第4話 市場の喧騒と一枚の銀貨
馬車の車輪が止まった瞬間の、身体がふわりと浮くような感覚がまだ残っている。
一週間の旅路を終え、地面に足をつけた私は、何度かその場で足踏みをした。
土の感触。揺れない視界。
肺に入ってくる空気は、国境の町ベセルよりもさらに乾いていて、香辛料と鉄錆の匂いが混じっていた。
「ここが、辺境都市リーゼか」
隣でシリウスが呟く。
彼の視線は、城壁の向こうではなく、周囲を行き交う人々の腰元や懐に向けられていた。職業病だ。
私も倣って視線を巡らせる。
だが私が見ているのは武器ではない。人々の服の質、荷車の積載量、そして飛び交う声の調子だ。
活気はある。けれど、どこか苛立ちを含んだ喧騒。
物流が滞っている証拠だ。
「宿へ向かうぞ。契約通り、安全な場所を確保してある」
「ええ。でも、荷物を置いたらすぐに出るわよ」
「……休まないのか?」
シリウスが呆れたように眉を寄せる。
その反応を無視して、私は鞄を持ち直した。
休んでいる暇などない。資金は有限で、自由には維持費がかかる。
この都市の経済という血流に、私が入り込む隙間があるかどうか。それを確かめるのが先決だ。
*
宿に最低限の荷物を放り込むと、私はすぐに市場へと繰り出した。
シリウスは無言で私の斜め後ろについてくる。
彼の存在感は絶大で、人混みがモーゼの海割れのように左右へ開いていく。
おかげで、小柄な私でも人波に揉まれずに歩くことができた。
市場は混沌としていた。
王都のように区画整理された美しい陳列棚はない。地面に敷かれた布の上に、泥にまみれた野菜や、血の匂いのする肉塊が無造作に積まれている。
私は足元の汚水を避けながら、一角に目を留めた。
そこには、ハンターらしき男たちが、黒っぽい岩のような塊を前にして頭を抱えていた。
「おいおい、また買い取り拒否かよ」
「ギルドの加工場が満杯なんだと。こんな硬ぇもん、一般の職人は買わねぇよ」
漏れ聞こえる声に、私の足が止まる。
近寄って観察する。
それは「鉄甲亀」の甲羅だった。
王都では高級な防具の素材として重宝されるが、加工には熟練の職人と専用の機材が必要だ。この辺境では、供給過多で加工が追いついていないらしい。
脳内で、カチリと音がした。
そろばんの珠が弾かれる音だ。
「シリウス」
私が名前を呼ぶと、彼は即座に身を屈めて耳を寄せた。
この一週間で、彼は私の意図を察する速度が格段に上がっている。
「あの甲羅、あなたの剣なら斬れる?」
「……は?」
「斬れるか、斬れないか。それだけ答えて」
シリウスは私の指差す先を一瞥し、鼻を鳴らした。
「あんなもの、紙切れ同然だ」
「なら、仕事よ。商談をまとめるから、合図をしたら抜いて」
私は返事も待たずに、ハンターたちの輪に入り込んだ。
突然現れた平民服の女に、男たちが怪訝な顔を向ける。
だが、その背後に立つ大男――シリウスの凶悪な眼光に気づくと、彼らの表情は一瞬で引きつった。
「その甲羅、私が買い取るわ」
私は手持ちの銀貨を数枚、掌の上で弄んでみせた。
男たちがお互いに顔を見合わせる。
「嬢ちゃん、これの硬さを知ってて言ってんのか? 加工できなきゃただの石だぞ」
「知っているわ。だから、相場の半値でどう?」
強気な提示。本来なら「ふざけるな」と怒鳴られる場面だ。
けれど、背後のシリウスが剣の柄に手をかけただけで、男たちは言葉を飲み込んだ。
暴力による威圧ではない。
「こいつなら本当にやりかねない」という、圧倒的な実力差を肌で感じ取ったのだ。
「……ちっ、持ってけ。どうせ捨てるつもりだったんだ」
商談成立。
私は銀貨を渡し、山積みにされた甲羅の所有権を得た。
すぐに今度は、市場の反対側にいる武具職人の露店へと向かう。
そこでは案の定、素材不足で親父が暇そうに欠伸をしていた。
「親父さん。上質な甲羅のプレート、欲しくない?」
「あ? 鉄甲亀か? ありゃ硬すぎてうちの鑢じゃ歯が立たねぇよ」
「『加工済み』ならどう?」
私はシリウスを振り返る。
目配せ一つ。
彼は溜息をつきながらも、背中の大剣を抜いた。
周囲の空気が凍りつく。市場の喧騒が一瞬で止まった。
シリウスは、山積みになった甲羅の一枚を、無造作に放り投げた。
空中で回転する黒い塊。
銀閃が走る。
音もなかった。
甲羅は空中で綺麗な四角形に四分割され、私の足元に落ちた。
断面は鏡のように滑らかだ。
「……なっ」
職人の親父が目を剥いて立ち上がる。
私は拾い上げたプレートの一枚を、彼の作業台の上に置いた。
「これなら、すぐに加工できるでしょう?」
親父は震える手で断面を撫でた。
加工の手間が省けた最高級の素材。喉から手が出るほど欲しいはずだ。
「い、いくらだ」
「仕入れ値の三倍でどうかしら」
王都の相場よりは安い。彼にとっても破格の条件だ。
親父は二つ返事で袋から金貨を取り出した。
*
夕暮れ時。
市場の喧騒が引いていく中、私は懐の重みを確かめながら歩いていた。
元手だった銀貨が、金貨に変わった。
たった数時間の「転売」。
自分の知識と、シリウスの腕を組み合わせただけの単純な商売。
けれど、それは王家からの手当でも、実家からの仕送りでもない。
私が、私の才覚だけで生み出した価値だ。
「……まさか、俺の剣を包丁代わりに使うとはな」
隣でシリウスが呆れ声を出す。
不機嫌そうだが、怒ってはいない。
私が渡した追加報酬――夕食の肉増し券――が効いているらしい。
「道具は使いようよ。あなたの剣は、人を殺すよりお金を生むほうが似合ってるわ」
私はポケットの中で、増えた硬貨を握りしめた。
冷たい金属の感触。
ジャラリ、という音が、ドレスの裾を引きずる音よりも心地よく耳に残る。
「今日はいい酒が飲めそうね」
「ああ。……だがあんた、飲み過ぎるなよ」
「誰に言ってるの。私は計算できる量しか飲まないわ」
嘘だ。
今夜ばかりは、この高揚感に酔ってしまいたい気分だった。
見上げた空は紫色に暮れていて、一番星が光っている。
ここには私の過去を知る者はいない。
私を見るのは、安く素材を売ってくれたハンターと、良い素材を買えて喜んだ職人だけ。
そこにあるのは、対等な「利害」だけだ。
それが、こんなにも清々しいなんて知らなかった。
「帰るわよ、シリウス」
「へいへい、お嬢様」
「商会長、と呼びなさい」
背筋を伸ばす。
靴底が石畳を叩く音が、昨日よりも力強く響いた気がした。
この街でなら、私は息ができる。
そして、勝てる。
私はポケットから銀貨を一枚取り出し、夕闇に向かって弾いた。
キラリと光って掌に戻ってきたそれは、私の未来への切符のように見えた。




