第12話 朝陽と二度目の握
使者を追い返したあの日の騒動が、まるで遠い昔の夢だったかのように、店の中には穏やかな朝の空気が満ちていた。
箒で床を掃く。
サッ、サッ、というリズムの良い音が、店内の静寂を心地よく揺らす。
一週間前、シリウスの蹴りで吹き飛んだ商品棚は、すでに跡形もなく修復されていた。
新しいニスが塗られた木材の匂いが、古紙や香辛料の香りと混じり合い、鼻腔をくすぐる。
これが、私の日常の匂いだ。
「……随分と機嫌がいいな」
カウンターの奥から、低い声が掛かる。
シリウスが珈琲の入ったカップを二つ持って出てきた。
湯気が揺れている。
彼の足取りは軽く、左脇腹を庇うような動作も消えていた。
「当然よ。不良債権を処理して、厄介な顧客――元婚約者だけど――との取引も清算したんだもの」
私は箒を壁に立てかけ、彼からカップを受け取った。
指先が温かい陶器に触れる。
その熱が、心臓の鼓動を穏やかに整えてくれる。
「それに、今日は大事な日だしね」
「大事な日?」
シリウスが片眉を上げる。
彼は覚えていないらしい。無理もない。彼にとって、あの最初の出会いは単なる「仕事の受注日」に過ぎなかったのだから。
私はカップをカウンターに置き、エプロンのポケットから一枚の羊皮紙を取り出した。
国境の宿屋で書いた、最初の契約書だ。
インクが滲み、折り目は擦り切れ、端は少し焦げている。
私たちの旅路そのもののような紙片。
「契約期間の確認よ。『辺境都市リーゼ到着まで』。……とっくに過ぎているわ」
シリウスがカップを口元で止めた。
その視線が、私の手元の紙と、私の顔を行き来する。
一瞬の沈黙。
店内に差し込む朝陽の中で、埃がキラキラと舞っているのが見えた。
「……ああ、そうだったな」
彼は短く呟き、カップを置いた。
その声音からは感情が読み取れない。
けれど、彼が腰の剣に手をかけず、腕を組んだ姿勢で私を待っていることだけは分かった。
「で、どうするんだ。また解雇通告か?」
「いいえ」
私は首を振る。
あの日、金貨をばら撒いて彼を突き放そうとした私の弱さは、もうここにはない。
私はカウンターの下から、新しい羊皮紙を取り出した。
昨夜、私が一人で書き上げたものだ。
まだインクの匂いが残るその紙を、彼の方へと滑らせる。
『パートナーシップ契約書
甲:リリアーヌ・商会代表
乙:シリウス
期間:無期限
報酬:商会純利益の半分』
シリウスが目を細めて文面を追う。
そして、「報酬」の欄で止まった。
「……半分だと?」
「高い?」
「逆だ。俺は護衛だぞ。経営には口を出さない」
「護衛だけじゃないわ。あなたは在庫管理も、棚の修理も、私の精神安定剤の役割も果たしている」
さらりと言ってのけると、シリウスがむせ返るような音を立てた。
耳の端が少し赤い。
私は口元を緩め、ペンを差し出した。
「それに、もう『雇い主と使用人』じゃ割に合わないのよ。私が背負わせるリスクに対して」
王家は引いたが、諦めたわけではないかもしれない。
隣国との商売が始まれば、新たな火種も生まれるだろう。
私の隣に立つということは、それら全てを共に背負うということだ。
シリウスはペンを受け取らず、私の目を見た。
その瞳は、国境の酒場で出会った時のような冷たく渇いたものではない。
もっと深く、静かで、確かな熱を宿した色。
「……お前が損をするぞ、商会長」
「損得勘定なら済ませたわ。あなたという資産を手放す損失の方が大きいの」
私は一歩、彼に近づいた。
靴音が床を叩く。
「サインして、シリウス。……それとも、もっといい条件の雇い主が見つかった?」
挑発的な問いかけ。
シリウスは呆れたように笑い、私の手からペンを奪い取った。
迷いのない動きで、紙に名前を刻む。
『Sirius』
その筆跡は、最初の契約書の時よりも力強く、そして私の署名のすぐ隣に並んでいた。
「……契約成立だな」
彼がペンを置く。
カラン、という軽い音が、私の胸の奥で重い楔となって落ちた。
もう、私は独りじゃない。
守られるだけの姫君でも、孤独な追放者でもない。
背中を預けられるパートナーを得た、一人の商人だ。
「よし。じゃあ、仕事よ」
私は手を叩き、感傷的な空気を切り裂いた。
これ以上浸っていると、商売の開始時間に遅れてしまう。
私はシリウスを促し、店の外へと出た。
朝の冷気。
澄み渡った空気が肌を刺すが、不思議と寒くはない。
頭上を見上げる。
『リリアーヌ商会』と焼印された木の看板が、朝陽を浴びて輝いていた。
「シリウス」
「あ?」
「私、この名前が好きよ」
公爵家の家名も、王太子妃の称号もついていない。
ただの、私の名前。
泥にまみれ、汗をかき、自分で選び取った名前。
「……ああ。悪くない名前だ」
シリウスが隣に並び、同じように看板を見上げる。
彼の肩が、私の肩に触れるか触れないかの距離にある。
その距離感が、今の私には何よりも心地よかった。
私は彼に向かって右手を差し出した。
かつてはダンスのパートナーの手を取るためだけの、白く柔らかな手だった。
今はペンのタコがあり、インクの染みがついた、働く者の手だ。
シリウスが、その大きな手で私の手を包み込む。
ゴツゴツとした硬い掌。
力強い握手。
痛みすら感じるほどのその圧力が、私に生きている実感をくれる。
「今日からまたよろしく頼むわ、相棒」
「ああ。……稼がせてもらうぞ、リリアーヌ」
彼が初めて、私の名前を呼び捨てにした。
その響きが、どんな甘い愛の言葉よりも深く、私の芯を震わせた。
手を離す。
名残惜しさは、ほんの少しだけ。
私たちは同時に踵を返し、開け放たれた店の入り口へと向かった。
「シリウス、明日の仕入れは早いわよ」
「分かってる。……寝坊するなよ、商会長」
背中で交わす言葉。
私はスカートの裾を翻し、カウンターの中――私の特等席へと戻った。
帳簿を開く。
真っ白なページ。
そこにはまだ、何の数字も刻まれていない。
けれど、不安はなかった。
今日という一日が、そしてこれからの人生が、黒字になることだけは確信していたから。
私はペンを取り、日付を書き込んだ。
新しい一日の始まり。
そして、私が選び取った人生の、本当の始まりだ。
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