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悪役令嬢ですが、国外追放は願ったりです  作者: 九葉(くずは)


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第5話 帳簿とスープ

指先で弾いた銀貨の音が、一ヶ月経った今も、耳の奥でチリチリと鳴り続けている気がした。


安宿の固い椅子の上で、私は凝り固まった首を回す。

骨がパキリと乾いた音を立てた。

窓の外はすでに漆黒で、街の喧騒もすっかり寝静まっている。

手元のランプの灯油が切れかけているのか、炎が頼りなく揺れていた。


机の上に積み上がった羊皮紙の山。

その一番上にある帳簿に、私はペンを走らせる。

『鉄甲亀の甲羅・加工済み:売上金貨三枚』

『香辛料(未検品):仕入れ銀貨五枚』

『仲介手数料:……』


数字は嘘をつかない。

リーゼに来て一ヶ月。私の読み通り、この街には「目利き」と「交渉」ができる人間が不足していた。

右から左へ物を流すだけで、利益が生まれる。

それは王宮で誰かの顔色を窺って得ていた宝石よりも、ずっと確かな私の血肉だった。


「……あと三行」


掠れた声が出る。

空腹を通り越して、胃が痛む。

けれど手を止めるわけにはいかない。

明日の朝一番で、南の商人から買い付けた織物を北の仕立て屋に流す手配をしなければならない。

この計算が終わるまでは、私は「商人リリアーヌ」という機械であり続けなければならない。


コン、コン。


ノックの音もなく、隣室との間の扉が軽く叩かれた。

返事をする間もなく、扉が開く。

入ってきたのはシリウスだった。

彼は無言で部屋に入ってくると、手にした鍋を部屋の隅にある小さな暖炉へと運んだ。

宿に備え付けの、お湯を沸かす程度しかできない粗末な設備だ。


「……何をしているの」


ペンを止めて彼を見る。

シリウスは私の方を見もしない。

慣れた手つきで火種を熾し、鍋を火にかける。


「飯だ」

「私は要らないわ。集中しているの」

「俺が食うんだ。文句あるか」


彼はぶっきらぼうに言うと、懐から取り出した紙包みを広げた。

固くなった黒パンと、干し肉。それから、しなびた野菜の切れ端。

どこで調達してきたのか、市場の売れ残りだろうか。


私は溜息をつき、再び帳簿に目を落とした。

勝手にすればいい。ここは私の部屋だが、彼には護衛として出入りする権利を与えている。

契約上、文句は言えない。


カリカリとペンが紙を引っ掻く音だけが響く。

しばらくすると、その音に別の音が混じり始めた。

コトコト。

鍋の中身が沸騰し、何かが踊る音。

そして、匂い。

干し肉の塩気と、根菜の土臭さが混じった、暴力的なまでに「生活」を感じさせる匂いが、鼻腔をくすぐり始めた。


思考が途切れる。

数字の列が、湯気で歪んで見えた。


「……迷惑よ、匂いがするわ」


私は顔を上げずに抗議した。

シリウスは鍋をかき混ぜながら、低く笑った気がした。


「そいつは悪かったな。だが、こいつは煮込まないと硬くて食えない」


彼は鍋から椀に中身を注ぐと、スプーンを突き刺し、無造作に私の机の端――帳簿のインクが届かない安全地帯――に置いた。


「……俺が食うんだと言ったでしょう」

「作りすぎた。残すのは趣味じゃない」


シリウスは自分の分の椀を持って、窓際の床に胡座をかいた。

背中で語る拒絶。

「食え」とも「美味いぞ」とも言わない。ただ、そこに置いただけだという態度。


私はペンを置いた。

右手の指には、ペンのタコができかけている。

目の前の椀からは、白い湯気が立ち上っていた。

茶色く濁ったスープ。具材は不恰好に刻まれた根菜と、繊維がほぐれた干し肉。

王宮の晩餐会で出される、透き通ったコンソメとは似ても似つかない代物だ。


スプーンを手に取る。

温かい。

その熱が、冷え切った指先から腕を伝って、心臓の方へと流れていく。


一口、口に運ぶ。

塩辛い。

野菜は煮崩れていて、肉はまだ少し硬い。

けれど。


「……温かい」


思わず口から漏れた言葉は、味の感想ではなかった。

胃の中に落ちたスープが、熱い塊となって内側から私を温めていく。

張り詰めていた神経が、強制的に緩められていく感覚。


王宮での食事は、常に毒見役が先に口をつけ、完全に冷めきってから私の前に運ばれてきた。

安全だが、死んだ食事。

誰が作ったかも分からない、ただの栄養摂取。


けれど、これは違う。

目の前の不愛想な男が、市場で値切り、この部屋で火を熾し、私のために――いや、余り物だとしても――よそってくれたものだ。


私は無言でスプーンを動かした。

二口、三口。

空っぽだった胃が驚き、そして喜びの声を上げているのが分かる。


「毒は入ってないだろうな」

「……入ってたら、あんたは今頃床に倒れてる」


シリウスが窓の外を見たまま言った。

憎まれ口。けれど、その声には棘がなかった。


「……味付けが濃いわ。次は塩を控えて」

「次はねぇよ。傭兵の飯に文句をつけるな」


言いながらも、彼は私が完食するのを横目で確認している。

その不器用な視線に気づいて、私は胸の奥が少しだけ締め付けられるような痛みを感じた。

これは契約にはない業務だ。

彼はただの護衛で、私はただの雇い主。

それなのに、なぜ彼は、私が食事を抜いていることを気にかけたのだろう。


「投資対象のメンテナンスよ」


私は自分に言い聞かせるように、小さな声で呟いた。

私が倒れれば、彼への報酬が滞る。だから彼は、燃料を補給したに過ぎない。

そうだ、これは合理的な判断だ。

そう定義しなければ、この温かさに足を取られてしまいそうだった。


最後の一滴まで飲み干し、私は椀を置いた。

コトン、という音が、部屋の空気を変える。


「ごちそうさま。……不味くはなかったわ」

「そりゃどうも」


シリウスが立ち上がり、空の椀を回収していく。

その背中を見送りながら、私は再びペンを手に取った。

不思議と、先ほどまでの疲労感は薄れていた。

数字がクリアに見える。


私は帳簿の余白に、小さなメモを書き込んだ。

『食費(根菜・干し肉):シリウスに後で精算』


それは、私が彼に甘えないための、ささやかな抵抗だった。

けれど同時に、明日もまた彼と顔を合わせるための約束でもあった。


ランプの炎が揺れる。

部屋にはまだ、スープの香りと、温かな気配が残っていた。

私は息を吸い込み、再び数字の海へと潜っていった。

今夜は、もう少しだけ働けそうだ。

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