椅子だ。
座ってみる。
少しガタつくけれど、私の身体には妙にしっくりと馴染んだ。
「……悪くない」
王太子妃になる予定だった私に用意されていたのは、最高級のベルベットが張られた、玉座の隣にある装飾品のような椅子だった。
座り心地は良かったけれど、そこから見える景色は常に王太子の横顔と、私を値踏みする貴族たちの視線だけだった。
今は違う。
この椅子から見えるのは、これから私が商品を並べ、客を迎え入れ、金を稼ぐための空間だ。
そして、その片隅で黙々と棚を修理してくれている、一人の男の背中だ。
「シリウス」
「あ?」
彼は振り返らずに答える。
「看板、まだ掛けてなかったわね」
「外にあるやつか。……あれ、本気で使うのか?」
「何か文句があるの?」
「いや。随分と度胸がある名前だと思っただけだ」
シリウスは作業を中断し、外に置いてあった真新しい看板を持って入ってきた。
白木の板に、焼き鏝でシンプルに刻まれた文字。
『リリアーヌ商会』
家名も、爵位も、飾り気もない。
ただの「リリアーヌ」。
それが、今の私の全てだ。
「掛けてきてくれる?」
「人使いの荒い主だ」
シリウスは看板を抱え、再び外へと出て行った。
私はカウンターの中から、ガラスのない窓越しにその様子を見守る。
彼が脚立に乗り、入り口の上に看板を固定する。
釘を打つ音が、通りに響く。
その一打一打が、世界に対して「私はここにいる」と宣言しているように思えた。
作業を終えたシリウスが戻ってくる。
彼は手を払いながら、満足げにカウンター越しの私を見た。
「曲がってないだろうな」
「完璧よ。……ありがとう」
素直な礼を口にすると、シリウスは不意を突かれたように目を瞬かせ、それからフイと視線を逸らした。
「仕事だ。礼なら金でくれ」
「ええ、稼いだらね」
私は帳簿をカウンターの上に広げた。
まだページは白い。
明日から、ここに数字が刻まれていく。
成功も、失敗も、すべて私の責任として記録される。
日が傾き、店の中に夕陽が差し込んでくる。
埃が光の粒になって踊っていた。
何もかもが古く、薄汚れていて、そして美しい。
私は椅子に深く座り直し、一度だけ目を閉じた。
断罪の日の、あの凍えるような寒さはもう思い出せない。
今ここにあるのは、少しの隙間風と、頼もしい男の体温、そしてこれから始まる未来への静かな熱だけだ。
「さて、開店準備完了ね」
目を開ける。
そこには、ただの商人となった私が映っているはずだ。
私はペンをインク壺に浸し、新しい帳簿の最初のページに日付を書き込んだ。
この椅子は、誰に与えられたものでもない。
私が自分で選び、自分で運び込み、自分で座った椅子だ。
だからこそ、私はここから一歩も引くつもりはなかった。
「シリウス、明日の仕入れは早いわよ」
「分かってる。……寝坊するなよ、商会長」
その呼び名に、私は口角だけで笑って答えた。
真鍮の鍵をポケットの中で強く握りしめる。
その硬さが、今の私の背骨だった。




