第2話 着慣れない綿の服
三日間続いた車輪の軋みが止むと、世界は急に色あせた静寂に包まれた気がした。
馬車から降り立つ。
地面の土は乾いて白く、踏みしめると頼りない音がする。
背後で御者が何も言わずに手綱を捌き、馬車は来た道を引き返していった。黒塗りの箱が巻き上げる砂煙を、私は瞬きもせずに見送る。
喉の奥がひりつく。
乾燥した空気のせいだけではない。
あれは、私が生まれた国との最後の繋がりだった。
もう、戻れない。
「……さて」
小さく息を吐く。
足元には、片手で持てる程度の革鞄が一つ。
私は顔を上げ、目の前に広がる街を見上げた。
国境の宿場町、ベセル。
王都の洗練された石造りの街並みとは違う、雑多で、埃と獣の匂いが混じった灰色の街。
木材と煉瓦を無秩序に継ぎ接ぎした建物が並び、行き交う人々の服は一様に茶色く煤けている。
ここなら、誰も「元公爵令嬢」など気に留めないだろう。
私は革鞄を持ち直す。
指に食い込むハンドルの痛みを確認する。
――これが、私の今の全財産の重さだ。
宿を探さなくてはならない。
目抜き通りを歩きながら、視線だけで周囲を探る。
あまりに安宿では治安が悪く、かといって高級そうな場所は目立ちすぎる。
三軒目の、ほどよく壁が汚れ、けれど入り口の掃き掃除だけは行き届いている宿屋に目星をつけた。
「一泊、食事なしで」
「銀貨二枚だ。先払いだよ」
カウンターの男は、私の顔も見ずに鍵を放り投げた。
銀貨をカウンターに置く。カツン、と乾いた音が響く。
その音の軽さに、私は奇妙な安堵を覚えた。
ここでは、名前よりも家柄よりも、この円形の金属片が信用される。
それはとても公平で、残酷なほど分かりやすい契約だ。
部屋は二階の角部屋だった。
木の床は歩くたびに悲鳴のような音を立てるが、ベッドのシーツは洗いたての匂いがした。
私は鞄をベッドに放り投げ、すぐにドレスの背中の紐に手をかける。
三日間、着たきりだったシルクのドレス。
これを脱ぐことが、本当の意味での「追放」の完了になる。
紐を緩め、幾重にも重なった布を足元に落とす。
コルセットを外した瞬間、肋骨が広がり、肺いっぱいに空気が入ってきた。
深い呼吸と共に、王都での記憶も吐き出す。
鞄から取り出したのは、途中の行商から買い取っておいた平民の服だ。
生成りの綿のシャツと、厚手のウールのスカート。それに革のベスト。
どれも生地が粗く、指先で触れるだけでザラザラとした感触が伝わってくる。
袖を通す。
肌に直接触れる布地のゴワつきが、微かな不快感と共に私に現実を突きつけてくる。
「……悪くないわ」
鏡を見る。
そこには、少し疲れた顔をした、どこにでもいそうな娘が映っていた。
髪を無造作にひとまとめにし、紐で縛る。
かつて侍女たちが一時間かけて整えていた亜麻色の髪も、今はただの邪魔な繊維の束だ。
私は鏡の中の自分に向かって、一度だけ頷いてみせた。
日が傾き始めている。
腹の虫が鳴いた。そういえば、最後にまともな食事をしたのはいつだったか。
それに、やらなければならないことが一つある。
この街を出て隣国へ向かうための、護衛の確保だ。
女一人で国境の荒野を越えるのは自殺行為に等しい。かといって、正規のギルドを通せば足がつく可能性がある。
私はスカートの隠しポケットに短剣を忍ばせると、部屋を出た。
一階は酒場を兼ねているようだった。
階段を降りるにつれて、熱気とアルコールの匂い、そして男たちの野太い笑い声が濃くなっていく。
私は意識して足音を殺し、壁際を選んで歩く。
視線を感じる。
ねっとりとした、品定めするような視線。
令嬢だった頃に向けられていた羨望や嫉妬とは違う、もっと直接的な「獲物」を見る目。
背筋が強張りそうになるのを、意志の力で抑え込む。
怯えてはいけない。ここで隙を見せれば、交渉のテーブルにすら着けなくなる。
私は顎をわずかに上げ、カウンターの端、一番照明の暗い席を陣取った。
「エールと、何か煮込み料理を」
注文を済ませ、店内を見渡す。
荒くれ者たちがジョッキをぶつけ合い、賭け事に興じている。
誰も彼もが強そうに見えるが、同時に誰も彼もが信用ならない顔をしている。
ただの力自慢では意味がない。
私が求めているのは、金で動き、口が堅く、そして何より――王家の権威になびかない「はぐれ者」だ。
運ばれてきたスープを口に運ぶ。
