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悪役令嬢ですが、国外追放は願ったりです  作者: 九葉(くずは)


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第3話 三つの条件と滲んだ署名

テーブルの上に置いた二枚目の銀貨が、まだ微かに揺れている。

その金属音が、酒場の喧騒の底に沈んでいくのを私はじっと見つめていた。


目の前の男、シリウスは眉をひそめたまま動かない。

まるで獲物が罠にかかる瞬間を見極める獣のように、私という人間を観察している。彼の視線が私の喉元あたりをうろついているのを感じて、肌が粟立つ。

怖い、と本能が警告を発している。

けれど、その恐怖こそが私が彼を選んだ理由だ。これほどの威圧感を持つ男なら、追手も容易には近づけないだろう。


「条件だと?」


シリウスが低く唸るように言った。

グラスを弄んでいた指が止まる。

心臓が肋骨を内側から叩く音がうるさい。私はテーブルの下で、スカートの布地をきつく握りしめた。

手汗が滲んでいる。令嬢時代には決してありえなかった、不作法な湿り気。


「ええ。単なる用心棒として雇うつもりはないわ。これはビジネスよ」


努めて声を低く、落ち着いたトーンを作る。

商談において、焦りは足元を見られる隙になる。

私は組んだ指の上に顎を乗せ、彼の目を真っ向から見据えた。


「一つ。目的地である辺境都市リーゼに着くまで、私の身の安全を最優先すること」


シリウスは鼻を鳴らした。

「当たり前だ。護衛とはそういうものだ」


「最後まで聞きなさい。二つ目。私の指示には従ってもらうけれど、あなたの命に関わる無謀な命令は拒否していいわ」


彼の目がわずかに見開かれる。

その反応を、私は冷静に観察する。

貴族は平民を使い捨ての駒としか思っていない――そんな常識に染まったこの世界で、この条件は異質に響くはずだ。

かつて王太子は、近衛騎士たちに平気で死地へ赴くよう命じていた。私はそれを隣で見ながら、ずっと反吐が出る思いを抱えていたのだ。

死んだ人間は、二度と働かない。投資対象として、これほど効率の悪い使い方はなかった。


「……命を惜しんでいいと言うのか、雇い主が」

「死なれたら困るのよ。代わりを探す手間がかかるもの」


私は冷淡に言い放つ。

シリウスの口元が、微かに緩んだように見えた。嘲笑ではない。興味だ。


「三つ目。私の過去、出自、そしてこの金がどこから出たものか。一切詮索しないこと」


これが最も重要な防壁だ。

彼がもし王家の密偵と繋がっていれば、あるいは賞金稼ぎのような真似をするようなら、この条件を出した時点で反応が変わるはずだ。

シリウスは黙って私を見つめ返した。

その瞳は暗い湖のように静かで、底が見えない。


数秒の沈黙が、永遠のように長く感じられた。

隣のテーブルで誰かが賭けに勝って喚声を上げる音が、遠くの出来事のように聞こえる。


「……名前は、リリアーヌだったか」


彼が身を乗り出した。

革鎧が軋む音がして、私は反射的に身を固くする。

殴られるわけではない。わかっているのに、男の暴力的な気配に対する拒絶反応が消えない。


「いいだろう。その条件、乗ってやる」

「交渉成立ね」


私は安堵のため息を噛み殺し、立ち上がった。

これ以上、ここに長居するのは危険だ。私たちの会話を聞き耳立てている輩がいないとも限らない。


「詳細は部屋で詰めましょう。報酬の前払いも、ここじゃ目立ちすぎるわ」


シリウスが短く頷き、音もなく立ち上がる。

彼が動くと、周囲の空気がさっと引くのがわかった。

この男を連れているだけで、「ただの獲物」という私の値札が書き換わる。

背中に感じる視線の質が変わったことを肌で感じながら、私は出口ではなく、宿の二階へと続く階段へ足を向けた。


          *


階段を上りきり、廊下の角を曲がる頃には、酒場の熱気は遠ざかっていた。

足元の木の床が、ギシギシと頼りなく鳴る。

背後にはシリウスの足音。

重装備のはずなのに、彼の足音は驚くほど静かだ。それが逆に、背後に猛獣を連れているような緊張感を煽る。


部屋の前で立ち止まり、鍵穴に鍵を差し込む。

ガチャリ、と金属が噛み合う音が静寂に響く。

扉を開け、私は彼を先に招き入れた。

狭い室内。粗末なベッドと、ガタつく丸テーブル。

シリウスは部屋に入ると、まず窓際へ行き、外の様子を無言で確認した。そしてカーテンをきっちりと閉める。

教えなくても、彼はすでに仕事を始めている。


「座って」


私はテーブルを挟んで向かい合う席を勧めた。

鞄から、羊皮紙の切れ端と、携帯用のインク壺、それにペンを取り出す。

商人の娘として育てられた母の影響で、私は幼い頃から契約書を作る遊びが好きだった。

王太子との婚約期間中は、「はしたない」と取り上げられていた道具たち。

キャップを外すと、インク独特の鉄と油の匂いが鼻を突く。

懐かしい、私の戦場の匂いだ。


ペン先にインクを含ませる。

黒い滴がポタリと落ちないように、瓶の縁で拭う。

羊皮紙にペンを走らせる。

カリカリという硬質な音が、部屋の空気を引き締めていく。


『雇用契約書

 甲:リリアーヌ

 乙:シリウス

 期間:辺境都市リーゼ到着まで

 報酬:宝石ダイヤモンド小粒二個』


簡潔な文面を書き連ねる。

シリウスは黙って私の手元を覗き込んでいた。字が読めるか不安だったが、彼の視線の動きを見る限り、教養はあるらしい。

やはり、ただのゴロツキではない。


「……随分と手慣れているな」


シリウスがぽつりと呟いた。

私はペンを止めず、淡々と答える。


「口約束は忘れるものでしょう? 私は紙とインクしか信用しないの」

「貴族の嬢ちゃんにしちゃ、世知辛いこった」


「リリアーヌよ」


訂正しながら、私は文末に署名欄を作った。

先に自分の名前をサインする。

『Liliane』

書き終えた文字を見て、一瞬、手が止まった。

家名を、書かなかった。

『ド・ロシュフォール』という長く重々しい尾ひれを切り落としただけの名前。

それはどこか頼りなく、紙の上で浮いているように見えた。


ペン先が震えそうになるのを、指先に力を込めてねじ伏せる。

これはただの署名じゃない。私が私であるための、最初の宣言だ。


ペンをシリウスの方へ滑らせる。

彼は無造作にそれを受け取ると、迷いのない筆致でサインした。

『Sirius』

鋭く、荒々しい筆跡。けれど不思議と整っている。


「報酬はこれよ」


私は太腿のポーチから、小粒のダイヤモンドを一つ取り出し、テーブルの上に転がした。

ランプの灯りを反射して、鋭い光が散る。

シリウスがそれを摘み上げ、片目で透かして見る。


「……本物だな。しかも、カットが一流だ」

「残り半分は、リーゼに着いてから渡すわ」


彼は宝石を懐にしまい込むと、立ち上がった。

天井の低い部屋では、彼の体躯はいっそう大きく見える。


「隣の部屋を取る。何かあれば壁を叩け。三秒で駆けつける」

「ええ、頼りにしているわ」


シリウスは扉へ向かい、ノブに手をかけたところで、ふと振り返った。

その目が、初めて私を真っ直ぐに――値踏みではなく、一人の人間として捉えた気がした。


「あんた、本当にただの箱入りか?」

「さあね。ただの商魂たくましい女よ」


私は肩をすくめてみせる。

シリウスは短く鼻を鳴らし、今度こそ部屋を出て行った。

扉が閉まる音がする。


部屋に、再び静寂が戻ってきた。


私は椅子に深く座り直し、大きく息を吐き出した。

緊張の糸が切れ、どっと疲れが押し寄せてくる。

テーブルの上には、インクの乾ききっていない契約書が一枚。

私はそれを指先でなぞる。

署名の部分、私の名前の最後の『e』の文字が、わずかに滲んでいた。

震えを止めたつもりが、止めきれていなかった証拠だ。


「……情けない」


自嘲気味に呟く。

でも、これでいい。

震えながらでも、私は自分で筆を取り、自分で相手を選び、自分で条件を決めた。

誰かにあてがわれた近衛騎士ではない。私が雇った、私のための剣。


窓の外では、夜風が吹き荒れている音がする。

王都の寝室のように、完璧に空調が管理された部屋ではない。隙間風が冷たい。

けれど、この寒ささえも、今は私が生きている証のように思えた。


私は契約書を丁寧に折り畳み、懐の最も深い場所へしまった。

これは護符だ。

明日から始まる旅路で、私を支えてくれる唯一の確かな約束。


灯りを消す。

暗闇の中で、私は硬いベッドに身を横たえた。

明日は早い。感傷に浸っている暇は、もう私にはないのだから。

目を閉じると、瞼の裏にシリウスのサインの鋭い筆跡が焼き付いていた。

それは、断罪の広間で見た王太子のサインよりも、ずっと力強く、頼もしく思えた。

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