塩辛く、具材の形も崩れた茶色の液体。
喉を通る熱さが、胃の中に落ちていく。
不味い。けれど、これが生きるための燃料だと思えば、不思議とスプーンは止まらなかった。
その時だった。
酒場の扉が乱暴に開かれたのは。
一瞬、店内の喧騒が止まる。
入ってきたのは三人組の男たちだった。見るからに質の悪そうな傭兵崩れ。彼らは我が物顔で中央のテーブルに向かい、先客を怒鳴りつけて席を奪った。
嫌な空気が流れる。
だが、私の目は彼らではなく、その騒ぎに唯一反応しなかった人物に吸い寄せられた。
店の最奥。
柱の影に隠れるようにして、一人の男が座っていた。
酒も飲まず、食事もせず、ただ水の入ったグラスを前にして座っている。
黒髪は伸び放題で目元を隠し、身につけている革鎧は傷だらけで年季が入っている。
だが、その佇まいには奇妙な静けさがあった。
周囲の騒音を完全に遮断しているようでいて、その実、全ての音を拾っている獣のような気配。
テーブルの上に置かれた手には、剣ダコがある。
直感が告げた。
――あいつだ。
彼からは、群れることを嫌う孤高の匂いがした。
そして何より、その瞳が。
前髪の隙間から覗く瞳が、店内の誰よりも冷たく、渇いていた。
まるで、この世のすべてに絶望し尽くしたあとのような。
私は残りのスープを飲み干すと、ナプキンで口元を拭った。
椅子の脚が床を擦る音を立てて立ち上がる。
数人の男が私に目を向けたが、無視して店の奥へと歩き出した。
心臓が早鐘を打っている。
平民の服の下、隠し持った短剣の柄に指先で触れ、その冷たさで思考を冷やす。
男のテーブルの前に立つ。
彼は顔を上げなかった。ただ、グラスの水面を見つめたまま、微動だにしない。
「隣、いいかしら」
私の声に、周囲の空気が少しだけ凍りついた気がした。
男がゆっくりと顔を上げる。
至近距離で見るその目は、想像以上に暗く、そして鋭かった。
射抜かれるような圧迫感。
並の令嬢なら悲鳴を上げて逃げ出していただろう。
だが、私は逃げない。
ここで逃げれば、私は一生、誰かに守られなければ生きられない「お姫様」のままだ。
「……席なら、他にも空いているだろう」
男の声は低く、地を這うようだった。
拒絶の響き。
けれど、私は構わずに向かいの席を引き、座り込んだ。
木の椅子が軋む音が、私たちの間の沈黙を破る。
「ええ、空いているわ。でも、私が座りたいのはここなの」
私は肘をテーブルにつき、指を組んで彼を見据えた。
怯えを隠すために、あえて挑発的な笑みを浮かべる。
これが商談の基本だ。相手にこちらの底を見せないこと。
男が初めて興味深そうに眉をひそめた。
その視線が、私の顔から首元、そして着慣れない綿の服へと滑る。
値踏みされている。
私が何者で、何を持っているのかを。
「あんた、迷子か? それとも死にたがりか?」
「いいえ。私は投資家よ」
私はポケットから、銀貨を一枚取り出し、テーブルの上で弾いた。
銀貨は回転しながら音を立て、彼のグラスの横でピタリと止まった。
「あなたを買いたいわ。国境越えの護衛として」
男は銀貨を見もしなかった。
再び私の目を見る。その瞳の奥に、微かな警戒の色が混じるのを見逃さなかった。
ただの小娘ではないと、認識させた証拠だ。
「……高いぞ」
「知ってる。安物はすぐに壊れるから嫌いなの」
私はテーブルの下で、膝の震えをもう片方の手で押さえつけた。
賭けだ。
この男がただの荒くれ者なら、私はここで全てを失うかもしれない。
だが、もし私の目が正しければ。
彼は、私がこの泥沼から這い上がるための、最強の「道具」になる。
男が口の端を少しだけ歪めた。
それは笑みというにはあまりに凶暴で、けれど拒絶の色は消えていた。
「名前は?」
「リリアーヌ」
家名は名乗らない。
過去はあの馬車と一緒に捨ててきた。
「俺はシリウスだ。……詳しく聞かせろ、お嬢さん」
彼はグラスの水を一気に飲み干すと、空になったグラスをテーブルに置いた。
コトン、という小さな音が、私の新しい人生の始まりを告げる鐘の音のように聞こえた。
私は深く息を吸い込む。
酒場の淀んだ空気の中に、微かな希望の匂いが混じっていた。
まだ、終わっていない。
むしろ、ここからが本当の始まりだ。
「条件は三つあるわ、シリウス」
私は二枚目の銀貨を取り出し、今度はゆっくりとテーブルに置いた。




